5-2.洗馬の残り火


 昼間は他の家臣の手前、下手な事は言えなかったようだが。夜になるとその口も軽くなり、ぽつりぽつ

りと春末は自分の事を洩らすようになった。

 義風への信頼は大きなものであるし、少しばかりなら話しておいた方が、逆に将としての器を示せると

考えたのかもしれない。

 春末には円乃に人質として預けている者達以外に、予想通り外に隠し女と子が一人居るらしい。

 しかしそれは円乃に従う以前、今よりもずっと若かりし時にした事であり。それだけに身内にもほとん

ど知られておらず。女だけならまだしも、子まで居るとは誰も知らぬようだ。

 だからこそ円乃の追求の手からも、間者達の調査網からも逃れられたのだと思える。当人以外誰も知ら

なければ、初めから捕えようが無いではないか。

 だが義風にとって困った事に、今その親子がどうしているのか、春末自身も知らぬらしい。

 円乃の支配下に入る際、危険故に言い聞かせて別れたのだが。双方納得済みで仕方ない状況だったとは

いえ、捨てた事に変りはない。それ以後一度として会ってはおらず、今となっては思い出す事も稀だった

のが、何故か義風に子が出来た事を知ると不意に思い出され、急に懐かしさが湧いてきたと言う。

「今更何を言うかと思うだろうが、人の心は不思議なものよ」

 春末は杯を干しながら、情けなさそうに呟いた。

 義風は無言でいる。別に感傷に浸っていた訳ではない。ただその子供には母が居るだけ、そして父も生

きているだけましだろうと思っただけである。

 彼にしてみれば、その程度の事は腐るほど世の中に転がっているし、その女もとうに春末の事など忘れ

ているだろうと思える。懐かしさ、思い出、そんなものが何になろう。良かった事を思い出せば、悪かっ

た事が消えてくれるとでも言うのか。

 良いも悪いも全て在る、それが思い出ではないのか。

 静の事を思い出させられて以来、義風は機嫌が悪い。この話に利用価値を見出していなければ、とうに

席を立っていただろう。

 義風は鬼の術を使うようになってから、次第に傲慢というべきか、豪胆というのか、ともかく今までの

ように陰に回るばかりではなく、自ら進んで行動する事が多くなった。

 ようするに今更人間の心などに遠慮する事はない。いざとなれば鬼の力で黙らせ、支配下におけば良い

だけの事、気にするだけ無駄と言うのだろう。

 彼のまとう闘気、鬼気と呼べるものも増大の一途を辿っており、今ならば一睨みで他の家臣を圧倒する

事が出来る。いや、春末さえどこか気圧されていた。義風が立てている故、表面上は主従の関係と見える

が、義風は主さえ圧倒する気迫と威圧感を隠そうとしていない。

 そのくせ誰も敵意を抱かぬよう、細やかに人心を握っているのは流石と言うべきか。感情という些細な

ものを取り払えば、何をするのも大して労はないのかもしれない。

 人間など義風が思い煩う程の存在ではない。そう思っているから、何をされようと、何を言われようと、

何を考えていようと、人が羽虫を見るのと同じくらいに無関心でいられ。関心を持つ必要さえ感じていない。それが強みになっているのか。

 義風は云わば別格であった。家臣でありながら、同時に客人であり、或いは師であるかのような、その

ような権威を自然と持ち始め、それを周りの人間も当然と思う。

 座する位置からして、化生そのものである。

「風よ、だからわしは静殿とお主の子が気にかかるのだ」

「これ以上の喜びはございませぬ」

「フ、お主はいつもそれだな。感情を表に出さぬ。しかしだからこそ胸に熱く収めておけるのだろう。わ

しも見習わねばならぬ」

 春末は義風の表情がどうだろうと、無関係に楽しいようであった。

 それは少し話せて気持が楽になったのかもしれず。また、常に静かに聴いてくれる(と春末は思ってい

る、思わされている)義風の態度が気に入っているのかもしれない。

 彼は武こそ好む。そして武人とはそもそもこうある者ではなかろうか。一言も喋らず、常に行動にて最

善を示す。表面上は義風もそう見えるならば、正に春末の好みにぴったりと嵌っている。

 そして酔った勢いか本心か、彼は重大な事を洩らした。

「風よ、洗馬残党はお主に任そうと思う。出来れば永劫に」



 春末の言葉はつまり、いずれお前に旧洗馬領を任せると、そういう意味の言葉となる。

