火計から一週間が経ち、子庸軍の混迷は引き返せない所まで深まってしまっていた。 ここに至り、ようやく趙起が動きを見せる。 今までの慎重な姿勢を改め。城門を開き、全軍を持って、どうして知りえたのか、子庸軍本隊へと一直 線に突撃していく。そして何と言う事だろう。それを止めるべき子庸兵達が趙起軍に呼応し、一斉に反旗 を翻したではないか。 よくよく見ると、その兵達は不当に扱われた、と自分では思っている、雑兵達である。彼らの不満は頂 点に達し、そこへ趙起が食料と引き換えに寝返らないかという誘いを出し、彼らはよく考えもせず勢いの ままそれに応じたのである。 これこそが一連の行動における、趙起の真意だったのだ。 孫文が北方へ侵攻する今、趙もまた兵が足りない。例え衛を守りきれたとしても、損害著しく、国とし て保てなくなるまで疲弊してしまえば意味がない。だからこそ犠牲を抑える必要があり、もし犠牲を出す としても、将来的にそれ以上に兵を増やす事を考える事が必要であった。 とはいえ、自領土に居る兵を増やす事は難しい。人は茸のように生えてはこない。傭兵を雇う手もある が、それにも限度がある。 しかし見方を変えれば、兵ならいくらでも居るではないか。そう、目の前に一万という大軍が。 これを全てとは言わぬでも、何分の一かでも得る事が出来たなら、疲弊を補うどころか、兵力を増強す る事が出来る。勿論ここで寝返るような者は言わば弱兵だけであろうが。それでも数さえ揃えば、後は訓 練を積ませる事で何とかなる。兵が居ないのはどうしようもないが、弱い者でも鍛える事は可能だ。 それに子庸軍が混乱していたとしても、まともに戦っては勝ち目が薄い。一万の中には踊らされない兵 も当然居る筈。如何に有利な状況を作り出したとしても、倍という兵力差は覆し難い。故に、状況を利用 して敵を寝返らせ、敵の力をもって敵を討つしかなかったのである。 趙起の狙いは初めから敵兵を討ち取る事ではなく、食料を奪い、戦意を低下させ、子庸兵の不満を高ま らせ、最終的に趙へ寝返らせる事にあった。それが為に一千の兵と盛良という惜しむべき者達を犠牲に出 来たのだ。それ以上の見返りを期待出来たからこそ、犠牲を強いる事が出来たのである。 内応者の居る軍を責める事は難しくない。子庸もこうなってはどうする事も出来ず、防戦一方となるし かなかった。 しかし流石に東孫を任された者。子庸の虎の子の手勢の力は凄まじく。これのみは正しく孫の軍勢であ り、その数は三千程度ではあったが、寝返りの兵を編入して尚、勝利は困難を極めた。 趙起はここで無理はならぬと思い、あまり時間をかければ寝返り兵も何を考えるのか解らないので、こ こはまず子庸本隊を退却させ、とにかく一勝を飾る事で満足する事を考えている。 子庸も趙起の狙いはすぐに察しただろうが。といって軍の大半が裏切るか混乱している以上、ここで粘 るのは悪しと思ったのだろう。趙起の意図に上手く乗っかるようにして、躊躇(ちゅうちょ)せず退いた。 この辺の意思疎通というべきか連携というべきかは、まるで子庸と趙起が味方同士であるかのように見 事に噛み合い、実に巧みに行われている。敵味方に別れようと、時に利害が一致する事もあるという事だ ろうか。世の不思議といえばそれまでであるが、敵味方とは利害だけに関わる関係ではない、という事な のかもしれない。 趙起も子庸の撤退を見届けた後、すぐさま残存兵力を吸収、編成し、間髪入れず平望へ向かった軍へと 急襲、すでに対していた斯軍と百軍と連携して圧力を与え、降伏に応じるよう使者を出している。大将に 置き捨てられる形となった別働軍に最早戦闘の意志は少なく、趙起軍に旧知の顔を見付けると、多くの者 はその軍門に降る事に反対しなかった。 勿論、徹底抗戦を唱える者達も存在し、実際その者達は最後まで戦う姿勢を示していたが。別働軍は寝 返りと徹底抗戦の二つの意思の下、完全に分裂してしまい、最後には同士討ちをする破目に陥り、結局は 寝返り派に呼応した趙起が徹底抗戦派を散々に打ち破り、終止符を打つ事になった。寝返り派の方が多数 だったという事もあり、それに衛軍まで加わっては、徹底抗戦派が勝てる筈もなかったのである。 勝敗が決まれば戦意も失せ、次々に武器を捨て、徹底抗戦派の残党もまた投降し、中には散り散りにな って逃げた兵も居たが、趙起は新たに数千という兵力を得、衛陽へと凱旋(がいせん)する事が出来たの であった。
