11-1.傀儡の国で


 衛を手に入れてから一月。趙起(チョウキ)は領地安定と軍備増強に力を注いでいる。民も新しいやり

方に順応しつつあり、後数月もすれば変化した生活も日常へ変わると思われる。反抗の意志が完全に消え

た訳ではないが、反抗する事に大きな利を見出せず、反意は強くない。

 つまりは心に幾らかの不満を抱きながら、それでもまあ仕方ないと思い従っている。常と変わらぬ民の

姿であり、そういう意味で落ち着いたとは言えるだろう。

 物資の運搬と交易を再開した事により、ある程度は衛だけで賄えるようにもなっている。他の東方の街

と交易出来ぬ為に北方の援助も必要だが、孫が蓄えていた物資も残っており、衛だけでもいざとなれば動

く事が出来る。何度も遠征できる程の蓄えはないが、攻め込まれても一月は持ち堪えられるだろう。

 戦による一時的な物資不足も解消され、ようやく衛一国としての能力を回復したと云える。完全とは言

わないが、一国としての力は得た。

 だがそのようにようやく落ち着きを見せた所へ、東孫の本軍が動いたという報が入ってきている。趙の

間者は東孫の奥にまで達する事が出来ない為、その報が入ってきたと言う事は、すでに準備は終わり、衛

へ進軍している最中である事を意味する。

 その規模は大きく、準備を充分に整え、趙に対する油断もなく、孫文の命の下、確実に滅ぼしに来るよ

うだ。兵数はざっと二万。衛が動員できる兵数の約三倍という数で、まともにやればとても勝てる戦では

ない。孫文(ソンブン)不在なのは変わらず、孫兵も弱体化し、最早完全無欠の軍団とは言えないが。そ

の力はそれらを考慮しても衛に比べれば圧倒的ですらある。

 趙起が衛を平らげている間、目立った動きを見せなかった事からも察せられるように。衛を諦め、それ

よりも充分なる力を蓄える事に集中し、今本来あるべき孫の力を揮おうとしている。

 趙起も衛を得た事で相当の力を付けたとはいえ、これ程の戦力差は如何ともし難い。ここでもし鮮やか

に勝利を収めるような事が出来れば、東孫は完全に瓦解しその力を失うだろうが。それは夢物語であると

思える。

 今までもぎりぎりの中で喘(あえ)ぐようにやってきた。孫も苦しいだろうが、趙はそれ以上に苦しい。

限界というなら、趙の方にこそある。ここは欲を出さず拠点に篭りながら各拠点と連携を取り、敵軍を攪

乱(かくらん)させながら時間を稼いで東孫を疲弊させ、大軍を動かす事による圧倒的な消費を続けさせ

る事で東孫の懐を費やし、敵軍を退かせるしかない。

 今までは攻めに回っていたが、再び守りの番と言う訳だ。幸い東方は南北に長く、軍の規模が大きけれ

ば大きい程衛到着までに多くの時間がかかる。その報が入ってくるくらいだから行程の半分は過ぎている

としても、その軍が到着するまでにはまだ半月から一月はかかるだろう。その時間を上手く利用して防備

を堅め、迎え撃つ準備を整えなければならない。



 限られた時間を最大限に使い、防壁を強化、拠点間の運搬路も整備し直し、輸送隊や守備隊の編成を終

え、武器を揃え、出来るだけの事はしている。充分とは思えないが、これで駄目なら何をしても駄目だっ

たと思えるくらいには仕上げた。

 北方から少しでも多くの兵を送ってもらい、あるだけの金を使って兵を募り、特に衛内に居た賦族で健

康そうな者をなるべく多く集め、趙起は何とか一万を越す兵力を掻き集めている。

 栄陽、平望(ヘイボウ)にそれぞれ三千。衛陽(エイヨウ)に五千。これが今揃えられる最大の兵数で

ある。しかし急ごしらえの軍では勿論質は高くない。集めた賦族も戦闘訓練を積んでいないからには、そ

の強力(ごうりき)も宝の持ち腐れ。趙起が統治するようになって賦族にも配慮されているから彼らも感

謝しており、軍では賦族兵が優遇されている事も知って子供っぽいがそれ故に邪気のない野心を抱いてい

る者が少なくなく、士気は高いとすら言えるのだが、訓練不足では兵として二流でしかない。

