10-10.衛を得よ


 楊辺は宜焚(ギフン)という人物を紹介してくれた。宜焚もまた幼少の頃から川と共に生き、楊辺には

及ばないものの、地理や操船について随分詳しい。それに穏やかな人柄で人の間を取り持つ事が上手く、

彼に任せておけば大きな乱を招く事はないだろうとの事である。

 趙起も実際に会い、確かに楊辺が言うような人物だと感じ、舟や川に関する一切を任せる事に決めた。

 そして初仕事の日、宜焚は楊岱(ヨウタイ)という若者を連れてきた。名前でも解るように楊辺の血

縁で、彼の孫に当たるらしい。

 宜焚によると、確かに楊辺を今更重く遇する訳にはいかないが、楊辺はこの近辺では知られた存在であ

り、是非ともその名を側に置いていた方が良い。本人は無理としても、血縁の者を側に置く事で、水夫達

の心も少なからず和らげてくれる。この若者は勘も良いし、無鉄砲な所もあるが頭も悪くない。是非とも

使ってやって欲しい、との事であった。

 趙起もそう言われれば断る理由は無く、楊岱を常に側に置き、教育する事にした。第二の胡虎(ウコ)、

東方における腹心の部下にしようと考えたのである。

 趙起には軍事の面で百と斯という二人の補佐役が居るが、その他の面において片腕となる存在が居ない。

これから趙起のみで事に当たらねばならぬ機会は増えるだろうし、そうなれば必ずや雑多な事を安心して

任せられる存在が必要となる。地位と共に重くなった自分の代わりに、身軽に動ける者が要る。

 その存在とするにはこの若者が打って付けであるように思えたのである。

 無論、すぐに全幅の信頼をおける訳ではないし、そうなるまでには多くの時間がかかるだろう。でもだ

からこそ、今の内からそういう存在を育てて置く事は有意義な事だと思える。趙深がそうしているように、

趙起もまた、手足となる得る人材をもっと多く手元に置くべきだろう。

 見所がありそうな者を見付ければ側に置き、教育していく事にした。

 まずは楊岱を伝令として取立て、暫くは宜焚との一切の事に使う。伝令として使えば人の目に触れる事

も多くなり、それが結果として楊岱を重く用いているという印象を水夫達にも与えてくれるだろう。楊岱

が優遇されれば、彼らも悪い気がしない筈だ。

 こうして地盤を固めつつ、衛陽への再出撃の準備を整えている。

 今度こそ落とさなければならない。同じ失敗を二度も繰り返すようであれば、東方に覇を築く事など、

夢のまた夢である。



 趙深に無理を言って急ぎ物資を揃えてもらい、必要な物が集まるとすぐに趙起は出陣した。

 率いる兵数は二千、斉からの援軍を千加えて質は高くないが。平望から出る斯軍には

賦族兵が居る。彼らの力が補ってくれるだろう。

 それに趙起軍は川舟で強襲するのが役目であるから、難しい事をする必要はない。訓練不足もさほど問

題とはならないかもしれない。ただし斉兵はまだ舟に慣れていないから、その点の不安が残る。斉兵をな

るべく大型の舟に乗せ、その不安を少しでも削げるよう図ってみたが、効果があるかは解らない。

 趙起の指揮能力が問われる。

 舟の編成については宜焚が上手く整えてくれた。乗員数やその内訳も彼と相談して決めた訳だが、実に

細かく気配ってくれ、最後にはこれ以上無いという形にする事が出来た。宜焚を紹介してくれた楊辺には

感謝せねばならない。確かに頼りになる人物である。

 平望との連絡もすでについている。前回の衛陽攻めと基本は変わらないので、今更くどくどと説明する

必要もない。前回の失敗を教訓にし、考えられる限りの配慮は済んだ。

 全ての準備を整え、平望から進軍する斯を待つ。斯軍と上手く足並みを揃え、今度こそ成功させねばな

らない。



 斯軍は順調に進軍しているようで、趙起は一先ず安堵し、舟に軍を乗せ、自軍を衛陽へと出発させた。

 数が多い為常よりは時間がかかるだろうが、順調に行けば二日、三日で到着する予定である。二日前辺

