14-10.波打つ意志


 張耳は前線にて兵力を集めながら、集縁に向けて何とか呉韓と一戦交えてもらえないかと打診した。

 この希望には無理がある。無理があるが、それでも他に方法を思い付かない。苦肉の策である。

 だがしかし、例えそれが出来ていたとしても、果たして呉韓に脅威を覚えさせる程の効果があったかは

疑問だ。呉韓も国境付近には最低限の兵力を集めている。それが一日二日で落とせるとは考えられない。

それを知っている呉韓は結局集縁、楓軍を無視するであろうし、今は例え多少領土を奪われたとしても、

秦を滅ぼす事を優先させるだろう。

 そうなれば秦の劣勢は変わらず、むしろ犠牲を覚悟して攻めてくるだけ、余計に性質が悪くなると考え

られる。

 甘繁はそう返答した。彼も辛いがどうしようもない。しかしここで秦本国が崩れてしまっては、集縁も

楓もどうにもならなくなる。そこで何とか双を味方に出来ぬかと楓流に相談した。秦だけでは駄目でも、

双と色んな意味で関係の深い楓ならば、いや楓流ならば、何とか出来ないかと考えたのである。

 楓流も最早惜しんでいる場合ではないと判断し、自ら双王に掛け合う事を約束して、すぐさま双へと出

発した。幸い、呉韓が第二波を繰り出すまでにはまだ少し時間がある。第二波が起こる前に双へ行く事は

難しくない。整備された水路を利用して飛ぶように翔け、双都、至峯(シホウ)へと到った。

 双は平穏そのものである。

 皆他人事だと考えているのだろう。実際、他人事だ。秦がどうなろうと、呉韓がどうなろうと、双には

関係ない。西方で何が起ころうと対岸の火事でしかなく、双の力は揺るがないと考えている。

 例えそれが楽天的な見方で、もし秦が滅亡するような事になれば、いずれ双にとって呉韓という国が非

常な脅威になるのだとしても、今それを気にかける者は少ない。

 それが民だけならまだしも、王宮内においてさえそうであった。重臣達は相変わらず堅苦しいしきたり

のみにこだわり、今がどういう時なのか、大陸の情勢がどうなっているのか、を理解しようともしない。

彼らにとっては王宮のみが大陸であり、王宮以外に興味は無い。目の前の場所だけが全てであり、王と重

臣のみが栄えていればそれで良い。他を目にする事も、気にかける必要もない。

 何処で何が起こっていようとも、目の前にないものは関係ない、という訳だ。

 そういう近視眼的な考え方こそが国を滅びへと誘うのだと、理を尽くして述べたとしても、彼らは決し

て変わるまい。何故なら、それがもう身体の細胞一個に到るまで染み付いてしまっているからだ。今では

その不健康であり、浮世離れした考え方そのものが、彼らの精神と肉体を形作っている。三つ子の魂百ま

でも、という言葉があるように。幼き頃に刷り込まれたものは、易々と抜けはしない。例えその為に己が

身を滅ぼす事になるとしてもだ。

 だから楓流に初めから彼らを説き伏せるようなつもりはなく、ただ王である双正(ソウセイ)のみに願

い、聞き入れてもらうつもりであった。

 それが重臣達や双の民から見れば不遜以外のなにものでもない行動だとしても、例えそれ故に後に禍根

を残すような事になるとしても、絶対にやり遂げる意志を持って来ている。それをしなければ、もし今秦

を助け、呉韓の侵攻を止める事が出来なければ、楓もまた滅びへと近付くしかなくなるのだ。それだけは

避けなければならない。

 身勝手といえばこれ以上それに相応しい行動はないとしても、楓流はそれを慎むつもりも、遠慮するつ

もりもなかった。義兄弟であれ、兄として、弟である双正に是非ともそうさせる。表面上はいつもの如く

冷静な顔をしていても、楓流の内部はいつ吠えるか解らぬ火山のように滾(たぎ)っていた。

 とはいえ、その感情に身を任せ、自侭に振舞う気は無い。しきたりは守り、双式の礼法に則って双正へ

と面会を乞い願う。

 私としては義兄弟。しかし公としては王と王。しかも双は領土だけで言えば大陸随一の勢力となってい

る。楓流自身と趙深がそうさせたのだ。楓と双の力の差は痛い程に解っている。そして立場の違いという

