10-5.栄陽


 五千対二千。数の上では圧倒的に優勢であるが、防衛拠点に篭られれば、その兵数差も覆される可能性

は少なくない。堅牢な要塞に篭った軍を破るには、その兵数の十倍の兵は要るとさえ言われる程で、まと

もに戦えば苦戦を免れまい。

 当時は遠距離武器といえば弓矢(少し後に弩が出現するが)しかなく、攻めるにも壁をよじ登って入り

込むか、門を開くというような方法しかなかった。

 そうする為には当然のように人が多く必要であり、犠牲も出る。だから頭の働く者は、少しでもこの犠

牲を減らそうとなるべく早い段階で降伏を求めたり、相手から降伏を言わせるような状態に追い込んだりと、

様々な策謀を働かせる。

 ただ勝つだけでは駄目なのだ。今日勝利するだけでは足りない。明日も明後日も、一月も二月も、何年も

何十年も生き延びる為には、犠牲を減らし、力を保つ必要がある。

 皆が、ある意味賢く、狡猾(こうかつ)になっていく。しかしそうであるからこそ死者も減る。ならばそ

れはそれで良い事なのかもしれない。命を惜しむという事は決して悪い事ではないのだから。

 しかし今回は前述したように、降伏させる事は難しい。いや、東方全般に渡ってそれは言える事だ。少

なくとも他よりは深い段階まで、力押しでいかざるを得ない。

 困難であるが、覚悟していた事だ。孫の基盤となる東方を崩さなければ、孫を崩す事は出来ない。西方

が孫文を引き付けている間に、何としても東孫の力を削らなければならない。

 その為にも、まずはここ栄陽を落とさなければ。ここで挫(くじ)ければ全てが費えてしまう。責任は

重く、勝利は遠い。常に心を燃え滾(たぎ)らせていなければ、とても耐えられるものではなかった。

 趙起は栄陽を包囲し、攻めては返し、攻めては返し、を繰り返していたのだが、そろそろ頃合と見、勝

負に出る事を決めた。あまり時間をかけていては、孫の援軍が来るかもしれないし、物資の消耗がその分

増えてしまう。無駄に時間を費やす事は避けねばならない。

「何度も使者を出したが、一向降伏に応じようとはせぬ。民を苦しめ、自らの命を奪われても、奴らはそ

れをしようとはしない。孫は敗れたのだ。奴らはその敗れた妄執に従う亡霊である。これ以上は無益。我

らは民を妄執から解き放つ為、全力を持って栄陽を落とす。攻めよ、攻め立てよ!」

 趙起の声に応じ、五千の兵が激しく攻め立てる。矢を放ち、壁をよじ登り、扉を切り刻む。守備兵の激

しい抵抗があったが、今更二の足を踏む者はいない。ここは東方、逃げ場は無い。趙の将兵は栄陽を攻め

落とす以外に生きる道はなく、彼らもその事は重々理解していた。

 東方への侵攻というのはそういう事である。進めば引き返せない。迂闊に返そうとすれば、孫軍から追

われる破目になる。自らその地で作り上げる以外に、道は無いのだ。

 敵地に行くという事は、本来そういう事であろう。

 それでも将兵が恐れず進めたのは、孫に勝った事で兵達が自信を持ち始めていたからだ。大陸最高とい

える孫軍に勝った、という経験が何よりも大きな糧となっている。金、劉、陶というような区別も薄まり

つつあり、趙の名の下、一つになりつつあったのだ。趙深、趙起という存在を知らず知らず神聖化して崇

め始め、孫が孫文に対して持っているのと同じ心と力を宿しつつある。

 これは良い兆候である。将に対する絶対的な信頼、そして自らの力に対する自負、そして孫に勝ったと

いう確固たる現実、それらが趙軍に不思議な力を与え始めていた。

 奇しくも孫文が用いたものと同種の力を趙も持ち始めている。いや、覇を成す者は、皆そのような不思

議な力を持つものなのかもしれない。その力こそが、覇を布くのかもしれぬ。

 この栄陽攻防戦に限って見れば、孫と趙の力関係は逆転さえしていた。自信に満ちていた筈の、勝って

当然であった筈の孫兵が現実的に敗北を感じ始め。孫の絶対的な統率力から見れば烏合の衆でしかなかっ

た趙兵が、孫兵なにするものぞと刃を振りかざし、死を臆せず向かってくる。

 勝てる。そう思えばこそ、人は力を揮える。だから、負けるかもしれない、と考えてしまえば、勝てる

ものも勝てなくなる。

 全ての力を出し尽くせば勝てる。それを逆に言えば、出し尽くせなければ負ける、という事である。孫

兵は迷い、自信と力を失いつつあった。

 その上、孫の劣勢という姿を目の前に見せられた住民達が騒ぎ始める。やはり事実であったのだ。孫は

もう負けたのだ。そして今日もまた負けるのだ。見よ、孫兵のあの顔を。あのように恐れに満たされてい

る者が、一体誰に勝てるというのだろう。恐怖した者が、恐怖する相手に勝てる道理は無い。

 今まで孫は恐怖を与える側に立ち、東方、そして中央を席巻(せっけん)してきた。しかし今度は孫の

方が恐怖を味わう番である。全てが回り巡っているのだとすれば、それもまた自然ではないか。未来永劫