りから天候が崩れ、今は止んでいるが昨日は雨が降り、川の水量が増している。流れは増水した分強くな

っており、気を付けなけばならないが。浅瀬に乗り上げる心配は減り、船足も出るだろうから、上手くい

けば移動時間を短縮出来る可能性がある。

 速くなればなったで作戦が狂う事になるが、多少前後する分は構わない。どちらがより早く到着しよう

とも、二つの軍が到着する時間が離れていなければ良いのだ。それに前回の戦で衛陽にもこちらの作戦を

覚られているだろうし、過大な効果は期待していない。

 恐れるべきは川に何かを仕掛けられる事だが、間者からの報告ではそういう新たな動きはなかったよう

である。無論、前々から何かを仕掛けている可能性があるから、充分に注意しなければならないが。

 一応偵察艇として数隻の舟を先行させている。何かあれば察知してくれるだろう。

 舟で大軍を送る事は始めてと言って良く、不安をどうしても拭いきれない。操船も船頭任せであるし、

いつも人の命を預かる側であった趙起には、他人に命を預けて待つという経験が少なく、そういう意味で

の落ち着かなさもあった。

 表面上は冷静を装っているが、趙起もまた怖い。それは他の者達と何ら変わらないのである。彼もまた

当たり前の人間なのだから。

 祈るように川面を見詰めて進むと、その祈りが届いたのか、単に船頭の腕が良かったのか、無事に衛陽

まで辿り着く事が出来、その姿がはっきりと見えてきた。風に恵まれなかった為、期待した程の速度は出

ていないが、その分安全性は増したと言える。ともかく無事に着いたのだから、文句は言うまい。

 川風に遮られ音は小さいが、人の声も聴こえてくる。剣戟の音が伝わり、大地から川に響くかのように

無数の人間の足音が揺れる。

 趙起軍も順調だったが、斯軍はそれ以上に速かったようだ。趙起軍が時間を合わせるようにしていた為、

斯には迅速な行軍のみを命じておいたのだが、それが予想以上の効果を発したと言う事か。斯の胆力に富

む心が恐れを抱かせず、真一文字に猛進させたのだろう。その度胸の良さは趙起など足元にも及ばない。

ただ攻めさせるという事において、趙起の知る限り、彼以上に上手く行える者はいまい。

 前線指揮をさせれば群を抜く。その点だけなら、或いは孫文に並ぶかもしれない。

 対する衛陽軍は先の戦で懲りたのかしっかりと門を閉ざし、徹底して篭る構えのようだ。斯軍を迎え撃

撃つ姿勢もどこか及び腰で勢いが感じられない。遠めに見ているから正確な判断は出来ないが、そういう

雰囲気は何となく察せられる。

 趙起軍が衛陽の背後を突けばこの状況が更に強まり、勝機を生む事が出来るだろう。攻め返す気のない

兵を攻める事は難しくない。何か策があれば注意すべきだが、そういう様子もなさそうだ。

 前回容易く追い返せた事といい、衛陽の将は凡庸とは言わないまでも、名将とは言い難い。北方攻めを

預かっていた孫将もそうだが、あまりにも孫という名を頼りにし、細やかさに欠ける所がある。

「ならばこちらも余計な事をせず、正攻法で攻めるが上策か」

 来るべき時に備え、趙起は戦法を決した。余計な事は、常にするべきではない。



 趙起軍が川から衛陽へと雪崩(なだ)れ込む。

 物を積み重ねて桟橋が封鎖されていたりと申し訳程度の備えがしてあったが、そんな物は大した障害で

はない。舟さえ無事に着けば、悠々と侵入出来た。

 趙起軍を気にすれば前門から斯軍に侵入され、斯軍を気にすれば趙起軍が侵入する。衛陽軍には両軍に

対処出来る力がなかった。これも先の一勝が効いているのかもしれない。兵達に敗北感が濃厚に残ってお

り、将にもそれを払拭出来るだけの力はない。これでは勝てる訳がない。

 打って出れば負ける。また策にかかる。そのような不安を拠点に篭る事で誤魔化そうとした時点で、彼

らは負けていたのだろう。

 陸と川の二点を突いた事も予想以上の効果を挙げている。これほど効果があるとは正直考えていなかっ

た。だからこれと同じ事を栄陽に行われていたらと思うとぞっとする。

