13-3.不穏という存在


 間者だけではなく、張耳からも様々な情報が入ってくる。彼は今も相当気にしているようで、秦との婚

姻(こんいん)同盟の話が流れてから、必要以上と思える程に協力的になってくれている。

 楓流は毎回気にするなと述べているが、かといってその好意を断る事はしない。

 詳しい事は胡虎が戻ってくれば解るのだろうが、それには暫く時間がかかる。商央と范緒に会うのが目

的とはいえ、表向きは秦への親善の為の使者となっている。その歩みは遅々としたものだ。

 これが急ぎ来るようであれば秦やそこに行くまでに通る国々が何事かと不穏に思うだろうし、本心は一

刻も早く辿り着きたくとも、各市町村にて歓待を受けながら余裕をもってゆったりと進む必要があった。

面倒な事であるが、使者というものは言葉だけではなく、その態度によっても知らせなければならない。

 むしろ言葉よりもその姿の方が重要であり、わざわざ胡虎を向かわせたのもその為である。楓流が昔か

ら胡虎を重用してきた事は秦もよく知っている。故にその胡虎が行けばこそ伝えられる心がある。楓流と

しては商央、范緒という二功臣と会うのと共に、婚姻が流れた事は気にしていないのだと秦に伝える役目を胡

虎に課しているのである。

 胡虎ならば過不足なくどちらの役目もこなすだろう。

 だから使者に心配はないのだが、とにかく時間がかかる。今は張耳からの確かな情報だけが頼りである。彼

ならば間者が探りだせない内部情報まで得る事が出来る筈だからだ。

 張耳から知らされる所に寄れば、魯允は双か楚への婚姻を進めるつもりであり、それを隠しもしていな

いとか。商央と范緒の二人が、楓との話が流れたというのに、それから日も経たずに他国と婚姻を計るな

ど礼儀知らずも甚だしく、そんな事をすれば秦は厚顔無恥であると子々孫々まで語り継がれるであろう、

と反対し。言い返す言葉が無かったのか、魯允も一度その案を引っ込めたそうだが、それで諦めるとは思

えない。

 楓との婚姻話をなかった事にするという事にもこの二功臣は張耳と同じく反対し。それは姫にとっても

国にとっても非常によろしくない事だと言い続けていたのだが。魯允はいつの間にやら多くの家臣達を味

方に付けていて、功臣といえどもそれを無視する事はできず、反対し続けつつも、最後には大勢に圧される

ようにして黙認するしかなかったらしい。

 そしてこの事がまた王に少なくない影響を与える事になり、自然と魯允の権威を増す事にもなってしま

っている。

 そこまで魯允の発言力は高まっているのだ。一度反対された程度で諦める訳がない。むしろ反対された

事で益々息巻いている筈で、更に発言力を増す為に日々暗躍している事だろう。

 三功臣の功績が大きければ大きい程それを妬む者、危険視する者が増え、それらを取り込む事は難しく

なくなる。

 三功臣が潔癖であるが故に、欲深な者達も様々な事を自重せざるを得ず、心の底では随分不満に思って

いたが。そこに魯允という派閥が生まれ、私腹を肥やす道が出来。彼らを今まで押さえつけていた三功臣

の言さえ退ける事が出来る。

 これは非常に魅力的な話だ。多くの者は必ず興味を示す。

 一人一人はとてもその功績に及ばぬし、実際今まで秦を導いてきたのは三功臣であった。しかし三功臣

だけで国を動かしてきたのではないし、とても動かせるものではない。その下には多くの人間がおり、そ

の一人一人は黙殺される程度の威しかなくとも、その者達が居て初めて国は動く。その力は決して小さく

ない。むしろ束ねれば最も大きな力となろう。

 魯允は重臣だけではなく、そこから一段低い役職の者達にも取り入り、更に下へ下へと根を張りながら、

勢威を伸ばしている。いつの間にか彼らの代弁者としての立場を得ていると言ってもよく。今まで燻(く

すぶ)っているしかなかった彼らの言葉が魯允によって伝えられ、その言葉によって国を動かせるとなれ

ば、正に魯允こそが英雄である。彼らの不満も幾らかは晴れ、その分だけ魯允の人気が高まる。

