当主、美砂坂藤次郎(ミササカ トウジロウ)は忙しなく、張り詰めた表情で様々な仕事に追われている。 やるべき事が多く、しかも何かをすれば必ず洗馬家残党から反発があるので、仕事は減る事が無い。結 果、疲労だけが蓄積されて行く。 それでも放っておけば怠慢と蔑まれる。やるしかなく、心身ともに限界にきているようであった。 洗馬残党が彼への従属と協力を拒否している以上、それは当然であったろう。この領地をほとんど一人 で切り盛りしているようなもので、その疲労しきった表情、錆のように浮んだ苦みばしった苦痛、どこを どう見ても気が汚れ鈍り、病人としか思えない。 実際、彼は病んでいたのだろう。 「円乃春末が名代、桐生春風と申す」 「美砂坂藤次郎でござる。遠路はるばるご苦労でございました」 美砂坂はどうやら義風が以前この屋敷へ忍び込んだ、円乃の風である事を解っていないようであった。 別段隠す必要は無いのだが、義風も何も言わず、その話題に触れようとはしなかった。隠す必要は無か ったが、わざわざ言う必要もなかったからである。 この点から見ても、美砂坂には以前のような覇気や力は無く。これならわざわざ鬼の法を使わずとも、 簡単に崩せると思えた。 予想通りとはいえ、あの美砂坂藤次郎が、往時は誰も逆らえず、或いは洗馬当主すら圧する勢いと威風 を持った男が、ここまで苦渋を舐める事になるとは、なるほど、人間とは面白いものである。 負い目、弱みを少しでも意識すれば、人はこうも弱く。例え独善的でも名分が出来、誰かと結び集団と なれば、人はこうも強くなるものか。 しかしだからこそ、双方にそれぞれ使い道が生れると云うものだ。 「美砂坂殿、話によれば、家臣達とあまり上手くいっておらぬようですな」 「はッ、いやしかし・・・・いや、お恥ずかしい限りで・・・」 「一体如何されたのかと、主、春末も心配しておりましたぞ」 「どうも意地になっておるらしく・・・・、いや、しかし、私が、いや、拙者が、・・・・必ず、必ずや 役目を果たして御覧にいれまする。どうか春末様にはそうお伝えいただきたく・・・」 鬼、鉄面鬼とまで呼ばれた無情の将が、一体どうしたというのだろう。やはり鉄面、鬼と呼ばれても、 所詮はただの面であったようだ。剥がれればただの人、いや、むしろ今まで隠していた分、剥がれれば 尚の事脆い。 義風は美砂坂を駒として扱い易いが故に、この結果に満足していたが。しかし同時に失望も感じていた。 かりにも鬼と呼ばれるのであれば、それだけの覚悟と強さがあろうと思っていたのだが。やはり人に 期待するのは愚かな事であったようだ。弱い、脆すぎる。 義風は駒としてよりも、むしろこの局面でさえ無表情で、表面上だけでも涼しげにこなせる事を、美砂 坂に望んでいたのかもしれない。それは確かに人に与えるには重過ぎる役目ではあったが、彼に残る何か の部分が、人にそういう強さを望んでいたのだと思える。 それは同時に、彼の心の中に、よほど多くの人の情が残されている事を意味する。 人への希望であり、願いでもあったのだろう。 気付きたくないのか、気付かないのか、義風はその事に無頓着だったが、それもまた彼の嫌う、己の弱 さ、人の部分であった事に、間違いは無い。 義風は確かに人である。いや、鬼の出来損ないと言った方が良いのか。 「ですが藤次郎殿、流石にこれ以上は不味いのではないかな。我が家も当主交代により、多少殺気だって おります故、あまり生半な事をされておられますと、春末様がどう申し立てたとしても、さてさて、春宗 様が黙っておられますかな」 脅しとしか取れないその言葉に、美砂坂の顔へと色濃い恐怖が浮ぶ。 確かにこの男は最早鬼ではない。飾りを全て剥ぎ取られ、誰よりも人間であった。 たかだか残党を治める程度に、こうも神経をすり減らし、こうも簡単に壊れるものか。義風は人に対し、 再び深い失望を覚えた。 出来れば手駒としてもう少し使ってやりたかったが、使えない物を後生大事にしている程暇人ではない。 予定通り美砂坂には破滅を贈ってやらねばなるまい。美砂坂は用無しである。 「待ってくだされ、拙者、命に代えましても!!」 「命? 命と仰いましたかな。なるほど、流石は美砂坂殿、その名に偽りはないようですな。それならば 私に一つ、そう一つだけ、考えがござる。なあに、簡単な事ですよ」 詰まらなそうにぽつりぽつりと話す義風の言葉を、美砂坂は魅入られたかのように一心に聞いていた。 それはまるで、彼の心に言葉を彫り、刻み付けるのに似ていた。 すがり付くというよりは、それだけが彼の全てであるかのように、心の全てを支配して行く。