勝ち誇れるような存在が、一体何処に居るだろう、居ただろう。孫文もまた神ではなかった。人は理には

逆らえない。

 そんな風に思い、騒ぎ立て、民達は恐れ戦(おのの)き、何度も趙から来ていた使者を追い返した孫軍

を恨み始めた。使者が何をしに来たのか詳しくは解らないが、察する事は出来る。その時にささと降伏す

れば良かったのだ。その機会はいくらでもあった。なのに何故、それをしなかったのか。

 孫の誇り。そんなものが何になろう。勝っていればまだ良い。しかし今、現実に負けている。これをど

うしてくれる。趙の善意を無視し、その上無益な抵抗をしたのだから、きっと怒っているだろう。

 孫にすら打ち勝つ者。おそらく孫文と同じく、いやもしかすればそれ以上に恐ろしいに違いない。この

ままではどうにもならなくなる。その前に、最悪の事態になる前に、我々の手で何とかしなくては。

 民達はそのように考え、武器をとって孫に反旗を翻すような事まではしなかったが。目に見えて孫軍へ

協力をしなくなった。食料と水を出し渋り、補給隊として使われていた民の動きも鈍り、妻は夫や子供に

軍隊から逃げるよう説得し、孫軍は栄陽から孤立し始め、終には完全なる余所者、邪魔者とされてしまっ

ていた。

 こうなると憐れである。飢え、乾き、力は減じ、不満だけが溜まっていく。この上はもう略奪するしか

なくなるが、そんな事をすれば後で孫文に殺されるだろう。孫文は民から怒りを買わないよう、非常に気

を配っている。それに略奪は孫文の美意識にも大きく反する。まだ敵兵に命乞いでもした方が、生き残れ

る確立は高かろう。

 民から憎まれ、孫文には恐怖し、一体自分達は何をしているのか。何の為に必死に戦っているのか。恐

怖に包まれ、涙を堪(こら)え、飢えと死への恐怖と戦いながら、自分は一体何をしているのだろう。

 孫兵の心が挫けてきた。生粋の孫兵ではない、孫文が強勢になるに従いその下に付くしかなかった者達は

その影響が顕著(けんちょ)で、苛立ちから仲間割れするような事も珍しくなくなっている。

 あれだけ粛々(しゅくしゅく)としていた精強な軍団が、自壊しようとしている。

 兵の心から熱狂が去り、憑き物が落ちた。戦う事に、そしてここで死ぬ事に、意味を持てなくなった。

 変わりに疑問だけが浮かび上がってくる。こんな事をして一体何になるのか。全ては無意味ではないの

か。もう終わった、敗北したのだ、孫は負けたのだ。ならば何故、そんなものに自分は従わなければなら

ないのか。そもそも孫文は故国を滅ぼした敵ではなかったか。生れ落ちてより上に戴いていた王ではない。

むしろ今こそ趙に呼応し、祖国復興の望みを持つ良い機会ではなかろうか。

 今更故国への忠誠も無いくせに、人はこういう時こそ無くした物に縋(すが)りたがる。今から逃れる

為に、すでに失った何かを必死で取り戻そうとする。心の折れた者は、もう一人で立つ事は出来ない。

 趙起はいよいよ激しく攻め立てる。容赦なく苛烈に攻める。その心を完膚(かんぷ)なきまでに砕き、

もう二度と立ち上がれぬようにする為に。それこそが孫への反撃の狼煙。

 栄陽が降伏するまでには、そう長くかからなかった。孫兵である事に意味を持てなくなった今、彼らの

力はその程度にまで落ちていたのである。覚悟を失った兵に、以前のような強さを求める事は、初めから

不可能であったのだろう。



 趙起は栄陽を制圧すると、民を慰撫(いぶ)する為、備蓄されていた軍用の食料と水からいくらかを与

え、警備を厳しくし、治安を良くする事に努めた。孫の支配地は治安が良いので、趙の印象を悪くしない

為には、そういう事にもしっかりと気を配る事が必要なのである。

 孫への絶対的なものを完全に崩し、替わりに趙への絶対的なものを築き、将兵の心に新たな炎を与えな

ければならない。これからが時間がかかる。

 栄陽の民は孫という支配者に慣れていたので、皆が皆喜んで受け入れてくれた訳ではなく、中には趙軍

の侵攻を嫌い、不穏な事を考えている者も居る。間者を使って情報を集め続けているが、その報告を見て

も、暫くはここに留まり、地盤を固める事に力を尽くさなければならない事が解る。

 孫の二度目の敗北という報はすぐに東方から大陸全土まで広がるだろうし、その勢いを持って更に領土

を広げたい所だが。栄陽戦での被害も決して少なくはなく。趙軍もまた五体満足とは言い難い。

 やはり孫兵は強い。賦族兵を除けば、趙軍は孫軍にはっきりと劣る。その事を忘れてはならない。

 それに出陣するとしても栄陽に守備兵を残していかねばならず、どうしても兵力が不足する。東方全土

へ侵攻するには、余りにも兵力が足りない。一つの街に千は残しておくべきだろうから、五千の兵などは

あっという間に尽きてしまう。