 川は栄陽から衛陽へと流れているが、それは船旅にかかる日数を増すだけで、弱点を消す事にはならな

い。栄陽もまた二点から攻められれば、持ち堪えられる可能性は低いだろう。

 桟橋を焼き落とし、川を石などで完全に塞いでしまえば良いのかもしれないが。川が生命線である以上、

そんな事をすれば遠からず自滅する。

 民も黙っていまい。民の不満を買えば水夫達にされたようなとんでもない目に遭う。故にそういう乱暴

な手は取れず、衛陽も申し訳程度に封鎖するくらいしか出来なかったのだろう。

 栄陽も同様の理由で乱暴な手を使えない。以前栄陽奪還軍が進軍してきた時、陸のみから攻められたか

ら良かったものの。もし川路を使われ、上手く連携されていれば、落とされていたかもしれない。

 今から思えば、何と運の良かった事か。自分が行ってみてよく解る。川に依存するが故に、そこを突か

れる事の何と脆い事か。どれだけ重要であろうと、依存し過ぎる事は危険である。それが無ければ成り立

たないと言う事は、それが最大の弱点であると公言しているのと同じ。

 今回はたまたま勝つ側に居る事が出来たが、今この立場が逆であったとしてもおかしくはない。

 宜焚と相談し、川からの侵入に備え、根本的な対策を立てておかなければならない。栄陽にしろ衛陽に

しろ、考えていた以上に脆すぎる。まるで今まで川から侵入される事を想像もしていなかったかのようだ。

 もしかしたら川を軍の輸送に使うという発想自体が無かったのか。衛一帯は越のように川が無数に走っ

ている訳ではなく、陸にも広い道があるから、わざわざ大軍を舟で送るなど不経済極まりないと考えてい

たのかもしれない。

 確かにそれは有り得る話だ。それなら軍船が造られていなかった事にも頷ける。

 衛にも大型の舟は少なくないが、あくまでも物資運搬舟であり、人が大勢乗るようには作られていない。

孫が東方を統一した事によって、防衛への関心が薄れた事もあるだろうが、それを考慮するとしてもあま

りに手薄である。やはり元来備えをしていなかったと考える方が当たっているように思える。

 早急に手を打っておく必要がある。軍船の建造も急ぐ必要があるだろう。そうなれば越の技術を取り入

れるしかないから、船頭や水夫達と良く話し合う事も必要だ。川と防衛に対する意識を変えさせなければ

ならない。

 拠点を得たとして、仕事が増えるだけで楽にならないのは、東方でも変わらない。いつになれば楽にな

るのだろう。孫を倒した時か。いや、孫を倒せば次は西方が居る。北方も一枚岩ではないし、双にも油断

ならない。

 一体いつまで苦悩すれば良いのか。まるで果てしない。

 やはり誰かがこの大陸の全てを手中に入れるまで、この状態が続くのであろうか。だとすれば趙起もま

た考えなければなるまい。

 ただ敵を倒す、孫を打倒する、西方を討つ、というのではなく。この戦いそのものを終わらせる為には

どうすれば良いのか。それを考える時期にきている。

 趙の力が増している今、孫打倒の現実味が増してきた今、これからの事をもっと色んな角度から考える

必要があるだろう。力が増した分、その使い方にもより注意を払わなければならない。

 衛陽を得た事で、趙起も一地方を束ねる力を得た。中央に勢力を持っていた時と同程度の力を得たと考

えていい。集縁(シュウエン)のように決して裏切らない力ではなく、不安の残る力ではあるが、単純に

勢力として考えるなら、ほぼ力を取り戻したといえる。

 後はここを双ではなく趙の支配地と出来るようにし、いずれあるだろう変事の前に、しっかりと地盤を

築いておかなければならない。

 その為にも、まずは東孫である。双が趙に頼りきっている間に東方を平らげ、孫文に勝てるだけの力を

付けなければならない。以前はとても敵う相手ではなかったが、少しずつその尻尾を掴めてきている。雌

伏の時も終わるだろう。

 人の噂にも孫を危ぶむものが増え、以前と逆転とは言わぬでも、大きく情勢が変わっている。

