4-5.灯篭


 流れ逝く水に身を浸していると、全ての余計な物が剥ぎ取られ、自分という一個の者だけが残るような

気がする。

 しかしその自分という一個が何かと問われれば、不思議と答えようが無い。

 ひたひたと足音が行き交い、天上の光は目まぐるしく明転する。

 そこに在るとしか言えぬモノを感じ、ただそこに在るだけの自分となる。

 時刻は来た。

 義風はざぶりと水を跳ね除けると、自らを夜風に晒し、宙を跳んで染み込んだ水を払い、それから再び

美砂坂邸へと向った。

 鬼の役目はすでに果てた。これから人の役目を果さねばならぬ。

 義風の思惑通り事は運んでいるだろうか。何分人の心という厄介なものが相手であるからには、片時も

安心する事は出来ない。一度支配下に置かれたとて、いつまでもその場に留まっていられる程、人の心は

安定してはいないのである。

 何か些細な事であれ、心を突かれればすぐに転び出す。そういう風に出来ているものだ。

 義風はその名の如く、風のように夜空を疾走しながら、瞬く間に美砂坂邸にある藤次郎の私室にまで駆

け降りた。速い遅い以前に、彼は風であった。

 義風の身体能力は桁外れに増している。おそらく鬼をより身近にする事で、その力をも自らの物とした

のだろう。彼が仇討ちを望めば望むほど、自らの力を望めば望むほど、彼の意志とは別に、その体は鬼へ

と変わっていく。

 心も鬼へと近付いていく。

 しかし義風は自身が変わっていく事にさえ、気付かない。自身の変化にさえ思い至れない。

 何故ならば、それは今の彼にとって当たり前の事であるからだ。疑問などは無く、またそれを持つ必要

も無い。知らず知らずの内に、当たり前に鬼へ変っていく。

 否定も肯定もなく。ただ鬼へ変わっていくのである。

 気付く気付かない、そういう段階を踏まず、自然にそうなっていく。

 恐怖である。しかし当の義風は恐怖すら感じない。だからこそ鬼へ導かれる事は怖い。

 身に潜む修羅が人をいくら変化させたとて、当人は何一つ違和感が浮ばず。心も鬼へと自然に向う。

 先に鬼の心を楽しんだのも、本当は義風にある人の心の方であったのかもしれない。

 鬼の喜びと認識したのは、実は人の喜びであったのか。いつの間にか人と鬼が入れ替わっている。いつ

の間にか人の方にこそ違和感を持ち始め、人と鬼という、自分ともう一人の自分という区別と認識が、い

つの間にか逆さになっている。

 それでも仇討ちを望む人の心が残っているのは、そこが修羅が義風に入り込む為の隙間であり、それが

契約の証ともなるからだろう。それがあって初めて修羅と義風が繋がる。だからそれだけは初めから消え

る事はないのである。

 それなのにそのありえない事を心配し、義風はその心を益々疲労させている。そして皮肉にも彼が仇討

ちを望み、人であろうと決意する度、彼の中へ修羅が入り込んでいる。

 川で剥がれた余計な物、それが本当は義風のどの部分であったのだろうか。

 鬼への変化は、変身というより、むしろ成長に似ているのかもしれない。自身の成長に気付ける事は稀

である。そして気付いたと思った時、その成長はえてして間違った認識である事が多い。一般に自身の成

長は、ただ他人のみが知る事が出来るものだと思える。

 しかし今はまだ見た目だけは人のまま、義風はひらりと藤次郎の前に姿を現した。

 今度は背後ではなく、正面から。

 美砂坂をこれ以上脅す必要は無い。彼も昨日とは、その全てが変わっていたのである。



 頬はこけ、目は窪(くぼ)み、意志薄弱にして気も虚ろであるように見える。しかし近付いてみると、

その眼光のあまりの鋭さに背筋が凍えそうな思いをする。

 その目に宿るは決意。やむにやまれぬながら決した、悲壮なる決意の証であった。

 彼は逃れられないと知ったのだろう。義風とは逆に、彼は全てを理解したのである。鬼に睨まれた以上、