ものも。

 双には秦と呉韓の勝敗を決するに足る力がある。しかし楓にはその力が無い。

 双は(それが現実と浮き離れているとしても)余裕がある。しかし楓も秦も窮地(きゅうち)にある。

 これだけの差がある以上、楓流の立場も非常に小さくなる。彼の強みは義兄弟と双正との繋がりという

点にあるが、それとても双正以外の人間からすればどうでもいい事。むしろ煙たく思われている筈だ。何

故王はこのような者を買っておられるのかと。

 双正が楓流、いや楓流の養父に感じている魅力は、双正以外の人間にはとても理解出来ないものだ。だ

から重臣達にこれ以上不快感を与えないよう、慎まなければならない。

 慎む。全てを慎む。謙虚であれ。素直であれ。自分など捨てよ。それだけが今の楓流の力だ。全てを捨

てる事で、初めて生まれる力もある。そうである筈だ。

 堅苦しい作法の後、楓流は双正の御前へと通された。

 そこは正に過去の遺物。今は何処にも無き、ここにしか残っていない場所。空間。空気。

 始祖八家の失われた権威を宿す、最後にして唯一の場。

「楽にされよ。他の者は皆下がれ」

 ここでは双正の言葉だけが唯一つの現実であり、権威であった。



「多少、俗気が出てこられたようですね」

 久しぶりに見る双正は楓流と同じだけ老いてはいたが、その典雅(てんが)さを失っておらず、むしろ

女性的な美しさは以前以上であった。彼だけは何も変わらず、ただ双家と共に在り続ける。全てを動かす

力を持ちながら、何もしない。何も欲しない。唯一つの事を除いては。

「恥ずかしい限りです」

「いえ、仕方の無い事です。私もまた、貴方をそうさせてしまう事に力を貸した。大陸中が俗気に塗れ、

聖賢を失って久しいこの時代が、私は恨めしい」

 双正が溜息を吐く。それは優しく、たおやかで、楓流への情に満ちているように思える。ただし余りに

も見事過ぎて、いつぞやと同じく、楓流にはそれら全てが作り物めいて見えていた。何かの美しい芸術品

が、戯れに人間を真似しているかのような、そんな風に。

「ですから、楓流殿。私の考えは何も変わっていません」

「それは、どういう意味でしょう」

「貴方が覇権を得るべきだ、という意味です。貴方こそ、いや貴方以外にそれをしてはならない」

 楓流はその時、彼と初めて会った時言われた事をはっきりと思い出した。あの時双正は、始祖八家が古

代に握っていたものを、今は失われたそれを、孫文ではなく楓流に托したいと言った。そして当時も今と

同様、双の方が明らかに力があったにも関わらず、楓を主、双を従とする盟約を公的にも私的にも結んだ

のである。

 それは一種狂気染みて思える事であった。

「しかし、未だ私にはそのような力は・・・」

「いえ、貴方は、いえ貴方達は、私にそれを証明して下さいました。貴方に次いで尊いあの方と共に、貴

方はこの双家を盛り立てて下さった。それが何故かという事も、私は解っているつもりです。私は双が、

双だけで再び立つ事を望みません。あくまでも双は従、次位でいい。でなければ、双は没落するしかなく

なるでしょう。最早始祖八家の血だけでは保てなくなっているのです。私はその血をひく最後の一人であ

るがために、誰よりも良く解るのです。いいえ、おそらくそれを本当に理解出来るのは、この大陸広しと

いえども私だけ」

 優しいが気高いその瞳に、楓流は変わらぬ決意、いや変わりようの無い決意を見た。

 双正には燃え立つような意志がある。その外貌(がいぼう)に全くそぐわない心が。

「双が動かなかったのは、双が立つ為ではありません。私は待っていたのです。待っていたのですよ、兄

上。貴方が欲するならば、我らはその意のままに。我らの全ては、貴方の物。それは初めから決まってい

た事でした。私はそれを預かっていたに過ぎません。ですから私の一存でこの国を動かす訳にはいかなか

った。他ならぬ貴方の意志が必要なのです。兄上の意志だけが。さあ、何なりとご命じ下さい。貴方のよ

うな人に托せる時を、我ら一族、長く永く待ち望んでおりました。どうぞお受け取り下さい」