美砂坂藤次郎、乱心せり。 春末の下へその報が届くまでに、さほども時間はかからなかった。 報告に寄れば、美砂坂が旧洗馬家家臣の主だった者を全て集め、初めは穏やかに歓待していたのが、酔 いが深まるにつれて不意に刀を持ち出し、止める声も聞き入れず、人とは思えぬ恐るべき膂力にて、その 場に居た全ての武将を惨殺したとの事である。 その後も美砂坂は狂ったように刃を振り回し、後には骸が細切れのように残っていたというのだから、 その狂気の程が窺える。 春末にとっても、残った洗馬残党にとっても、これは寝耳に水の出来事であり、春末も暫し放心したよ うに青ざめ、身動きをする事が出来なかったそうだ。 何故こんな事になったのか。しかしその理由については推測できない事もない。 聞けば、殺された者達は平素美砂坂に対して反意を明らかにしていたようで、彼の言葉を聞くには聞く が、まったく実行する様子は無く。彼の下へ集まるのも、わざと刻限を半日も遅らせたりと、どう見ても 美砂坂を一筋も敬っている様子が無かったと云う。 それでも美砂坂はあくまでも平和裏に解決しようとし、家臣達を懐柔しようとあらゆる手を尽くした。 だがどうあっても家臣達は云う事を聞かず、益々意固地になって美砂坂を批判する。 美砂坂に反意を示す以外に、彼らの利己心を満足させる手段が無かったのだから、初めから懐柔する事 は不可能だったのだ。 しかし美砂坂の方にも他に方法が無く、報われない辛抱をいつまでも続けるしかなかった。懐柔させね ば、今度は自分が無能者として処罰されてしまうからである。 役立たずを生かしておくほど、お人好しな勢力は当時にはいない。 美砂坂がその事でえらく憔悴(しょうすい)しており、春末が来た事で、その感情に止めが刺されたの ではないか、というのが、内情を少しでも知る者達の一致した見解である。 春末からすれば責めに来たのではなく、あくまでも手助けをし、確かに結果だけを見れば賞する事は出 来ぬまでも、決してその働きに対して、不満や異議を申し立てるつもりは毛頭無かったのだが。結果とし て、美砂坂の感情に止めを刺す事になってしまったのだろう。 「何と云う恐ろしい事を・・・」 春末は真摯(しんし)に嘆いたが、しかしこれによって彼の権威が増した事もまた、確かである。 何故ならば、主だった将が殺され、そして(形だけとしても)統治者であった美砂坂が居なくなった以 上、皆春末に臣従する外仕様がなくなったからである まだ重臣達が残っていれば、例え円乃に屈しているとしても、まだまだこの土地土地に根強い力を持っ ていたし、春末としても彼らに遠慮せずにはいられなかった。 だからこそ洗馬残党も大人しく降ったのであり、まったく自由と権力を失うようであれば、彼らも死ぬ まで反抗しただろう。 しかし残党の中心に在った重臣達がいなければどうなるか。求心力は無くなり、団結する力も失せ、た だの一家臣、一地主でしかなく。多少配慮してやる必要があるとしても、脅威は消える。 目の上のたんこぶであった重臣達が消え、更に美砂坂も自滅したとなれば、これは春末にとって願って も無い出来事であった。無論、彼自身はそのような事をまったく考えていなかったようだ。 通常、それが起きる事に寄って一番利した者が疑われる。それでも春末が一切疑われなかったのは、洗 馬領内での彼の人望が如何に高いかを証明していた。 春宗も春末の統治に文句は言えまい。すでに春末は力を得ている。それも円乃の血族というあやふやな 力ではなく、土地であり、その地に住まう無数の人間、つまりは軍事力である。 最早彼は当主の弟などではなく、地方領主、しかも強大な力を持つ一勢力なのであった。 春宗は仰天している事だろう。これでは恩を売るどころか、みすみす対抗者に力を与えた事になる。そ れを止めようにも、今更どうする事も出来ない。 それに今の円乃で、春末以外に誰が領主を勤められようか。美砂坂が乱心した時点で、春末の領主就任 は決定されたようなものだった。 義風を推す手も、春末がこれほど人望を示したとすれば、捨てるしかあるまい。 春宗は初めて兄の死を悼んだ。 春匡さえ生きていれば、春末でなく自分が領主となれたはずなのだ。当主就任と同じように、家臣は二 分するかもしれないが、また同じように必ず春末は身を引いたはず。 そうなれば当主などという煩わしい存在になるよりも、遥かに自由で、発言力も強く、思うままに振舞 えた。そうして地盤を固めてから当主になれば、春宗の地位は安泰だったのだ。 春宗は天を心から恨む。何故自分ではなく、いつも春末なのだと。何故いつもあの男を頼らなければな らないのか。何故自分はいつまでもこのように窮屈な境遇なのか。 納得出来るはずがない。 嫉妬と不条理が彼の心を渦巻き、それが春末への大きな怒りと憎しみへと変わるのを、今程はっきりと 感じた事はなかった。 |