10-1.布志


 孫から一勝を挙げた効果が徐々に現れ始めている。勝利を収め、戦の興奮から解き放たれると、それが

確かな気持ちとなって実感され、じわりと心に滲んでくるものがあった。

 喜び、単純に言えばそうなのだろう。しかしそれはそれだけではない。心の芯が震えるような、激しい

歓喜。叫びだしたくなる想い。言葉では言い表せないこの奮え。孫に勝ったのだ、あの孫に。

 誰が想像できただろう、中央で完膚(かんぷ)なきまでに叩き潰された孫に勝てる日がこようとは。

 確かに借り物の力である。北方の力を借りて、北方の力で得た一勝。しかし勝利は勝利である。力を束

ねれば、圧倒的な筈の孫にも打ち勝つ事が出来る。これは言葉に出来ない大きなものを、彼らに与えてく

れた。

 しかし犠牲も多い。そしてまだ終わった訳ではない。この一勝もまた、そこへ辿り着く為の過程に過ぎ

ず、孫文(ソンブン)そのものに勝利した訳ではなく、あくまでもその力の一端に勝利したのみ。

 これからも激戦は続くだろう。

 だがようやく息がつけた事も確かだ。やっと少しだけ安堵し、一呼吸置く余裕が生まれている。

 趙起(チョウキ)は勝利して後、まず生き残った人数を確認し、傷病者の保護を行いながら、戦場に横

たわっている亡骸を丁重に葬(ほうむ)り。亡骸(なきがら)が身に着けていた武具で使えそうな物は、

敵味方関係なく、遠慮なしにいただいた。

 武具が足りていない訳ではないが、多過ぎて困る事はない。特に孫の使う武具は見事な出来栄えの物が

多く、そこから技術を学ぶ事もできるし、素材も良いので別の物に鍛え直して使う事もできる。

 物が恐ろしい程に消費される戦時中では、それは特にありがたい事だ。

 遠慮しなかったのは、物に対してだけではない。人に対してもそうである。

 民兵の中から使えそうな者を選び、その者が望むのであれば兵士として取立て。民、兵問わず、功のあ

った者には平等に恩賞を与えている。

 同時に罰も与える予定だったのだが、今回は該当するような者はいなかった。皆死力を尽くしてくれた。

褒めこそすれ、罰するような事はできない。こういう最上の状態で戦えた事が、勝利を呼んだのだろう。

 まだ戦が終わった訳ではないから、その都度恩賞を与えなくても良いのだが。趙起は兵の士気を高める

為、そして信賞必罰を印象付ける為に、小まめにそれを執り行う事にしている。

 戦死した者の遺族にもそれに報いる褒美を与え、特に褒め称えた。戦死者を褒め称える事は、将にとっ

て最も重要な事の一つである。

 そうであればこそ人は死をも厭(いと)わず、誇りを持つ事で死への寂しさにも耐える事が出来る。恐

怖を越える誇りが兵には必要なのだ。恐怖は強い感情であるが故に、それを抑える為にはより強い感情が

必要なのである。

 例えそれがきっかけに過ぎずとも、行動するには理由が必要なのだ。

 兵を確認し終えると、なんと全兵士の三分の二以上が軽くない傷を負っている事が解った。死者は案外

少ないようだが、傷の重い者は多く、あの一戦で計千五百もの兵力が失われた事になる。死者が、ではな

く、戦える状態に無い者が、という意味だが、力が失われたという意味では同じ事だ。

 民兵から新たに選抜し、守備兵に加えてもいるのだが。東城(トウジョウ)守備兵の被害も多く、その穴

を埋めるだけの余力は残されていない。東城は本当に全ての力を使い果たしていた。

 もし今孫の第二波が来たとしたら、おそらく耐えられなかっただろう。まさにぎりぎりの勝利であり、

運が良かっただけであるとも思えてくる。いや、実際そうなのだろう。むしろ斉孫が勝っていた方が、自

然だった筈だ。

 勝つには勝ったが、理想の勝利からはほど遠い。それもこれも趙起が見誤った為であろう。大将である

彼の判断が悪かった為に、孫文の影に無用に怯えていた為に、より大きな被害が出たのだ。それを言い訳

出来ない事は、彼自身が一番良く解っている。

 しかし自分には戦の才そのものが無いのではないか、などと嘆いてみても、今更将である事からは逃れ

られない。一度始めた事は、最後まで自分が見るしかないのである。誰も肩代わりはしてくれない。現実

を全て受け止め、強く生きねばならぬ。

 この勝利が幸せかと問われれば、そうではないと趙起は答えただろう。ただそうするしかないから、こ

れからもやるだけだと。

 集縁(シュウエン)として決起した時から、彼の運命は決まっていたのだろう。趙起は死ぬまでそこに

立ち続けるしかない。他の場所はもう残されておらず、そこにしか生きる道はない。

 だがともかく勝った。それだけは喜んでいい。しかも劣勢からの勝利である。この勝利は趙にとっても