 大陸人の兵などは言わずもがな。北方にも練度の高い兵が残っておらず、趙深もなるべくましな者を送

ってくれてはいるが、どう言い繕っても三流、良くて二流がせいぜいである。

 その中でも精鋭を選び、予定合戦場である衛陽に集めてはいるのだが、斯と百を栄陽軍と平望軍の指揮

に回さなければならないし、趙起一人で御するには余りにも大きな数だ。複雑な作戦を取らないのであれ

ば何とかなるのだが。相手が二万もの大軍、それも孫が本腰を入れて揃えた軍となると、衛一帯を落とし

した時のようにはいくまい。果たしてどの程度まで思うように戦えるだろう。

 紀(キ)侵攻時から居る生え抜きの兵の中には優秀に育っている者も多く、訓練さえ満足に積めていれ

ば充分に動かす事も出来るのだろうが。二流、三流の兵をどうしても交えねばならない以上、指揮官とし

て訓練された斯と百の助けがない事は、非常に厄介である。細かな動きに支障が生じ、部隊間の繋がりが

薄く感じられる事だろう。

 時間がなかった為、人材を育てる事が出来なかった事が悔やまれる。しかし嘆いても仕方がない。迫り

来る孫軍も兵質が最良ではないのだし、孫文が居ない以上、最大の力を発揮する事も出来ない。つまりど

ちらも同じ弱点を持っている。ならば泣き言は言うまい。

 だがそうは言っても、条件が同じであれば数の多い孫の方が有利である。防衛拠点の利を差し引いても、

孫の方に大きな利があろう。その不利を埋める方策を練る必要があった。

 難しいが、方策が無いではない。

 今回は攻めるのではなく、守るのが目的である。必ずしも敵に打撃を加える必要はなく、東孫が限界を

迎えるまで耐えられればいい。

 大陸全土で戦が行われている今、二万もの軍を新たに動員すると言う事は、東孫全土を空にすると言う

事である。つまり残る全ての力をこの一戦に賭けているという事であり、その分各地の守備兵も減らされ、

相当な無理をして物資を集めたであろうし、各地では様々な物が不足している事だろう。

 これは孫としても賭けである。はっきりと孫文は無理をしている。まだ窪丸攻めを諦め、軍を引き、そ

の分を東方の兵力に回したというのなら解るが、相変わらずの三方面作戦、無理が無理を呼び、孫も悲鳴

を上げている筈である。

 確かに様々な不都合が生まれている今だからこそ、弱みを見せるのは得策ではないと考えたとしても、

やはり孫文が焦っているとしか思えない。

 本来の孫文ならば、余裕のあった頃の孫ならば、今も冷静に大陸全土の戦況を眺め、西方大同盟が最大

敵国である以上、西方から兵を引くのは無理としても。窪丸と東方を比べ、東方を重視すると考えれば、

窪丸から潔(いさぎよ)く兵を退き、三方面作戦という無理を続けない筈である。

 無理せず、奇策よりも正道を好み、誰もが納得する力を持ちて正面から明らかに敵を滅ぼす。それが孫

のやり方だったのだから。

 西方と窪丸に軍を出し、その上で北方侵攻も企てるというような無茶をやり、失敗した挙句、再び東方

に大規模な軍を起こさせるとは、あまりにも愚かである。孫文の力を持ってしても、それは不可であろう。

 東方の孫信仰が衰えている今、それは尚更無理な話。如何に孫という国が強大であろうとも、そこまで

の力は無い。そこまでの国力は持ち合わせていない。

 一体どうしたのか。これもまた孫文らしくないやり方だ。収まりがつかなくなり、意固地になっている

としか思えない。

 もし考えられる事があるとすれば、この二万の軍は張子の虎であり、実の無い力、見せ掛けだけの数合

わせの軍隊という事が考えられるか。数の威をもって衛を圧倒し、趙を怯えさせ、それによって趙にもあ

る歪と無理を大きくさせる。つまり脅しである。

 それならば確かに効果はある。趙も無理をしている以上、その効果は少なくない。しかしそれは肉を切

らせて骨を断つような力ではない。下手をすれば自滅する方策であろう。脅しに屈するのは覚悟なき者だ

