1-2.器用な男


 楓流(フウリュウ)、楓壁が連れ帰った子はそう名付けられた。

 勿論、竜から由来した名である事は疑いようも無い。他にも天から流れ着いた者、この世を流れる者、

大いなる流れを生み出す者、等々実に様々な説が唱えられているのだが。単純に考えると、竜からきてい

ると思うのが自然だろう。

 例え間違っていたにせよ。その名にどんな意味や由来があろうと、この物語にはさして関わりのない事

であるからには。これもまた一つの説だと、そのように思っていただければいい。

 この楓流なる男こそ、後に碧嶺と名乗る英雄の、最初にして最も長く使った名であり、生名とも言える

名である。もし姓名判断をなされるのであれば、これが最も適当な名であろうか。

 しかし最も馴染んだはずのこの名が、実は後世にあまり伝わっていない。一般の人で、この名を知る人

は十に一人も居れば良い方だろう。やはり碧嶺、または大聖真君の方が、広く知られているようだ。

 実際に楓流が碧嶺と名乗った時間は、彼の人生に置いて、さほど長くはないのだが。それだけ印象に残

る名であり、大陸統一という事業が如何に困難であったか、と云う事だろう。

 ようするに、彼が最も栄えた時の名が碧嶺だった、と思ってもらえばいい。

 そしてこれよりこの楓流という名が、一番多く文中で使われるだろう、と云う事だけを覚えていてもら

いたい。知名度を考えれば紛らわしいとは思うが、どうかご了承いただきたく存じます。

 楓流は幼き頃よりとても器用な子で、まるで砂が水を干すように、いくらでも知識と技術を吸収した。

 利発で打てば澄みきった音が返ってき、これ以上教え子として気持ちの良い人間はおらず。楓壁も持て

る限りの知識を与え、武芸から戦史戦略、或いは民間伝承、更には医学の初歩のようなものから馬の扱い、

木々の特性と、実に様々な事を教えた。

 最早楓壁という人格の全てを、丸々一個楓流に与えてしまったと言っても、誇大ではないかもしれない。

 楓流は生涯知識欲だけは旺盛だった人物で、進んでこの養父から知識を得。幸いにも、この時代には貴

重であった書物まで読む事が出来た。

 無論、一介の樵の倅(せがれ)が読めるような物は僅かな量であったが。楓壁は読書好きであったらし

く、それでも一般的に見れば驚異的な数の蔵書を持ち(これも風家との繋がりを考える根拠となっている)、

楓流は幼い頃から日々それらの書物を読み耽っていたようだ。

 哲学書から暦などを記した物、国の歴史や成り立ち、後は技術の書かれた物、数は多くはないが、その

種類は実に多岐に渡っていたようである。

 ずっと書物を読んで育ったせいか、或いは父の影響なのか、楓流は大人びて育ち、楓壁と並ぶと樵の親

子というよりは、まるで仙人の師弟という風に見えた。

 楓流は若者らしく、外で遊びまわる事も好きであった。

 毎日山野を駆け回り、家に帰れば本を読み、父から教えを乞い。後の碧嶺を形作った原型は、おそらく

この少年時代に出来上がったものだろう。

 そしてこの生活環境が酷く影響を与えたと思える。碧嶺が何処か超然としていたのは、自然と共に育っ

てきた名残のようなものなのだろう。

 自然は広大で過酷、それに慣れれば、人の営みなど些事に見えてもおかしくはない。

 それに書物の知識が加われば、何処か冷めたような、一歩引いたような、そんな仙人か隠者に似た人間

に育ったとしても、さほど不思議とは思えない。

 勿論、楓壁の影響も大きい。彼は子に対し、惜しみない愛情を注ぎ、前述したように全てのモノを与え

た。まるで自分が子の一部でもあるかのように、それはそれは深いものであったという。

 幼き頃よりの教育が、人間を形作る上で、最も大切な要素である。これを怠るか、真摯に接するか、そ

のいずれかで子の人生は大きく枝葉しよう。

 拾い子であった事もまた、逆に良かったのかもしれない。無用な期待を持たせず、親の希望を押し付け

ず、楓流は伸び伸びと育てられた。そう、正に竜の如く、天地に伸び伸びと育てられたのである。

 そして楓壁は子である流に対し、臣従するとまではいかないが、同胞以上の存在として、出会った時か

