5-4.定められし受難


 春末へ正式に旧洗馬領が与えられ、領主に命じられると、今までの騒乱が嘘のように治まり、春末領は

一挙に磐石になったかのように見えた。

 それも当然だろう。何しろ美砂坂以下、元洗馬重臣達が全てこの世から消えたのだから、今更問題など

起こるはずが無い。

 しかし世論は春末をまたしても持ち上げ、彼の手腕を称えた。

 それに対し、春宗はやり切れぬ思いを抱いたが、今更どうにもならず、苛立ちが増すだけで何も良い事

はない。欲していたはずの円乃当主という座が、どこまでも彼を窮屈にさせ、何某かに縛り付ける。

 愚かな話だ。あれだけ求めていたものが、求めていたはずの座に就いた途端、崩れ落ちるように今まで

あったものも全て、奪い去ってしまうとは。何と皮肉な話だろう。

 そして厄介な事に、これで北に春日部、南に春末と、当面の脅威となる二つの勢力に、完全に挟まれた

形となってしまっている。如何に同盟、そして血縁関係があろうと、この乱世にそのようなものが一体ど

れだけ役に立つか。不安が募る。

 今春日部と春末に組まれれば、おそらく春宗は対抗出来まい。腹の立つ事に、もしそんな事になれば、

おそらく彼の手勢からも、春末の方へ寝返る者が続出すると思える。

 円乃家臣に忠誠心という言葉は虚しく、利と恐怖で繋がれているに過ぎない。より強い者が出てきた場

合、そちらへ寝返るのは当たり前の事だった。円乃への恨みもまだ根深くあちこちに残っている、裏切る

為の名分など、いくらでも作れよう。

 円乃が得た仇敵という称号は、円乃の血族が、円乃の家名が残っている限り、いや、円乃という名が歴

史に残る限り、薄れても決して消えはしないのだ。

 春宗の心は前当主、春匡と同じように、様々な恐怖心に蝕まれていった。

 そしてその心が全て春末への憎しみへと転化していく。というよりも、今彼が平静を保つ為には、憎む

べき相手が必要だったのである。

 冷静に考えれば春末が謀反する訳がない。そういう人物だからこそ人望があるわけで、確かに謀反すれ

ば彼に付く者も出るだろうが、果たしてその後も名声を保てていられるかどうか。

 春末の唯一にして強大な武器が名声である以上、それを自ら捨てるような事を、彼は絶対にしまい。彼

の性格から言っても、謀反を起こすような気質ではなかった。

 それに例え当主争いに勝ったとして、程無く内部争いに発展し、いずれはまた有象無象の勢力が密集し

ていた、一昔前の状態に戻るだけの事である。

 春末はその事をはっきりと理解していた。謀反などするはずがない。

 おそらく春宗も心奥ではそのような事は考えていまい。だからこそ気晴らしの為に、春末をいくらでも

憎む事が出来たのだろう。

 憎んでも決して裏切らないからこそ、安心して憎めるという図式が成り立つ。

 それもまた義風の目論見通りである。

 確かに春末が春宗を裏切る事は出来ない。だがしかし、もしこれが春宗の方から仕掛けてきたとすれば

どうだろう。乱心した兄を討つ。これならば春末の名誉にも傷が付かず、彼の側へ寝返りたい者にも大義

名分が付く。これほど美味い状況は無い。

 義風の狙いはそこにこそ在った。

 円乃をこのまま存続させる事は不本意であるが、しかし直接の仇である春宗、奴に惨めな死に様をくれ

てやる為には、まだ円乃に滅びてもらっては困る。

 ただ春宗を殺すだけでは駄目なのだ。全ての希望を失させ、悔いではなく、絶望の内に冥府へ落したい。

 冥府からの事は父以下一族郎党が好きにするだろう。それは好きにさせておけば良い。

 ともかく惨めな死に様をくれてやる為には、この春末をもう暫く利用せねばならぬ。大きく在り、常に

春宗を圧し続けてもらわなければならない。

 憎しみだけでなく、本当の恐怖心を抱いてもらう為に。

 その為にのみここ一年の間奮闘し、それだけの為に美砂坂を操り、わざわざ洗馬まで落とさせた。ここ

まで苦労しのだから、もう暫くは働いてもらわなければ割に合わぬというものだ。

 目論見通り春宗を滅ぼしさえすれば、後はどうにでもなる。縁起が悪いとして円乃の名を変え、勢力だ

けを残すのも良い方法だろう。

 円乃とは元々怪しい修験者の名である、捨てる事に誰が異議があろう。そうだ、春匡の死も呪いだった

とでもしようか。この際利用できる者は、死して後も利用させてもらおう。惨めに、亡骸となってさえ、

尚冒涜するが為に。

 例え命が消えようと、その魂在る限り、何処までも苦しめてくれる。

 用が済めば春末もまた滅し、後に義風が立つという手もある。円乃を完全に滅ぼし、変わりに春日部を

乗っ取ってもいい。いくらでも方法はある。鬼に不可能な事は無い。

 そうして父、義実を追放した者を調べ、滅ぼせば、それもまた仇討ちとなる。

