9-13.悲壮に在るべき


 待ち望んでいた時が訪れた。それは平素ならば決して望まぬ事であり、むしろそれを防ぐ為にこそ人は

戦うのだが。今はそれこそが反撃の狼煙(のろし)となる。

 外からでも目立って東城の抵抗が減っている事が解った。まだ何とか敵兵を撃退しているようだが、そ

れは最後の攻勢を仕掛ける為、斉孫が一時手綱を緩めているからであろう。孫将が後一声かければ、東城

は間違いなく陥落(かんらく)する。それは誰の目にも明らかであった。

 しかしそれこそが、その時こそが趙起の待ち望んでいた時。全ての趙兵が今では焦がれてさえいた、そ

の時なのである。

「出よ! 抑える必要はない、ありったけの矢を放て!!」

 趙起はそう命じた後、自らも矢のように外へ飛び出し、その心の勢いのまま渾身の力を込めて弓を引き

絞った。唸るような音を立ててしなる弓は、そのまま引き千切れそうにも思えたが、驚く程その責め苦に

耐え、その拷問とすら言える力を呑込み、己が力へと転化していく。

「・・・・ッ!!」

 声ならぬ叫びと共に放たれた矢は、大きな弧を描きながら何処までも伸び、中天を貫くかと思いきや、

俄(にわか)にその矛先を転じ、地上に蠢(うごめ)く斉孫兵に向けて、雷のように大気を切り裂きなが

ら降る。そして矢はまるで趙起の意志が乗り移ったかのように斉孫兵の一人を捉えると、大地に釘付けよ

とばかり容赦なく貫いた。

 次いで斉孫兵が驚く暇もなく、前隊から放たれた矢が雨のように降り注ぎ、あれほど彼らの中で勝ち誇

っていた、戦勝の高揚を一瞬で絶望へと叩き付ける。まるで天候が変化するように、それはあまりにもあ

っけなく、あまりにも無慈悲に行われた。

「全隊、突撃!!」

 そして雄々しく雄叫びを上げながら趙軍が一斉に突進する。その轟(とどろ)きに、流石の斉孫も気を

呑まれてしまったのか、呆然とその光景を眺めながらぼうっと立っている。。

 将と隊長が慌てて迎撃を命じたが、今度は左右からも矢が降り注ぎ、新たな敵軍が現れたという報が入

って、混乱が更に深まる。

 孫将とても、身近に居る兵を立て直すのが精一杯であった。

 自らの不甲斐無さ、そして兵のだらしなさに苛立ちが頂点に達するが、どうにもならない。

「馬鹿なッ!」

 孫将は采配として使っていた長大な手旗を我を忘れてへし折り、血が出る程に歯を噛み鳴らした。

 しかし流石は将を任される男である。そのまま苛立ちに流されてしまうのではなく、すぐさま状況を悟

り、対処を練って、次々に命令を下していく。

「最後の足掻きよ。今更何をしようと、我らの勝利は揺るがぬ」

 孫将は自ら剣を抜き放ち、孫に逆らうという愚か者に罰を下す為、掌握し終えた手勢を率い、誰よりも

早く迎撃に向かった。

 最早東城など一顧だにしていない。東城が風前の灯火である事は、攻めに攻め抜いた彼が、誰よりもよ

く解っているからだ。最早構う必要は無い。それよりも今倒すべきは楚の援軍である。確かに勝利に水を

差された形になったが、この援軍を叩き潰せば、楚はもう二度と逆らえないだろう。

 その上戦果も増す。これは一石二鳥ではないか。

 ならば良い。孫将は孫らしい実力を伴った傲慢さによってそれを許し、正々堂々正面から打ち砕く事を

決意した。孫を一時でも止めたのだ、その力は賞賛に値する。しかしこれまで。所詮何も変わらない。屈

辱ではあるが、死者の手向けとして認めてやろう。だから満足して、後はせいぜい派手に死ぬがいい。

「軍を反転させ、迎撃に当れ。最早東城に力無し。構う必要は無い。敵援軍に力を集中せよ! 手柄を得

よ、手柄を得よ。これは好機であるぞ」

 孫将は走りながら叫ぶ。

 しかしいつもならばすでに立ち直っている筈の孫兵の動きが、何故か今は鈍いままである。