最早抗う術は無しと。

 自決される不安は残るが、さりとてここで自決してもらっても、結果として義風は困らない。

 春末も喜びはせぬまでも、不快には思わぬだろう。

 ここで美砂坂が死ねば、それはそれで円乃にとっては役立つ事であるからだ。どうなったとて、円乃は

困らない。困るのは洗馬家だけである。

 それに義風はすでに味をしめている。美砂坂が駄目なら他を当るのみだという、何処か放り出してしま

ったかのような心持もあった。

 よくよく考えてみれば、そこまで春末に義理立てする覚えは無いし、美砂坂に拘る理由も無い。洗馬家

を崩せるならば、どうでも良く。ようするに春末が洗馬という勢力を滅ぼすか、併呑し、円乃内での勢力

を伸ばしてもらえれば良いのだ。

 確かに春末には個人的に好意に近い感情を持っているが、それはそれでまたどうでも良い事である。復

讐という大義の前で、何が好意か、何が義理か。こやつも所詮は円乃ではないか。

 義風はここへ来た時とはやはり違う想いを抱き始めている。少なくとも春末に尽力してやろうという気

持ちは失せているようだ。

 しかし今までもそうであったように、その変化に対して気付かない。まるで初めからそうであったかの

ように思う。

 昨日の考えなどは、昨日だけの事なのであろう。もしかすれば、先ほどの川で一緒に流してしまったの

かもしれない。

「承った」

 美砂坂は大儀そうに一言だけ言うと、それ以上は押し黙り、目を瞑った。

 無言の意思表示であり、これ以上の言葉は無用との意味であろう。義風もその程度の事は解っているか

ら、同じく黙って腕を差し出した。

 美砂坂は暫くぼうっと見詰めていたが、やがて了解したらしく、腰に差していた小刀を鞘ごと抜き出し。

「この小柄(こづか)に記された家紋、この紋が我が意を証明しよう」

 とだけ述べ、後は再び沈黙に還る。

 未だその心では苦悩しているのだろう。これで彼は裏切り者、謀反人となった。

 それが例え逆らえぬ選択であれ、彼なりに悩みに悩んだに違いない。答えは同じであれ、いやだからこ

そ人は悩む。ただ一筋の光明を探り、ただ一房の掴むに足る物を探し、無意味と知りつつも大いに悩むの

である。

 義風からすればそれも酷く滑稽に思えたが。さりとて義風もまたその事でのみ悩んでいる事には、当然

のように気付いていない。

 いや悩むという意味すら、今の彼は忘れているのかもしれない。鬼らしく滑稽さだけが湧いてくる。

 この心の変化が急激なのか、それともたまたまここに来て表面化しただけなのか、それは誰にも解らな

いが。とにかくも義風の身に与える修羅の力と影響は、日に日に増している。

 時に無いはずの右腕が空に透けて見える程、その鬼気は強くなっていた。

 それが果たして義風にとって幸福かどうかは解らないが、また一歩復讐への道のりが縮まった事は確か

であろう。

 義風はもはやこの地に用無しと考え、後は夜空を疾走しつつ街を出た。

 最早彼にとって人の言う防壁だの門だのは、まるで意味を為さない物となっている。

 路傍の石のように、一跨ぎで越えられる意にも介さない物と成り果てた。

 忍の呼吸も、その術も、初めから義風にとっては意味の無いものだったのかもしれない。鬼が見えるよ

うな人がおれば、もうそれは人ではあるまい。鬼は隠れる必要すら無かった。

 確かに居れども見えぬ者、それが即ち鬼であるが故に。

 その点を見ても、すでに義風は鬼と言えた。それでも彼は人に拘るのだろうか。人のやり方に固執する

のだろうか。だとすれば、一体それはいつの日までだろう。

 そしてその日まで、彼の心は保てていられるのだろうか。




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