け。孫文も趙起が覚悟している事は知っているだろうに、もしかしたらまだ侮っているのだろうか。脅せ

ば屈する程度のものだと、趙とはその程度のものだと、まだ孫分は考えているのか。

 違う。孫文は誰であろうと実力があれば軽視するような事はしない。北方侵攻軍を破られた上、衛まで

取られてしまっている。これでは趙の力を否定できない。正当に評価せざるを得ない筈だ。

 ならば狙いは趙ではなく、民だろうか。民心を揺さぶる為に大軍を発した。

 それならば解る。孫文の民への影響力は強く、その事が孫という国の原動力にもなっているのだから、

再び孫が大軍を持って押し寄せれば、民は容易く靡(なび)くだろうと考えてもおかしくない。衛を奪わ

れてからまだ間もなく、今であれば民心を動かして蜂起させる事も難しくはないだろう。王も後ろ盾とな

る民の総意を失っては、力を失う。民心を奪う事で衛を無力化させるという策は、決して悪くはない。

 だがそれは見込み違いと言わなければならない。確かにそう考える事は尤(もっと)もな事で、実際効

果のある事だろう。しかし衛の状況は変化している。もう孫文の知る衛ではなくなっているのだ。孫文の

居る場所がやはり遠すぎる。もっと衛の変化を身近で感じる事が出来ていたら、それが出来る方法があっ

たのなら、孫文も別の考え方をしていたに違いない。

 そう考えてみれば、変わったのは孫文ではないのかもしれない。孫文は変わらず無理を避け、当然の理

由によって勝利を得ようと考え、実行している。

 それなのに今孫文が無理をしているように見えるのは、おそらく知らないからだ。得るべき情報を得て

いない。孫文が変わったのではなく、情報不足からくる判断の誤りであり、そればかりは人の能力を超え

たものと言える。

 この距離という壁だけは、人の能力も及ばない。

 詳しい情報を伝達する一番早い方法が早馬を飛ばすくらいであった事を考えれば、如何に孫文であって

もどうにもなるまい。東孫から孫文へ情報が伝わるまでの時間、そしてそこから更に東孫へ命令が返って

くるまでの時間、その時間差が全ての歪の原因となっている。

 その場を知らなければ、その場に居なければ、的確な判断を下す事は不可能に近い。

 ならば、それこそが趙起が突くべき所、趙の勝機であろう。

 それに東方を空にするとなれば、光ってくる存在がある。

 二万の軍勢は圧倒的であるが、決して越えられぬ壁ではない。諦めなければ見えてくるモノがある。



 趙起は民心に気を配っている。幸い、今の所大きな動揺はないようである。これも趙起が初めから民の

気持ちを考えて統治してきた成果だろう。

 孫文もまた民には遠慮せざるを得ないのだから、積極的に孫へ敵対する姿勢を示さず、仕方なく趙に味

方していた、という態度でいさえすれば、例え孫文が勝って再び衛をその支配下に置いたとしても、趙式

に変わっていたものが孫式に戻るだけの事で、民にとってはさほどの違いはない。

 だからどちらが勝つかと心配する必要はなく。孫軍に略奪される事も考えられないのだから、今更不安

に思うような事はないのである。民とすれば流れ矢に当たらぬよう、じっと家に篭っていればいい。さす

れば嵐が過ぎ去るのを待つように、いずれそれも晴れるだろう。

 そういう風に言わば民が開き直る事の出来る統治こそ趙起の目指したものであり、彼の目論見は大きく

成功したと云える。民の積極的な支援は諦めるしかないが、その代わりにいざとなっても強い反発が起こ

る事はない。ずっとこうでは困るが。短期的に考えれば、これは非常に具合の良い事だ。

 負ければあっさりと民は趙起の下を去り、全てを失ってしまうという事も意味するが。孫軍襲来に合わ

せて武装蜂起する可能性を抑えられる事は、それ以上に利がある。防衛戦において最も目を配るべきは外

ではなく内であり、内からの裏切り又は自壊によって落とされる事が多い以上、内部の乱を抑えられる事

は、敗北の可能性をぐっと下げる事に繋がる。

