5-5.亀裂


 間者のおかげで逐一春宗の言動を知る事が出来る。

 義風も千里眼ではない。いや、もしかすればそういう力もあるのかもしれないが、彼はその事を知らな

いし、使えるとも思っていない。故に、人間と同じく、情報源が必要かつ重要であった。

 人間の範疇(はんちゅう)で事を起こすには、やはり人間のやり方でやらなければならない。

 それは人間に従うようで不快だったが、それもまた悪くは無いとも思えた。何故ならば、人間義風とし

ての仇討ちを目的としていたからである。最早それすらどうでも良い気がするのだが、他にするような事

も無い為に、取り合えずの目的とし、それを目指している。

 億劫ではあったが、権謀術数に浸るのは、そう悪い気分でもないようだ。

 鬼謀という言葉もある。人知を超えればそれもまた鬼であり、そうであるからには、それもまた心地良

い衝動である事に変わりはない。

 春末の勢威は増し続けている。それと比例して春宗の焦燥は昂(たかぶ)る。

 とても良い傾向であった。だがそれだけで満足するはずは無く。義風は間者を介して、春宗の焦燥を煽

り、不安を増大させ、春末への敵意を駆り立てさせている。

 それと肩を並べるように、春末には穏やかな統治と、新領土の復興に注意を向けさせている。

 あくまでも春末は知らない。知らぬからこそ被害者であり、被害者であれば同情を寄せられる。

 春末へ寄せられる好意を、もっと増さなければならない。

 その為には、春末は知らぬ存ぜぬ、あくまでも慈悲深く忠誠心のある男で居させる。兄への忠義、家臣

への慈悲、それを見せなければならない。その点春末は都合が良かった。何しろそれは彼自身が望む道で

あり、何もしなくても彼自身の意志でそうしてくれるからである。

 操るのは春宗だけでいい。ここで敢えて春末にまで余計な力を加えれば、不自然さが出、そこから綻び

が出る可能性がある。春末は良い手駒になってくれそうだ。

 加える場所と力は、出来るだけ少ない方が良いのである。誰にも知られず気付かれず、まるで天が運行

したかのように、望む場所へと事を運ばねばならぬ。最低限かつ、最適な力で。

 これもまた面倒だが、人の心をからかうようで、なかなかに楽しくも思える。面倒だからこそ楽しいの

かも知れず、それを推してまでやる魅力があると云う事かもしれない。

 ともあれ、義風は目的を遂げるべく動き続ける。

 目的を遂げる時も、もう間近に迫っているはずだ。

 間者からの報に寄れば、近頃春宗の危行(きこう)が目立つようになっているそうだ。憤懣(ふんまん)