 双正は誰よりも深い、おそらくは生涯で唯一人に捧げた、深い深い礼の姿勢を取り。これ以後も絶対に

楓流の目より上に視線を上げる事はなかった。常に身を下げ、悌に殉じ続けたのである。それはこの大陸

に楓流という命がある限り、決して違えてはならぬ、古よりの盟約であった。



 このようにして、言わば楓流は双の支配権を譲られた。無論、他の者はこの事を知らない。

 双は重臣による合議制で動かされてきた国だが、王の命は絶対である。そしてその王が楓流の意のまま

に動くとなれば、双を支配するも同じ。双正が意を決した以上、長い慣習を破る事になったとしても、楓

流の為に率先して動いてくれるだろう。双正の言葉を借りれば、その為にこそ脈々と血を繋いできたので

ある。

 しかし、どうしても疑問が浮かぶ。

 何故このように双正は楓流に従順であるのか。何故全てを擲(なげう)ってまで慕うのか。理解できな

い所がある。

 だがそうだとしても、その心を疑う理由にはならない。双正には楓流を騙す必要などなく、他にそうす

るだけの理由も無い。兄である楓流に尽くす。そういう理由以外に、今の彼の言動を説明できるものは無

い。双と楓の力関係を考えても、わざわざ一芝居打って騙(だま)さなければならないような理由は無い

のである。

 考えられるとすれば、楓流、趙深によって双という国が再び勢威を取り戻せた、という点だが。双正が

その事に対してさほど恩義を感じる必要は無い。楓流も趙深も当時は双に臣従していたのだ。双の為にい

くら働こうともそれは当然の事で、双は遠慮なくその利を受け取れば良い。二人とも双の中に居て、双の

力を用いてそれを成した。ならば双がその結果としての利を受け取らない理由が何処にあろう。

 その功が賞賛に値すると考えられるなら、相応の褒美を与えればいい。それだけで主君としての義務は

果たせる。だから恩義を感じる必要はない。そうでなければ君臣というものは成り立たないのである。君

が臣に一々遠慮せねばならぬようであれば、それは君臣の位を逆にし、国を乱すもととなる。

 だからそれは理由にはならない。臣は臣。あくまでも臣である。

 それでも双正は初めに言った言葉を順守し、あくまでも弟として尽くそうとしている。そしてその後の

歴史を見ても、十二分にそれを果たしている。碧嶺(ヘキレイ)に関係した者には様々な人物が居るが。

不思議といえば、彼以上に不思議な人物は居ないだろう。

 その心を理解するならば、双正はどうしようもなく一途な男だった、と考えられる。彼はあくまでも初

志を貫き、言わばそれだけの為に生きた。自らの理想を為す為に、それだけの為に彼は生きたのだろう。

それは確かに生まれながらの貴族らしい、純粋でありながら、我侭な考えである。

 しかし、そう考えたとしても、彼の言動には理解し難い部分が多い。

 双正を理解する事など、おそらく不可能なのだろう。彼は作られたものだとはいえ、半神半人である。

人間だけの心では、とても理解する事は出来ない。

 不思議な人だ。同時代人と比べても、根本的に何かが違う。双正を理解する事は、楓流、趙深にも不可

能な事であったと言われている。だからこそ謎多い人物として、今も語り継がれているのだろう。永遠に

誰にも理解されない、可哀想な人なのかもしれない。



 双正は楓と秦との盟約を果たす為と称し、突如参戦を表明し、軍を準備し始めた。その動きは非常に鈍

重なものであったが、双の意がはっきりと示された事は大きい。

 呉韓は恐れ戸惑い、秦は喜び勇んだ。

 越と魏も驚きと共にある。

 状況が大きく変わる。特に呉韓はすぐさま態度を決めねばならない。採れる道は二つ。今すぐ矛を収め

て秦と和睦(わぼく)するか。或いは電撃的に攻め立て、双が動く前に秦を滅ぼしてしまうか。

 だが後者の方法は無意味かもしれない。いくら双が鈍重とはいえ、双軍が動く前に秦を滅ぼしてしまう

など、出来る事ではない。もし攻めて攻めて攻め立て、その意が成り、万が一秦を滅ぼせたとしても、疲

弊は一方ではなく。後に来る双軍を防ぐような力は残っていまい。となれば次に滅ぼされるのは呉韓の方

