14-2.双頭の蛇


 楓流は何と言っても実際やってみなければ解らないと考え直し、一度越と交渉してみる事にした。そし

て考えられる限りの方法を試したのだが、成果は無かった。一応話は聞いてくれるし、新しき技術をちら

つかせれば乗ってもくるのだが、越の出す条件はいつも厳しい。

 越も裏に何らかの意図がある事は察しており、それを差し引いても越に利があるのでなければ、決して

首を縦には振らない。

 それに、確かに楓の技術を用いれば水路や船体を強化する事が出来るとしても、実行するには膨大な資

金、資材、時間と労力が必要である。特に水路は広く分布している為、その全ての工事を終えるまでに一

体どれだけのものを必要とするのか想像も出来ない。

 重要な箇所にだけ用いるとしても、余りにも費用が大きく。新しい技術ですよ、はいそうですか、と簡

単に行く話ではなかった。

 越は水運こそが要であるから、その向上の為なら出し惜しみはしないだろうが、これは余りにも負担が

大きい。だからそれをやるなら楓にも相応に負担してもらわなければならない、となる訳である。

 しかし越が提示する額は余りにも高く、現実味の無い金額。これでは例えそれを実行したとしても、楓

は水路の強化によって身を滅ぼす事になる。その水路が長く大陸を潤す事になるとしても、そんなものは

何の慰みにもならない。

 こうして交渉は平行線を辿り、遠からず決裂するしか無いと思われた。

 これ以上やっても互いに悪感情を残すだけだと判断し、楓流の側から一時この話を中断させる事にした

が。結局は楓流の愚かさを越に露呈(ろてい)するだけに終わってしまう事になっている。

 やはり楓流だけでは難しい。交渉に長けた者、或いは越を揺さぶれるだけの何かを持つ者の協力が不可

欠である。越とは縁がない訳ではないのだが、全く遠慮するつもりはないようである。それはそれ、これ

はこれという事か。真に商人らしい。

 一度は水路の強化を大陸的なものとして捉え、全国家で水運の向上の為に協力する、という案も考えた

のだが。それもまた現実的ではないし。例え出来たとしても、それは全ての国家を利するだけで、相対的

に見れば今と変わらないという事になる。

 いや、一国だけ大きく利する国がある。越だ。水運の便が向上すれば、例えそれが大陸全土が対象であ

ったとしても、結局は越を一番多く利する事になる。それは現状と同じ状況であると言えるが、今よりも

その差は開く事になるだろう。

 ならばその点から越を攻めてみればどうか。いや、効果は無いか。越に、では現実に計画を実行出来る

ようにしてから改めて来て下さい、とでも言われればそれで終わりである。そう出来れば良い、という事

だけでは越は動かない。交渉の材料とするには、それが実行出来るという保証が必要である。

 だからこの案は使えない。それに大陸中の国家を関わらせるとなれば、越に対するだけよりも遥かにや

やこしく、交渉も難しくなる。交渉相手は越一国に限定しておいた方がいいだろう。そうしなければ、と

ても楓一国では賄えなくなる。

 話を大きく、複雑化する事は避けるべきである。

 という訳で、何とか楓一国で越を説き伏せなければならないが、その為には交渉の材料をもっと上手く

使い、越にこの交渉が一つの重要な商談である事を認識してもらわなければならない。今のように軽くあ

しらわれているようでは、交渉以前の問題である。越も本音では楓の技術が喉から手が出る程欲しい筈。

水路まで及ばずとも、船体が強化出来るだけでも越にとってはどれ程ありがたい事か。

 より安全に、より多く荷物を運べるようになるという事は、商人にとって何よりも価値のある事だ。

 だから材料が足りない訳ではない。交渉の武器となるものは揃っている。後はその使い方だ。楓流はは

っきりとそれが下手なのである。

 楓流に出来ないとすれば、外交に秀でた者に任せるしかない。しかし一体誰に。

