11-3.雷鳴


 趙起は待つ事を決断した。今までのように仕方なくではなく、迷いの内にではなく、はっきりとそう決

断し、それを前提に置いて思考、行動する事にしたのである。

 考えてみるに、二万という軍はおかしい。如何に孫が強大とはいえ、この数には無理がある。孫将との

戦において得た教訓を今こそ活かさなければならない。孫を過大評価してはならぬ。

 幸いにも物資はまだ豊富にある。川という便利な輸送路を使い、蓄えられるだけは蓄えてきた。これか

らどう動くにせよ、補給というものだけなら、孫に負けない自信がある。ある程度の制限をする必要はあ

るが、衛陽の民を不安、不満にさせるような事はないだろう。

 飢えさせない限り、衛の民を蜂起させる事は難しいだろうから、そういう意味ではまだ余裕があるとも

言えるかもしれない。

 民は大勢に流れるもの。しかしそれ故に流れのはっきりとしない間は、彼らを動かす事は難しい。その

心が揺らいでいても、行動を起こさせる事はそれとはまた別の事なのである。

 ならばいっそ賭けよう。誰かにではなく、自分が得た経験に、今全てを賭けてみよう。

 ぐだぐだと悩むのが一番いけない。とにかく基本的な方針だけでも打ち出さなければ、身動きが取れな

くなってしまう。

 確かに妙案はない。しかしこのままずるずると苦悩のうちに漂っているよりは、いっそいずれかに決め

てしまう方が良いと思える。

 そう思うと、久しぶりに趙起に晴れやかな表情が戻った。悩みが消えた訳でも、困難が消えた訳でもな

いが。今までのように半ば流されるままにではなく、自分につまらない言い訳もせず、はっきりとした意

思で決めた事がその心を取り戻させたのだろう。

 その答えが合っているかどうかは解らない。しかし選択したという結果そのものが、趙起に力を与え、

活力を戻させる。淀んでいた水が流れる事で清浄になるように、人もまた選択する事でそこから抜け出し、

新たな気力を得るのである。

 趙起はもう下手な手を打とうとも考えず、ひたすらに護る事を決め、兵にもそれを布告した。東孫軍が

痺れを切らすまで、或いは状況に大きな変化が訪れるまで、こちらも堂々として動かない構えである。

 二万の軍勢を前になんとも豪胆だと思えるが、東孫軍もまた積極的に攻める姿勢を見せていないのだか

ら、こちらからおろおろする必要もない。敵はそこに布陣しているのみで、工作をしてくる訳でもなく、

大きく攻めに転じるでもない。ただ山のようにそこから見下ろしている。

 それは山であるだけに逆らい難い圧力を感じるが、しかし山であるが為に軽々しく動くような事もない。

大軍であればそれだけ鈍重になる。それは何か動きがあればすぐに察せられるという事だ。ならば動く前

から一人で怯えている必要はないだろう。

 東孫軍は動かない。そこには何か理由があるのだろうが、趙起からそれを察する事が出来ない。ならば

こちらも堂々と迎え撃つ事が、唯一できる事ではないだろうか。

 もしかすればそう趙起に信じ込ませ、足止めさせるのが目的であるかもしれないが。例えそうであった

としても、こちらに出来る事は限られている。ならばそれを嘆くよりも、出来る中で最善の行動を採るべ

きである。

 それに子庸もまた趙起同様思うままに動けないという事があるかもしれない。

 子庸もまた苦悩している筈だ。その役目は決して楽ではない。いかに孫文子飼いの将とはいえ、昨日今

日こちらに着たのでは全てを理解し、掌握するような事は不可能であろうし。その上寄せ集めのような軍

を率いている。大軍であるだけにそれは御し難く、苦悩の多い役目だろう。東孫にも無理がある。いくら

その為に準備をしていたとしても、今新たに二万の軍勢を動かすと言う事は、かなりの無理を強いる事に

なる。孫もまた楽ではない。

 先陣に活きの良い兵を配置し、意気も確かに盛ん。武器や食料もそれなりに揃えている。しかしそれこ

そ虚勢というものではないだろうか。この軍勢がそうである事が本来おかしいのだから。