このような形で何とか勝ちを得た訳だが、全ての問題が解決した訳ではない。 投降した者達の処遇、そしてこの付近に散った逃亡兵達、更には撤退した子庸とその手勢三千。戦には 勝ったが、未だ決定的なものではない。不安要素は多く、今後覆される可能性もないではなかった。 趙起自身、その事を重々承知している。それを知っていてやらなければならなかった所に苦悩があった と言えるかもしれないが、形だけでも勝利に持っていけただけでも幸運だったと言うべきだろう。あの絶 望的な状況を、最低限にだとしても、切り抜けられたのだから、それで御の字ではある。 それに印象というものは大切である。東孫と衛、お互いの全てをかけた戦に勝利した事は、今後趙にと って有利に働いてくれるだろう。 趙起は投降した兵を寛大に処置し、手柄に応じて平等に褒美を下した。衛兵と分け隔てなく与える事で、 すでにお前達は衛の兵士なのだ、という事を示し、今後もそのように扱うと宣言したのである。そしてこ れは同時に、衛兵達にもそのように接しろと告げている事を意味する。その結果、衛兵内に多少の不満を 起こすかもしれないが、こればかりは致し方ない事。 例え孫兵であれ、寝返った者は平等に扱う。これを印象付けておく事は、今後の為にも絶対に必要な事 なのである。
今一番心配なのは、付近に潜伏しているだろう逃亡兵達の事である。もしそのまま野に根付き、強盗夜 盗にでもなられると厄介である。治安は低下し、我々を護れぬのかと民から趙に対する敬意が減じる。民 は自分達が安心して暮らせると思うからこそ、権威を認める。だからもし趙が頼りにならぬと思えば、何 を考えるか解らない。最悪、子庸軍を手引きしようとする者まで現れるかもしれない。 そこで今からでも投降する者は他の兵と変わりなく扱う、という触れを衛国中に立たせ、暫く様子を見 てみる事にした。これで効果が無いようなら、討伐軍を編成して巡回させつつ、強盗達の巣窟を虱潰(し らみつぶ)しに探させるしかなくなる。 乗ってきてくれれば良いのだか。
もう一つの脅威である子庸については、すぐにでも討ち取っておきたいものの、東方は広く、その大半 は依然孫領で、深奥まで追うのは不可能である。一度逃げればその所在を探るだけで多くの時間を必要と し、攻撃を仕掛けるには更に多くの時間を要する。 暫くは泳がせておくしかないだろう。 そこで東孫敗れたり、の印象が強い今の内に、付近の拠点に向けて投降の使者を発してみる事にした。 以前は無視されたが、東孫の力が大きく減じている今、乗ってくる可能性は少なくない。それに何度も 使者を出す事で誠意を見せる事が出来るだろう。そのせいで足元を見られる可能性もあるが、まあ、それ は仕方ない。 奥まではまだ趙の威が届かぬでも、付近の小さな拠点くらいなら話を聞いてくれる者が居るかもしれな いし。投降させる事までは出来ないでも、子庸の情報を得る事くらいは出来るかもしれない。 とにかくこの勝利を利用し、東方に圧力を加えていく事である。直(じき)に北方と孫文との戦も始ま る筈だ。その時の為に、少しでも力を付けておかなければ。
趙起の基本方針は衛を安定させる事にある。ここさえしっかりと押えておけば、東孫に圧力を加える事 が出来、孫全体に対しても影響を与えられる。窪丸がいずれ落ちるだろう今、もう一つの要となるこの衛 まで奪われる訳にはいかない。