 結局問題点はそこに返るのであった。



 楓流は考えている。いや、ずっと考え続けていたのだ。誰に頼るかを。

 ただ頼れれば良いのだとすれば、相手が居ない訳ではない。越内の誰かと協力する手もあるし、例えば

姜尚(キョウショウ)などなら交渉もお手の物だろう。張耳(チョウジ)も悪くない。しかし他国に借り

を作れば高く付くだろうし、上手く利用されるのが落ちであろう。

 趙深(チョウシン)に相談するのも良いが、これ以上彼の手を煩わさせる事はしたくない。趙深の仕事

量を思えば、これ以上負担を多くさせると、衛の運営に支障が出るかもしれない。

 それに趙深もあまり交渉自体は得意ではないのではないか。外交政策を考えるのに長けているとしても、

それは直接交渉技術と結び付く事ではない。人を上手く説き伏せる術を持っていたとしても、越相手の商

談とは勝手が違うだろう。趙深流の交渉術は、越の交渉術とは相性が悪いのではないか。

 何故そう思うのかは解らない。しかしそんな気がする。そんな気がするのであれば、例えはっきりと解

らなくとも、何かそう思うだけの理由があるに違いない。勘というモノも一つの材料にはなる。

 趙深もこの程度の事なら楓流自身で解決する事を期待しているだろう。

 考えた末、明慎(ミョウシン)に話をしてみる事にした。彼は苦労多く、その役割から多くの人と関わ

る事が多く、自然と交渉事も多くなる筈である。その彼ならば商人にも詳しいかもしれず、何かしら得ら

れるものがあるかもしれない。

 明慎は初めは渋っていたようだが、それでも辛抱強く接しているとぽつりぽつりと答えてくれた。

 彼が言うには、交渉にはもったいぶる事と動じない事が必要であるという。些細な事でも大きく思わせ、

心中どう想っていようとも何処吹く風という顔をする。楓流のように初めから武器となる交渉材料をぶつ

けるなど愚の骨頂であり、手の内を自分からさらけ出すなど自分から敗北するようなものである。出来る

だけ手を見せず、相手を惑わす事が必要なのだ。

 それは政略戦略にも通じる事で、楓流にも理解できぬ事ではなかったのだが、それを実行するとなると

やはり難しい。明慎に外交使になってもらえないかと願ってみたが、とても自分一人では不可能だと言う

返答であった。これまでに越の商人とも知り合う機会があったが、その経験から考えるに自分だけではと

ても太刀打ちできないとの事。

 やはり専門家が必要だ。いくら方法が解っても、それを実行出来なければ意味がない。今の楓には越と

五分以上に渡り合える論客が必要なのである。

 任せるに足る人物は居ないかと問うと、明慎はやがて一人の名を挙げた。

 その名、桐伶(ドウレイ)。呉の商人である。



 楓流は明慎を従え、直接桐伶に会ってみる事にした。国として協力を仰がねばならない以上、その関係

は一度限りで終われるものではない。何がどうなるにせよ、一度関係を持てば一蓮托生としてその後ずっ

と共に生きていかなければならない。そうでなければとても国の秘事を明かす事は出来ないし、協力する

事など不可能である。

 覚悟し、覚悟させなければならない。

 桐伶が住まうのは呉の王都、蘇洲(ソシュウ)。その名が示す通り、もとは河川に運ばれ堆積した土砂

が陸地のようになっていただけの場所だったが、交通の便が良い事から小さな港が設置され、その後西方

の技術を活かして建物を建てやすいようしっかりと埋め立てられていき、港自体も次第に大きくなって、

今ではこの地方随一の都市となっている。

 河川に面した水運の便の良い場所で、今では大きな港と共に沢山の商人が店を出している。蘇洲も越に

負けず劣らずの水都といえるだろう。呉もまた商業には大きな関心があるようだ(越に対抗して、との見

方もあるが)。越に対するにも都合が良く、軍事的にも重要な拠点である。

 桐伶は三代蘇洲に住んでおり、祖父は流れ者であったから苦労したようだが、一生をかけて蘇洲の民と