である。

 そして双は秦と呉韓の領土を平らげ、更に勢威を増す、と言う訳だ。

 双が日和見に徹すると見たから呉韓は動いたのだというのに、何故こうも早く動くのだろう。今までの

双はこうではなかった。何故今このような動きを見せるのか。理不尽ではないか。楓や秦からしきりに使

者が発せられていたとしても、それは今に限った事ではない。何故今更あの鈍重で傲慢な双が、秦を救う

為に動くのだろう。

 卑怯ではないか。そのようにも呉韓は思った。例えそれこそが理不尽な物言いだとしても、そうとでも

思わなければ納得出来ないものがある。

 疑問だけが募り、一つも晴れる事はない。それを双正の気まぐれとでも理解すればまだ良かったのかも

しれないが、そう考えるには余りにも双という国を知らな過ぎた。呉韓は双という国の本質を理解してお

おらず。自分達と同じだと考えていたのだろう。始祖八家というものが、未だ双という形を成して存在し

ているという事に、呉韓は思い至らなかった。

 悩んだ末、慎重さを失っていない呉韓は一先ず和睦を申し入れたが、秦が簡単に受け容れる筈がない。

当然のように双の威を利用して、無理な条件を要求している。それでも呉韓は受け容れるしかない。双と

秦を同時に敵としては分が悪い。ここは退くしかなかった。

 中には、いっそ秦と心中しようか、とまで考えた者も居たようだが。多くはそうではなく、その手の意

見は自然と消えてしまっている。結局は秦の条件を聞き入れ、和睦に応じる事にした。この時は呉韓の多

くが、それだけが呉韓を救う手立てだと考えていたようである。

 しかし和睦が成った後も、秦も双もその動きを止める気配が無い。呉韓が軍事行動は互いに慎むべきで

はないか、と抗議しても、聞き入れる気配はなかった。秦も双もこの和睦は一時的な停戦でしかなく、恒

久的な終戦ではないと考え、いずれ屁理屈を付けて再び攻めて来るつもりなのだ。

 呉韓は拭い難い失策を犯していた事に気付く。

 周との一戦の時の失態、あの時から呉韓という勢力は孤立していたのである。そして双は油断ならぬと

いうよりは、当てにならぬ国である。秦にも呉韓を許す気などさらさらない事は明らかだ。

 だとすれば、今和睦したとしても、当てにならない事は初めから解っていた事ではないか。呉韓が孤立

している以上、いずれ全てを敵として戦う定めにあった。すでにそう決まっていたのだ。

 双が今、先の戦で呉韓に受けた屈辱を晴らすべく動いたとしても、何ら不思議は無い。秦が侵攻される

まで待っていたのも、秦、呉韓、双方を疲弊させようとの考えからだろう。呉韓は双に欺(あざむ)かれ

たのである。

 双王を知らぬ呉韓は、双が動いた理由をそう見た。

 確かにそう考える他、理解出来ない事であったのかもしれない。

 誰にでも、理解できぬ事はある。それを忘れた時、即ちそれが驕りとなるのだろう。

 双正という人間を考えれば、双の動きに何ら不思議はない。楓流が兄として頼みに来る事、兄として自

分に命じる事、それが双正の望みであり、喜びであった。そう考えていれば良かったのだろう。

 そういう人物だと受け容れてしまえば、何もおかしな所はなくなる。例え何が理解できずとも。



 呉韓は窮している。和睦して尚、窮地にある事は変わらない。

 何しろ和睦の条件が、呉韓が秦への侵略行為で得た領土全ての返還、である。それに応じたのだから、

呉韓がどれだけ窮していたかが解るし、今も窮している理由が解る。全ての利、全ての優を捨てなければ、と

ても和睦が望める状況ではなく。そして呉韓にとって悪い事に、この戦に関わる全ての勢力がそれを理解

していたのである。交渉の余地など無かった。

 結局、呉韓には大きな疲弊だけが残っている。得た物を失くし、くたびれ損に終わった事で、将兵の士

気も揚がらない。国民も不満を抑えられない。呉韓政府への反感が強まっている。

 その上、結んだ和睦も一時凌ぎでしかなく、遠からず態勢を立て直した秦か、準備を整え終えた双が攻

めてくるのは必定。状況は悪くなるばかりで、改善の方法も見付からない。

