1-9.存在は全て師なり


 楓流は集袁へと無事帰還した。恒崇を得られなかったのは残念だが、胡姉弟を得られた事で気分は慰め

られる。この姉弟は忠実で、多少危なっかしい所はあるものの、得がたい人材である事に変りない。

 姉、胡曰を身の回りの世話係とし、弟、胡虎を常に側に居させ、警護役とさせている。

 以前よりこういう役目が必要であると、集袁の住民達から薦められていた事もあり、特に誰に口出しさ

れる事もなく、胡姉弟は人々に暖かく迎え入れられた。

 楓流は指導者としては身軽すぎるきらいがあるから、常に側に居る者がいた方が、住民としても安心す

るのである。むしろ願ったり叶ったりといった風であったのかもしれない。

 それに人が集まり成長し続けている最中であったから、余所者も珍しくはなく、ある意味余所者だらけ

といった様子で、そう云う意味でも暮らしやすかったろう。

 幸い、楓流が出払っている間にも大した事は起こらなかったようで。少し驚いたのだが、不安だった凱

聯も、平素に似合わず慎重に物事を決め、住民達も驚くくらい自制して過ごしていたそうである。

 彼は彼なりに楓流の期待に応えるべく(最も楓流の方は大して期待などしていなかった訳だが)、懸命

に楓流を真似ていたらしい。その真摯と言える態度に対し、住民達の凱聯を見る視線にも、少しだけ重き

が加わった。

 楓流さんに付いているだけが能ではなく、凱聯もなかなか頼りになるではないか。そんな風に印象が変

わっている。これは嬉しい誤算といえた。

 結果として、全てが上手くいった事となるだろうか。たまにはこのような幸運もあるらしい。

 楓流も凱聯を少しだけ見直している。そして今まで凱聯に頼りなさを覚えていたのは、ひょっとすれば

楓流自身が凱聯に、そうする事を強いているような気配があったからかもしれないと、反省に近い気持ち

をも抱いた。

 後々までなんだかんだ言って、結局最後まで凱聯を側に居させたのは、この時に生れた感情があったか

らだろうか。

 もっとも、それで凱聯への不安が消えた訳ではないが。人は変われると云う事を、少しだけ理解出来た

のだろう。それが安心感に似たものとなって、少しだけ彼の心を和ませていた。

 楓流はこの時、敢えて任せる事でかえって人が成長する事もあると、学んだのである。確かにそれは賭

けであるかもしれない。しかし慎重にやるも、積極的にやるも、結局は結果は結果としてしか解らぬ以上、

本当はどちらも賭けである事に変わりないのではないか。

 どちらが良いという事ではなく、どちらも選んでも、可能性としては同じなのだろう。だとすれば大切な

のは、その場その場に応じ、一番良いと思える手を使う事である。どちらかに拘る必要は無く、むしろ拘り

こそが弊害(へいがい)となる。人も状況も変化し続けているのだから。

 これ以後、少しだけ楓流に運び屋時代の積極性と明るさが戻る。

 動と静、剛と柔、陰と陽、何事も両極があって一つであり、どちらに偏る事も、どちらかだけに頼るの

も、保たれた平衡を崩し、双方から成り立っている物を破壊してしまう。常に心を平静に保ち、平らな心

で眺め見なければ、この世をこの世たらしめている法を崩してしまうのである。

 万物の法である道、それを崩せば全ての現象は成り立たない。

 だとすればその道を求める中庸の理とは、どっち付かずではなく、双方がある為に初めて一つとして成

り立っている事に気付き、その最も自然である姿を求めるという事なのかもしれぬ。

 だからこそ中庸、どちらに傾いても成り立たないのである。

 だとすれば今までの自分は運び屋での一件から、知らず知らず考えが偏ってしまっていたと思え、楓流

は己を恥じた。如何に衝撃が大きかろうと、それもまた自分独りの問題であり、些事に過ぎぬのであるか

らには。そんな心構えで統治しようなどとは、真に恥ずべき事であろう。

 集袁は彼の所有物ではない。彼の心などが町人と何の関係があるだろうか。

 人は自分の経験しか判断基準が無いとしても、この世は自分の経験だけが全てではない。しかもその運

び屋時代の一件は、この集袁とは何ら関係なく、あのような目にあったのも、偏に自らが愚かだったから

である。

 ならばその愚かさに固執し、その愚かな自分の経験だけに従うなど、それこそが真に愚かではないのか。

 後悔、虚しい言葉である。後で悔いようと何も変わらず、何も生みはしない。それよりも再び悔いない

ように行動する事こそが、大事なのだ。

 楓流は先人達が残した戒めの言葉達が、今ようやく自分の心に染み入るように、少しずつ理解していく

のを感じた。それは錯覚だったのかもしれないが、彼の心に変化をもたらした事は確かである。