 進む度に侵攻兵力を削減するしかなく、結果として被害も弥増し、悪循環へ陥るのは明白。

 守備兵に千、死傷者が約五百、栄陽だけでも千五百もの兵を費やしている。残り三千五百。確かに少な

くない数だが、こんな風では後一つ落とせれば上等なくらいで、それ以上の侵攻は不可能であろう。

 やはりまともに正面から戦うなど馬鹿げている。栄陽は東方を動揺させる為に正面から落とす必要があ

ったが、このままではすぐに行き詰る。

 幸いどの街も連携して行動しようとはせず、ただただ命令を待ち、出来る限り自らの街へ篭って難を避

けようとしているようで、少しの時間は得ているが、いつまでこのような状態が続いてくれるだろう。

 二度目の勝利で東方各地がどう変わってきているのか、一体どういう事になっているのか、しっかりと

見定める必要がある。



 趙起は今は栄陽安定に努め、一先ず情勢を窺(うかが)う事にした。侵攻を続けるにせよ、止めるにせ

よ、それを決める為の指針となる情報が必要である。栄陽を得た事で、今までよりも遥かに多くの情報を

得る事が出来るだろう。

 東方の実情、孫の支配力の強さ、大きさ、どれをとっても強大であり、一見付け入る隙はないように思

える。しかし皆が皆孫に心服している訳ではなく、不満を持つ者も居るようで。特に孫文と共に中央に行

けず、戦功を立てる機会を失った事に対する憤(いきどお)り。孫文が中央へ移動している内に事を成そ

うと画策する者達。そういう火種が目立つ。

 民達も表面上は孫に心服しているものの、より正確に言えば、暮らし易いのであれば孫文以外の者でも

構わない、という考えである。それは孫文が民に甘い事からもきているのだろう。

 孫文であれ、例え敵に味方した民に対してでも、どうしても温情を見せる必要がある。そうであれば

こそ民に慕われ、民心を安定させる事が出来、その事が孫の基盤ともなっているのだから、それを崩す事

は出来ない。

 つまり、民達は孫文に盲目的に従わなくとも、とにかく税を納め、自ら望んで反意を示しさえしなけれ

ばまず安全で、命を奪われるような事はない。

 だから積極的には協力しないが、今趙に制圧されているから仕方なく税を納めている、という形にして

おけば、孫文が後に栄陽を取り戻しても民を罰する事も責める事も出来ず。むしろ自分の力が至らないば

かりに迷惑をかけたと謝りさえし、無条件に許さなければならない。

 民達は孫の支配に慣れているから、その事をようく知っている。その事をまず理解する事が、民の心を

得る第一歩である。

 彼らの卑怯とも言える心を認め、受け容れてやり、それは必要悪だと寛大な心を見せてやりさえすれば、

何と物分りの良い人だろうと、尊敬心さえ勝ち得る事が出来るかもしれない。

 集縁という街をほとんど一から作り上げた経験のある趙起にとって、そういう機微を理解する事は難し

くない。皆生きる為に必死なのだと言う事を理解すれば、彼らの行動に腹も立たない。皆苦しいのである。

趙起が袁氏や豪氏によって苦汁を舐めさせられても、我慢して常に遠慮するしかなかったように。乱世を

生きる為には美意識にばかり拘ってはいられないのだ。

 それが良いとか悪いとかを言っているのではない。生きる為には、少しでも争いを避けてましな暮らし

を送る為には、そうするより他にないのである。

 それが嫌だというのなら、一人で生きるか、全てから永遠に逃げ続けるしかないが。前者ならまず長く

持たないだろうし。後者を選ぶとしても、果たしてこの世に逃げ場などあるものだろうか。何処へ行こう

と、誰と共に生きようと、結局は何からも逃れられないのではないだろうか。自分が人間である限り、決

して逃れられないのではないか。

 何処かに楽園があると思うのは、おそらく幻想である。ただの慰めに過ぎず、だからこそその慰めは人

にとって忘れがたいものなのだ。

 だから、それが心に在る事は悪くない。それに盲従するのは危険だが、むしろ自然な事である。

 そしてそれが在る事は、趙起にとっても悪い事ではない。それをくすぐる事で、人の心を趙へ傾ける事

ができる。孫文は孫文として、そこに趙という者を上手く組み入れる事が出来るのである。都合の良い理

由を付けてやる事で、どんな所にも入り込める隙間が生まれる。

 趙に敗勢が見えればまたすぐに孫になびくとしても、孫が敗勢を見せれば趙への傾きが強くなる。条件

は同じ、ならばそれでいい。東方の民の全てとは言わないが、その多くが強い方になびく程度の考えで居

るならば、それは良い事だ。趙にも勝ち目が見えてくる。

 自分にも苦しい事は相手にも苦しく、相手にとっての利点は自分にとっても利点である。孫と趙はそう

いう意味で対等だと理解出来た事は収穫であった。




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