親睦を深め。父の代では商売にも成功を収め。桐伶の代になると最早余所者などと言う者は居らず、大き

な商館を構えて悠々自適の生活をしている。評判も悪くない。

 趣味も多芸に秀で、その中でも特に音楽の才に優れており、大抵の楽器は演奏できる。その腕前は蘇洲

で知らぬ者は居ない程だとか。

 今更他に欲を抱く必要はなく。果たしてそんな男が楓に協力してくれるのだろうか。彼も越には悪感情

を抱いているのかもしれないが、今回楓に協力したとして、桐伶に一体何の得があるのだろう。得にもな

らない事を商人がするとは思えない。

 しかし明慎はそんな事は心配しなくていいと言う。自分に任せておけ、といつになく協力的だ。もしか

したら双正に何か言われたのだろうか。それとも珍しく情けでも見せてくれるのか。どちらにせよ、彼の

態度には腑に落ちない所がある。楓流に恩を売っておこうと考えた、程度の事ならば良いのだが。何か裏

があるとすれば、かえって事態を悪化させてしまう事になるかもしれない。

 店に入り、奥の者に明慎が顔を見せると、楓流達はすぐに店の奥へと案内された。扱いも丁重であり、

おそらくこれは明慎がどうこうではなく、その背後に双、いや双正が居る事を知っている故での対応なの

だろう。

 という事は桐伶は双と深い関係があるのだろうか。だとすれば明慎が乗り気なのにも納得がいく。双の

息のかかった者が楓と仲を深くする事は、双にとっても利になる事だ。これを双正の好意と見る事も出来

るが、やはり利害関係から考える方がしっくりくる。

 自分に都合よく解釈してしまえば、自滅を招く事になるだろう。例えそれが取り越し苦労だったとして

も、警戒する事を忘れてはならない。

 特に何事も上手くいきそうな時、その幸運こそ疑わなければならない。

 この場合もここまで手回しが良いと、以前から準備されていたとしか考えられない。

 思えばこの都に到着するまでにも何一つ困る事はなかった。それは明慎が旅慣れている為だと思ってい

たが、今考えてみると、彼がどうこうしていたのではなく、まるで自動的に、流れるようにここまで運ば

れてきたような気さえする。

 自分で移動してきたという気がしない。これは確かに疑うに相応しい理由だ。

 案内されて通された部屋には豪華な食事と美しい女達が待っていた。これも明らかに友人に対するもの

ではない。これは客に対する態度であり、それもかなり上得意の客にしかやらぬ事であろう。

 楓流はその座に迎えられる事を暫し躊躇(ちゅうちょ)したが、今更帰る訳にもいかない。覚悟を決め

てその流れに身を任せる事にした。

 桐伶は底の見えない男であった。表情こそにこやかで、物腰もやわらかい。しかしどこか油断ならぬ所

があり、何かにつけて視線を感じ、常に値踏みされているような心持にさせられた。さて買うに値する品

か、そして買うとすれば幾らで買うか。まるで自分が商品になったような気がし、楓流は落ち着く事が出

来ない。

 桐伶はそれを知っているだろうに、態度を全く改めなかったのは、あくまでもこれは商談である、利害

以外は無価値である、と楓流に悟らせる為だったのかもしれない。価値を付けるのも、買うか買わぬかを

決めるのもあくまで桐伶の方だと、そう言っているのだろう。

 もし楓流が下らぬ情に訴えようとでもしていれば、嘲笑われてそのまま追い返された筈だ。この男も百

戦錬磨の商人。無価値なものには興味を示さない。しかしだからこそ越と互角に渡り合う事が出来る。同

じ商人であれば、その手管も熟知しているだろう。確かに頼むに足る人物である。

 だが、それだけに対価が心配だ。あちらも楓が困っている事は重々承知している筈。越に門前払いを食

った事も、桐伶はとうに知っているだろう。

 一体どれだけの値をふっかけられるものか。

 しかしここまで来た以上、明慎に任すしかない。楓流は覚悟を決め、成行きを見守る事にした。

