1-8.胡姉弟


 帰途に着く際、楓流は胡姉弟を呼び、幾許かの金と食料を与え、後は自由にするように申し渡した。

 元々そうするつもりであったが、今はそうする理由に、この姉弟に対する愛情も加わっている。二人は

よく働いてくれ、少なくともこれまでは犯意を見せる事はなく、従順なまでに尽くしてくれていた。

 その好意の分だけ、渡した金品に含めておいた。本来一度買われた以上、買った人間の所有物であり、

褒賞のような物を考える事さえ稀であったが。楓流は一度として彼らを奴隷とは見なかったから、それも

当然の事だったのである。

 買ったというのは名目だけで、彼としては初めから雇ったという腹積もりだったのだ。

 勿論、これからの行程では今までと違って、人通りの寂しい場所も在るから、それに対する不安と。出

来れば良い関係のままで別れたい、という想いも底に無いではなかった。

 楓流はこの姉弟を好きになった事は確かだったようだが、好みと信頼とはまた別なものである。

 姉弟はこの申し出に驚いたが、弟の方は報酬を聞くと満足し、素直に喜んだ。やはり何かしら両親より

申し付けられていたのかもしれない。今まで大人しくしていたのは、信用させる為だったのか、それとも

単に機会がなかったのか、或いは良心の呵責だったのか。

 どちらにしろ、楓流の方からそう申し出てくれたのは、彼にとってもありがたい事だったのだろう。買

われずに済み、しかも金品までいただけるとなれば、これは願っても無い。

 楓流としても、素直に喜んでもらえれば嬉しい。もし姉弟の心底に謀(はかりごと)が隠されていたと

しても。実行さえしなければ、誰にもそれを責める謂(いわ)れは無い。知行一致、考えてもそれをしな

ければ、良い事も悪い事も起こらないのである。

 思考の中だけであれば、さほどの罪は無い。勿論、それも程度に寄るし、その想いを他者に覚られるよ

うであれば、また別の話になってくるのだが。

 ともあれ、これでお互いに不安が解決したかに見えた。

 しかしその時、何故か姉の胡曰の方が猛然と反発したのである。

 今までの自分達が至らないのであれば、どのようにしてでも満足いくようにするから、どうか自分たち

を連れて行って欲しいと、涙ながらに訴えてきたのである。

 これに楓流以上に驚いたのが弟で、何を言っているのか、これ以上この人に義理立てする理由は無いと

言い張ったが。どうしても姉の方が聞き入れず、暫し姉弟争っての口論となってしまった。

 この間楓流はといえば、黙って見ていただけである。自分が口を挟む余地は無かったと書き残している

から、おそらく余人が入り込めぬ程、激しい口論だったに違いない。また、彼自身も人知れず驚きに支配

されていたのだろう。まさか奴隷の方から好んで付いて行きたいなどと言うとは、誰が想像出来ただろう。

 そうして黙って口論を聞いていると、しばしば気になる台詞が聴き取れた。

「姉ちゃんがどう思おうと、俺には関係ねえ! 今までだってずっと大人しくしてやったんだから、これ

以上付き合う義理はねえよ」

「でもこの人は今までと違ったじゃない。それに私はもうあんな所には戻りたくない! 私達だって、も

っと好きに生きてもいいと思う」

「そりゃあ俺だってあそこは嫌だけど・・・・、でも仕方ねえじゃないか。あんなのでも親なんだから、

生れてしまったからにゃあ、仕方ねえよ!」

「親にならもう充分尽くしたわよ! それにこのまま居ても、来年、再来年には本当に売られてしまう。

それも多分、一番惨めな場所に・・・。それなら自分の気に入った人に付いて行ってもいいじゃない!」

「でも、でもよ・・・」

「じゃあ、あんたは残りなさい。私は行く、もう帰らない」

「ずりぃよ、姉ちゃん・・・・。俺独り帰ったって、きっと・・・・」

 この姉弟にも人知れぬ想いがあったのだろう。どういう扱いを強いられていたのかは察するしかないが、

貧しい村の暮らしは、それはそれは辛かったに違いない。楓流も同時代に生きる人間だけに、そう云う事

は何となく解る。

 それと同時に、この姉弟に対し、執着心が生れてきてしまった。

 どうやらこの姉の好意で、今まで楓流は無事でいられたようだし、それに対する恩義も感じた。例え彼

女自身の思惑もあったとはいえ、弟が親の言い付け通りにしようとする度、今のように言い包めてくれて

いなければ、楓流も無事でここまで来れたかは解らないのである。