 そして魯允は王の信頼を勝ち得るという訳だ。

 何処にでも不満を持つ者はいる。冷静にその数を数えれば、あまりの多さに驚く程に。それが取るに足

らない不満である事も多いが、数もまた力である。圧倒的な一つの力よりも、小さな無数の方が強い。その

事を楓、そして孫との関係の中で学んだのだろう。

 元々人の負の心を利用する事に長じていたが、楓流同様魯允もまた経験を積む事でその能力を進歩させ、

着実に成長を遂げているようだ。

 政治を重臣達の勢力争いと見るだけではなく、下の者の不満を絡める事で、その謀略の効果と幅を広げ

ている。愚かしいが故に手強い存在。それが魯允。

 勿論二功臣の人気と評価の方が高く。魯允も全てを味方に付ける事など出来る訳がないから、功臣を失

脚させる事はとても無理であろうし。現状では三功臣の言葉だけが王に匹敵する重みを持つ事に変わりは

ない。しかし魯允の言葉は、それが彼一人だけの言葉ではないが故に、時にそれ以上の重みを持つ。

 魯允の言葉が二功臣を上回る事態も充分ありえる。

 魯允も何も秦を滅ぼそうとしている訳ではなく。彼なりに国の為に力を尽くしているのだろうが(それ

がその国にとって良いか悪いかは別として)、どうも能力以上の発言権を求めたがる癖がある。

 楓流が不安を覚えるのはそこであり、時に悪意ではなく善意によって国が滅びる事を知っているから、

魯允を危険視している。

 悪意ではなく善意によって害を為す。だからこそ厄介であり、魯允には気の毒な言い草だが、悪そのも

のであると言えるのだ。

 商央と范緒も魯允派をこれ以上大きくさせないだけで手一杯であるようだ。魯允派が大きくなるに従っ

て内部での小競り合いも増え、秦臣内に不和が生まれている。それが全ての仕事を遅らせ、時に放ってお

けない問題となり、その後始末やら善後策やらに追われ、魯允にまで手が回らなくなっている。

 三功臣という仕組みが生まれたが故の弊害といった所であろうか。三功臣が有能であるが為に、自然に

皆が彼らに頼るようになっていき、今では功臣が動かねば始まらないという態である。三功臣が家臣を引

っ張っていく筈が、いつからか功臣が皆をおぶさって歩くようになっていたのだ。

 張耳は秦を離れ、魯允という問題が現れてようやくこの事に気付き、自らの不徳を恥じたが。今更後悔

しても始まらない。

 秦の為、家族の将来の為と張り切ってきた事が、かえって秦を害する結果になった。これでは我らも魯

允を笑えぬと、張耳はすっかり落ち込み、その表情からも目立って生気が失せている。

 庇護し諭すだけではなく。部下を信じて頼り、自立させる事をもう少し考えるべきだった、と心底後

悔しているのだ。

 秦は結局最後は三功臣がやるという図式が定着しており、そこにこそ魯允の付け込む隙があったのだ。

そういう意味では三功臣も共犯者と言えなくもない。効き過ぎる薬が害になるように。有能過ぎる事もま

た害をもたらすらしい。

 張耳はこの事に気付くとすぐに態度を改め、商央と范緒にも手紙を送ってこの事を知らせたが。それだ

けで解決する問題ではない。これから変えていくにしても、あまりにも時間がかかり過ぎる。魯允派が邪

魔もしよう。

 そうなれば西方四家の周、呉、韓が放っておくまい。下手すれば秦に付いていた国家が他へ寝返る事も

ありうる。

 秦の下に付いている国にも、今ではそれぞれに他の三家を嫌う理由が出来ている。しかしそれを滅亡し

てまで遵守しようとは誰も考えまい。秦が西方四家の座から落ちる事も、考えられない事ではない。

 だが外に敵が居る限り、西方という繋がりは決して消えはしない。そこにどんな感情があろうとも、外

敵が居る限り大同盟は揺るがない。

 西方は西方という一大国家になっていると言っても良い。その点では北方同盟など比較にならない強固  故に秦が力を失っても、新たな一家が持ち上がってくるか、西方四家が三家に変わるだけであろう。