らいつもある程度の敬意を払っていた。

 子であるというよりは、やはり天からの預かり子だと考えていたのだろう。

 礼儀作法も竜王の名に恥じぬよう躾(しつ)け、幼少から敬意を持って育てた為に。楓流は名族の子弟

にも負けぬ気品と、英雄豪傑にも負けぬ不可視の威圧感を備えるようになった。

 王威、そう言い換えても良いかもしれない。自然に人が頭を下げてしまうかのような、当然のようにこ

の男を上座へ迎え入れるかのような、そのような独特の威圧感と気品を身に付けていたのである。

 生来の気魂の強さもあったのだろう。十四、五ともなれば、もう父が従者に見えるほど高潔で、そして

逞しく、悟りを啓いた賢人であるかのような眼力の強さをも身に宿していた。

 ここに置いて楓壁は、我が子の姿にいたく満足し、全てを教え終えたと見るや、ある朝子を呼び、この

ような事を言った。

「流よ、この山野は広大にして深遠、人たる我には過ぎる存在であれど、そなたにはしかし、この山野は

狭過ぎる。最早この父がそなたに教える事は無い。山野で学ぶべき事も無い。この家にある書物から学ぶ

事も無かろう。

 そなたは家を出るのだ。そなたは山野などで生涯を終えてはならぬ。このわしから巣立ち、山野から飛

び立ち、人を知るのだ、世を知るのだ。そしてあらゆる知識と経験を得よ。大地を統べ、大空をすら自由

にする、そなたは竜王。竜は空にこそ住む、山野になど留まってはならぬ」

「しかし父よ。私は貴方と離れたくはない」

 大いなる愛情と敬意を持って育てられた楓流は、この大きく誰よりも優しい父が大好きであった。彼は

いつまでも父の側に居て、共に山野を駆け巡ればそれで幸せだったのである。

 人里に興味が無いといえば嘘になる。書物から得た人の世というものを、我が身で実際に味わってもみ

たい。もっと多くの知識を得たいとの欲望もある。彼は若い、血は滾(たぎ)り、その身に宿す抗えぬ熱

量に、時として逆らえぬ時もあった。

 しかし、しかしである。それ以上に父を尊敬していた。父としてだけでなく、人間として敬うべき人物

であると、心より思っていたのである。

 これだけの愛情と敬意を持って育ててくれる人間など、一体この父の他、大陸のどこに居ると言うのか。

人の歴史を学べば、親子でも夫婦ですらお互いに身勝手に振る舞い、暇さえあれば憎悪し合っているでは

ないか。殺し合い、奪いあって、その手は血縁の血に塗(まみ)れているではないか。

 父を離れ、そのような業の中へ踏み入れたとて、一体自分に何があるというのだろう。

 それに古の賢人が言う所では、人はまず、親に孝を尽くすべしという。このまま老いる一方の父を置き

捨て、何故に自分だけが出て行かねばならぬのか。

 楓流は泣いた。後の彼から想像も出来ない事だが、彼はまるで幼子のように顔中を泣き濡らした。

 しかしそれでも父の考えは変わらない。彼は息子が竜王である事を信じ、その想いは強く、もう信仰し

ていたと言ってもいい。

 この息子を大事に育て、そして自らと山野から巣立つ時をのみ望んで生きてきた。今更その想いを翻(ひ

るがえ)す事は出来ない。

 例え人として受け入れ難き辛さであったとしても、天の命には逆らえぬ。この子は自分などが占有して

いい人物ではないのだ。竜も山野に居れば、ただの蛇。必ずや巣立たせねばならぬ。

「翔けねばならぬ。翔けねばならぬ。大空を翔かけねばならぬ。流よ、人の情と天意は時に合すれども、

真は似して決して相容れぬモノなり。さればこそ、古の賢人は人の情すら超えた所、そこにこそ天意あり

と仰っておられるのだ。

 自らの気持ちは大事なれど、それを天もが望むと思うてはならぬ。大陸がそれを望むと思うてはならぬ。

人の情より自らを解き放て、さればこそ初めて天を翔ける事が出来よう。天を知る事が出来よう。

 さあ、行け、我が最愛の息子。これがわしからの最後の教え。わしから離れる事が最後の教えであると

心得よ。行かねば最早父子の縁を切る。さあ、行くのだ。これをもって、そなたが居るべき場所へと」