 斉兵が足を引っ張っていたのだ。これが孫兵だけなら、確かにもう立ち直っていてもおかしくはない。

率いているのが孫文だったなら、そもそも大して動揺しなかったかもしれない。しかし今は斉孫入り混じ

り、その上率いるのは孫将である。例え孫文に見込まれた漢だとしても、孫文ではない。

 各隊長は斉兵を抑えようと躍起になったが、斉兵は混乱し、その命を聞かない。もし孫が負ければ、い

や負けなくともこのような失態を犯した今、この責任は全て斉兵の不甲斐無さにあると言われ、残してき

た家族共々、容赦なく殺されてしまうのではないだろうか。

 孫は逆らう者、役に立たぬ者に容赦しない。これでは例え勝ったとしても、先は決まっている。

 ならば今こそが好機ではないのか。楚など当てにしていなかったが、孫が崩れた今ならば(主に崩れて

いるのは斉兵だったが)、孫に勝ち、斉から孫軍を追い出す事も出来るのではないのか。

 このまま孫に従っても、身代わりにされ、或いは見捨てられて嬲(なぶ)り殺しの目に遭うだけだ。な

らばいっそ、ならばいっそ、行動を起すべき時なのかもしれない。

 話に寄れば劉陶からも軍が出ているとか。もしかしたらその軍勢が、斉を解放してくれるかもしれない。

備えの軍も東城攻めに使っている以上、斉に残されている兵力は減っている筈だ。

 もしかしたら、勝ち目があるのかもしれない。孫に勝てるかもしれない。

 斉兵の頭には様々な事が浮んだ。それを抑えんとする孫兵の声も、彼らには届かない。解るのは、何や

ら恐ろしい軍勢が、自分達に迫っていると云う事。早く決断しなければ、孫兵共々殺されてしまうだろう

事。恐怖だけははっきりと理解できた。

「斉など捨ておけ! 孫軍の力見せよ、我に続けッ!!」

 苛立った孫将は斉兵を捨てる事を決断した。どうせ居ても大して役に立たぬ者達だ。この忙しい時に役

立たずの面倒まで見ていられない。とにかく今は敵援軍を何とかしなければならない。斉兵の事など、こ

の戦が終わった後でいくらでも考えればいいのだ。

 しかしそう命じても、すぐに事態を変えられる訳ではない。孫と斉が入り乱れ、命令が聞けるような状

態ではなかったのである。

「オオオオオッ!!!!」

 喚声(かんせい)と共に趙軍が動きの鈍い斉孫陣へと雪崩れ込む。

 矢雨で混乱した所に、横背から突っ込まれたのだから堪らない。斉孫の陣はずたずたに裂かれ、乱れ、

混乱を一層深め、孫将が率いる部隊以外、その勢いを失ってしまった。

 孫将が腹立たしく後ろを振り返れば、付いてきている部隊がほとんどいない。特に左右に配した隊が無

様だった。敵軍の勢いは強く、驚くべき事に、孫軍を正面から押し切っているようにも見える。

 錯覚だと頭を振り、もう一度眺めてみたが、やはり劣勢であるという事実は変わらない。どこにそんな

精強な兵が居たというのだろう。

「いや、まだだ。まだこれからよ。劣勢など、孫の前では暇潰しにしかならぬ」

 孫こそが最強、この大陸で最も精強な軍団なのだ。その力の前には、何者も立ちはだかる事は許されな

い。すぐにぶち破ってくれよう。精々今だけは楽しんでいればいい。最後に勝つのは孫である。

 目を前に戻すと、敵兵は顔を視認できるくらい近くまで迫っていた。

「打ち砕いてくれる!」

 孫将は剣を掲げ、気迫と共に打ちかかる。

「奮え、奮えい!!」

 趙起も叫びながら孫将へ突っ込む。

 どちらも先陣を切って敵陣を突いた。自然その二人はぶつかる事になる。穂先同士がぶつかり合うよう

に、先端となる両者はその運命から逃れられない。

「自惚れるなッ!!」

「うぉぉぉぉぉオオッ!!」

 孫将と趙起がぶつかり合い、続いて兵達も正面からまともにぶつかり合う。

 趙軍が優勢である筈だった。しかし孫将の隊は混乱どころか、士気が全く衰えておらず、その顔にも敵

に対する怒りがあるのみで、戸惑っている様子はない。

