14-3.双蛇、相喰らう


 桐伶を密かに窪丸へ連れて行き、明慎の血縁として明開(ミョウカイ)という名を与え、外交使に任命

した。窪丸内での住居も与え、形ばかりは楓の臣という格好である。これで桐伶は二つの名を持ち二重生

活を行う事になるのだが、桐伶としてもそちらの方が都合が良く、喜んでそれを承知している。

 彼もまた自分の行動が内外へ知られる事は避けたい。無論、隠し通すには限界があるだろうが。言い訳

にできる何かがあった方がいい。それに外交使という重要な役割を果たすのであれば、楓臣という立場が

必要なのである。故にこれは隠す為というよりは、便宜的な処置であった。

 これは良い手でも良い事でもないが、かといってどうこう言う者は、今の所は居ないだろう。もし越を

必要以上に侮辱したり、その権威を無視するような事をすれば、桐伶の事を問題にしようと企むかもしれ

ないが。呉の臣下ならまだしも、一介の呉商を味方につけた程度で文句を言われる筋合いはない。

 越が呉を嫌っているのを知っていながら呉商を連れてきたのは、越に対する不敬ではないのか。と問わ

れれば、だからこそ改めて楓の臣にしたのだと言い。それでも文句を言われるようならば、桐伶を切って

しまえばいい。

 桐伶が居なければ交渉は上手くいかないだろうとしても、その時は諦めるしかない。越もそこまでされ

れば楓にそれ以上文句は言えないだろうから、話はそれで終わる。

 要するに、それだけの事である。良くも悪くも事ははっきりしているのだ。初めからそれを覚悟すれば

良かったのである。

 楓流は全ての準備が終えるのを待ち、明慎、明開を伴って自ら越へと向かった。自ら行く事で、彼の今

席にかける覚悟を示したつもりである。成功しても失敗しても、この次は無いのだと。

 そう、勝負は一度限り。会えば手の内を全てさらす事になるのだから、二度目は無い。もしこれで上手

くいかないようなら、楓流はきっぱり諦める。そういう覚悟で向かっている。



 越の都、網畔(モウハン)は、以前楓流が趙起(チョウキ)として訪れた時とは比べ物にならない程賑

わっていた。

 水運に関する権利を得た事はやはり大きい。運ぶ荷の量、売りさばく品の数は目に見えて増え、孫との

戦が終わった事もさして影響が無いように見えた。

 網畔は大陸の水運の一大拠点であり、商業の中心地と呼ぶに相応しい姿となっている。

 明開はそんな姿を見て悔しさを隠せないらしく。

「ここは荷の出発点に過ぎん。だから集まっているのだ、それだけの事だ。運輸商は儲かっているだろう

が、どうこういう事はない」

 などと言っていたが、明らかにその表情には焦りの色が浮かんでいた。噂には聞いていた筈だが、それ

を実際に目の当たりにするのはまた違う。このままではいずれ呉も越に取り込まれてしまうのではないか、

という危機感が湧いてもおかしくはない。

「しかしこれなら奴らが言うほど金に困ってはいまいよ。楓が出さなくとも、自分達だけで賄えるだけの

金はある筈だ。強気に出ているのも単に値を量っているだけだろうよ」

 明開は悔しがるだけではなく、冷静に分析もしている。流石は名立たる商人といった所か。そして見た

事から察せられる事を楓流にも丁寧に一つ一つ説明してくれる。案外面倒見のいい人物なのかもしれない。

もっとも、その裏に何らかの意図があるのかもしれないが。

 越の繁華なのを見、これに楓の技術が加われば偉い事になる、と考え。何事かを目論む可能性はある。

味方になっているとはいえ油断ならぬ相手だ。常に秤(はかり)にかけ、どちらに利があるかを量ってい

る筈であるし。注意していなければ何をされるか解らない。

 呉越の関係を考えれば、越に味方する事は無いと考えられるが、それも果たしてどこまでのものか。

 もし楓から与えられる以上の利を提示され、それが納得のいくものであったとしたら、呉人とて越と手

を結ぶ事もあるのではないか。それが商人ならば尚更である。

 楓流には商人には客とそれ以外という考えのみで、敵も味方も存在しないのではないか、という不安が

ある。それを心配してもどうしようもないのだが、利を求める、という事だけを見て考えれば、当然出て