 父から教わり、子供の頃に読んた様々な書物の言葉が、今頭の中で煌くように、一つ一つ光彩を帯びて

いく。そして楓流は全てに対し感謝の心を持った。何と大きな恩恵を受けていたのだろう。何故今まで気

付こうともしなかったのか。全ては初めからそこに在ったというのに。

 生きると云う事は、全てから生かされるという事である。存在を許されると云う事である。

 今まで楓流が生きてこられたのも、実に様々な人や物が在ったからだ。今こうして人らしく生きていら

れるのも、周囲の人々がそこに居る事を許してくれているからである。

 それは愛情であり、敬意であり、そして共に生命であるという、大きな連帯感と親しみである。いわば、

楓流もまたこの大陸という一個の生命の一部なのだ。

 だからそこに共に居ると言うだけで、その生は許されている。

 自分の全ての愚かさが今まで許されていたのも、ただひたすらに他者からの(人間だけではなく、この

大陸にある物全てからの)大いなる愛と許しがあったからである。数え切れぬ協力があったからである。

 今ここに彼が存在している事、それこそが全てのあらゆる存在からの恩恵を受けた証明であり、それは

奇跡的な贈り物であった。

 そしてその奇跡こそが神であり、世界であり、森羅万象全ての結果である。生とは他者からの、多大な

る恩恵に他ならぬ。

 楓流自身もまた、同じように他者を生かしていく。許していく。或いは受け入れていく。全ては同じで

ある。お互いに関係しあわなければ、生命は成り立たない。

 だから時には恩恵ではなく、天災や人災も受けねばならない。この世はいとおしくも厳しい。

 まずこうした全てとの繋がりを知る事が、人を、この世を知る事の始まりなのかもしれない。

 精神こそが人の根幹をなすのであれば、今初めて楓流は人として生き始めたのだろう。その為だろうか、

この日以後彼の表情の中にも様々な変化が増え、感情が多彩になってきたように思える。

 そしてそれは、彼がまた一歩碧嶺への道を歩んだという事になるのだろう。彼は確かに何かを掴んだ、

或いはそう錯覚した。



 楓流は細々とした事を急ぎ片付けると、再び後を凱聯に任せ、胡姉弟を伴って、休む暇もなく袁夏の下

へと向かった。すでに使者を発して報告してあるが、やはり自ら出向かなければ、信用というものは得ら

れない。

 人へ与える印象、自分に対してこやつはここまでするのか、そういう印象が大切なのである。

 それに楓流には一つ思惑があった。今回の旅で得た人材、自称賢人の魯允という老人。この老人を、そ

っくりそのまま袁夏に進呈しようと考えていたのだ。

 確かにこの老人は知識だけはあるようで、使いようによっては得難い人材であるかもしれない。しかし

口ばかりで経験の無い智識がいくらあろうと、今の集袁には不要な人材であると言うしかない。

 気位も高く、それなりの権威を求めるであろうし、正直厄介者でしかなかった。冷静に考えてみればみ

るほど、そういう風に思える。解り易い御仁なのである。

 それならばいっそ袁夏に引き渡してしまった方が良いのではないか。見栄えだけはするから、きっと袁

夏は装飾品としても、この賢人を喜んでくれるだろう。

 その意をまともに受け入れるのか、あくまでも飾りとするのか、それは袁夏が決めれば良い事。例えそ

れで不祥事が起きたとしても、楓流には関係ない事である。

 もしかすれば彼の心には、袁氏の弱体化を遠大に狙う思惑があったのかもしれない。楓流は豪族達から

そういうしたたかさも学んでいる。そこまで考えるのは穿ちすぎだとも思えるが、可能性が無いとは言え

ない。

 見返りもすでに決めていた。むしろそれを貰う為に魯允を渡すのだとすらいえる。

 それは宝ではなく、一人の人間である。その名は奉采(ホウサイ)。袁氏の下級財政官のような仕事を

務めている。堅物と言われ融通が利かない所もあるが、その分しっかりと財布の紐を締め、浪費を防いで

いる。

 袁夏は元が元だけに剛腹を示そうと、やたら贅沢をしたりさせたりするが。その度に奉采が細々と上官

を通して意見をしている。その意に悪意が無く、また至極最もな意見だけに怒る訳にもいかず、袁夏は少

々扱いかねているようだ。

 ようするに袁夏は彼の価値を知らない。こういう堅い男がどれだけ役立ってくれる人材であるかを。な

らばそれと気付かれない内に、楓流がいただいてしまおうという訳だ。

 彼の力が得られるのならば、魯允などは百人差し出しても良い。奉采が居れば、楓流も随分楽になるは

ずだった。彼ならば、恒崇で埋められなかった穴を、充分に埋めてくれると思える。

 袁夏に会い、早速その旨申し込むと、想像以上に彼は喜び、沢山の褒賞をくれ。形だけはしぶったもの

の、結局は奉采にも餞別として様々な金品を与え、あっさりと渡してくれた。