子庸との戦より数日が経った。散り散りになって逃げていた兵達も多くが投降し、趙起は更に数千とい う兵力を得ている。 彼らの大半は孫に忠義を示したのではなく、言ってみれば成行きで逃げる破目になったのだろう。だか ら投降すれば罪に問わない、それどころかすでに投降している者達と区別なく取り立てられると解れば、 わざわざ強盗や山賊に身をやつす意味は無いのだ。 その為多くは投降したが、未だ趙に仇(あだ)なそうとする者達が居る。 趙起は投降兵の中から信用出来そうな者を選んで幾つかの賊討伐軍を編成し、衛各地に派遣する事にし た。彼らならば賊と化したかっての同胞を探すのもそう難しくはなかろう。
趙起は衛安堵の為に様々に手を打っているが、この間、大きな状況の変化があった。窪丸がとうとう陥 落したのである。その上、白祥が討ち死にした。鏗陸と胡虎は何とか逃げる事が出来たらしいが、その為 に白祥の命を必要としたのだろう。 全滅してもおかしくない状況だったのだから、まだ良かったと言えるのかもしれないが。惜しい人物を 亡くしたものだ。孫文の猛攻を受けながら被害を抑えられたのも、窪丸が今まで持っていたのも、他なら ぬ白祥の力である。彼なくして、今の趙はなかっただろうし。趙深の大戦略も実行不可能であったろう。 窪丸と共にあり、窪丸を滅ぼさぬ事だけを欲し、窪丸と共に没した。その最後は本望であったか。それ とも最後まで護り切れぬ事を、無念に思って死していったのか。 白祥の死を無駄にせぬ為にも、これ以上孫文に侵攻を許す訳にはいかない。そして窪丸を何としても取 り戻さねば。 趙起は対孫文用に賊討伐軍とは別の軍を編成していた。これは趙起自らが率いる予定であった衛の主力 軍であり、衛全土から集めた五千の精兵達である。勿論、そうは言っても衛兵自体の練度が低い為に、そ の響き程の力はなく、孫文相手にはいかにも不安であるが、趙深から与えられた役割をこなす程度なら充 分に役立つ。 衛軍は主に窪丸から来る孫軍を牽制し、動きを封じる役割を担う。つまり、孫文が別働隊を作り、東城 への補給線を乱そうとしたり、何か別の手を使おうという動きを見せれば、その都度それを封じる、或い は破る役目である。 別働隊を孫文自身が率いる事はないから、衛軍でも五分以上に渡り合う事が出来るだろう。 孫文が自由に動く事以上に恐ろしい事はない。自ら軍を率いて来るような無茶をやったのだ。そこには 並々ならぬ覚悟があろう。やれる事は全てやってくる筈である。自らが派遣した子庸まで敗れたのだから、 孫文の誇りと威信は大きく傷つけられている。最早自ら全力を持って大勝利を挙げる以外に、彼の採る道 は無い。 白祥の善戦により、思ったよりも疲弊しているようだが、間者からの報に寄れば、窪丸には一万もの兵 が健在だという。その上、中央から増援が送られてきているらしい。 西方に対する兵を割いてでも、順次北方攻めへと投入するつもりなのだろうか。次々に兵を交換しなが ら強引に圧して来られれば、確かに脅威である。 この一戦に賭けているのか。孫文にとってもここが潮なのかもしれない。いや、孫文であれば賭けなど という言葉は使わぬか。彼は今北方を容赦なく滅ぼすべしと決めたのだ。孫文も今となっては楽に勝てる と思っていないだろうが。自分が敗北するなどとは微塵(みじん)も考えていないだろう。 東孫が敗北という恥を晒し、子庸までが恥の上塗りをした。孫文は腹が煮えくり返る思いであろう。し かしそれでいて尚、彼は自らが負けるとは考えていない。孫としての戦略が崩れたとも考えていない。 実際、それは崩れていない。確かに苦しくなってはいるが、孫の力は依然強大である。東方の一部を趙 起に奪われたとして、何であろう。切り札というべき孫文自身が健在である限り、決して孫は敗北した事 にはならない。孫文が勝っている限り、孫という国は崩れない。 窪丸陥落で解るように、孫文の力は衰えていない。