 例えそう思わせる為の罠だったとしても、それに乗っかってしまえばいい。敵がどうあろうと、こちら

は急がず焦らず子庸の狙いを逆に利用して時間を稼ぎ、せいぜい東孫を疲弊させてやろう。

 じっと耐え、物資を浪費させてやればいい。

 火には火、水には水、山には山。悩んでも解らないのであれば、思想の泥にはまるくらいならば、いっ

そ他者に惑わされないよう自分のみを見ていればいい。敵を知り己を知れば百戦百勝なれど、敵を知れぬ

のであれば己だけでも見るべきだ。敵を失い、己まで失ってはそれこそ勝機が消えてしまう。

 全てが理想の内にあるのではないのだから、百戦百勝に拘るのもまた無益。趙起は自分にそう言い聞か

せていた。



 東孫軍との睨み合いは更に一週間続いた。

 その間どちらも目立った動きを見せていない。東孫軍が裏で、例えば坑道を掘って攻めてくる、という

ような事も考えられたのだが。瓶に水を張り、地中に埋めて眺め見ても、地中からの振動はまったく伝わ

ってこない。やはり何もしてくる心算(つもり)がない、少なくとも今は動く意思がない、と考えて良さ

そうだ。

 別働隊が平望、栄陽に向かう様子もなく、覚悟はしているものの子庸の腹積もりが読めない以上、不安

に思えぬでもない。

 子庸が猪突猛進の将ではない事は確かだが、一体彼は何を待っているのだろう。まさか二万の軍を御し

て尚援軍を待つ、という事もないだろうが。まさか本当に寄せ集めの軍で、戦力にならないとでも言うの

だろうか。

 東孫軍は不気味な沈黙を保ち続け、その真意は読めない。

 驚くべき報が入ったのはそんな折であった。

 窪丸が危機に陥っているというのだ。

 東孫軍が本格的に衛侵攻を初め、趙がその動きに応じて東方に軍を集め、そして衛陽を東孫軍が包囲し

終わった丁度その頃。今までどこか遠慮していた風のある窪丸攻めの軍が一変し、驚くべき強さと激しさ

をもって窪丸に打ち掛かり、一挙に劣勢へと追い込んだ。その上で孫軍の猛攻は更に激しさを増し、守将

白祥(ハクショウ)と楚王、姜尚も遂には窪丸を放棄するより他にないと判断するしかなく。白祥が殿(し

んがり)となって最後まで窪丸に篭り時間を稼ぐ事で、何とか楚王と姜尚、そして楚軍の大部分と凱聯(ガ

イレン)に率いさせた胡曰(ウエツ)ら非戦闘員と臣下達を逃がす事が出来たらしい。

 しかし兵士だけでなく、連戦によって防壁などにもがたがきており、白祥と鏗陸(コウリク)、そして

胡虎(ウコ)と窪丸に残された軍勢だけでは陥落するのも時間の問題で。東孫軍の包囲などの影響もあり、

趙起に情報が伝わるまでに多くの時間がかかっている為、今頃はもう落ちている可能性もあるとの事。

 趙起と趙深、そして白祥が出来る限りの手を打ち、出来る限りの防備をさせていた窪丸も、とうとう限

界が来たと言う事か。いや、今まで良く持ったと言うべきかもしれない。

 だが何故窪丸が突如窮地に陥ったのだろう。考えられる理由があるとすれば一つしかない。そう、孫文

がやってきたのだ。正に雷神のようなものである。どこからともなく現れ、直接指揮をしたかと思うと、

その妥協を許さぬ炎のような力で昼夜問わず攻め立てられ、今まで何とか保っていたものが一挙に崩され

てしまった。

 孫文が来た。それだけで窪丸は落ちたのである。

 しかしそれも不思議な事ではない。一度孫文の苛烈な攻めを経験したものならば理解できるだろう。趙

起も実際に味わった事がある為に、その状況は良く解った。あれを何日も何日も続けられれば、耐えられ

る者などいない。

 後はせめて殿に残っている者達が、一人でも多く逃げ延びてくれれば良いのだが。

 趙起は今すぐ応援に駆けつけたい所であったが、東孫軍に包囲されている今、身動きが取れない。その

上、窪丸危機の報が届いた丁度その頃、包囲する東孫軍にも大きな動きが見えたのである。

 東孫軍が一万ずつの二つの軍に別れたかと思うと、一方の軍が平望の方へ進軍する。

 おそらく子庸にも同様の報が入り、趙起が一か八かの攻めに出るのを危惧(きぐ)し、先手を打ったの

