4-6.馬洗い


 美砂坂の調略(ちょうりゃく)が成った事で、洗馬はもはや風前の灯火となっていた。

 軍事を司る侍奉行を寝返らせた以上、やる前から勝ったも同然であろう。

 春末も報告を聞いて当然喜び、その場で自身が帯びていた小柄を義風に与えた程であった。今までの労

苦を思えば、はしゃいでも無理ないくらいに喜ばしい事だったのだろう。

 すぐに家臣団が集められ、戦議が開かれる。どの者も交戦を主張し、春末もそれを受け入れた。

 この際いっそ美砂坂と洗馬とを相争わせた後、疲弊した両者を討って漁夫の利を得よう、という意見ま

で出たが。それは義風が抑えた。折角の手駒をこんな所で失う事が惜しかったからである。

 漁夫の利策を主張した武将には恨まれただろうが、それはそれで仕方が無い。それにその将もいずれは

敵対するかもしれぬ人物である。美砂坂とどちらが義風の役に立つか、誰が見ても明白だろう。

 春末も今回の功労者である義風の言や重しとし。結局は良く行なわれている通り、こちらが攻め、機を

見て美砂坂に謀反させる事に決まった。円乃勢はさほど干渉せずに放っておき、美砂坂が危うい場合のみ、

手を貸す事にしたのである。

 その方が美砂坂の勢力を減ぜられるし、円乃にとっては都合よく。美砂坂にとっても自身の力で洗馬を

乗っ取ったのだ、という気概が生れ、力を示す事は後の統治にも良いように働く。よほど義に拘る者で無

い限り、所詮は強い方へなびくものだ。

 いずれにしても美砂坂の命さえ長らえられるのであれば、義風としては他はどうでも良かった。死なな

い限り、いくらでも使い道はある。弱かろうと強かろうと、どうにでも使えるのが人間というモノ。

 すでに勝ちが決まっている以上、これ以上余計な口出しをして恨みを買う意味も無く。後は目立った発

言も行なわず、義風は静寂に努めた。

 ひっそりと野に潜むかのように春末の側に侍り、終始落ち着いた様子で話を聞く。戦略に頭を使う必要

がない以上、余った力を使い、この際使えるだろう者と、使い道の無い者を選別する事にしたのだ。

 じっと聞き、じっと発言者を見、どの程度自分の言葉を理解して喋っているのか。それは本当にその者

の意見なのだろうか。誰かにそそのかされ、さも自分の言葉のように喋らされているだけではないのか。

そういう細々した事を、いつも以上に冷静に観察していた。

 しかし残念にも、やはり策謀には向かない連中ばかりであり、頼むに足りない者達である、という結果

が出た。どの顔もどの顔もまるで意思というモノが無い。ただただ騒ぎ立てるだけで、そこになんら知性

を感じない。

 これが本当に人間と云えるのだろうか。或いはこれこそが人間か。

 確かに戦場での槍働きであれば、任せるに申し分ない。だが頭を使わずただ暴れるだけが能の者などは、

いずれ使い道が無くなり、かえって最後には邪魔になるものだ。武力だけでいえば義風一人で充分に足り

る以上、敢えてそのような輩を買う必要はない。

 義風はそう判断し、それ以上興味を向ける事を止めた。また忙しくなろう。今は休むが得策。

 黙して動かず、歓心も恨みも買われないよう、いつも通り陰に徹した。

 春末は手馴れたもので、戦となれば如才なく、今までの停滞を吹き飛ばすかの如く、迅速に配置を決め、

それぞれに役割を申し付けていく。こういう軍隊運営術だけで言えば、義風は春末に遠く及ぶまい。

 義風の中で、再び春末の価値が上昇する。さりとて必須人物とまではいかない。仲間としてではなく、

手駒、自分の思うとおりに動かす人物としての方に、より使い道があると考えている。その点、美砂坂と

大差ないかもしれない。

 やはり春末は春末として、円乃の中に不穏分子として残っていてもらわなければならない。無闇に仲間

に引き込もうとすれば、彼から綻(ほころ)びが出てしまうだろう。

 何も知らずに動かされていてくれた方が、義風としてはありがたいのだ。

 まあ、それすらも、どうでも良い些事なのかもしれないが。

 円乃を滅ぼすのであれば、あの雷光のような鬼腕を使えば良かった。あの力であれば、幾千幾万の兵で

あれ、一蹴する事が出来よう。それを使わないのは、単に義風が意固地なまでに人であり、人のやり方に

拘っているからに過ぎない。

 では美砂坂に使ったのは何の力か、という都合の悪い自問には、勿論考え至らない。人はそういうもの

であり、義風も人に拘るからには、その点も非常に人間らしかったのである。



 洗馬攻略戦は容易いまでに呆気なかった。

 守りは堅く、どの将兵の士気も低くはなかったのだが、それも美砂坂が寝返るまでの話。後方に大陣営

を構えていた美砂坂が裏切った以上、他の将に何する事も出来なかった。

 洗馬の陣立ても美砂坂が組んでいる以上、何もかもは思うまま。美砂坂子飼の将が城門を開き、円乃を