 双秦とははっきり敵対する格好になっているし、周囲を囲む残りの国、魏、越もまた呉韓に敵意を抱い

ている。勝手に和睦してしまった以上、蜀も怒っているだろう。最早味方してくれはすまい。

 それでもどうにかして味方が欲しく。遠く楚にまで使者を発し、何とか協力してくれまいか、ここで秦

と双が勢威を伸ばすようであれば、楚にとっても良からぬ事態となる筈だ。などと説いてみたが、楚は、

いや姜尚は全く聞き入れなかった。

 姜尚は西方諸国が容易にまとまらない事を知っている。例え双秦が呉韓を滅ぼしたとしても、それで平

穏に治められる筈がない。双秦の対処によっては、また乱が起きよう。楚と斉が首を突っ込む必要はない。

放っておけば自滅の道を辿る。もしそうならなくとも、双秦は弱みを抱えたまま生きていかねばならない。

どうとでも手が打てるだろう。

 それを知っていて、落ち目の呉韓に協力するなど愚の骨頂というものだ。

 となると後は無理でも何とか蜀を筆頭とする中諸国との関係を回復し、もう一度協力し合うしかないの

だが。呉韓が双秦と勝手に和睦してしまった為、蜀だけが宙に浮いた格好になっている。

 確かに蜀ははっきりと宣戦布告している訳ではないが、こういう状況であれば、そして都合の良い事に

集縁と楓の軍、そして衛、布、伊推の軍がすぐ側にまで来ているからには、早晩屁理屈を付けられて攻め

込まれてもおかしくない。

 蜀もまた窮地に陥っていた。例え呉韓ともう一度協力したとしても、どうにもならない。機はすでに去

ってしまった。

 蜀はそれをよく解っており、呉韓が蜀を簡単に見捨てるという事がはっきりした以上、都合良く使われ

て共倒れにさせられては堪らないとばかり、すぐさま集縁の甘繁に接触し、全ては呉韓の陰謀であり、我

らはそれに巻き込まれたに過ぎず、初めから秦とも楓とも敵対する意志は無かった、と釈明して、蜀とも

和睦してくれるよう望んだ。そしてその上で悪辣非道な呉韓を倒す為に協力しようと申し出たのである。

 蜀の首脳部は甘繁にせよ、楓流にせよ、無慈悲な事はしないだろうと見当を付け。それならば早々に降

伏する方が被害も少ないだろうし、ついでに呉韓を売っておけば、秦と楓の意識が呉韓へ向けられる。注

意が他に向いている間に、蜀もまた新たな計画を立てられるだろう、とでも考えたのであろう。

 しかし楓流も甘繁も蜀が考えているように甘くはなかった。蜀の降伏を受け容れれば、この国はこれか

らも暗躍を続け、将来に渡っての禍根となる。早々に根を断っておかなければならない。

 だがこの地で戦を起こしたくないのもまた事実。

 武力で蜀を滅ぼすのは難しくない。面倒な事を考えず、一息に滅ぼす。そう出来れば話は簡単だ。だが

この地にも複雑な感情が入り乱れている。事は蜀を倒して終り、という訳にはいかない。

 蜀の降伏を蹴ったとなれば、中諸国の動きは恐れから反楓、反秦へ一気に傾き。例え勝てぬでも命の限

り戦おうと考える者が現れるかもしれず。そうなれば表面上だけだとしても、まとまりつつあったこの地

方に、再び乱が起きる。

 何しろこの地には野心家が集っている。少しでも可能性があるならば、或いは自分の立場が危うくなる

とすれば、彼らは決起し、おそらく団結して、命を賭して戦う道を選ぶだろう。その為にこそ、彼らはわ

ざわざ不安定なこの地方を選び、集ったのであり。自分の立場を守る為ならば、何でもするだろう。

 降伏が通じないとなれば、滅びまで戦うしかない。

 乱が起これば、集縁も楓も軍をこちらに長く割かねばならず、双と秦本国もこの動きを無視する事がで

きなくなる。そうなれば呉韓や子遂などが何を企まないとも限らない。

 だから今は戦を起こさず、蜀を無力化する必要があった。

 そこで楓流と甘繁が着目したのは、蜀王の存在だ。

 知っての通り、現在蜀の実権を握っているのは、先王を倒しその権力を乗っ取った有力将軍である。こ

の蜀将が全てを決め、動かしてきた。周辺の勢力を呑み込んだのも、呉韓と共謀したのも全て蜀将の意思

である。