だろう。これでは平望と栄陽の兵をこの軍勢に当たらせるしかなく、自由に動かす事は出来なくなった。

一か八か全軍を動員して包囲を打ち破る、というような手が取れなくなったという事だ。

 これが子庸の、いや孫文の狙いであったとすれば、まんまとしてやられたという事になる。その可能性

も考えてはいたが、まさか本当にそんな手を打ってこようとは。孫文は北方へ総力戦を挑み、短期間に決

着を付けてしまう心算(つもり)なのだろうか。

 孫文が離れ、手薄になった西方は反撃に移るのではないか。

 だがどうやら西方も疲弊極まっているらしく、拠点を護る力は残っているものの、この隙に乗じて孫領

に侵攻するのは難しいようだ。やって出来ない事はないが、準備に相当の時間がかかる。孫文が西方へ戻

る前に間に合うかどうか解らない。もし孫文が北方へ出ている隙を突けたとしたら、孫文も引き返さざる

を得なくなるのだが。

 おそらくそういった時間も孫文は計算して実行に移しているのだろう。

 このまま対孫の一つの要であった窪丸が落とされてしまえば、趙深の戦略にも大きな支障が出、最悪の

場合戦略そのものが成り立たなくなる可能性がある。

 それどころか、北方侵攻を許し、このまま孫に北方までも平らげられてしまうかもしれない。もしそう

なれば、孫に勝つ道が永遠に失われる事になる。

 これは由々しき事態だ。

 とはいえ、状況は不安ばかりでもない。疲弊するのは孫もまた同じ事。連戦に次ぐ連戦によって孫の消

耗は尋常ではない。その力は明らかに衰えている。孫文が来て尚、楚軍を逃がす余力があった事を思えば、

孫軍の力が総体的に大きく衰えているとも言えるだろう。

 だからこそ窪丸を死守しようとはせず、退くという選択肢を選ぶ事が出来た。状況は刻一刻と変わって

いるが、その全てが趙にとって不利益という訳ではない。窪丸を諦める事も、悲痛な気持ちだけではない。

むしろ次へ繋ぐ為という前向きな理由がある。

 窪丸への拘りを捨て、楚の東城に新たな防衛線を引き、孫文を待ち構え、余勢を駆って猛進する孫文を

討つ。こういう手もあるのだ。趙深や楚も何もせず孫軍に対してきた訳ではない。彼らも力を重ね、蓄え

てきたものがある。

 むしろこれは孫の力というよりも、孫文を北方へ誘い込み、包囲孤立させ、孫の要である孫文を討つ、

という趙深の罠であったとも考えられる。

 無論、孫文が易々とその手に乗るとは考えられず。例え乗ったとしても裏をかける自信があるから乗っ

たのだろうし。窪丸が落ちるとなれば、北方が危険になる事は変わらない。もしここで東方の衛まで落と

されてしまえば、趙の力は完全に失われてしまう。

 窪丸陥落という報は、或いはただそれだけで全てを覆す力を持っているのは事実である。

 孫文の出陣。これは趙と孫、どちらにとっても賭けとなろう。

 全てはこれからにかかっている。

 それに窪丸の事も気になるが、趙起はまず眼前の子庸軍を何とかせねばならない。

 どちらにとっても賭けとはいえ、孫の方に明らかに分がある。他の事を気にかけるような余裕は、趙起

にもないのである。もしそんなものに囚われてしまえば、衛の命運はそれこそその場で尽きるであろう。



 趙起は栄陽の百、平望の斯へと伝令を発し、協力して迫り来る軍勢を迎え撃つよう命じた。百軍と斯軍

を合わせれば六千になる。一万の軍勢相手といえど、拠点の防衛力と地の利を利用すれば戦えなくはない。

連携をとり、百軍が上手く牽制する事が出来れば、或いは打ち破る事さえ出来るかもしれない。

 それにこの戦いの目的は敵軍を殲滅する事ではなく。衛の三拠点を護りきり、東方に衛健在なりと力を

見せる事にある。いずれ伝わってくる窪丸陥落の報で起こるだろう動揺を抑え、その波を乗り切る為にも、

衛は衛として揺るがぬ力を見せなければならない。

 二万もの大軍を防ぎきったとなれば、衛の民も認めざるを得なくなる。窮地こそ好機。

 危険は大きいが、趙起は孫文の出陣を知った事で、逆に勝機を見出していた。確かに孫文の打った手は

悪くない。堅固な西方を疲弊させるに止め、その裏で力を蓄え、一番弱いだろう窪丸を突き、そのまま北