 孫文ではない。確かに孫将は孫文ではないが、流石に大した統率力であった。率いる部隊に乱れなく、

闘気すら薫(かお)って見える。

 対して趙起率いる金兵はといえば、勢いに任せたはいいものの、どこか及び腰で、孫兵の前に竦んでし

まっているようにすら思えた。

 兵の質では勝負にならず。数も孫将の手勢との差はほとんどない。決死の一撃もこれでは効果が薄く、

力足りず逆に押し返される始末であった。趙起も孫将相手に良く闘ったが、一人二人善戦したとて、大勢

には変化が無い。

「怯むな! 退がれば死ぞ!!」

 趙起は懸命に鼓舞したが、一人一人の力でも劣っているのだ。勢いが削がれた以上、勝機は薄い。この

まま退がり続ければ、斉兵の迷いも断ち切られ、再び孫の手足となって働き出すだろう。そうなれば、趙

起に勝ち目は無い。

 彼の首は孫文への手土産とされ、東城も落ちる。終わりである。

 だが趙起は諦めなかった。それどころか、今こそ見せる時だと信じた。死を賭して戦う姿を、金兵に見

せる時であると。今こそ金兵の心を掴み、真の趙兵へと変える時。この窮地(きゅうち)も、兵を趙に心

服させる好機である。

 諦めれば死ぬだけなのだ。ならばいっそ。

「前で死ぬのみ!」

 趙起は敢えて一歩踏み出した。手勢と離れるのも気にせず、むしろ自ら望んで離れるように、また一歩、

そしてまた一歩と一人前へ出る。孫兵に囲まれようが、孫将が激しく打ちかかってこようが、なにするも

のぞ、なにするものぞ、と前進を続けた。

 将とは見せねばならない。命ずるだけでなく、あるべき姿を見せねばならぬ。そうして自ら見せてこそ、

兵は初めて将に従う。命を投げ出そうと思う。何の為かは解らない。ただその姿に心を揺り動かされ、そ

の心の底からの衝動が、人を死へさえ突き動かすのだ。

 それは感動と言えるのかもしれないし、気の迷いと取れるのかもしれない。しかしその衝動の強烈な事、

一体この世界の誰が、この想いに逆らえるというのだろう。

「我らが趙将軍に続け!」

 どこからともなくそういう声が上がり、金兵が活気付く。そして一人一人が発するその衝動は恐るべき

力へと変化し、孫兵すら圧する何かを生んだ。

 人が別のある者に変わる様を見る時、見る者の心の中には、異質な理解し難いモノへの恐怖と、変質へ

の狂おしいまでの憧れが浮ぶ。その二つの心が孫兵を打ちのめし、湧きあがる力を消し去ってしまう。

 すでに趙起は少数の兵と共に取り残され、孫が本気でかかれば容易く討ち取れる格好である。しかしそ

れが出来ない。孫兵は何故かその一歩が踏み出せない。

 それに趙起に付き従う兵の強い事といったどうだ。大柄で強靭な体躯と恐るべき膂力(りょりょく)。

これが本当に人間か。その前には確かに孫兵ですら見劣りする。本来なら返しの一撃で粉砕できた趙軍が、

今もまだ持っているのは、偏(ひとえ)にこの化物、鬼達のせいだろう。

 一体これは何なのだ。この大陸のどこにこんな化物が住んでいたのか。そしてその化物を率いる将とは

何者だ。

 ただでさえ死を恐れぬ賦族兵が、趙起の姿に感動し、湧き上がる衝動のまま刃を揮う。その数は少数と

いえども、孫兵の恐怖心を増大させるには充分であった。

「進めッ、進めッ!!」

 趙起の号令の下、鬼が襲いかかる。孫将も足を止めるしかなかった。最早誰も彼に付いて来ない。孫軍

の動きは完全に止まってしまった。

 そこへ金兵が盛り返し、圧力を加える。流れは急激に変化し始め、勢いが逆転していく。

 やはり孫文が居なければ、孫軍は本来の力を発揮する事が出来ないようだ。戦場で歩を止める事は、軍

が死んだ事を意味する。

 どんな力も勢いも、一度止まれば無力化する。人の勢いには慣性(かんせい)という便利な法則は働か

ない。断ち切られる時は、その場でばっさりと切られてしまう。