 だが王位の簒奪(さんだつ)、という汚名を嫌ったのだろう、傀儡(かいらい)とはいえ王自体は存続

させているし、臣にも蜀将に反感を抱いている者が少なくない。それでも治められているのは、外敵とい

う恐怖心を煽り、今は内部争いを避け、蜀としての力を付ける事が大事だ、と皆が考えるよう仕向けてい

たからである。 

 その真実を悟らせ、蜀将が本当はどういう立場にあるのかを解らせる事ができれば、蜀将は自ずから滅

びる事になるだろう。そうなれば永久にとは言わないが、暫くの間不穏を消す事が出来る。そして蜀将を

追い払い、実権を王に戻す手伝いをすれば、楓、秦は蜀と協力関係を結べ、後の関係を良好に保つ事も出

来るようになる。その場合は中諸国を安定させる為の駒として、蜀を使う事も出来るだろう。

 何も敵を敵とし続ける必要は無い。そして敵国といえど、その全てが敵である訳ではない。不思議な事

に思えるかもしれないが、敵を決めているのは必ずしも国の総意ではなく、一部の人間である事が多いの

である。だからその一部さえ取り除けば、敵対関係を解く事も不可能ではなくなる。

 例えそれがどれだけ深く、重い関係であろうと、改善する事は出来るのだ。その原因を取り除きさえす

れば、改めて交わる道も、共に進む道も見えてくる。

 方針は決まった。

 楓流と甘繁は蜀将の申し出を考慮(こうりょ)するふりをしながら、王や、蜀将に恨みや敵意を抱いて

いる人物と接触し、蜀将を失脚させる為の手筈を整え始めた。

 それと平行して民にも働きかけ、今この窮地にあるのも全ては蜀将一人の責任、皆はこの男に騙されて

いたのだ。何しろこの男は自分の主君を追い落とし、本来今の王に与えられるべき権利を全て己が手中に

収めたような奴である。このような虎狼にも似た男に治められても、国は疲弊するのみ。民は苦しむのみ。

 それに引き換え、王は慎み深く、賢明な方である。いつも蜀将の非道な行いを嘆いておられたが、常に

監視が付いていて、動く事が出来ない。今こそ我ら立ち上がり、王を解放し、蜀将の圧政を打破すべきで

はないだろうか。

 などとしきりに流させている。

 基盤の脆い政権である。一度反意を買えば保つ事など出来る訳がなく。内部に不穏な空気が満ち、蜀将

は程無く彼に取って代わろうとする将に討たれ、その短い天下を失う事になった。

 だが結局今度も王は形ばかり担がれたに過ぎず、取って代わった将(以後代将と表記する)が実権を握

り、欲しいままに権力を振りかざし始めたが。王とその側近も二度目となれば対処法を考えている。代将

の事は一先ず放っておき、集縁、楓に近付いて助力を求めながら、表面上は慎ましく暮らしてその時を待

った。

 代将も無能ではなく、機を見ることに長けており、だからこそ実権を握る事が出来たのだが。所詮はそ

れだけの男である。思うままに出来る力に酔い、次第に政治を見なくなり、遂には媚びへつらう者と身内

だけを優遇するようになって、最後は美酒に美女とお決まりの行動。

 代将が蜀将に反意を抱いていたのも、王に対する忠義などではなく、単純に彼の立場が羨ましかったか

らだ。あのような事は俺にも出来た。本来あの場所に居たのは俺であったのだ。蜀将を討ったのは、それ

だけの理由である。

 蜀将を討つ際には、彼もそれなりの大義名分を口にしていたようだが、それも多くと同じく、その場凌

ぎの虚しい言葉であった。

 当然民や将兵から反感を買う。しかも政情が蜀将の時よりも酷くなっているのだから尚更だ。初めは諸

悪の根源たる蜀将を討った彼に対し、皆賞賛を惜しまなかったが。期待外れと解れば態度もころりと変わ

る。陰で代将を罵(ののし)る者が多くなり、それを知った代将が取締りを厳しくしたものだから、更に

反感は高まっていった。

 後は簡単である。一通り代将への反意が生まれたのを見るや、王達は即座に行動に移り、今度は王主導

の下に、それが行われた。

 そしてそれは三度成功を収め、実権は再び王の許へと返って来たのである。

 蜀王は力を貸してくれた集縁と楓に対して協力的になり、他の中諸国にも積極的に働きかけたので、彼