耐えかねているのか、それとも膨れ上がった苛立ちが、もう抑えられぬ所まできているのか。

 春宗派の家臣達も、徐々に彼を見限り始めているようである。

 元々彼らも春末の手腕を買っていたのだから、今領地を得、その実権が増大している春末と、当主にな

ってから頼りない所が目立つようになった春宗、両者を比べ、どちらに利を見るかは明らかである。

 春宗派と春末派の対立も、両者に重臣が同程度付いたからこそ、初めて成り立った事であり。その権威

がどちらかに傾いていたとすれば、勝負以前に勝敗は決している。揉める必要は無い。

 そして敵対勢力間でも平然と寝返りや裏切りが繰り返されている昨今、春日部のような勢力を除けば、

お家内での派閥抗争などは、どういう変化を起こしても不自然ではない。

 どちらに属したとしても、円乃を盛り立てる事が肝心であり、結局はその為にこそ争っているのである

から。例え途中で変転すれば、初めからそちらに付いているよりも権威が得られないとはいえ、利が全て

消えるよりはましである。

 何より、御家の為という名分があるとないのでは、裏切りやすさに格段の違いがある。

 名分があれば、付く傷は少なくて済むし、自分の心も慰めやすい。

 そういう訳で、春宗のみが知らぬだけで、実は内々には家中のほとんどが、すでに春末派へと傾いてい

た。後はきっかけ次第である。何かきっかけさえあれば、もし春宗と春末の争いが表面化し、武力行使に

まで行き着くとすれば、おそらく現在の勢力図は一変する。

 当主交代前ならまだしも、今春宗が春末に勝てるとは、誰も思うまい。

 義風の目論見が順調にいけば、或いは春末一色に塗り替えられるという可能性もある。

 春宗は全てを間者へと委ねてしまっている為に、そのような状況に気付くはずが無かった。忠告するよ

うな忠臣も居らず、言わば春宗は隔離されているのにも似た、不思議な孤独の中に居たのである。

 周りにはいくらでも人が居るというのに、その誰もが関わらず、また春宗自身が彼らを遠ざけている。

 居るも居らぬも同じであり、全ては仲介となる間者の思うまま。春宗は手足をもぎ取られたも同じ。これ

ではいくら正常に頭が働いていたとしても、何も出来なかったであろう。

 例えその姿を衆目にさらしていたとしても、心を見せなければ、そして他者を受け入れられねば、そこ

に居ないのと同じなのだ。



 時は今、一体どれだけの人間がその言葉を想い、使い、どれだけの災禍を生み出してきただろう。

 この言葉が或いは人間の全ての事象を説明できるかもしれず。或いは全ての気持ちを代弁するかもしれ

ない。強いという以上に、神罰にも似た決定力を持つ言葉である。

 いや、これこそが魔が差したという現象なのだろうか。

 ともあれ、鬼には無意味な問いであろう。鬼はそれを起こす側に在り、それを感じる側には居ない。

 義風は執拗なまでに春宗を追い立てた。あらゆる手を使い、あらゆる感情を利用して、その心を何度も

何度も鉄針で貫くように、決してゆったりでも穏やかでもなく、確実かつ深刻に彼の心を追い立てた。

 家臣の心は離れ、今では民の間にすら春宗の危行の噂が絶えない。

 信じる信じない、頼みがいのあるなし以前に、皆春宗に危機感を持っていた。

 春匡を思い出す者も居る。もし春匡の死が・・ならば、そろそろではないか、という声も聴こえる。

 何がそろそろなのか。それを明言する者は、恐怖故に一人とて居なかったが、その心は確かに伝わって

いく。

 言ってみれば、皆がその時を待っていたのかもしれない。その時がどういう時なのか、どういう事にな

るのかは、はっきりと解らないが。誰もがそれが来る時を知っていた。必ず来るはずだと。

 その想いは春末へも向けられている。

 だが春末はそれに気付かぬ振りを続けていた。

 春末は頑固な所がある。生真面目という者もいるが、やはり頑固なのだと、義風は思っている。そこが

少し不快ではあるが、しかしそれがあるからこそ、彼を利用できるとも云えた。

 頑固という事は、執着心が人並み外れているという事でもある。

 拘るという感情は、やはり執着と言い換えても良いのではないだろうか。そしてそのような執着がある

からこそ、人を操れる。何かに拘るからこそ、人を動かせる。

 その対象は様々だが、もう一度言い換えれば、それは弱みである。弱さ、それを人の弱さと言うには、

少し残酷すぎる気もするが、その言葉には確かに一利ある。

 捨てたくても捨てられない執着、拘りがあるが為に、人はあれだけ自由に恋焦がれるのではないのか。

 しかもその執着は己自ら生み出し、己自ら勝手に絶対的なもの、或いは振り切れぬものとしているので

ある。自ら思い込み、自ら溺(おぼ)れる。そして最後には自暴自棄になり、ありもしない運命だの天命

だののせいにする。

 しかし考えてみればいい。全ては自らの責任、現状は当然の、あるがままの結果なのだ。

 それもまた自然である。人間が自然の法則の中に住む限り、決して不可解だの、不自然だの、そういう

事はありえまい。全ては自然であり、当然の結果なのである。いかにそこに夢を見たくとも、そこは現実

なのである。人は現実の住人なのだから。

 春末は自らの頑固さを、一体どれほどのものだと考えているのだろうか。

 それは義風にも解らない。解る事は、ようやく春末も春宗を危険視しし始めたと云う事だ。いや、そも

そもそう思っていたのかもしれない。口に出さないだけで、春末は人が良いだけの男ではないのだから。

 彼は夢も現実的に見ている。どうやらそうであるらしい。

 ひょっとすれば今の春末という存在も、彼が望んで演じている人物であるとも考えられる。

 だとすれば、義風が当初考えていたよりも、遥かに計算高く、食えない人物なのかもしれない。

 まあ、例えそうだとしても、高々人間の考える事など、鬼には無意味な事象ではある。

 今の義風にとって重要な事は、春末が悟っているかどうか、それだけだった。

 つまりは、時は今、望む望まないに関わらず、やるべき時がきてしまった、きたのだと、春末自身が考

えているかどうか。

 その期待には、どうやら応えてくれるようだ。

「春風、皆を救うには、やはり・・・・」

「殿、天命には逆らえませぬ」

「・・・・しかし・・」

「あの方には荷が重かった、それだけの事でございましょう」

 暫く放心したように宙を眺めていたが、最後には春末も力なく頷いた。

 春末も所詮は人間。

 義風は頭を垂れつつ、奇妙な顔をして哂っていた。

 さあ、仇討ちの時は、来たれり。




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