 袁夏としては、賢人を得られ、その上厄介払いも出来る。正に一石二鳥であると思ったのだろう。

 奉采自身もほとほと愛想が尽きていたようで、快く集袁行きを了承してくれ。ここに万事めでたく楓流

の目論見通りに進む結果となった。

 魯允にはすでに袁夏の方へと向わせるよう使者を出していたから、程無くこちらへ着任する予定である。

 魯允としても、たかだか一つの町を統べる程度の楓流よりも、豪族として日々勢力を伸ばしている袁夏

の方が満足するだろう。彼も形だけは不満を述べるかもしれないが、それもまた彼好みの形式美である。

後々まで不満が残るような事は無いだろう。

 袁夏と魯允、似たもの同士、正にお似合いではないか。

 結局人の縁とはそういうことなのだろう。人はお互いに、何らかの類似点を求めて生きているのかもし

れぬ。似ている方へ、気の合う方へと、自然に足が向くものだ。落ち着く場所は大体決まっている。

 楓流は後は挨拶もそこそこに袁夏の下を辞し、胡姉弟と合流すると、そろそろ旅支度を終えているだろ

う奉采を迎えるべく、官士の集う宿舎へと急いだのであった。



 下級士の宿舎とはいえ、小さくはなく。袁夏の隆盛を体現するかのような、立派な建物であった。

 内部も掃除が行き届き、食事も一般的に見れば充分に豪勢で、楓流もその点に関しては、少々奉采に申

し訳なく思った。集袁も確かに賑わっているが、流石に袁氏とは比べるべくも無い。ここまでの待遇をさ

せる事は、どうしても無理であろう。

 しかしその危惧も、奉采本人に会う事で霧散した。

 噂通り、むしろ噂以上の人物で、無駄と華美を嫌い、彼はこの宿舎にもほとほと嫌気が差していたそう

だ。何故ここまで無駄に金を使うのか、どうして人はそこまで下らない華美や豪勢さに拘るのか、まった

くもって彼は理解できないらしい。

 彼も貧困の中で育ち、情念のように金を想った事もあった。成り上がりたい、金持ちになればと、そん

な事を一度ならず思った事はある。だから今こうして大きくなり、金を持てば、贅沢をしたいという気持

ちは解らないではない。

 しかし、しかしである。あれだけ金を想い、金を願っていたのにも関わらず、何故こうも当たり前のよ

うに浪費出来るのか。何故金を大切に出来ないのだろうか。あれだけ求めていたではないか。誰もが貧困

の辛さを知っていると言うのに、平然と浪費出来る事が信じられない。

 無駄はやはり無駄であり、繁栄の象徴としてそれを見せる事も必要であると知っているが、いくらなん

でも袁夏は資金を使い過ぎるのだと、奉采は出会い頭に楓流へ述べた。

 それはようするに、貴方もそうであるのならば、私はすぐさま暇をいただく、という意思表示であった

のだろう。奉采の目には隠者のような影が潜み、少々神経を使いすぎているように思える。人間嫌いにな

る一歩手前と言ってもいい。

 よほど苦労していたのだ。楓流は同情の念を心に浮かべた。無論、そのような感情を表に出す事は無く、

表面上は静かに彼の言葉に耳を傾けていたが。

 奉采は袁夏とは逆の意味で、少々金に対して執着心を持ちすぎているようにも思えた。だがそれはそれ

で良いと思える。大体が太っ腹な金庫番など、聞いた事がないではないか。それに彼は金の使い方も知っ

ている。必要な時にまで、渋るような事はすまい。

 今までに資金面の話が出来る相手に恵まれなかった事もあり、楓流は逆に奉采のような男が心地よかっ

たようだ。

 残されている手記には、ようやく少しだけ肩の荷が降りた気がした、と記されている。

 奉采の方も今までまったく自分の意見が容れられなかった為に、こうして素直にじっくりと聞いてくれ

る楓流という存在に喜びを覚え、好意を持ったようだ。

 こうして楓流は、三名の少しだけ腹を割って話せる相手を見付け、当初の目的を果す事が出来たのである。

 これで政務に専念するしかなかった今までと違い、空いた時間を他の事にも使えるようになる。不安に

感じていた軍備の事や、その他の細々とした事にも、やっと取り掛かる事が出来る。

 まだまだ人も時間も足りないが、集袁を堅牢な拠点と成長させる目論見に、少しずつ希望が見えてきた。

 それだけで楓流は満足であった。この時の彼には全土統一など思いもよらず。また自身が豪族となる事

すら、夢にも思えない事だった。彼がその野望にも似た夢を見るには、未だ暫くの時が必要となる。

 今はまだ、彼の瞳には、集袁という限られた情景しか映ってはいなかった。


                                                第一章 了




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