 楓壁は用意しておいた荷物を、無理矢理泣きじゃくる息子の胸へ押しやると、年齢に合わぬおそるべき

強力で戸外へと押し出して戸を閉め切り。後はどれだけ息子が懇願しようとも、決して戸を開けようとは

しなかった。

 楓流は一刻ばかり涙も枯れ果てよとばかりに泣き濡らしていたが、父の決意を変えられぬ事を悟り、一

度だけ深く礼の姿勢(拳をもう一方の掌で包み、腰を落とし、頭を垂れる姿勢)を取ると、後は無言で涙

しながらも、人里への道を降りて行った。

 楓壁はこの後より完全に姿を消し、二度と人前に姿を現す事は無かったという。後に楓流が呼び寄せよ

うと人をやった時も居らず。懸命に探させたが。結局楓流でさえ、生涯父の姿を見る事は無かった。

 おそらく竜王が自分のような樵に育てられたと知られる事を、息子の為に恥じ、恐れたのだろう。人の

世で大きくなる為には権威がいる。人知を超えた何かが欲しい。その為に今自分が消えれば、人は楓流は

山神の化身にでも育てられたに違いない、そうでなければあのような山野に人が居る訳がない、拾い子を

育てようなどという人間が居る訳は無い、などと噂するであろう。

 竜王が人などに育てられてはいけない。神は神にだけ育てる事を許される。楓壁はその半生の全てを、

ただ息子の為だけに使った。

 平素より楓壁自身の記録を残そうとせず、むしろ消そうとすらしていたようで。楓壁に対する詳しい事

が、今の世に伝わっていないのは、その為であるのだろう。

 或いは本当に彼は、山神か仙人だったのではなかろうか。



 楓流は付近の人里へ下りると、暫くは農作業や細々とした物を作ったり、修理したりと過ごしていたが。

さりとて何をすれば良いかも解らず、とにかくも人の多い場所へ移ろうと決めた。こんな田舎ではとても

の事、人や世の中の事を知る事は出来まい。

 それに父、楓壁が得意としていた村人に世話になり、その村人が世話好きであったのか、父の人徳なの

か、驚くくらい良くしてくれたのだが。楓流はどうしてもこの村に馴染めなかった。

 楓壁もこの村人くらいした知人がおらず、楓流もあまり人付き合いをしない男であったから、素性のは

っきり解らない事も相まって、色々と暮らしにくかったのだろう。

 そこでとにかく礼として(微々たるものだが)稼いだ収入を全部世話になった村人へ贈り、篤く礼を述

べてその家を辞す事にした。村人はよほど楓流の事が気に入ったのか、細々と旅の注意を教え、少ない中

から衣服食料まで提供し、涙を流して楓流を見送ってくれた。

 そもそもこの村人が、涙を枯らして山から現れた楓流を拾ってくれなければ、ここで野垂れ死に、その

一生は終わっていたかもしれない。

 何せ楓流は父以外の人間と話した事が無く、人見知りをするような所は無かったが、とにかく人と付き

合う為の経験が足りなかった。

 それを懇切丁寧に人付き合いから村人としての暮らし方を教え、細々と世話してくれたのはこの村人で

ある。

 楓壁からいずれ自分の息子が降りて来るから、その時は世話をしてやってくれと頼まれていたらしいが。

それにしてもここまで親切にする事はあまり無い。

 ひょっとしたらこの村人も、楓流が竜王の化身であると、心から信じていたのかもしれない。

 ただ残念な事に、この村の事も村人の事も詳しい事が伝わってない。名前すら解らないのである。

 楓流の残した手記から、村人へ深く感謝している事だけは解る。後に父を探しに人をやった時、この村

人へもそれなりの礼物を持って行き、篤く礼を述べた手紙を渡させた事だけが、今となっては残されてい

る全てである。

 深く感謝していたに違いはないが。やはり父から離れた衝撃が強すぎて、楓流も村や村人への関心が薄

くなってしまっていたのだろう。

 まだその地は父の居る山に近い事もあって、気持ちを平静にするだけで精一杯だったと思える。

 ともあれ、楓流は村を出た。そして村人から教わった道を進み。獣を狩り、木の実を摘み、川や湖の水

を飲みながら、いつしか大きな街へと辿り着いた。

 しかしそこも暫くして飛び出している。

 その間何があったのかは解らない。ただこの頃は大きな街でも無法である事が多く。領主などは名ばか