 趙深の策を藁をもすがる思いで実行してきたが、まさかここまで来れようとは。人の世というものは解

らぬものである。



 衛を得た事で、趙起ははっきりと東方にその存在を知らしめた。最早近い内に滅ぼされるだろう存在で

はなく、確固とした一勢力である。認められたというよりは、認めずにはいられない、と言った方が正確

なのだろうが、どちらでも同じ事である。彼が再び力を得た事は間違いのない事実であり、東方を統べる

事が不可能な未来ではなくなった。

 衛陽、栄陽、平望の民達も、はっきりと恭順の意を示している。未だ孫への警戒というべきか備えは怠

らないようだが、趙起を王として考え始めている。人によって程度に差はあるが、支配者として疑問を抱

いてはいないようだ。

 孫に飼い殺しにされている勢力への影響も大きくなっている。趙起が願い、そして彼らを動かせるだけ

の状況を作り上げれば、彼らは趙起に応えるだろう。勿論従順にではないが、その力を趙起と共にすれば

小さくないモノになる。

 夢想とも思えた趙深の大戦略もはっきりと道が見え始めた。

 趙起は北方連合から許しを得、あくまでも名義上と偽って衛という国を建国している。これは形として

は復興であるが、実質、建国に等しい。双の一臣下でしかない趙起が建国などと、これは馬鹿馬鹿しい話

であるが。しかし確かに東孫と戦う上で足掛かりになる場所が必要であったし。それが国というはっきり

した姿を取るのであれば、より良い物となるだろう。

 国といっても北方の属国という扱いであるし(双だけではなく、北方の全ての国よりも下に付くという

意味で)、東方の民を慰撫する為にも独自の国を造り、それを牛耳る方がより安定するだろうと思え、北

方諸国も強い異を示さなかった。ただしあくまでも、現段階においての暫定的な措置、として許したに過

ぎない。

 だからこのまま趙が領土を増していけば、双、越、楚といった国は当然危機感を持つだろう。彼らにも

何かはっきりした恩恵を与える必要がある。衛という国、東方に趙が覇を築けば彼らにとっても良い事が

あると見せなければ、彼らを黙らせる事は出来ない。

 趙深、趙起共に手持ちの軍団をすでに私物化し、将兵の心も取り込んでいるが、名義の上では借り物の

ままである。将兵も北方連合という後ろ盾が居るからこそ、安心して趙に従っているのだと言う事を、忘

れてはならない。

 今はまだ、全てに配慮する必要がある。完全に趙の軍とするには、多くの時間と力が必要である。

 趙起は衛に縁(ゆかり)のある者を探し出しては積極的に登用し、なるべく高い地位を与えた。勿論、

実権は趙起が握るとしても、飾りとしてそれなりの地位と名誉を与えなければならない。軽くても高けれ

ば人はそれなりにありがたがってくれるものだ。

 幸いにも重臣の血族を見付けたので、その中から民の同情を一番受けている者を王に据え、首都を衛陽

とし、取り合えず国としての体裁を整えた。

 これならば北方諸国も衛の民も、大きくは文句を言えないだろう。後は従順を装い、善政を敷いていけ

ば、彼らの不満も解消されていく。

 趙深の法を基にして、更に衛の法を尊重しているという制度を作る事は困難だが、それが必要な事は楊

辺との一件で骨身に染みている。

 趙起の東方侵略もこれからが本番である。東孫も衛という国が生まれた事で不安をよりはっきりと抱き、

孫文の干渉も強くなるだろう。

 孫の第二波に耐え得る力を付けなければ。

 今得ている領は東方の五分の一程度だろうか。東方は広く、総力では変わらず東孫が圧倒的で、勢いは

趙にありといえども、油断すればすぐに潰されてしまう程の差がある。

 これからが本当の戦いである。西方、中央ですでに死力を尽くしている者達の為にも、必ずや勝利し

なければならない。

 趙起は両頬を叩き、目に力を入れた。

 まだ何も終わってはいないのだ。始まってさえ、いないかもしれない。




BACKEXITNEXT