 まともにやれば逃げる自信はあったが、彼らも謀るのは初めてではあるまい。経験を積んだ玄人から見

れば、あまりにも無防備であったはずだ。おそらく何度も機会はあった。

 それをずっと抑えてくれたのには、姉の並々ならぬ尽力があったに違いない。

 何しろ彼女達にとっては死活問題であり、家族にとっても飯の種、簡単に諦める事などは出来ないだろ

うし。何より人間一度決意した事を変えるのは、なかなかに自尊心が許さないものである。

 楓流の中に感謝する心が浮かんでしまう。一度浮かんでしまえば、それを払う事は難しい。

 その頃には姉弟の口論も、一応の終決を見ていた。二人の間では姉の方が強いらしく、最後には弟も不

承不承頷かされたようである。子を酷使する親よりは、それは長く協力し合ってきた姉を選ぶに決まって

いる。おそらくこの姉弟にとっての家族とは、この二人の姉弟だけなのだろう。

 その答えに、楓流も異議を唱える事は出来なかった。

 しかし自分達だけ好きに生きるというのも勝手な話だからと、弟は楓流が与えた金品を一度家へ持って

帰る事を条件に出した。

 姉は一度戻ればきっともう二度と自由にはなれないと、必死に止めたのだが、やはり弟の決意は変わら

ず、これだけはどうしても譲ろうとしない。

 無論、彼は姉も楓流も連れず、ただ一人で戻り、一人でやり遂げる腹積りだった。半ば死を覚悟したよ

うなその決意、心奮わされるモノが在る。

「私も行こう」

 そこで初めて楓流が言葉をかけた。どちらも失わずに済む可能性があるとすれば、それだけだったから

である。彼もどうしてもこの二人を帰したく、或いは死なせたくなくなっていたのだろう。

 この申し出に姉弟は再び驚きに目を剥き、今度は弟までもが行ったら何をされるか解らない、うちの家

族だけならまだしも、あの村全ての住民が、きっと貴方を帰しはしないと、必死になって諭そうとしたが。

楓流は、この弟以上に譲らなかった。

 三つ巴の口論は暫し続いたものの、忍耐強さで楓流に敵う者はそういない。最後には姉弟も受け入れ、

一度三人で例の村へと戻る事を了承した。

 時間は惜しいが、必要な事は、出来る間に、きっちり済ませておかなければならない。

 こういう時の楓流は、誰にもまして頑固であったらしい。そしてこの頑固さは、生涯変らなかったよう

である。



 三名は胡姉弟の村へと戻って来た。

 確かに遠回りになるが、かといってまったく別の道という訳ではなく、急げば本道から半日とかからな

い距離で、そういう事もまた楓流が足を伸ばそうと思った理由の一つなのかもしれない。

 彼としても集袁への心配が大きく、日々祈るようにして過ごしている。ただ彼がその感情を外へ見せな

いだけであり、もし何か道々不穏な噂でも聴いていれば、攫(さら)うようにして二人を連れ帰ったかも

しれない。

 逆に言えば、それだけこの胡姉弟を気に入ったという事だろう。もしかすれば恒崇の代りに、という想

いもあったのかもしれない。

 村内は胡姉弟の帰りを聞いて喜んだようだが、楓流も一緒という事を知ると、一転して訝しがったよう

だ。胡宅までの道で出会った村人達は、楓流を見て何やら小声で囁きあっていた。村ぐるみの陰謀という

胡虎の言も、満更大げさではないらしい。

 しかし楓流は気にしないようにして、あくまでも帰るまでに一度里帰りさせたという風を装って、来た

時と同様、終始堂々としていた。ここで無闇に警戒するような事をすれば、村人を刺激する事になろう。

「おお、よう帰ってござれた」

 胡夫婦は表面上だけならば、暖かく迎え入れてくれたように思える。

 いかにも人の良さそうな夫婦面をし、大げさなくらいに子供達の帰りを喜び、なんて心の広いお方だろ

うと、楓流を煩いくらいに褒め称え、あるだけの食料と酒を使って、彼をもてなしてくれる。

 どうせ今日限りの命なのだから、せめて最後の大振舞いと出してくれた事は明白であったが。さりとて

楓流は常と変わらず食べ、飲み、そして心から夫婦へと礼を言った。

 今夜は泊まってくれとの言葉にも、喜んで従い。その姿はどう見ても、胡夫婦と村人達を欠片も疑って

いないように感じられ、胡虎は驚かされた。言わば楓流は敵地に単身、しかもほとんど身一つで居るはず

なのに、これ程に落ち着き払えるのはどう云う事だろう。

 しかも間抜けな事に、人の為にその危険を負っているのである。生きる為なら何でもするような時代に、