くる不安だ。呉人でも越人でもない彼には、その関係が本当の所はどうなのかが解らない。

 しかし例え楓の技術が越を利する事になったとしても、越と楓の関係が強化されればそれだけ楓を利す

る事になる。そして楓が利すれば、その分だけ明開にも利が入る事になる。その後ろに商人連がついてい

るとしても、桐伶は呉国としてではなく、あくまでも一人の商人として楓流に付いている。ならば彼を利

する事が出来ている間は、いずれにせよ信用できるのではないか。

 呉越の悪感情があってもなくても、どちらでも同じ事ではないのか。

 それにもし桐伶一人が勝手な真似をすれば、呉の商人連は怒り、呉で商売できなくなるだろうし、楓と

の関係も消える。残りは越しかないが、越も新たな火種になりそうな厄介者は受け容れない筈だ。桐伶が

楓と呉を裏切る事に、利があるとは思えない。気を付ける必要はあるが、それ程心配する必要はなさそう

である。

 楓流は明開の話を聞きながら、そのような事を考えていた。残る明慎もそんな二人に意識を向けるでも

なく、彼は彼で何やら考えているようだ。明慎の心は常に双にある。越が余りにも栄えている姿を見て危

機感を抱き、今後の双と越との関係に思いを馳せているのかもしれない。

 そう考えるとこの三人はまとまりに欠け、心もばらばらと言えるのだが。越に対する心だけは、網畔を

見て一つに固まる事になった。それは水運の余りにも大きな利とそこからくる恐怖心。越をこのままにし

ておけない、という感情が等しく芽生えた事は、彼らの連帯感を強める事に成功している。

 そしてここから対越同盟というような感情が生まれていく事になる。

 楓、呉、双、この三国共に、越の現状には危機感を抱くに充分である。個々の思惑がどこにあれ、越を

脅威と見なした事は変わらない。ならば越を敵とする限り、この三人は協力していける。

 不安は数多あるが、今はそれが理解できた事だけで充分であった。

 そして越商が待ち構える場所へと到着する。

 いよいよ、時が来た。



 越からは、まずは一晩ゆっくりと休まれ、旅の疲れを落とされるがいい、という申し出があったのだが。

気遣いはありがたいが心配は無用である、として楓流はその申し出を断っている。

 以前のように体よく隔離されては堪らないし。越が楓王に危害を加えるような事はないとしても、何処

か信用ならないのが越である。重要な交渉であるから一時でも早く席を設けていただきたい、と言って押

し通す事にした。交渉さえ先に済ませてしまえば、この辺の駆け引きは無用になる。不安材料は極力減ら

すべきだ。

 それに越には今日到着する事を前々から知らせていた。旅の日程も変わっていないし、予想到着時刻に

もほとんど狂いはない。まだ準備が出来ていないなどと言われる筋合いはなかった。

 越もこれを退けるのは得策ではないと判断したのか、割合あっさりと了承している。初めから一種の挨

拶(あいさつ)、成功すれば儲けもの、というようなもので、型通りの問答であったのかもしれない。

 それを証明するように、通された場にはすでに主だった面々が待っていた。

 まず王である越獅(エツシ)。そして越の実権を握っている、毛廻(モウカイ)、清楽(シンガク)、

郭把(カクハ)、越豹(エツヒョウ)を代表とする越でも指折りの大商人達。郭申(カクシン)、清鐘(シ

ンショウ)と言った軍人を除けば、全て揃っていると言っていい。この顔揃(かおぞろ)いで威圧しよう

とでも言うのか、或いは他の意図があるのか。どちらにせよ、とうに準備を終えていた事は明白である。

「ようこそお出で下さいました」

 まずは王直々の訪問という事で全員が立ち上がり、越獅が代表して軽く礼をし、楓流達三名がそれに応

える形で返礼する。それから両国同時に座に着くと、すぐさま議論の応酬が始まった。

「それは現実的ではありません」

「あまりにも話が大き過ぎませんかな」

「やはり楓国にもそれなりの事はしていただかなくては」

「左様。余りにも虫のいい申し出だと言わざるを得ませんな」

 楓流の言葉に、毛廻、清楽、郭把、越豹の四商が答える形で交渉は進められていく。傀儡(かいらい)