 しかもそこへ左右へ配していた賦族軍から百と斯が少数を割き、趙起の危機を救おうと援軍に現れた。

左右ではそういう余裕すら生まれている。

 孫将率いる部隊は、なまじ趙軍を圧した為に、陣から突出する格好になってしまっていた。それを左右

から来た百軍と斯軍が襲う訳だから、丁度趙起軍とで孫将部隊を挟撃する形となる。

 勢いが削がれた上に、こうなってはもう手の打ちようがない。

 しかし孫将もさる者。

「孫の意地、その目にしかと焼き付けよ!!」

 確かに孫文の意を宿す者であった。敗北、少なくとも自分の死は決まった。だがそこで臆するどころか、

彼の足は再び前へと動き出す。前へ、それは即ち趙起の方へ。

「オオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」

 孫将は喉も裂けよとばかり、まるで命そのものを吐き出すかのように、恐ろしい雄叫びを上げ、趙起へ

と単騎突撃したのである。皮肉にも眼前に迫る死が、その目を覚まさせたのだろう。孫将は本来自分がそ

うするべきであった事を今、澱(よど)みなく実行した。

 するとその声と勇姿に自分が何者かを思い出したのか、孫兵達も本来するべきであった事をする為に、

雄叫びを上げて将に続く。

 声と云う声、いやもはや何も意味せぬ、ひたすらに大きなだけの音と化したそれは、趙起達の足を竦ま

せた。しかしその決死の叫びでさえ、趙軍の勢いを完全に削ぐ事は出来なかった。

「今が潮ぞ! 我に続け! 我と共に死ね、死ぬのだッ!!」

 趙起はその声で全ての音を跳ね返さんとでも言うが如く、背骨を震わせ大音声を発す。長らく戦場で鍛

(きた)えられた彼の喉はその魂に呼応し、今までの人生の中でも一番大きく、けたたましい音を生み出

した。趙起は喉が焼け付くような感覚を覚えたが、一切の遠慮を捨て、潰れてしまえとばかり声を発し続

け、その声が枯れ果てると、孫将ただ一人を睨み、後はもう何も顧(かえり)みる事無く突撃する。

 趙兵も勇を振り絞り、それに続いた。

 将二人の意志が、三度激突する。

「貴様さえッ!」

 孫将が手にした刃を揮い。

「孫も永遠ではない!!」

 趙起が負けじと刃を揮う。

 その魂を意地と声に変え、二つの刃が一つ、また一つとぶつかり合い、そこに込められた魂が、冥府を

呼ぶ楽曲を奏で始めた。この忌わしい伴奏が終わった時、一人の雄々しき魂が天に、或いは地に召される

のであろう。

 将同士の一騎打ちを見守る余裕などなく、兵達もそれぞれに激しい闘いを繰り広げ、趙起と孫将の居る

一帯は死の音に満ちた。

 その他の場所も安穏無事とは言い難い。混乱が深まる中、斉兵の中から破れかぶれに趙軍に呼応する者

が現れ、孫軍に敵意を示したのだから堪らない。

 乱れに乱れ、最早誰がどこに居るのか、誰が敵なのか、味方なのかも解らない。

 幸いというべきか、孫兵の鎧兜は一目で解るように工夫されており(孫文の好みでもあったが、鎧の統

一もまた相手に畏怖を与える手段であるし、その質には十分に心が配られている)、見分けるのは難しく

なかったのだが。斉と孫が交じり合っている今、何の役にも立たなかった。

 初めは血迷ったたった一人の行動だったのかもしれない。しかしその行動が斉の総意とされ、孫兵が一

斉に斉兵へと襲い掛かる。敵にされた以上、斉兵も戦うしかない。そこかしこで同士討ちが始まった。

 だが趙起も孫将も、そして他の誰でさえ、そんな事を気にかけられる者はいなかった。今となっては誰

もが一人であり、最早軍対軍ではなく、兵対兵という個人と個人の戦に変わってしまっているのだろう。

「・・・・ッ!!」

「その程度の腕前でッ!」

 趙起が潰れた声で吼えれば、孫将も声を振り絞るように反撃する。戦場には声ならぬ声が木霊(こだま)