 それを考えれば多少の不利などは何でもない事だ。

 趙起はこうして内に目を向けながら、しかし外へ手を伸ばす事も忘れていない。

 具体的にいえば東方内で飼い殺しにされている勢力との接触である。

 東方に三つあるこの勢力達はそれぞれに大きく切り離されており、その全てと繋がるには趙の支配域は

小さ過ぎるが。その内の一つ、北西に隔離された緑(リョク)という勢力ならば衛と繋がれる距離にある。

その力は小さいものの、上手く使う事が出来れば大きな力となってくれるだろう。

 他の二勢力にも使者は送っておいた。東孫の守備力が低下している今、衛が二万の大軍を引き付け続け

る事が出来たなら、二勢力にも行動を起こす余地が生まれるかもしれない。距離がまだ遠い為に大した成

果は得られないだろうが、今から接触を試みておいても損はないだろう。

 今はそれが例え可能性だけであっても、いくらでも手が欲しい時である。やれる事は全てやるべきだ。

 衛一帯を得、東方に王権を確立した今の趙であれば、その言葉にも現実味が生まれる。今は聞いてくれ

ずとも、その言葉は必ずや後々に何かを残してくれるに違いない。

 趙起は使者と間者を何度も発し、東孫と共に三勢力、特に緑、の動向を具(つぶさ)に窺う。



 使者と間者からの報に寄れば、緑内では距離が近いだけに衛という国の復興による影響が大きく、今こ

そ衛に味方し、共に孫を討つべしとの声も日増しに高まっているそうだ。しかし緑という勢力の力は小さ

く、その事を危惧する者が多く。未だ趙は衛一国を得たのみで、孫と比べるには値しない、ここは慎重を

期すべきである、という論も強く残っており。現在の緑は二分したまま終わらぬ議論を続け、結局は情勢

の変化を待つ、という最も人間の集団が陥り易い状態にあるようで、積極的な協力は今の所期待出来ない。

 つまり、力を借りたいのであれば力を見せよ、という事だ。東孫と互角以上に戦える力を見せなければ、

弱腰の緑を動かす事が出来ない。これは充分予想出来た事で、驚く事ではない。緑の返答自体は好意的な

もので、いざという時には動く用意があるという事をはっきり知る事が出来たのだから、それで良しとす

るべきである。

 緑もこのまま黙っていても、孫が北方と西方という対抗勢力を滅ぼした後、最後の仕上げのようにして

呆気なく滅ぼされてしまうだろう事を充分に理解している。しかし今迂闊(うかつ)に動いて、今この時

に滅ぼされてしまうよりは、黙って延命を図った方が良いと考えているだけだ。それはむしろ自然な反応

なのだから、不満を述べるべきではない。

 むしろここで景気の良い返事を聞く方が危うい。裏の有る無しに関わらず、軽挙し調子の良い事を言う

人間には常に注意しなければならない。そういう人間こそが滅びの因子であり、無責任な言動をする者に

実などは無いからだ。

 故に緑との関係も上手く結べていると言える。今の段階ではこれ以上は望めまい。

 趙起は緑へ好意的な返答をしつつ、間者を潜伏させ続けている。その時が来るまでは、せいぜい大人し

くしていてもらおうではないか。



 緑の事は置き、再び東孫軍へと戻す。

 衛奪還軍はその力を増しながら、ゆっくりと衛へ向かっている。まるで台風でも眺め見ているようだ。

 覚悟していても大軍が迫り来るのは恐怖でしかない。二万とは趙起にしても初めて見る程の大軍である。

 西方や窪丸との戦でもおそらくこれ程の数は動かしていないのではないか。東方という広大な領土のほ

ぼ全ての力を結集して集めた二万の兵。東孫の本気の力。これを侮れば死を招くは必定。恐怖を拭い去る

事は出来ない。

 ゆるやかに迫り来るだけに重々しさを感じ、余計に圧されるものがある。民は初めから孫軍に敵視され

ていないから良いとして、兵達にとってはどうだろう。覚悟したとしてもどう変わるかは解らない。兵達

の心にも充分に気を配っておかなければならぬだろう。

 彼らにとってもこれ程の大軍は初めてなのだから。