引き入れた事で混乱に拍車がかかり。元々お互いへの猜疑心が強かった洗馬勢は、あちらこちらで争い始

め、円乃側が大して関わる暇も無く、自ら崩れていった。

 洗馬家当主とその家族も美砂坂によって敗戦者として誅され、美砂坂と円乃に従わぬ骨のある将も次々

に殺されていく。

 これは春末の指示ではなく、美砂坂の独断である。よほど後の恨みが怖かったのだろう。すでに平静を

失っている美砂坂にとって、自身に従わない元同僚などは心痛の種であり、憎むべき存在でしかなかった。

 いや、もしかすれば、共に寝返った者達でさえ、彼にとっては疫病神と映っていたのかもしれない。

 義風もある程度予想していたが、さりとて善人面して争いを止めさせようとはしなかった。

 彼ならば鬼として美砂坂にそれを言い含めておく事は容易かっただろう。だが考えてみれば洗馬などに

何の義理も無い。彼らも乱世にて好き勝手、いやそれ以前から権威を利用して身勝手な事を数多く為して

いた。今更それが滅んだとて、誰が哀れんでやる必要があるだろうか。

 全ては自業自得、起こるべくして起こった報いであろう。

 戦火の渦巻く中、無数の怨念が生れるのを眺め見る事は、以前のように気分の悪い事ではなかった。

 円乃にもいずれこれ以上の報いを味わわせてやると、義風の心を焚き付けこそすれ、人の持つ無力な情

などを湧き起こせる事は無かったのである。

 春末は生来の優しさを残している男であったから、当然のようにこの暴虐(ぼうぎゃく)を止めようと、

美砂坂へと指示を出そうとした。当主を誅しさえすれば、後は助けてやっても良いではないかと、そのよ

うに思ったのだろう。

 しかし親美砂坂、反美砂坂が入り乱れ、同家で相争う中、わざわざそこへ踏み込んで屍をさらすような

真似を、喜ぶような者が居る筈もない。死なぬでも良いのに、わざわざ殺されに向わせる事は、いかに総

大将である春末でも出来ないのである。

 皆伝令役を断り、むしろ春末を諭そうとした。

 彼は最後の望みとして義風を見たが、されど義風もまた諭す方へと回った。

「起こった以上、最早止める事は出来ませぬ。例え美砂坂殿へ伝えたとて、もうどうしようも無いと存じ

ます。ここは美砂坂殿のお手並みを拝見致し、じつとここで待つのが賢明でありましょう。いや、それ以

外に方策はございませぬ」

 春末はそれでもまだ腑に落ちぬ風であったが、彼もまた一個の将である。ここは敢えて手を出さず、黙

して眺め、後始末を付ける為だけに待っているのが良い事は、百も承知であった。最後には諦めたようで

ある。

 美砂坂と共に円乃に組しようという者も少なくないようで、これだけ居れば、戦後処理も任せられるだ

ろうし、美砂坂に暫くは統治を任せる事も出来よう。円乃にとっては申し分のない結果だ。

 それに美砂坂の調略が想像以上の戦果をもたらし、策の実行者(やったのはほとんど義風だとしても)

である春末としては、その事に満足心も覚えていたのである。不満はあったが、正直な所、満足心の方が

勝っていた。

 逆に言えば、充分結果に満足していたからこそ、敵側への哀れみを持てたのだろう。

 これが五分五分の戦であったならば、そのような些事を思う余力などなかった筈だ。

 戦場の善意などはそんなものである。

 その後も刃の軋む音が果てなく続いたが、日も暮れかかる頃になると、もう立っている者の方が少数の

ようで。あらかた決着が付いたのだろう、洗馬一家の首を持って美砂坂本人が報告に現れた。

 春末は首検めをした後、改めて美砂坂とその一党にこの地を暫し任す事を告げ、早速首を腐らぬよう処

理をさせ、円乃本家へと送らせた。

 後は洗馬残党がおかしな気を起こさないように側で見張り、荒らした街を復興するだけである。

 だけである、といっても簡単な仕事ではないが、後は時間が解決してくれるだろう。

 とにかくも洗馬を滅ぼし、主だった将を滅ぼした事により、各地に残っている洗馬の将の領地を平らげ

る事は、さほど難しくあるまい。脅せばあちらから領地を差し出してくる者もいるだろう。

 遺臣の力など高が知れている。その始末も美砂坂へ任せれば良い。どうせ恨まれているのだから、今更

その恨みが増えたとて、どうなる事でもない。円乃への恨みを美砂坂が肩代わりしてくれるのだから、返

す返すも楽なものだ。

 後に円乃が民を治める時にも、その事はとても有利に働く。

 当然、それだけ春末の手柄も大きくなる。それはそれは大きく、円乃当主を脅かす程になろう。

 陰謀策謀の恐ろしさと利を知り、義風は一人ほくそ笑む。これだけ面白く上手く事が運ぶのであれば、

人が策に溺れる理由も解るというものだ。

 鬼の手で、洗馬は一日にして滅びた。




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