し、刃が生む音だけが乾いた響きを残す。視線は目の前の敵に貼り付けられ、ただ一人に返って殺し合う。

その恐怖の中で殺し合う。疑問を持とうが、持つまいが、ひたすらに刃を揮う事が絶対的な行為であり、

それ以外には認められぬとでも言うように。

 兵という仮面を被り、敵味方という錯覚を武器に、己が生を賭けて殺し合う。これもまた人の姿ならば、

なんと悲しい光景だろう。

 このまま永劫に戦い続けるかと思われたその時、ふと一つの声がした。大きな声である。それは一人で

はない、再び人を集団へと押し戻す、無数の人の叫び声。

 声は東城から聴こえた。東城は最早疲れきり、瀕死の状態にあったのだが。趙軍の姿を見、ここよりも

凄惨(せいさん)な外の世界を見、もはや脳も疲れきりおかしくなっていたのだろう、恐怖の念を呼び起

こさせる筈が、そこに現れたのは憐憫(れんびん)の情。東城という鎧なく、剥き出しの人間のまま外界

で戦う味方への愛おしさであった。

 東城の守備兵達は再び立ち上がった。今は座っている時ではない。いまこそ立ち上がらなければ、一体

我々は何の為に生まれ、生きてきたのか。ここで味方し、敵軍を追い払わねば、何の為に苦しい戦いを続

けてきたのか、解らなくなる。

 一人、また一人と彼らは立ち上がり、初めは弱々しく投石などを行う程度であったが、人数が増えるに

従い、徐々に激しさを増して、遂には武器を手に取り、一軍となって正門から打って出たのである。

 その中には多くの民兵も含まれていたが(むしろ民兵の方が多かったが)、今更そんな区別は必要なか

った。獣のような声を上げ、ただ一人の戦士となった彼らは、無秩序だが明らかな方向性を持って、一丸

となって突進したのである。

 そこに将は要らなかった。ただその心に従う事、それが人知を超えた統率力をもたらす。

 その勢いはすでに軍として機能しなくなっていた斉孫軍を崩すのには、充分過ぎる力だ。

 ただでさえ連日の戦いで斉孫兵は疲労していた。東城の抵抗、趙軍の意外な強さ、斉兵の裏切り、によ

って彼らの気力も費えていた。まだ優勢であれば良かったろうが、不思議な事に兵数が多く強勢であった

筈の孫軍の方が、今窮地に陥(おちい)ってしまっている。

 将は前線で孤立し、部隊長も指揮するどころではなく、自分の闘いに終始している。

 そこへ東城からの思わぬ反撃。最早戦意を保てという方が無理であろう。

 その波紋は戦場中へと瞬く間に広がっていく。

「何事だッ!」

 そしてそれが孫将まで達し、疲労故の油断か、迂闊にも背後を振り返ったその時であった。

「・・よ、・文ッ!!」

 掠れた声、最早声と区別するのも難しいその声と共に、孫将へと深々と刃が沈み込む。

「・・・・・・・ッ!!?」

 信じられぬ顔をしながら、孫将は全てを断ち切られたかのように、大地へ堕ち、虚しく血を流して力を

失う。流れ出た血は飽く事無く大地が飲み、肉体を土塊に戻す許しを与えるだろう。そしてようやく人は

大地に還る事が出来、安息の時を得るのだ。

 地と血が同じ音なのも、そこに深い繋がりがあるからだと思える。

 致命傷を負った孫将は、一つの骸(むくろ)に成り果てた。死ぬ前に何か言葉を発したようだが、それ

を聞き取れた者はいない。

「勝利だ 勝鬨を上げよ」

 喉から搾り出すようにして、ようやく言葉らしき音を発したが、小さすぎるその声では無意味と悟り。

変わりに趙起の剣と孫将から奪った剣を打ち鳴らす事で、はっきりと宣言した。

 それでも孫兵は逃げるよりも戦場での死を望む者が多く、その敗北ですら開き直りの糧とされたが、ど

れだけ抵抗しようと勝敗は決まっていた。

 最後には勢いに乗る趙起軍によって蹂躙(じゅうりん)され、趙起軍も手痛い反撃を受けながらも、遂

には制圧されてしまったのである。

 残ったのは傷付いた兵達と、望むか望まぬかは知らないが、運良く命を得た捕虜達だけ。

 ここに趙軍は、大きな一勝を得た。

 あの孫が言い逃れ出来ぬ、明らかな敗北を喫した。これは誰が思う以上に、大きな、大きな事であった。

趙にとっても、孫にとっても。いや、この大陸に住まう、全ての民にとって。




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