 そして動ぜず飲み、食い、静かにその時を過ごす。

 そうすると何故かは解らないが、次第に桐伶の態度が変化し、何処か小ばかにしていたような部分が薄

れ、何となしにこちらに恐れを抱き始めているかのようにも見えてきた。楓流の平然とした態度を認めた

のか、これも手なのか、よくは解らないが、何らかの効果はあったようだ。

 楓流は静かに飲み続け、明慎がいつ行動を起こすか、いつ起こすのかと期待していたが。結局その日は

顔見せだけで、何を話す事も無く終わっている。

 面食らう思いだったが、ここは明慎を信じ、不安と不満を押さえ込む。

 覚悟は、決めたのである。ならば後はその覚悟が揺らがぬよう、しっかりと押さえ付けておかなければ

ならない。一時の覚悟など、無意味である。不断の覚悟こそ、尊ばれるものだ。



 次の日も、その次の日も同じように一席が設けられたが、同じように過ぎている。何一つ進展せず、何

も変わらない。進みもしないし、戻りもしない。明慎の真意が見えず、楓流は不安が強まるのを感じたが、

それ以上は顔に出さず、静かに座を過ごし続けた。

 そして更に二日、三日経ち、楓流も流石に痺れをきらし始めた頃、ようやく桐伶が本題をほのめかすよ

うな事を口にした。楓流はよっぽど何か言おうとしたのだが、そんな事何処吹く風と適当にいなす明慎を

見、危うく己が心を自制する。ここへ来る前に彼に聞いた言葉を思い出したのだ。

 ここが辛抱のしどころなのだろう。時間がある訳ではないし、窪丸を長く離れて居たくもない。しかし

だからこそゆったりと構えて見せる。余裕が無いからこそ、余裕を持たなければならない。桐伶も楓流の

心にある不安などは読んでいる。だからこそここでうろたえて、彼が得ている情報に確信を持たせてはな

らない。いくら情報を与えようと、それに確信を持たせるまでは脅威とはならない。

 後に明慎はこう言っている。

「向こうから言わせる事です。例えそれが何であろうとも、こちらから希望を言えば自分を見せ、ひいて

は相手に弱みを見せる事になる。こちらの目的が解れば、それを利用されてしまう。だから商人相手には

ただ黙って相手が言い出すのを待つのがいい。心配しなくても、必ず相手の方から言い出してくるでしょ

う。何しろ商談を始めなければ儲けはない。こうして豪勢に歓待するのには少なくない金がかかる。儲け

にもならない事を、いつまでも続ける商人は居ない。だから待てばいい。待てば必ず痺れをきらす。そこ

が狙い目です」

 それが即ち、待つ、という事なのだろう。そして全ての交渉はここから始まるのだ、と明慎は身をもっ

て教えてくれているのだろう。

 その日が終わる前に桐伶の方が音を上げた。このまま歓待を続けさせられては、折角貯めた資金もすぐ

に尽きてしまうだろう。商人が文無しになっては終りである。それならば早々に折れた方がいい。

「解った。解った。そういう態度に出られては敵わない。このままではわしは破産してしまう。何が目的

かは知らんが、話を聞いてやろう。聞くだけはな」

 今までの堅苦しい態度が失せ、多少粗野だが人間らしい部分が顔を見せた。これが呉の商人というもの

か。その姿は越の高官とも違い、何となく山賊の親分のようにも見える。荒んだ色は見えないが、何とも

豪胆でこの世の支配者という感じだ。誰にも屈せぬ、自分は自分の道を行く、とでも言うような自信に満

ち溢れている。

 賦族の氏備世(シビセイ)とも似たものを感じる。よほど熱いものをその心に抱えて生まれてきたのだ

ろう。しかし似てはいるが、桐伶は氏備世と違い、内なる熱を自分で操るだけの余裕というのか、自制心

を持っている。これは商人として生まれ、その中で身に付けてきたものに違いない。桐伶には安定感とで

もいうべきものがある。

 そしてようやく桐伶が何を考えているか解らなかった理由が解った。彼は今まで何も見せていなかった