 当主である春宗がどう考えているかまでは解らないが、少なくとも春末はそう考えていると云う事だ。

 これは義風を奮起させる為の詭弁(きべん)と取れない事も無いが、義風が見る限りそういう風ではな

かった。それに春宗としても有力な将が春末に付いているよりは、むしろ領土を与えてでも、両者を切り

離してしまった方が良いと考えて、おかしくはない。

 何しろ、義風の後ろには春日部勢が居る。無論、重臣とはいえ家臣同士の婚姻などは、大した強制力は

ないのだが。春末を強く意識し始めている春宗としては、少なからず煩かろう。

 この事は義風の思惑外の事ではあったが、彼にとって魅力的な状況である事に違いはない。

 春宗、春末の間に自らが立てていると云う事は、様々な事に利用しやすく、場合によっては春宗にも干

渉できる。義風という存在が意識される事も、決して悪くない。

 ただ個人の感情として、必ずしも喜ばしいだけではなかった。

「妻の次は領土とはな」

 奪われたはずのものが全て、奪った者から与えられ、戻ってくる。

 皮肉とすればこれ以上の皮肉は無く、自分が飼い犬に落とされているような錯覚を受ける。

 義風は流石に億劫(おっくう)になり、独り溜息を吐いた。

 彼は現在、春末より美砂坂に助力する事を命じられ、美砂坂邸へと向いつつある。

 名馬を一頭だけ拝領し、供の者は連れていない。今までなら遠慮してぞろぞろと連れ歩いていた所だが、

遠慮する必要は無いと判断し、はっきり断っておいた。勿論、今は一人とて無駄な仕事をさせている余裕

はないのです、と助言にも似た言い訳を付けておく事は忘れない。

 一応の配慮だけは常と変わらず示している。

 春末もその言葉に不快がりはせず。

「流石は春風、剛胆な事よ」

 などと褒め称え、むしろ満足げな笑みを浮かべていた。

 実際、未だ様々な思惑が渦巻く洗馬領内で、自家戦力を分散させる事は良い手段ではなく。出来るだけ

春末の周りに手勢を集めておく事が必要であった。

 当たり前に考えれば、春末襲撃などという事はありうべからざる事であるが。一軍の将たる者が、その

ような希望的思考では困る。ありえない事にも当たり前に配慮するのが最善の手というものだろう。

 そして洗馬残党にも常に武威を示し、心から従属させねばならない。乱気を全て鎮める必要がある。

 対して義風が単独で行く事には、家中でも智勇兼備の良将としての評価が上がっており、心配する者も

いなかった。むしろ妥当であり、流石は武辺者と皆虚仮(こけ)のような顔をして称えている。

 どれだけ武勇に秀でようと、本来単騎で移動するなどは狂気の沙汰なのだが。事義風を前にし、その目

に見れば、誰でも共など必要が無い事を悟るのである。

 それだけ義風の圧気は強く、居るだけで四方を平定するかの如き、常人を越えた雰囲気をまとっていた。

 義風は誰も反意を持たない事に満足したが、それで気分が晴れる訳でも無い。

 円乃がまとまる事は、彼にとって不快な事であるからだ。

「まあ良い。意して謀反を起こし、正面からと円乃を滅ぼす事もまた、円乃にとっては屈辱だろう。父や

爺が煩かろうが、老いぼれなど黙らせておけばいい」

 最早義風は冥府から迷い出る亡者怨霊など、塵とも思っていないようである。

 妄執(もうしゅう)しか持てぬ、下らぬ存在だとしか考えていない。

 彼は鬼、亡者を使役こそすれ、恐れる筋合などはないのだ。それに例え血族縁者であれ、死した者など

に遠慮する必要は初めからないはずなのだ。

 亡者への配慮と言うまどろっこしいモノがまだ残っている自分に、例えようもない惨めさというべきか、

嫌悪感と不満の入り混じったものを感じる。

 それは静や子のような弱みとまではいかないが、不満は覚える。平たく言えば、そういう人の持つ感情

こそが邪魔であった。不必要なものは要らないのである。

「美砂坂で気が晴れれば良いが」

 すでに下僕としてある美砂坂、彼が鬼の気を少しでも晴らしてくれれば良いのだが・・・。しかし美砂

坂が義風の思惑通りの状態であったとすれば、そうもいくまい。

「仕方あるまい。ならばせめて、早々に決着をつけようか」

 義風は堂々と正面から美砂坂邸へと乗り込んだ。思えば、この屋敷に正面から入るのは、これが初めて

であったかもしれない。

 ややおかしみを感じ、義風は少しだけ笑みを洩らした。   




BACKEXITNEXT