4-9.朧鬼


 春匡の状態は日を追う毎に酷くなるばかりで、快復する見込みは全く無さそうであった。

 おそらく冥府の父達が、早くしろ、早くしろと義風を責め立てているのだろう。義風当人の夢枕に立っ

ても、余り効果が無くなった事を見、今度は春匡を使って間接的に復讐する事を強いているのだ。

 早うやらねば、我らがこやつを冥府へ迎え入れてしまうぞ、と。

 よくよく考えれば不思議な話であるが、今の義風は通常の人間の思考とはある種別物となっている事も

あり、何ら不思議とは思わないようだ。今の彼にとって、父や爺の怨霊(勿論これも義風の妄想であるが)

も、単に自分を復讐へと駆り立てる要因の一つでしかないらしい。

 この時点で復讐や仇討ちとかいう言葉とも遠ざかっているような気もするが、当然それもさして意味の

ある疑問ではなくなっている。

 しかし義風は怨霊を半ば嘲るかのように、何ら焦りを浮かべる事も無く、静かに、そして確実に決行の時

を待っていた。

 最早父達の思惑も、春匡の哀れさにも、彼には何一つ感じる事がないようである。或いはそう見えるだ

けなのかもしれないが。

 待つ事数日、前線より報が入り、ようやっと目途が立ったので、春宗が帰還の途に着いた事が知らされ

た。城内は湧き立ち、春匡も満面に気色を浮べ、少しだけ心の安定を取り戻したようである。

 その夜はいつものようにうなされる事はなかった。

 義風はそれらを冷静に観察している。時は来た、そのように確信しながら。

 彼が動いたのはその翌日である。

 その日、春匡は久しぶりに気分が良くなったとの事で、庭園を見ながら散歩でもしようと(勿論城内の

範囲で)、朝からずっと歩き回り、幸い天気も晴れた事で有意義な時間を過ごしていた。

 供の者もすっかり安心し、いつものように春匡の癇癪(かんしゃく)に怯える事も、気狂い沙汰に不安

を覚える事もなく、主と同じくゆるやかな時間を過ごせていたようだ。

 春匡は折角だからこの晴れ空を見ながら食事をしようと、日当りの良い部屋を選び、そこへ膳の支度を

命じ。自分は日溜りの中に座しながら、気に入りの女官を侍らせると、よほど気持ちが良かったのだろう、

そのまま居眠りを始めたのである。

 女官も常の春匡によって、いたく疲労させられていた為、安心して気が抜けたのだろう、彼女もふっと

眠気に襲われ、そのまま熟睡してしまった。

 供の者はそれを責めるでもなく、それぞれに久方振りの安楽を楽しみ、各自警戒を怠っていた訳では無

いが、自然に春匡から気が逸れてしまっていた。

 その時、ふと物音が聴こえた。ずぶりと何かを刺し貫くような音である。

 皆、当たり前のようにそちらへ視線を向けたが。しかしそれを目にしてさえ、彼らはそれがそうなって

いた事を認識する事が出来ず、特に興味を惹かれず、そのまま視線を戻した。余りにも現実的でない光景

を見、脳が認識するのを拒否したのかもしれない。

 呆けていたといえば、そちらの方が正しかったのかもしれないが。

 それから短かったのか長かったのか、突如大きな悲鳴が上がり、春匡の側に居た女官が仰向けに卒倒し、

再びどさりという物音が聴こえた。

 慌てて皆そちらを見やると、何と云う事だろう。そこには血まみれになった春匡の姿が在り、彼の脳天

から畳までずぶりと一振りの刀が貫いていたのである。

 場は騒然となり、口々に互いの不首尾を罵りながら、それでも家臣達はそれぞれの派閥へと報を伝える

為に走り去り、後には春匡の死体と、仰向けに固まったままの女官の姿だけが残った。豪胆と言うべきか、

人の生死よりも利益損害の方に気をとられたと言うべきか。

 ともあれ好都合である。落ち着いた様子で義風が姿を現し、一度刀を抜き、春匡の首をねじ切ってから、

改めて釘ででも打ちつけるように、その体を畳へ貫き付けた。

 すでに血も流れ果てていたのだろう、特に何か変化が起きるでもなく、前と同様にずぶりという音がし

ただけである。すでに春匡はただの亡骸になっていたのだ。

 後はその首を丁寧に白布で包むと、何に浸るでもなく、その場を去った。

 春匡死去の報はすぐに城内を駆け巡り、その後の調べで、どうやら凶器として使われた刀が、他ならぬ

春末の物である事が判明したようである。

 無論、わざわざ自分の刀を暗殺の凶器に使う馬鹿もいないだろうが、この事は様々な憶測を呼び、様々