のだ。だから何も見えなかった。考えてみれば当然の事である。これが自分の手の内を見せない、という

事なのか。という事はそれを見せたという事は、我々が桐伶を説き伏せたという事になるのだろうか。

 しかしそんな楓流を窘(たしな)めるように明慎が囁(ささや)く。

「ほんの少し自分を見せたとしても、安心してはいけません。商人が被る皮は一枚ではない。例え皮を脱

ぎ捨てたように見えても、それで腹を見せた事にはならないのです。あれもこちらを油断させる為だけの、

それだけの態度に過ぎない。そう馬鹿正直なようでは話にもなりませんな」

 楓流はすぐに解った気になる己の傲慢(ごうまん)さを恥じた。こうであるからいいようにあしらわれ

るのだ。確かに歴戦の商人から見れば、自分など赤子のようなもの。多少経験を得てましになった気がし

ていたが、それは全くの勘違いであり、自惚れでしかなかった。

 なるほど、越との交渉で愚かさを露呈した訳だ。このように無様な事では、初めから太刀打ちできる訳

が無い。

 こうなれば余計な事は考えず。明慎のただの付き添い、弟子のような気持ちになって、そのやり方を学

ぶ事としよう。

 口を出さず、意を出さず、ただ黙って飲み食いしていればいい。動ぜず騒がず全てを明慎に任せる。で

あればこそ楓流がこの場に居る価値が生まれる。そしてその価値こそ商人が唯一人に見るモノだ。彼らは

それで全てを判断する。価値があるかないか、それだけが全てなのである。

 明慎はそこまで商人を理解しているというのに、それでも尚越商と渡り合えぬというのか。だとすれば、

よほどの難敵である。どうやら自分はとんでもない相手を敵としたらしい。今初めて自分のやっていた事、

やろうとしていた事を理解出来た。真に無知とは恐ろしいものである。

 楓流の思考を余所(よそ)に、場は進んで行く。どうやら明慎が一通りの目的を説明し終わった所らし

い。桐伶の目に興味の色が浮いているのを見ると上手くいきそうではある。いや、それもまた手管の一つ

なのだろうか。

 よくよく見極めなければならない。そして商人というものを知らなければならない。

「ほう、越賊とやりあうのか。なるほど、それでわしに協力して欲しいと。越商は我々にとっても憎き存

在。協力するのは望むところ、と言いたいところだが、わしも暇ではない。安くはないぞ」

 桐伶が己が値を吊り上げようとすれば、またしても明慎はだんまりを通し。

「そのような態度では、こちらにも考えがある」

 と脅しにきても、動ぜずだんまりで通し続ける。

 明慎は必要最低限の事以外は一切口にせず、ただ黙して待っている。相手が譲歩しないようなら、何日

でも待ち続ける。怒りもしなければ、帰りもしない。情に訴える事もしなければ、感情を見せる事さえし

ない。嫌味を言われようと、甘い言葉で誘われようと、全く聞きもせず、ただただ自分の目的だけを話し、

それを押し通す。

 相手の言葉は一切聞かない。極端に言えばそれが明慎の術なのだろう。それで全てが解決するとは思え

ないが、桐伶相手には確かに効果があった。だからこそ明慎は自信を持って堂々としていられたのか。そ

の効果を知っていたからこそ、揺るがないのだろう。

 こうして眺めていると、桐伶こそが明慎を補うに相応しい人材である事が解る。

 明慎を静とすれば桐伶は動。この二人が上手く噛み合えば、誰であれ対抗できまい。お互いがお互いを

補い合う関係とは、それほどに強いものだ。

 桐伶のしたたかさも頼もしい。彼はそれが必要であれば、いくらでも自分を抑える事が出来る人間であ

る。自分を出す事など一文の得にもならない事を知っているからこそ、それが出来るし、商売も繁盛し

ているのだろう。そしてそうであるからこそ、商いを裏切らない。商談さえまとまれば彼は信用できる。

 桐伶が商人である限り、その心は崩れない。

 明慎と桐伶の問答は暫く続いていたが、結局は桐伶が折れる形で進んだ。つまり楓は桐伶と誼(よしみ)