北方にとっても大きな意味を持つ。

 それは変わらない。例えその実が、本当はどんなものであったとしても。

 趙起は暫く戦後処理に忙殺される。次の行動を起こす為には、趙深(チョウシン)からの吉報を待たな

ければならないが、それまでにやる事は山ほどある。

 孫将がこちらに来たという事は、趙深の方は手薄となっている筈だが、それは予測であって事実ではな

い。少数精鋭で楚(ソ)を攻め、趙深の方には質は落ちるがその分数で賄(まかな)おうと考えた可能性

もある。

 斉孫にどれだけの兵力があるのか解らぬ以上、予断で挑むのは危険である。例えここで勝利を収めたと

しても、それはそれだけの事であるかもしれぬ。孫の底はまだ見えず、もしかすれば趙深へ向けられた方

が主力である可能性もある。

 趙起が破った孫将が孫文から東方を預かっている将ではなく、別の将軍であるという可能性もあるのだ。

 不安は絶えず付き纏(まと)う。斉(セイ)へ放っている間者が戻ってくるまでは、趙深から使者が来

るまでは、はっきりした事は何も解らない。

 ともあれ、趙起はその役目を果たし、窪丸(ワガン)への道を確保する事が出来た。これで窪丸が補給

に困る事はなくなるだろう。援軍として出向いている楚軍もほっとし、後顧(こうこ)の憂いなく戦える。

 楚を安堵し、地盤を固めた今、出来るならばこのまま斉へ攻め寄せたい。だが今使える兵数はざっと二

千五百、疲労も回復しきれていない。この軍で斉を突いたとして、果たして思うような力を発揮できるの

だろうか。

 捕らえてある斉兵を軍に編入する、という手もあるが、不安要素の方が大きい気がする。彼らのほとん

どは、あの状況故に仕方なく孫に敵対した、という格好であろうから、再び孫軍を目にした時、その心が

どう動くかは解らない。混乱する心がどう動くかは誰にも見通せぬものだ。

 もし斉が変わらず孫に押さえ付けられているとしたら、彼らの心が孫へ忠誠を尽くすしかないと考えて

も、不思議ではない。

 彼らの心は空ろであり、であるからには、そこへより強い力を注ぎ入れた方に傾く。

 やはり趙深の報を待ち、斉の状況を掴み、その中で臨機応変(りんきおうへん)に動いていくしかない

ようだ。ようするに今出来る事は、楚を安定し、窪丸への補給路をしっかり保つ事であり、その先を考え

る事ではない。

 いや、一つだけやれる事があるか。

 趙起は捕らえていた兵の中から斉兵だけを選んで解放した。武装はさせていないが、食料と水、少しば

かりの金銭を与え、後は好きにすればいいと自由にさせている。

 このまま野党や賊に身を落とす可能性、楚領内で不穏な動きを示す可能性、などもあるが。もし彼らが

斉へ無事着き、そして彼らの心が少しだけ変化していたとしたら、その事が後に大きな効果を及ぼしてく

れるようになるかもしれない。

 孫の斉への影響力、支配力が今回の敗戦で薄れていたとしたら、この解放した者達が孫の支配体制を崩

す、楔(くさび)となってくれるかもしれない。

 趙起はやれる事を行い、後は趙深からの報を待つ事にしたが。その効果を逃さぬよう、軍の再編と出

撃準備を整えておく事も忘れなかった。



 それから一週間経ち、ようやく趙深から正式な使者が送られてきた。使者が持っていた書状によれば、

趙起が不安に思っていたような事はなく、やはり楚へ向けられた方が主力であったようで、趙深の方には

思っていたよりは少ない兵力が配備されていたそうだ。

 配備された兵も斉兵の方が多く、これは案外容易く抜けるのではないかと思われたのだが、流石に楚へ

の侵攻軍とは違い、彼らも自分の土地を護る事には必死でその士気は高く、趙深も迂闊(うかつ)な事を

して兵力を無為に消耗させる事は避けたいから、仕方なく時間をかけて落とす方針に変え、予定よりも時

間がかかってしまったらしい。

 しかし時間をかけただけの成果はあり、被害は多くなく、斉孫を撃破し、今はゆっくりと王都へと進軍

中であるとの事だ。

 斉の民も自分の街が孫から解放されれば、敢えて北方同盟とやりあう気持ちはないらしく、身の安全さ

え確保してやれば、孫へ義理立てしようとする者もいなかった。やはり斉の総意という訳ではなく、王族

高官、またはその一部の者達による独断で行なわれた事で、むしろ民達はそれを恨みに思い、孫にも良い

感情を持っていないらしい。

 彼らの心には変わらず姜尚(キョウショウ)がおり、姜尚による救いを待っている。

 それは当然の事だ。長らく侵攻され続け、家族を大勢殺されてきた孫に、例え王が何を言ったとしても、

はいそうですかと従える訳がない。その上、先の戦い方でも解るように、孫は斉に対し傲慢(ごうまん)

