1-3.流落


 突然それが起こったかといえば、やはりいつもそうであるように、予兆はあったのだと考えられる。

 しかし何もかもが順調にいき、いき過ぎた為に、幾許(いくばく)かの油断と、幾許かの慢心(まんし

ん)があった事は確かで。それによる心の弛(ゆる)みが、楓流から警戒心を取り払ってしまっていたの

だろう。

 彼の下に集う者達に、本より主義主張などがあるはずもなく。そのほとんどが単に楓流に今勢いがある

から、彼の所に居れば飢える心配がないから、それだけで来ているに過ぎない。そんな者達に警戒心や弛

みを糺す事を望むのは、初めから無理な事である。

 そうして気付かない、又は楽観視していた為に、それは突然訪れた。おかしな表現だが、当然に突然訪

れたのである。

 楓流からすれば、何もかもが突如(とつじょ)起きた事であった。

 不意に襲われたのである。運び屋の詰め所というのか溜まり場とでもいえばいいのか、ともかく楓流の

運び屋としての拠点に兵団が圧しかかり、武器を抜いて襲いかかってきたのである。

 後で知った事だが、その兵団はその地の領主と他の運び屋達が密談の上資金を出し合い、わざわざ他所

(よそ)から雇ったならず者達であったそうだ。

 しかしそんな事に思い当たる訳がない。楓流も若かった。少なからず戦闘経験はあるものの、このよう

にまさか自分の拠点に攻め寄せる者がいるなどとは、思いも寄らなかったのである。

 そう、まさか自分が襲われるなどと、一にも思ってなかったのだ。常に自分が護る側であった為に。

 確かに当時、運び屋同士の闘争(縄張り争いに似た)も相次いで起こっていたのだが。それにしても白

昼堂々とこのような山賊だか強盗だかが、真正面から襲いかかってきた例は他に無い。

 楓流は甘く見られていたのだろう。真面目なだけが取り柄の世間知らずであると。

 大体がここで新しい運び屋を立てようというのに、領主や運び屋仲間に挨拶金の一つや二つを持って来

ないとは何事であろうか。十も五つ六つ過ぎればもう子供では無いのに、良い年してその程度の事も解ら

ないのか。

 領主達からすれば、無礼極まりない男であった。

 そのくせ稼業が成功する。これは断じて許せない事である。思い知らせてやらなければならない。

 そんな風に思われても仕方ないかもしれない。確かに楓流は世辞に疎かった。その善悪は別として、世

間に対して器用ではなかったのだ。

 楓流は安心し過ぎていた。山より下りてから様々な苦難を舐めてきてさえ、まだ世の厳しさと怖さとい

うものを甘く見ていたのだろう。

 夢にも防衛の必要性など考えておらず、防衛準備のしていない建物などは頼むに値しない。不意を突か

れた仲間達は乱れに乱れ、各々で逃げ出し。楓流や仲間意識など初めから無かったかのように即座に捨て

去ると、後を振り返りもせず去って行った。

 中には当たり前のように裏切って、ならず者達の仲間に入った者までいる。

 楓流は孤軍奮闘したが、一人で多数に勝てる筈もない。仲間という括(くく)りの弱さに唖然としなが

らも、ほうほうの態で逃げ出し。ならず者達が付近の家屋にその魔手を広げ始めた事にも、何ら為す術が

無かった。

 彼は住民達が殺され、金品が奪われ、妻娘が犯されるのを目の前にしても、何一つ誰一人救う事が出来

なかったのである。

 この時の楓流の心に起きた衝撃、その衝撃の大きさは測り知れない。おそらくいままでに受けた無力感

の中でも、最も大きかった筈である。

 幾度も自問自答した事だろう。そしてその後も思い出しては、その度に答え無き問いに心をすり減らし

た事だろう。

 何故このような目に合うのか、一体何が起きているのか。この時の楓流には何も解らず、ただ凱聯に手

を引かれ、命からがらにこの場を逃げ出すしかなかった。

 助けを呼ぶ住民や仲間の声を後ろにしながら、逃げるしかなかったのである。

 彼もまた、全てを見捨てた。

 運び屋楓流の名声は無残に散り、この地には憤怒(ふんぬ)と怨嗟(えんさ)の声だけが満ちていた。

 ならず者達は略奪に夢中で、完全に崩れ去った楓流達などには目もくれなかったが、さりとて簡単に逃

げられた訳ではない。