 しかし西方の勢力図が変化すれば、楓にも大きな影響が出る。

 見過ごせない問題だ。

 楓としても今はまだ秦との繋がりを失う訳にはいかない。

 とはいえ楓流に一体何が出来るというのか。

 双と楚に秦と婚姻を結ばぬよう釘を刺すか。だがそのような事をすれば、例えその効果があったとして

も、後日波風を立てさせる原因となるだろう。双と楚がその縁組に乗り気であるかどうか解らぬし、今焦

って動いても良くない結果をもたらすだけだ。

 ここはやはり情報を集め、それぞれの本心を知る事から始めなければならない。

 楓流は楚に鏗陸を使者として発し、明慎には双の内情をそれとなく調べてくれるよう頼んだ。明慎は表

面上は双から追放された形になっているが、その裏では強く繋がっている。口が堅い男であるからどこま

で教えてくれるかは解らないが、双に不利益にならない範囲でなら教えてくれるだろう。

 明慎は今も頑ななまでに双への、いや双王への忠義を守っている。それを崩す事は、おそらく双王でさ

え不可能である。

 しかし双を離れた今、頼れるのは明慎だけだ。趙深に相談すれば良い知恵を授けてくれるかもしれない

が、いつまでも彼ばかりに頼る訳にはいかない。楓流も趙深も、楓流が趙深の居る場所まで辿り着く事を

望んでいる。ここで趙深に頼ろうとすれば、永遠にその差は埋まらない。

 楓流は自分の届く範囲にある力だけでこの事態を乗り切るしかなかった。



 胡虎がようやく秦から戻ってきた。

 紹介状のおかげで商央、范緒の二人と繋がりを得る事は出来たが。二人は多忙であまり会う事は出来な

かったらしい。しかし彼らが魯允の事を危険視しているのは楓流以上で、知っている限りの事を教えてく

れたそうである。

 魯允の方は胡虎が居る間、病気だの何だのと理由を付けて会うのを避け、とうとうその姿を最後まで現

さなかったらしい。楓に対して申し訳なさを感じている筈はないから、おそらく敵視されていると思い、

近付くのは危険だと判断したのだろう。

 魯允はあくまでも楓の敵としてあり続ける。例え楓から手を差し伸べたとしても、彼はその手を握ろう

とはすまい。魯允は臆病で警戒心が強い。一度縁が切れれば二度と交わろうとはしないだろう。彼はそう

いう心で楓と縁を切った筈である。魯允にも覚悟がある。

 秦王からは親しく歓待され、婚姻の件について謝罪の言葉を受けたが、それ以上は言及せず、その事に

はもう触れて欲しくないようであったという。楓に申し訳なさを感じているようであったが、その態度を

見るに、婚姻話が再び持ち上がる可能性は無さそうだ。

 重臣達の反応は好意的と嫌悪が半々と言った所か。功臣派と魯允派に二分され、それぞれが無用に敵視

しているように見えたという。特に魯允派がいちいちつっかかるような感じで、諍(いさか)いを望んで

いるようにも感じられたとの事。

 他国からの使者の前でそのような姿を見せる事は、魯允派にとっても良くない事だと思えるのだが。そ

こに気が回らないのが魯允の愚かな所と言える。彼は、いや彼らは自分達の身の回り、ごく近しい場所に

しか目がいかず、それ以外を考えようともしないらしい。

 そういう意味でも脅威を覚えるような相手ではないが、かといって捨て置けるような勢力でない事もは

っきりしている。魯允派はもう半数に及ぶ家臣に影響を与えており、その全てが魯允に賛同している訳で

はないとしても、その力は大きなものである。

 場合によっては国政を左右する力となるだろう事も見て取れた、と胡虎は言った。

 商央、范緒に寄れば、魯允は我が物顔で王に献策するようになっていて、まるで王の右腕にでもなった

かのように振舞っているそうだ。楚の姜尚にでもなったつもりなのだろう。王の師となる事を望み、或い

はすでにそうなっていると錯覚しているのかもしれない。

 私意ばかりではなく、純粋に国の為に進言する事もあるようだが。その意見も功臣からすれば愚かしい

限りで、あまりにも思慮がなさ過ぎる。調子の良い事、見せ掛けだけの言葉を吐いたりもし、それがどち  確かに魯允の言うように出来れば良いのだが。現実的に実行可能とはとても思えず。こうすればいい、