にふるまい、斉の民の感情を全く考えなかったというのだから、孫を慕(した)える筈がなかった。

 双軍の優勢を見て立ち上がろうとする町村も多く、孫の武力もまだ斉全土を掌握するまでには至ってな

かったようで、侵攻軍に使う筈の兵力を斉国安定の為に多く割かなければならず、その為に孫将も思うよ

うな手を打てなかった可能性がある、とも趙深は述べている。

 趙深はこのまま斉の民の動向を確認しつつ王都、営丘(エイキュウ)へと進軍し。孫の残存兵力に圧力

を加えながら、一挙に斉を制圧したいようだ。その為にも出来る限りでいいから、趙起にも軍を動かし、

斉孫を牽制(けんせい)してほしいと、最後に書き添えてあった。

 その事は趙起も考えていた事であるし、その為に軍の編成と準備を怠りなくやっている。趙深の進軍が

成功し、斉内部の力関係が変わりつつある今、このまま東城(トウジョウ)に兵力を留めておく意味は無

く、二つ返事で承知した。

 兵と楚に趙深軍の勝利を伝えて鼓舞し、その勢いを借りるように、即座に斉へと進軍を開始する。

 東城と楚の事は、項関(コウセキ)と李晃(リコウ)に任せておけば問題ないだろう。



 斉国との国境には少数であるが、まだ斉孫の守備兵が残っている。それは孫将の残党とでも言うべき兵

力で、多く見積もっても千かそこらであるが、油断はならない力である。

 千の兵がいれば、守備力としては侮れない。しっかりと防衛設備の整った拠点に篭られれば、手強い相

手となるだろう。こちらの兵力が衰えている今、それは尚更重くのしかかってくる。

 消耗戦はしたくなく、斉兵を揺さぶって寝返らせる策も考えたのだが、どうやらここには孫兵しか居な

いようである。

 傷病者も多いようであるから、それが理由に侵攻軍から外され、補給線確保に使われた、言わば二軍で

あるのだろう。傷病者ならば、本国へ送り返すのが無難であると思われるが、流石に生命線を斉兵に任せ

るような事は出来ず、楚は鎧袖一触(がいしゅういっしょく)に打ち破れると考え、一時的に彼らに任せ

たのだろう。

 そういう孫将の思惑は外れた訳だが。これから営丘までの主要な道には、こうした補給線確保の為の部

隊がいくつも配備されている可能性が高い。

 しかし逆に言えば、趙起の進軍を阻むのはこのような傷病兵だけであり、彼らを破れば、ここ一帯の支

配権を得られると言う事でもある。

 これは悪い状況ではない。残存部隊はあくまでも最後の抵抗に過ぎず、一つ一つの力は大きくない。無

理せず確実に潰していけば、孫の支配力を確実に削っていける。

 もしこの部隊が孫将が敗北し戦死した後、すでに意味を失っている補給線確保の為に力を尽くそうとせ

ず、散開して各地に身を潜め、遊撃隊としてそれぞれの部隊が独自に行動し始めていたら、斉制圧は非常

な困難となっていただろう。

 どこにどれだけの兵が潜んでいるか解らず、こちらの補給線を神出鬼没(しんしゅつきぼつ)にかき乱

し、折角解放した街を再び制圧する。そんな事をされていたら、趙はいつまで経っても進めず、途方に暮

れながら残存部隊といたちごっこをする破目になっていたかもしれない。

 残存部隊が、孫という誇りの名の下に、正々堂々と行動しようとしている限り、その力は脅威とはなら

ない。皮肉にも、誇りが孫の勝利を奪うのである。何事も一つのみを信じるのは、愚かと云う事なのだろ

うか。

 それを愚かだと言えば、あまりにも誇りというものに対する敬意がないとしても、趙起はそれを思わず

にはいられなかった。

 その命に無条件に従う。その命が意味を失っても、ただ従う事のみが正義となっている事の、何と悲し

い事だろう。そこには何の未来もありはしない。まさに亡霊である。失われた何かに囚われ続ける、過去

の住民。

 それを言えば、趙起達もいつまでも敵だの味方だの、ありもしない妄想に取り付かれた愚かな夢の住民

といえるのだが。例えそうだとしても、孫の亡霊に対し、いくらかの哀れみと、それより若干多い怖れを、

感じずにはいられなかった。

 残存部隊は士気だけは高いが、すでに戦闘能力の大半が失われている。趙起軍はそれらを着実に破り、

被害は全くないとは言わないものの、その勢いを増していった。敵を破れば破る程、軍というものの勢い

は強くなり、更に加速されていく。それはいつしか果てしなき勢いとなり、その勢いが生み出す大きな流

れには、神さえ逆らえぬ凶悪さが生まれる。

 孫軍の抵抗も、最早無力である。

 趙起軍は、遂に営丘にまで達した。この営丘を落とせば、北方の平定が成り、それによって東方へ侵攻

する力を得、中央からの侵攻を抑える力も増す。斉さえ押さえれば、孫相手に、初めて主導権を得られる

ようになる。

 窪丸の事も気になるが、今は余計な事まで心配している余裕は無い。白祥(ハクショウ)と楚軍を信じ、

趙深軍と合流、連携して営丘を落とさねばならぬ。




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