りで、太守や地方官などが幅を利かせ、各々に争いあっていた時代。街中ですら治安の二文字は皆無に等

しく、逃げ出さざるを得ない事が一つ二つふりかかってきたとしても、何らおかしくはない。

 どこも物騒であり、余所者などが暮らせる場所は少ないのである。

 よほど人の出入りの激しい大きな都市であるか、どこぞの勢力に兵隊として雇われるか、どちらかしか

生きる道は無かった。

 街と街を繋ぐ交通路にも夜盗強盗の類が多く出没し、身を護れぬ商人や女子供などは、運び屋(後に虎

と呼ばれる傭兵団が出来たが、その前身と云われる)と一般に呼ばれる便利屋へ頼んで、護衛をしてもら

うのが当たり前になっていた。

 しかしこの運び屋というのがまた曲者で、油断していると人気の無い場所で彼ら自身が強盗に早変わりし

たりと、相当無頼な時代であったようである。

 それでも他に頼れる者がいないから、人は運び屋に頼むしかなく。民は困窮の極みに居た。弱きを喰ら

い、強きを滅ぼす、そのような気風と言うべきか。人は人と争う事に終始していたのである。

 楓流はその後も何年と街から街へ渡り歩いたが、このようなご時世に受け入れてくれる者はおらず、騙

され疎まれ、それでも最後にはこの運び屋に仲間入りする事が出来た。

 様々な場所を歩き、様々な苦難から逃れた為に、この頃には武術に似たようなものと、この大陸の地理

を多少ばかり得ていたのである。それはまさに運び屋として打って付けの能力で。逆に言えばそこに行く

しかなかったのだろう。

 楓流は持ち前の気魂からか、すぐに仲間内から一目置かれる存在となり、所謂(いわゆる)兄貴分とし

て立てられ。一年もするとその地域の運び屋の棟梁(とうりょう)とでも言うべき権威まで持つようにな

っていた。

 言葉少なで信頼でき、喧嘩も強い。その上知識豊富で器用に何でもこなす。これでは立てられない方が

無理と言うものだろう。

 彼は当時の人間としては珍しく、この頃から信義の二文字に拘った為に、当初は様々な所で揉めたらし

いが。それでも最後は認められ、付近では信頼できる運び屋として、知らぬ者のいない程にまでなった。

 仕事は次から次に入り、次第に仲間が増え、その中から幾人か気の合う者も出てくる。

 その内の一人で、もっとも楓流に懐(なつ)いた男、それが後に碧嶺旗下の上将軍となる凱聯(ガイレ

ン)その人である。

 この男は何せ気が短く、人の好悪も激しいという難しい人物であったが。それでも頑固なくらい真面目

であり、その点が楓流の好みに合った。信義の薄いこの時代、頑固なくらいの真面目さが丁度良いのでは

ないかと、彼はそう思ったのである。

 ただその代償とでも言うべきか、生涯短慮な所があり、楓流にとって様々な災厄をもたらす事にもなる。

 また、多少軽薄な所もあったようだ。

 結局は凱聯が碧嶺の帝国を滅ぼした最も大きな元凶であるとすら言えるが。そういう種になる事を楓流

は知った上で、最後まで彼を取り立てていた節がある。その理由は楓流にしか解らない。

 後に軍師として迎え、彼が居てこそ初めて碧嶺は碧嶺足り得た、とまで称される趙深(チョウシン)。

この冷静で人好みなどまったくしなかった男でさえ、生涯一度だけ凱聯はいずれ災いを招くぞと、直談判

するかの如く忠告したようだが、それでも楓流は聞かなかった。

 ひょっとすれば国を滅ぼすべく、わざとこの凱聯という男を残したのではないか、という説まであるが。

やはりよく解らない。凱聯に余人には解らぬ希望を見ていたのだろうか。

 ともかく楓流は凱聯をいわば腹心の弟分として取立て、二人で運び屋を大きくしていった。評判も益々

上がり、その名も少しずつ売れ始めた。

 しかしそんな事になってしまえば、その地を治める者は面白くない。楓流の他にも運び屋を営む者は居

る。その者達からしても、苦々しい存在であったろう。

 そして不満は増幅の一途を辿り、楓流の順調な日々は、当然のように終わりを迎える事となる。




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