こうするべきですという言葉も抽象的なもので、縦横家、弁舌の徒としては良くとも、実際に何をどうする

のかと問えば、全く理を成していない。

 どうすれば良いか程度は解るものの。ではどうすればそこへ辿り着けるのか、その方向へ持って行ける

のかが、魯允自身も解らないようだ。もしかしたらそれを考えるという頭が初めから無いのかもしれない。

 彼は空虚であり、内には何も無い。

 自分の考えはあっている、だから失敗は常に他人の能力不足のせいであり、自分には全く非は無い。そ

のように考えているからこそ自信に満ち溢れ、自らを省みる事もしない。

 常に自分は正しいのだから、間違っているのは他人なのである。

 最も肝心な部分が抜け落ちているからこそ恥も感じず、人間的にはなんら成長しないまま生きていける

のであろう。

 そして不思議にも、そうだからこそ付いていく者が居る。無責任に縦横無尽に権力を揮(ふる)い、自

分に非を感じる事は無い。人の中で最も有害な存在だが、それだけに楽であり、誰の目も気にせず我がま

まに行動出来る。そこに魅力を覚えるのだろう。それは子供が子供に感じる魅力である。

 言わば魯允はそういう人間の身勝手さの象徴であった。誰の中にも潜み、押さえ込みは出来ても決して

消せはしない不徳の心が、形を取って現世に現れた姿である。

 そこまで言うのは大げさかもしれないが。そういう極端な存在であるからこそ、人を惹き付ける負の魅

力があると言える。

 想像していた以上に厄介な存在であると商央、范緒はすでに理解しており。魯允に対抗する為には楓流

の協力が不可欠である、と彼らの方から楓と好(よしみ)を結ぶ事を、胡虎が言い出す前に、申し出てくれた

そうだ。彼らも困り果て、今は少しでも味方が欲しいらしい。彼らの苦悩が察せられる。

 最後には秦と楓の友好の為、そして張耳の為に力を貸して欲しいと、頭まで下げたらしい。

 その言葉の全てが真意であるかは解らないが、それを差し引いても彼らの頭は軽くない。いかに張耳の

紹介状があるとはいえ、初対面の人物に頭を下げるなど異例である。

 その上彼らは自分達が動くのは不味いから、信用のおける人物を選んで、楓にも情報を逐一知らせると

言っている。もしかしたら張耳には知らせたくないような事もその中には含まれているのかもしれない。

でなければ張耳と別に楓流にまで使いを寄越す必要はあるまい。

 であれば、楓流が予想している以上の不穏が、秦にはあるのかもしれない。そこに居る商央と范緒だけ

が感じ取れるような。

 胡虎が帰ってきた事で解った事はこれくらいであろうか。二功臣と好を結ぶ事が出来たのは大きな収穫

であるが、新たな不穏が感じ取れた事を忘れてはならない。

 秦だけの情報では足りない。西方の他の三家の情報、更に双と楚の情報を加える事で初めてそれらが実

を結ぶ。秦だけでなく、大陸の情勢を見て考えなければならない。

 西方の情報は今の所、商央、范緒からの知らせを待つしかない。胡虎もそこまでは手が回らなかったよ

うで、他の三家に関しては大雑把な情報しか得られなかった。二功臣と話す時間を多く得られなかった事

も理由としてはあるだろう。



 胡虎に続き、楚へ送った鏗陸が戻ってきた。こちらは秦へ行くよりも迅速に進む事が出来、距離が近い

事もあってさほどの時を必要としなかったようである。

 楚は今まで同様内政に努め、国の安定を最重要視している。姜尚が斉に行った後も方針は変わらず、そ

のまま踏襲されているようだ。新たな事と言えば、楚と斉を繋ぐ為に力を注いでいる事くらいだろうか。

 楚としても秦と繋がっておく事は悪くなく。もし正式に秦から婚姻同盟を望まれれば断る理由は無いだ

ろう。

 もしかしたら、内々ではすでにその話が進められているのではないか。

 秦王や二功臣がそうしないとしても、魯允が単独で行い始めているという可能性はある。それならばそ

の密約を知る事は不可能である。

 楚は楓に遠慮はするだろうが、かといって楓にも口を挟めるだけの理由はない。反対は出来ないだろう。

 姜尚が知れば止めるかもしれないが。彼が楚に居ない今、その全てを把握する事は不可能であり、迅速

に対処する事も難しい。斉だけで手一杯である今、姜尚にその役割を望むのは酷というものだろう。

 姜尚がそこまで楓に肩入れする理由も無い。

 すでに北方同盟として協力し合う時は過ぎている。姜尚、そして双も、敵対は望んでいないだろうがそ

れだけである。味方だと考えるのは虫が良過ぎるというものだ。

 明慎に頼んでいた双の方はと言えば、これも楚同様に大きな動きは無いそうである。あってもどこかの

重臣との間での内々の話であり、具体的なものにはなっていない、と彼は言う。

 それにそういう話はありえない事だ。秦は確かに勢威があり、それなりに歴史も重ねている。しかし大

陸西端の国など蛮族にも等しく、始祖八家の正統である双家とは比べ物にならない。もしそんな話が出て

も、双がそれを承知する筈が無い。そんな事をしようとすれば、それこそ双内に大きな騒乱をもたらす事

になるだろう。

 妻を娶るとすれば王である、双正(ソウセイ)にという事になるだろうが。家柄のはっきりしない者と

の婚姻など、認められる訳がない。双正が妻に迎えるとすればまず双のいずれかの重臣の娘であろう。

 双と秦の婚姻など、初めから不可能である。

 だが魯允はそういう他人の事情など考慮すまい。厚顔にも正式に申し出る可能性はやはり否定出来ない。

そうなればその事が波紋を起こす事は避けられず、双との間に亀裂が生じ、双と結んでいる周が黙っては

いまい。その成否が問題ではなく。双にそれを申し込む事自体が火種になるのである。

 これも注意しておく必要があった。

 しかし他国に火種が生まれるとすれば、それは楓にとっての好機となる可能性もある。直接矛を交える

事は勘弁したい所だが。外交的に何らかの功を成せば、貸しを作る事が出来るかもしれないし。上手くそ

の乱を利用すれば、何らかの利を得られる可能性はある。

 楓流は更なる情報を得るべく、その方法を模索(もさく)し始めた。

 その為には使者や明慎、趙深の諜報網だけでは足りない。楓流の持つ間者団をもっと強く成長させる必

要があった。




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