な疑心を植えつけるに充分だった事もまた、確かな事だろう。



 無数の憶測と不穏が飛び交う中、ようやく春宗が帰城した。春匡の死を知らされ、日程を早めて急いだ

のだろう、予定よりもずっと早い帰城であった。

 円乃は膨張を続けている分、個々の将間に未だ友誼が結ばれておらず。当主不在の間に、家臣達が何を

企むか解らない。常に誰かが家臣を威圧していなければ、国家として組織として成り立たないのである。

 しかも春匡は暗殺された。早急に手を打たねば、必ずや乱が巻き起こるだろう。

 だが春宗はそう云う事に余り関心を向けていないようだ。逸早く戻れた事だけを幸運とし、天命である

とし、自分の時代がついにやってきたのだと、そればかりを心中祝っていた。

 彼はすぐに主だった者達を集め、当然弟である春末も呼び、自らを喪主として盛大に葬儀を執り行った。

そして喪主になる事が、自分が次の当主であるという、正式な宣言でもあったのである。

 春宗にとってそれは当然な事であったが、しかし少なからず異議を持つ家臣も居るようだ。

 これが半年も前であればまだ良かった。その頃は春宗こそが紛れも無く家中一の将であり、春匡を除い

てはその勢威に比する者など居なかった。春宗が次の当主となっても、誰も異議を持つ事は(表面上は)

無かっただろう。

 しかし今は少し状況が違う。家臣の中には、春末こそが家中一であり、当主の座を継ぐに相応しいと思

う者が意外に多い(勿論、そうさせるべく働きかけたのは義風である)。実際、喪主を選ぶ時にも一悶着

あったようである。それでも春宗が喪主に就いたのは、単に今は彼が長子であったからだろう。

 春末も自分を押し出すような事は言わなかった。彼はあくまでも末弟として兄を立て、全てを春宗に任

すと、そう述べたのである。

 しかしそれもまた、春宗の評価を下げ、代りに春末の評価を上げる結果となった。

 円乃は様々な勢力を吸収した故に、無数の派閥が混在している。そしてそれを打ち消し一つとするには、

まだまだ長い時間と、何かしら大きな目的意識が必要であろう。春匡はまだ上手くやっていたが、春宗に

そこまでの政治的才能は無く、細々とした所で不備も目立った。

 だが自侭に振舞えないという事だけは理解しているらしく、春宗なりに家臣を立ててやり、筆頭家老で

ある以上の権力を求めようとは、今の所はしていない。

 不満はあるだろうが、地盤固めが大事である。好きにやるのは正式に当主となってからでも、遅くは無

いだろう。

 ただ、不安もあった。

 春末である。

 春末は今までと同様に春宗を立てる姿勢でいるが、春末の家臣共、そして春末に肩入れする者共が果た

して大人しくしているだろうか。そして何より、何故暗殺の凶器が春末の刀であったのか。もしかすれば、

しおらしいのは上辺だけで、春末は虎視眈々と当主の座を狙っているのではないのか。

 横の繋がりの薄い円乃を束ねる。これは相当な困難となろう。だからこそ労する間は春宗に任せ、全て

が落ち着いた後、改めて春匡と同様に暗殺し、自らが堂々と当主になろうという考えではないのか。

 幸いというべきか、凶器の刀は春末の物であるのは確かだが、あまり使っておらず、長く倉に納めてい

た物のようである。それを最近になって手入れの為に鍛冶師へ預けた所、まんまと盗まれたという訳だ。

 刀を盗まれるのは甚だ不名誉な事だが。場合が場合だけに同情こそすれ、疑う者は居なかった。妙な噂

もすぐに消えている。しかしそれもまた、春末の策ではなかろうか。

 わざと不安を煽り、それを晴らす事で人々に安心感を与える。悪くない考えと言えまいか。

 春宗も春匡と同様、いや春匡以上に叩けば埃の出る体である。疑心も多く、一度迷うと晴れる事は無か

った。今までもそうであったし、これからもそうであろう。

 今春宗の腹の中で、春末という存在が、急速に脅威として育ちつつある。

 元々彼は乱世の習いとして、何者も信用してはいない。

 目の前に平伏す弟の姿を見ていても、決して心休まる事はなかったのだろう。そしてその気分は、どう

隠そうとしても、自然に人の間に伝わるものである。

 春宗と春末、両者の間に決定的な溝が生まれ始めていた。




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