 逃走路となるであろう付近の道々には、領主の手勢が待ち構えていたのである。

 何故ここまで楓流を憎んだのかは解らない。しかし確かに憎かったのだろう。一人として逃がすものか

とばかり、何百もの兵が待ち構え、次々と逃げ出す者達を斬り殺し、身包みを剥いだ。

 兵達にとっても略奪こそが大きな収入であり、統べる将も止めるどころか、むしろ自分から積極的に奪

っていた。時には部下を殺してまで奪う事もあったという。忠誠心や法制度などはあったものではなく、

力で奪う事、支配する事こそが全てであった。

 物に乏しく、乏しい物で満たすには、他人から奪うしかなかったとはいえ。真に惨い話である。

 生きる為だと正当化され、奪う事こそが正義とは言わぬまでも、正道となっていたのであろう。

 楓流と共に運良く逃げ出せた者は凱聯他数名、しかしその数名も途上で殺され、結局逃げ延びる事が出

来たのは、(楓流が知る限り)楓流と凱聯の二人だけであった。

 この日楓流は全てを根こそぎ奪われたのである。

 誰にも文句を言えない。直訴する場所も無い。奪われてしまえばそれまで。彼らが弱かったから悪い

のだ、彼らが愚かであったのだ。そう言われる時代である。助けは何処にも無い。

 惨たらしいが、他人に情けなどかける余裕は、ほとんどの者にはなかった。いや、それ以前に情けとい

う言葉すらなかったのかもしれない。

 楓流は何一つ言葉が出て来なかったが、それでも命が残っただけましであろう。とにかくも生きる為に

動き、凱聯と協力し合いながら草を喰らい、泥をすすり、何とか命を食い繋いで、途上で聞いた比較的治

安の良いらしい場所へと向った。

 どこもかしこも無法状態ではあったが、それでも力在る者の中には、弱まった国家機関をねじ伏せ、新

たな勢力となり、それなりの秩序を築いている者も居る。

 後の豪族時代の走りと云えよう。

 正統な支配機関である始祖八家が、双家ただ一家だけになってしまっている以上、それに代る勢力が現

れてもおかしくはない。むしろ自然である。

 豪族とはその有象無象の新興勢力の中でも、一応は組織の形をし、それなりにまとまりのあった勢力の

通称である。無論、後に楓流もこの豪族の仲間入りをする事になる。

 楓流と凱聯は、とにかくもこの豪族の一人の下へと向ったのであった。

 伝承によれば、凱聯が多少繋がりのある豪族であったとも言われている。



 豪族の名は孫氏であったとも、張氏であったとも伝えられているが。どちらであるか、或いはどちらと

も違うのか、詳しい事は解らない。

 楓流自身が明記していない所を見ると、この時代頻繁にあったように、短い期間に何度も党首が代替わ

りし、一々覚えている暇がなかったのかもしれない。

 そうなると凱聯と繋がりがあったという説にも無理が出てくる訳だが、まあ解らない事を考えても仕方

が無い。遠く過ぎ去った歴史など、本当の所は誰にも解りはしまい。

 楓流も個人的な自伝ではなく、あくまでも国家の歴史として記しているから、その手記にはあまり私的

な部分が触れられていない。よって細々とした事を知る術が残されていないのである。

 その手記が綿密にして詳細になっていくのは、あくまでも彼が一個の勢力として台頭して後であり、そ

れは実に楓流が三十という歳を得てからになる。

 昨今、彼を美化し、若き天才として描かれる話が多いが、実際に彼が動き始めたのは三十を越えてから

であって。大陸を統一するまでには、そこから更に三十年近い歳月を必要とする。

 当時で言えば、三十という年齢は老齢と言わぬまでも、若くはない。平均寿命も驚くほど短い時代であ

ったから、六十近い歳月を生きたと言うだけでも、驚嘆に値する話である。

 そしてその長い道のりの間に、幸福な瞬間が果たしてどれだけあったかも疑問であるとなれば。一体何

の為に人は生きるのか、生きる事に何か意味があるのか、子孫を残す事にどれだけの価値があるのか、様

々な不安にも思い至る。

 彼の人生は、後世言われるように、本当に栄光に満ちていたのだろうか。栄光の欠片でもあったと、当

の碧嶺が思っていたのだろうか。これらを思う時、私は、知らぬが仏、そういう言葉があった事を思い出

してしまう。