 理由など後からどうでもこじつけられるものだ、全ては義風の思うまま、好きにすれば良かった。鬼と

して、自侭に振舞えば良いのである。人間など知った事では無い。



 春宗は日々焦燥に明け暮れ、日が経つ毎に人心は彼から離れていった。

 だがその中で一人だけ深く彼と結び付いている者が居る。それは春宗がおそらく今ただ一人だけ信じて

いる臣であり、頼りとしている男。春宗の知恵袋となり、当主就任以来、全てに関わり、ある意味春宗を

支配している存在。

 政治力に不安を覚えていた春宗が常々求め、そしてようやく得られた人材である。

 春宗から人心が離れれば離れる程、頼りになるのは彼だけだと、春宗からの信頼が高まっていく。もは

やこの男無しでは、春宗は一人で立つ事も覚束無い事だろう。

 そういう状態がまた、益々人心を遠ざけるのだが、当人はまったく気付かないようだ。

 そしてそれらもまた、義風の望むべき状況である。

 全ては彼の目論見通り進んでいる。

 春宗を補佐するその男こそ、何を隠そうあの間者の頭目なのだ。義風と誼(よしみ)を結び、同じ円乃

に恨みを持つ者として、陰に日向にと力を貸してきた。今ではもうすっかり義風に心服し、家来同然とな

っている。

 その間者一世一代の仕事、それがこの補佐役なのである。

 間者達が円乃を滅ぼす為に、どれだけ以前から、どれだけ心を砕いてきたのか、ここからも良く解る。

 彼は裏では義風を助ける諜報集団の頭目となり、表では知恵者の仁者として少しずつ評判を集めていた。

地道に、きっといつか役に立つだろう時が来る事を願いながら。

 無論、たまたまこの間者が選ばれただけで、他の間者達も様々な町に住まい、同じような事をやってい

る。今は広く人材が求められているだけに、円乃の内部へ食い込む為には、そうするのも悪くない方法だ

ったからである。

 だが円乃は、前当主、春匡は用心深く、いくら評判があろうと、見知らぬ他人などに興味を示そうとし

なかった。それに春匡にはまだ政治力があり、自ら統治する事も不可能ではなかった。

 故にこの策も無駄に終わる所だったのだが、春宗の代になって、ようやく実を結ぶ事が出来たのである。

何でも可能性がある限り、続けているものだ。

 当然、まったくの偶然、にこの間者が春宗に抜擢された訳では無い。そこには義風が絡んでいる。

 彼が春宗派の家臣を操り、自らの力不足を痛感している春宗を狙い、間者を登用するよう、しきりに焚

き付けさせたのである。

 義風は偶然や幸運に頼らない。ただそこに在る可能性を利用するのみ。

 神頼みもせず、鬼らしく全て必然の中に持っていく。そしてその力もある。

 簡単とは言わないが、さほど労は無かった。美砂坂のおかげで、人心を操る術は習得している。どうに

でも好きに利用出来るよう、家臣の主だった者に干渉しながら、義風も間者と同じように、一つ一つから

くりを拵(こしら)えていたのである。

 鬼の力があれば、間者達のように数年規模の時間をかける必要は無い。さほどの労はなかった。

 間者達人間の多大なる労苦を嘲笑うように、全ては簡単に、そして性急に進んでいく。いや、進まされ

ていく。ただ一人、義風という半修羅の意志の下に。

 誰もその意志には逆らえない。誰もその意志に刃向う事は出来ない。多くはその意志さえ知らない。

 全ては半修羅の思うまま、望むままに進まされていく。

 間者達も空恐ろしく思っているだろうが、彼らも逆らう事は許されない。最早部下や臣下の範疇(はん

ちゅう)ではなく、彼らもまた鬼の僕(しもべ)であった。

 人の自由意志など、所詮は鬼の戯(たわむ)れなのだろう。選ばされている未来を、自らで選ぶか選ん

でいないのか、どちらかに錯覚させられるだけの違いしかなく、そこに意味などは無い。

 全ては義風の掌の上だった。そして全ては脆い。義風の一喝で微塵に砕かれる程に、脆く、儚い。ただ

それだけの、人などはそれだけの存在なのであった。

 後は義風の思い一つなのだが、彼は駆け足で進みながらも、しかし慌てる事はしないようだ。今も落ち

着いて時勢を待ち、その時が来るように巧みに操っている。

 春宗を完全に分断し、孤立した時、その時行動を起こす。最も惨めに彼を滅ぼす為に。

 修羅の贄としてやろう。

 全てを奪われ、全てを失った、あの時の自分と、まったく同じ想いを春宗に抱かせねば、一体何の為

の復讐か。

 その身も心も喰らい尽し、存在そのものを消してくれる。

 冥府の屑となり塵となり、永劫に惨めに踏み躙られ続けよ。

 義風は再び血が滾(たぎ)るのを感じた。それは久しく感じていなかった、心地よい衝動であった。




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