自惚れでもなく、傲慢(ごうまん)でもなく、確か な力を今も持っているのだ。 孫文が一万強の兵を持ち、北方へ本気で侵攻するとなれば、その目論見通り、北方をずたずたに切り裂 く事すら或いは可能である。 趙起が子庸軍を破った事は誤算でも、例えその為に衛から援軍が送られ孫文の行動が狭められるとして も、その心は揺らぐまい。勝利を疑わず、その力も衰えない。 連戦で疲弊しきっている北方が、果たしてどれだけ持ち堪えられるか。北方と衛を合わせて尚、孫文に 対するには力が足りない。充分に準備され、余裕のある場合ならまだしも、様々な面で苦しい今、力が明 らかに足りない。 孫文に勝つのは不可能。窪丸の時と同様、滅ぼされぬよう必死に護る事しかない。滅亡の時を幾らか伸 ばす程度が関の山であろう。 ならばどうするか。 鍵は北方でも東方でも中央でもない、西方にある。孫に打撃を与えられるのは、現状西方大同盟だけで ある。西方が本気で手薄になった中央を突いてこそ、初めて孫に大きな打撃を加える事が出来る。孫文に 心理的打撃を与える事が出来る。 北方と衛に出来るのは、西方が中央へ侵攻できるだけの力を回復するまで、孫文の猛攻に耐え続ける事 だけである。 情けないが、いかに知略を尽くそうと、策を使おうと、圧倒的な力の前には無力である。足止め程度な ら可能だが、打ち勝つ事は無理なのだ。今の北方にそんな力は残されていない。 孫文が今率いている軍勢は、孫文が温存していた虎の子の決戦兵団である。東孫のような兵でも、西方 を攻めていた兵でもない。それらすら軽く捻るような恐るべき力を持つ軍。長く孫軍を防いでいた白祥で さえ一刀に斬り伏せるような力。その前には趙深もまた無力。 子庸も孫文の動きに呼応し、何か仕掛けてくるだろう。子庸もこのままではいられない。孫文は決して 彼の失敗を許すまい。もし子庸が生き延びられる道があるとすれば、その敗北を取り返して有り余る程の 功を示す事だけである。 孫文同様、子庸にもまた退けぬ理由がある。
衛付近にて子庸軍の動きが活発になっている事が確認された。彼が最前線に居た事と、目論見通り付近 の拠点から密使が送られてきた事が、子庸発見を早めてくれた。 どうやら子庸は退却した後、衛陽に近い、深撫(シンブ)という拠点に入り、軍を立て直していたよう である。 深撫とは元々は地名で、その付近につの字形に伸びた川が存在し、その形がまるで手を深く差し伸べて いるかのように見える為、誰かがそう呼び出したものがいつの間にか定着した名だったが。その傍に在っ た街までがいつの頃からか通称として深撫と呼ばれるようになり、それが何らかの理由で正式な名称にな ったのだと伝えられている。 だが深撫の付近は草原に覆われており、その名の由来である筈のつ形の川とも2、3kmは離れ、遠い為 だろう、川は積極的に使われていない。それ故、もしかしたら元々はもう少し川の近くにあったのが、氾 濫(はんらん)が多いなどの理由で移転させたのではないか、とも考えられている。 どちらも古い話でその真偽は解らないのだが、今この街が深撫と呼ばれている事には間違いない。 子庸は深撫に篭り、衛陽を窺っている。これでは衛を離れられない。編成した北方への援軍も、斯か百 に任せるしかないだろう。残念だが、目の前にある不安を残したまま衛を離れる事はできない。 子庸も暫く動けないだろうと考えていたのだが、甘かった。彼の手勢は優秀であるようで、忠誠心も他 の兵とは段違いに強いようだ。逃亡する者もおらず、士気は依然高い。中央から一緒に連れてきたか、特 に選りすぐってきたのか。これだけは張子の虎ではなさそうだ。 孫文の動きを封じる筈が、逆に子庸によって趙起自身が封じられてしまっている。笑えない冗談である。 敗北しても子庸はその役目を最低限は果たしたという事か。 笑い飛ばす事も出来ず、衛の防備を固めながら、趙起もまた子庸の様子を窺い続けるしかなかった。 |