何故こんな人間がいるのか。確かに楓流は今まで見てきた者達とは違った。

 後に聞いた話に寄れば、胡虎はこの時に初めて、自分の身を預ける事を決めたのだと言う。惹かれた、

と言い換えても良いかもしれない。

 宴は夜遅くまで続いた。しかし終わる時は自然に訪れる。

 一頻り場が盛り上がった後、酔い潰れた者からその場に横になり、それがお開きの合図となって、皆そ

れぞれに寝息を立て始めた。

 寝具とかいう贅沢な物は無い。寒かろうが暑かろうがその場にごろりと横になり、ただじっと目を瞑っ

て眠る。それが一般的な睡眠方法である。少し贅沢な家になれば、藁を敷いたり、獣の皮をかけたりした

らしいが。ほとんどの人間達は、そんな物を気にするくらいなら、それを売って食べ物に換えていた。

 何せその日食べる事すら追い付かず、他の事に回す労力がないのである。工夫すれば色々出来るのかも

しれないが、それに使う時間と労力が無い。何より気力が無い。

 客人である楓流も村人と同様で、そのまま床にごろりと横になり、寝息を立て始めた。疑う素振りなど

微塵も無く、村人の誰がどう見ても間抜けな男だと映っただろう。

 それを見計い、胡家族が目を覚まして、角に集まりひそひそと密談を始める。

 まず両親が事情を説明するよう迫り、胡虎が貰った金を渡しながら細々と説明した。しかしやはりと言

うべきか、両親はどうあっても聞かない所存らしく、胡曰も弟と一緒になって懸命に説いたが、両親はい

つまでも子供に反対した。どころか、その考えを不遜(ふそん)だとし、子供達が生意気な事を言うのも

楓流のせいだと言って、個人的な恨みさえ持ってしまう始末。

 いくら胡姉弟が説明しても、諭しても、両親は憎しみを増すだけだった。彼らには初めから他者の意見

など、ましてや子供の意見などは必要なかったのである。

 何を聞かされても腹立たしい。

 親からすれば子供は愚かであり、幼く甘く決して一人前に口を利ける存在ではない。子供はいつまでも

子供であり、いつまでも半人前、親に及ばない存在である。体がでかくなっても、様々な言葉を覚えても、

それはまったく変わらない。

 何しろ、子が年を取るのと同じだけ、親も歳を取っていく。年齢差はいつまでも変わらない。であれば、

それもまた当然の考えである。いくら子が老いても、親から見れば常に若いのだから仕方ない。

 しかも子は未だ十四、五である。見るからに子供であろうし、一人の人間であるなどとは真におこがま

しい。そして何よりも、自分の手から飛び立とうとする子供に我慢がならなかった。子供などはいつまで

も親の下に居て、親の言う事に大人しく従っていればいいのだ。その為に産んだのである。

 感情を抑えられなくなった胡夫婦は姉弟を殴り飛ばし、そのまま折檻(せっかん)を始めた。食い扶持

を増やしてまで育ててやった恩を忘れたかと、猛然と殴り蹴飛ばす。弟が姉を庇うせいで、その顔へ見る

間に痣が増え。それを見て今度は姉が弟を庇い、姉も同じだけ痣が増えていく。

 それでも親は止めようとしない。親に殴られるのが子の勤めであり、夫婦からすれば、それに文句を付

けられる筋合はなく、可哀相などとは微塵も思わなかった。自らが殴ってすっきり出来れば、それで良か

ったのである。その為に子供がいるのだ。

「止めろ!!」

 我慢できず、危険を忘れ楓流は跳ね起きると、夫婦以上の剣幕で夫婦に迫り、力一杯彼らを殴り飛ばし

た。そしてもう全て済んだとばかり、姉弟の手を取って、一目散に村から逃げた。

 騒動を聞いて村人が集まってきたが、楓流のあまりの剣幕と勢いに圧され、誰も彼らを追おうとはせず。

胡夫婦が伸びていたのを幸い、楓流達が持参した金品をまんまと奪うと、そ知らぬ顔でそれぞれの家へと

戻った。

 彼らとしても怒り狂う人間を追うよりも、そこで伸びている人間から奪った方が楽で確実なのである。

 翌昼になってようやく目覚めた胡夫婦がそれを知り、再び怒り狂ったが、最早全ては後の祭りであり。

結局子供も金品も、飯の種を全て奪われる破目となってしまった。初めから胡虎の持って来た金だけで満

足していれば、殴られ損とはならなかっただろうに。

 所詮餓鬼の行く付き先は、自滅しかないのだろう。全てを喰い尽した後、自らをも食べて死ぬのである。

 確かに報いはあった。 




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