 兵達をなるべく動かし続け、静かに考える時間を与えないようにしている。動かす事で気晴らしをさせ、

何かを行わせ続ける事で自分は充分に準備を整えてきたという錯覚を与えられる。その錯覚は不安に怯え

る心を、幾らかは慰めてくれるだろう。

 人は何かというよりは、今までに積み重ねてきた記憶を自信とする。訓練、防壁強化、武具の手入れ、

なんでもいい。何でもいいから常に何かをさせ、疲弊させ過ぎない程度に動かし続ける。これも待つ事が

多く、その為に心が弛みやすくなる防衛戦に置いて、非常に重要な事だ。

 水が溜まれば淀(よど)むように、停滞したものは何であれ濁(にご)ってしまう。人の心もそうで、

何もせずにじっとしていては腐ってしまうものだ。仙人や聖人にでも成れば、ただ静する事にすら何事か

を得られるのかもしれないが、凡人にとって停滞した心は淀みしか生み出さない。

 どれだけ慣れようと、どれだけ強くなろうと、人の心は鋼のように強固になる事はないのである。いつ

までも脆く、意志や覚悟もちょっとした衝撃ですぐに消し飛ばされてしまう。根拠のない自信によって、

甘く見てはならない。常に努力し、その目的を遂げる為に出来る限りの事をし続ける。そうするからこそ

その積み重ねが自信となり、人の心を護るのだ。

 趙は東将率いる北方侵攻軍でさえ打ち破ったのだ。あの圧倒的な窮地(きゅうち)をも乗り越えたので

ある。今回も乗り越えられぬ筈がない。

 趙起はそう自分に語りかけ続け、記憶を積み重ね続けた。



 東孫軍が目前に迫っている。到着まで後数日と言った所か。騒がしかった衛陽の街も静まり返り、孫な

のか趙なのか、天はどちらに微笑みかけるのかを固唾を呑んで窺っている。

 東孫軍を率いる将の名は子庸(シヨウ)。噂では運び屋上がりの男らしく、元々は主に補給を担当して

いたようだが、その淀みない仕事振りを孫文に評価され将に抜擢(ばってき)、着々と戦功を積み、今で

は孫文の信頼を勝ち得る程の存在になっているという。

 東方に残されていた将ではなく、孫文の手元から送られてきた者で、東孫が軍事行動に出るのに時間を

置いたのにも、この子庸が来るのを待っていたからという事もあるのだろう。

 子庸は生え抜きの精鋭であり、今まで東方で会った孫将達とは根本的に違う。ここからも孫の本気を垣

間見る事が出来、激しい戦いを予感させるのには充分であった。

 趙起はこの男の事を詳しく知ろうとしたが、不思議な事にほとんど情報らしい情報が掴めない。変わり

者で人前に出る事が少なく、信頼する側近の中でも限られた者だけにしか、その真意を明かさないそうだ。

 孫軍一般にも不気味な人物として認識されているようで、昨日今日忍び込んだような間者では、とても

の事その深奥まで覗き見る事が出来ない。

 こうなればと東孫の軍事行動に対する非難を口実に、正式な使者を送って見たのだが、予想通り体よく

あしらわれ、衛解放の為だという答えを持たされただけで、得る物はなかった。使者が殺されなかっただ

けましと考えるべきなのだろう。

 それにしても顕示欲の強い孫にしては、異色の存在である。そして異色にして孫文に重用されていると

いう事実からも、その力量が察せられる。

 彼にも孫文程の力はないのだろうが、孫文がこれと見込んだ将である。その性格を考えても、今までの

孫のように正面から力圧しで来るのではなく。趙起と同様、あらゆる知恵を絞って目的を達しようとする

のではないか。

 子庸が孫の悪癖に染まっていないのであれば、今までのような幸運は期待できない。趙起が想定した戦

略戦術も大幅に改変する必要があるだろう。

 子庸という存在が、まるで影の底で不気味に微笑んでいるように、趙起には感じられた。

 そう、例えるなら孫文の影。比喩ではなく、影そのものであるようにも思えたのである。




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