を通じる事となり、呉における協力者、情報源を得たのである。

 もっとも、そこから来る情報を鵜呑みにしていると、とんでもない目に遭わされてしまう筈だ。協力し

合うとはいえ、桐伶が楓の臣下になった訳でも、支配下に置かれた訳でもない。彼の立場を無視するよう

な事をすれば、即座に牙を剥くし、彼は彼の考えに従う。常に味方であるとは限らない。

 ともあれ、目的は達した。

 細かい事は奉采(ホウサイ)らと協議する必要があったが、取り合えず楓流が決められる範囲で約定を

結び、さながら桐国と同盟を結んだ格好である。

 そして楓流は、何も交渉相手とするのは国だけではない。商人や職人といったある程度の大きさがある

組織であれば、それぞれと個別に交渉しても良い。国を動かすのは政府だけではなく、むしろそういう民

間組織のようなものにこそ力があり。戦の勝敗を決する程の重要な点にもなれる。という事を考えるきっ

かけを得た。

 これは何も越に限った事ではない。国という大きなまとまりの中には、政府以外にも力在る存在、組織

が自然に生じる。どの国もそれは変わらない。

 だとすればそういうものに目を向ける事で、新たな道が見えてくるのではないだろうか。

 何かに限定しなければ、いくらでもそれは広がるのではないのか。

 その事を実感出来た事は、楓流にとって小さくない収穫であった。



 こうして楓は桐伶という同盟者を得たのだが、それで終りという訳ではない。むしろこれからが本題で

ある。越との交渉を成功させなければならない。

 その為には準備が必要だ。桐伶も店を放って好きに飛び回る訳にはいかず、明慎と越へ出向くにしても

色々と解決しなければならない事は多い。交渉時にも様々な難題が浮かび上がってくるだろう。楓流も覚

悟し、何が起こってもいいようにしておかなければならない。

 とはいえ、悪い事ばかりではない。良い事もある。

 呉商が越商を商売敵である以上に憎んでいる事は確かで、呉への憎しみは利害損得を超え、全ての民の

心に深く根付いている。一体いつから始まったのかは解らないが、今はもう憎む理由は相手が越であると

いうだけで充分であり、それ以外には必要ないようだ。

 その為か他の呉商からも協力者が出ているらしく(商人にも商人の繋がりがあり、その繋がりを無視し

て楓と一人関わる訳にはいかない。という理由で、ある程度商人仲間に話す事を許した。良い事ではない

が、仕方の無い事だ。楓もまた桐伶を信用しなければならない)、さながら反越同盟とでも言うべきもの

が呉商の中に生まれている。

 孫との戦いの中、呉もまた越から大量に物資を仕入れるしかなかったのだが。実はその間にもさまざま

な事件が勃発(ぼっぱつ)しており、状況を考慮したのか大きな騒ぎにはしなかったものの、恨みは随分

残っている。この機会にその恨みを存分に晴らしてやろうと息巻いている者も居るようだ。

 これはありがたい事だが、余り話を大きくされるのは不味い。楓と越の交渉が、呉対越という図式にな

ってしまうような事になれば、桐伶を味方にした事が逆効果になる。

 嫌っているのは何も呉の側だけではない。呉が越賊と呼んでいるように、越もまた呉を呉奸と呼び蔑(さ

げす)んでいる。呉の商人を交渉の場に連れて行くという事は、余計に話を拗らせる事になりはしないか

と、楓流は不安になるのである。

 勿論桐伶が交渉の場に出る時は呉の商人という立場では行かず、名ばかりでも楓臣として行く訳だが。

桐伶は名のある商人、越がその存在を知らぬ筈がなく、どれだけ隠したとしてもいずれはばれる。そうな

った時に越がどう思うだろう。その態度を硬化させてしまうだけではないだろうか。

 しかしそれこそ今更言っても仕方が無い事かもしれない。呉の商人と手を組もうと考えた時点で、そう

いう可能性は視野に入れておかなければならない問題だ。今更言うのは、それこそ愚かというものだろう。

対策を立てておく必要はあるが、いつまでも心配していても仕方がない。

 その事を心配するようなら、いっそその事を前提にしてものを考える方がいい。ばれたらどうしよう、

ではなく、ばれるものだとして物事を考えるのである。水路利用について考えた時と同じように。

 楓流は明慎に当面は越との外交に専念するように命じ、越との外交一切を任せる事にした。

 そして明慎が準備を整える間、自身は情報収集に精を出し、少しでも勝ち目が見えるように努力してい

る。桐伶がどういう人物かも見極めなければならないし、楓流にもやれる事はいくらでもあるのだ。



 明慎が準備をし始めてから一月近くが経ち、その間も楓流は越相手に交渉を続けていたが、やはり芳(か

んば)しい成果は上げられていなかった。明慎が準備しているのが言わば本戦であり、楓流の役割は越と

の仲を保つだけで良かったのだが、彼としてもそれだけでは満足できない。過剰とも言える責任感が彼を

突き動かすのである。

 だが焦りが状況を悪化させる事は充分知っている。あまり突っ込んだ事は言わず、慎重に少しでも関係

を良く出来るよう努力していた。交渉を自分の手で進めようというのではなく、交渉しやすい場を容易す

る為に励んだのである。

 明慎から交渉の心得を学び、桐伶を知る事で少しは商人というものを知る事が出来た為か、以前よりは

まともに話が出来るようになっているし、越も多少は考慮してくれるようになった。だがまだまだ越から

見れば子供のようなもので、体よくあしらわれている事に変わりない。でも越が楓を甘く見ているという

事は、それはそれで利のある事であったし、楓流はそれだけで満足する事にしている。

 出来るだけの事はやったのだ。

 後は桐伶と明慎の準備が整うのを待つのみ。

 そしてその時はすぐそこにまで近付いていた。




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