 知る事はそれほど大切な事なのだろうか。

 いや、蛇足であろう。

 良い機会だから述べておくと、碧嶺の容貌に対しても詳しい事は残されていない。

 大柄であった事は解る。様々な記録にそれが載っているし、まず間違いはない。その全ての記録を改竄

(かいざん)する事はまず不可能だろう。民間の間での話しでも伝わっているし、楓流はその姿を隠すよ

うな事はしなかった人物であるから、その点は隠しようがなく、隠す必要も無かったと思える。

 しかし驚くほど、その顔立ちに関する情報が少ない。

 彼に関する事柄のほとんどは、その威風と気品で済まされている。細々とした事を述べている者がおら

ず、そういう風に細かく観察する事すら憚(はばか)られたのか。それとも直視するのが怖い漢であった

のだろうか。

 どの記録にも、極端に眼差しの強さが述べられているから、考えられない事では無い。

 或いは特に書くべき特徴が無かったとも考えられる。その威風や気品に反して、さほど特徴の無い顔立

ちだった可能性もあるだろう。

 ある記録にはその顔は巌(いわお)の如くと書かれ、別の記録には真に気品麗しい生れ付いての貴い御

顔立ちである、などと記されている。彼の容貌に関する特徴で共通があるとすれば、眼差しが鋭い、強い

くらいなのだ。

 楓流はその体格から見ても、捨て子の多くが賦族生まれという事から考えても、賦族の血を宿していた

可能性はある。それに寄れば賦族の男子の特徴である、巌のような顔をしていた可能性も高い。

 さりとて、やはり決定打となる証拠が無く、断定は出来ないのが正直なところか。

 後に賦族と濃厚に関わった事を思い、楓流自身もどこか賦族に対して懐かしさのようなものを感じてい

たらしい事を思えば、彼が賦族の血を幾許かは継いでいただろう事は、間違いないと言っても良いかもし

れないのだが・・・・。

 まあ、いくら考えても、出てくるのは可能性と疑問だけである。解らぬ問いは置いておこう。

 ともかく、楓流と凱聯はある豪族の下へ身を寄せ。兵として志願し、その地で暫くの間平穏に暮らした。

付近でも力のあった豪族のようで、大きな争いなどは起きなかったらしい。

 だがそこも一年程してこの二人は出ている。その際の細々とした事情も、今までと同様解らない。

 ただし、今回は正規の手続きを得た上で出たらしく、その豪族にも気に入られていたのだろう、幾許か

の費用まで出してもらっている。

 仲違いとか、何か揉め事に巻き込まれて、ではなく。何かしらの事情か希望があったと思える。

 その後に勢力を築く第一歩となった拠点へ落ち着く事を思えば、その拠点から乞われて向ったのかもし

れず。何にしてもその拠点へ基盤作りとでも言おうか、腰を落ち着ける為に行った事は間違いない。

 楓流の軍隊組織の基本などが、一年間居た豪族のモノを本としている事を考えると、初めから豪族の下

で様々な組織運営法や豪族としての生き方を学ぶ目的があったと考えられ。一年経って学ぶべき所は学ん

だと感じ、出て行ったのだとすれば、無理の無い流れにはなる。

 勿論どれも想像の域を出ていないが。おそらくそんな所であったと思える。

 それはそれとして。この段階において肝要な事は、楓流がいつまでも自身を責めたり、後悔の海に沈ん

でいた訳ではないという事である。

 それよりもむしろ起こった不幸を教師とし、反省する事で全てを改めようとした。

 積極的に学ぶ姿勢を見せ、心にあった衝撃をも飲み込んでしまっている。

 楓流は確実に心の耐久力を備えていた。父、楓壁だけでは与えられなかった経験を、確実に彼は自分の

物としていたのであろう。

 勿論、その全ての衝撃が、完全に楓流から消えた訳ではない。

 しかしだからこそ、様々な経験を得た彼が、後にこの大陸の全てを、根本から変えてやろうと思い至る

心の動きに、素直に納得出来る気がする。

 逆に言えば、こういう様々な苦難があったからこそ、楓流は碧嶺という革命児への道を踏み出したのだ

と言えよう。偶発的にではなく必然として、後の碧嶺という存在は、この大陸に生れたのである。




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