方を得る。それが出来れば、確かに孫の勝利は確かなものとなる。

 しかしそれも遅過ぎた。北方はまとまり、東方に一国を建てるまでに大きくなっている。東孫は二度も

大敗し、その力は薄れ、二万の大軍もまたその数程の力はない。今となってみれば、東孫もまた焦ってい

る事が察せられる。堂々と布陣しているように見えて、その実彼らもぎりぎりの戦いを強いられている。

 孫文もまたそうだ。だからこそ強勢であると見せ付けたいのだろう。誇りたいのだろう。

 数に惑わされなければ趙起にも勝機がある。勝つ事は難しくとも、負けない戦ならば出来る。その上で

北方が孫文を撃退出来れば、孫に壊滅的な打撃を与える事が出来るだろう。この窮地は孫にとっても窮地

である。無理を通してきたのはどちらも同じ、孫の力もまた無限ではない。

 今二万の軍勢を動かし、孫文自らが動いた事、これこそ孫の焦りを示している。その力はこけおどしと

は言わないでも、以前のように圧倒的な力ではあるまい。

 ここが潮である。孫が勝負を決しようと大きく動いたこの時が、趙にとっても好機なのだ。

 衛陽を囲む二万の軍も一万に減った。未だ倍する兵力差はあるが、手を出せなくもない。

 それに例えどれほどそれが困難であろうと、勝利を信じ、戦い抜く以外にないではないか。



 子庸軍が包囲を狭め、徐々に攻撃を激しくしつつある。彼らも知っているのだろう。この戦はまず見せ

る事だと。虚勢を勢いに変え、圧倒的優勢であると訴えかけ、虚を実に変えて敵を討つ。その為には力を

見せなければならない。虚構を築く、礎となる確かな力に見せかけて。

 衛の安定もまた砂の上に建っている。趙起が衛を得た時と同様、それを乱せば容易く落とされてしまう

だろう。衛軍にも兵質など様々な不安がある。威勢の良い事を述べても不安は消えず、崩壊の危機がひし

ひしと伝わってくるのも変わらない。

 孫は絶対ではないが、趙もまた絶対ではない。

 どちらがどうなろうと、いつどこでそれが決しようと何ら不思議ではなく、最早どこが決め手となる決

勝点なのかも判別し難い。いつ負ければ終わりなのか、いつ勝てば勝利なのか、おそらく趙深や孫文にも

解ってはいまい。

 全ては未だ混沌(こんとん)の内にある。その勝機は未だこの世に存在しておらず、これからそれが生

まれるとすれば、誰にも読めぬが道理である。

 しかしだからこそ努力する意味がある。

 勝利を呼び込む為にはまずこちらが優勢である事を示さなければならないが、さてどうするべきか。窪

丸が持たない以上、まず揺さぶられるのは趙の方である。民の意が大きく孫に傾くかもしれない。窪丸は

まだ遠き場所にて、さほど影響が出ないとも考えられるが。やはり孫文は強かった、孫文健在なりと思わ

せられるのは痛い。

 だがそれを逆手に考えれば、孫文は強いがそれ以外は駄目だ、という風に上手く印象操作できる可能性

もある。

 趙起は東孫をはっきりした形で破ってきた。その積み重ねは拭けば飛ぶような軽さではない。それは相

応の重みをもって大きく作用するだろう。

 趙起が東方で重ねてきた勝利もまた嘘ではない。それが嘘ではなくはっきりと眼前に突きつけられたも

のであるからには、漠然とした噂や伝聞よりも効果がある筈だ。

 しかしはっきりしているといえば、東孫軍二万以上にはっきりした物はない。

 結局、この二万の軍をどうにかする事が先決なのだ。まずはこの二万の軍の化けの皮を剥いでやらなけ

ればならない。

 この二万が張子(はりこ)であると証明できれば、東方は趙に落ちたも同然となる。

 やるべき事は初めから何も変わっていない。後は決断である。恐怖を乗り越え、それを行う。必要な事

は初めからそれだけだったのだ。

 堂々巡りした末、結局そこに辿り着く、これぞ人の迷いの愚かしさ。

 趙起は我が事ながらおかしくなり、人知れず笑いを漏らしたのだった。




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