らも矛を収め、ほとんどが秦か楓に恭順の姿勢を示し、その他の勢力も次第に大人しくなり、中諸国は血

を少なくして一先ず鎮まる事となった。

 布、伊推も警戒を怠らないまま、武装を段階的に解いていき。衛軍も衛へと戻っていく。

 無論、集縁軍も楓軍も、それぞれの国へ帰った。

 最早呉韓と組もうとする者は居ないだろう。



 中諸国が安定した事で、焦りを増したのが呉韓である。これで全ての可能性が封じられた。進退窮まり、

後は滅ぶのを待つだけ。こんな事なら、例え最終的な勝ち目は薄くとも、あのまま秦を攻め、それから双

に抗する方が良かったのではないか。秦に勝っていれば今双に属している西方諸国も呉韓に寝返ったかも

しれず、そうなれば双とも互角以上に渡り合えたのかもしれない。

 その上で蜀と連携を取っていれば、何とかなっていたのではないのか。

 そんな考えが様々な人間の頭に浮かぶ。自分達は慎重を期す余り、決定的な間違いを犯したのではない

かと。

 その答えの正否は解らないが、現状全く希望がないのだから、失われた希望にさえ縋りたくなるのも、

自然な心理というものである。簡単に言えば現実逃避であり、皆現状を認めたくはないのだ。それに何も

せず黙っていると、どうしようもない危機感に呑まれそうになる。ここは議論を激しくして、何となく何

かをしているふりをしながら、貴重な時間を浪費するしかない。

 もう止めてくれ、早く止めを刺してくれ、とでも言うが如(ごと)く。

 中には建設的な意見を述べた者も居たのかも知れないが、どう考えてもそんな言葉は希望的観測に過ぎ

ず。例え僅かながら可能性があったとしても、夢物語と笑われるのが落ちである。諦めたくはないが、も

う一度夢を見て、それから後に絶望させられる事の方がもっと嫌なのだ。それならばまだ現実逃避してい

る方がいい。そういう不健康な考えに国全体が浸っている。

 とはいえ、そういう状態も続くには限界がある。程無く、ある余計な考えを抱く者が現れた。

 その考えというのは、呉韓という勢力が元々呉と韓という別個の勢力であり、今は名義上だけのように

なってはいても、あくまでも二つの国の連合勢力である、という考えである。

 だからどうだ。確かにそうだろうが。そんな事を思い出されても、何にもならない。むしろ分裂、内乱

の原因になりそうなだけ、性質が悪い。

 だがしかし、その分裂に光があると言い出せばどうか。

 余計な考えを抱く者は更に述べる。

 簡単に言えば、呉と韓、どちらかを悪とし、全てを引き受けさせ、人身御供に出す。そうすれば、もう

一方は生き延びる事が出来る。そもそも呉と韓は敵同士だった。であれば敵を敵に売ったとして、何が悪

かろう。むしろ快い事ではないか。

 初めは語りの大馬鹿者と言われていたようだが。その内わらをも縋れとばかり信ずる者が現れ始め、現

実にこの方法を採り、実行しようとする者までが現れた。

 進退窮まり、様々な悪意が浮き出、疑心暗鬼になりかけていた時である。人々は精神的に非常に窮屈な

場所に閉じ込められていた。だからそこに一つの方向、つまり穴が開けられれば、例えそれがどんなに悪

しきものであろうと、人の心はそちらへ向かいやすい。それは暗闇で光を見付けたようなものだ。

 とにかく人は諦めずに何かをしたいのである。走り続ければ必ず光はあるのだと、どんな窮地でも助か

る道があるのだと、いつでも思っていたいのである。

 一度本気でやろうとする者が出れば、その考えが広がり呉韓の大部分を占めるようになるまでには、そ

う時間はかからなかった。

 そして呉は韓を、韓は呉を罵(ののし)り初め。互いに秦派、双派、その他に別れ、どこそこを頼るべ

き、いいやこちらを頼るべきだ、と内外問わず熾烈(しれつ)に争い始めたのである。

 こうして再び西方に乱が起こる。

 そしてこの事がまた、様々な歪を生んでいく。全く持って、人の世に安定とは、虚しき言葉である。




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