に過ぎない越獅は全く口を出せず、最初の挨拶と最後の調印のみが仕事である。にこやかな表情を取り繕

っているが、その目元に暗い影があるのを楓流は見て取れた。立場を理解していても、いや理解している

からこそ思う所があるのだろう。

 多少可哀想にも思えたが、楓流にはどうする事もできないし、するつもりもない。こちらから厄介事を

作るつもりはないのだ。ただこの事は覚えておく。後々利用できる機会が訪れるかもしれない。

 四商の方は越獅など全く考慮せず、見事な連携を見せている。普段はどうか知らないが。共通の目的、

つまり共通の利の為ならば協力も惜しまないのだろう。まるで役割分担をしているかのように、途切れな

くそれぞれに要点を突いてくるのが憎らしい。よく気が合うものだと皮肉りたくもなってくる。

 この段階で楓流だけではとても対抗出来ない事ははっきりしていた。言葉に詰まる事も増え、こめかみ

辺りに汗が滲む。一言えば十、いや四十返ってくるのだから、どうしようもなかった。彼程度の弁舌の才

ではとても抗する事が出来ない。

 質問を返しきる前に新たな質問をされ、頭は次第に混乱して考える力を失い、一つ前の事さえ満足に覚

えていられなくなる。

 楓流は頑張ったが、全く歯が立たなかった。

 止めを刺そうと四商が牙を剥く。

 しかしそれをかわすように楓流が座り、その後に明慎と明開が立ち上がって口を開いてからは場が一変

した。

 明慎が四商の質問に事細かく、しかも正確に答え。負けじと四商が新たな質問や意見を繰り出そうとす

ると、それが口を出る前に明開が逆に質問などをしてそれらを潰す。

 二人ともまるで四商が何を言うのかを初めから解っているかのようであり、楓を侮っていた四商は面食

らってしまったのか、次第にこの二人に圧倒されていく。

「水運の権利を握ってからの収益を見るに」

「何も一度に支払う必要はないのですから」

「皆様方にもこの技術の価値は理解出来る筈。それ以上の対価を望むなど論外でしょう」

「そう仰るのであれば、こちらも考え方を変えざるを得ませんな」

 明二人は相手方の質問を一つ一つ潰し、その上で質問を返すと見せかけて自問自答、自己完結するよう

な論で一気に捲(まく)し立てる。四商は追い詰められ、先程の楓流同様、次第にその言葉と考える力を

失っていった。

 そして最後に楓流が立ち上がり。

「つまり、これが妥当であると考えられます」

 と最終案を突きつける事で全ては決まった。

 今後細かに修正する必要はあるだろうが、越側の主張に対する答えは事前に全て用意されており、しか

もそれぞれが概ね妥当な正論である為に、さしもの越商も言うべき言葉が見付からないようである。恐ら

く諦めてしまったのだろう。彼らも引き際というものを心得ている。それを無視して我を通せば、恐るべ

き損害を出す事を、重々承知しているのだ。

「両国の発展の為、共に尽くしましょう」

 越獅の言葉と共に二人の王が礼を交わし、長く楓流を悩ませてくれたこの問題も、余りにも呆気なく終

わった。

 言い負かされた格好であったのに、不思議と越獅の顔が晴れやかに見えたのが、他の四商と対照的であ

り、印象的であった。



 楓流達は与えられた部屋に入り、旅と大仕事の疲れを落としている。最早余計な策は無用と考えたのか、

前と違い明二人の部屋が楓流の隣室に用意されている事に楓流は感じ入った。解りやすいというべきか、

徹底しているというべきか。無駄な事はしない性分であるらしい。

 交渉は上手くいった。明二人が充分に用意してくれていたおかげで、労せず説き伏せる事が出来たのだ。

時間はかかったが、その甲斐(かい)はあったと言うべきである。初めに王の楓流が自ら話すという珍し

いやり方も、全ては二人が見出した策。こうする事で相手を油断させ、その手札を一つでも多く見てやろ

うという考えであった。

 それが功を奏し、今安らかに眠る事が出来る。二人も今頃は別室で喜んでいるだろう。いや、もしかし

たら新たな商談でも考えているのか。

 楓流は目を閉じ、そのままゆっくりと眠りに落ちた。

 朝起きると明慎が現れ、数日網畔に滞在する事を申し出てきた。楓流も思う所あったので、それを越側

に願い、許可を得てやっている。思う所とは、今回の交渉で起きる変化を肌で感じる為と、今後の為に手

を打っておく必要を感じた事である。

 明慎達が何をするのかは解らないが、それを止める理由は無い。間者は付けるが、行動を制限しない。

何をするのか興味がある。

 ただしその対価という訳ではないが、幾つか彼らに命じてもいる。

 楓流は楓王としてここに来ている。軽々しく動く訳にはいかず、例え動くにしても当然のように多くの

護衛という名の見張りを付けられてしまう。その数は前回の比ではなく、全く身動きが取れなくなる事も

想像出来る。

 それに王自らが不穏な動きをしたとなれば、越に与える印象は大きく、両国の仲に深い溝を作る事にな

りかねない。あくまでも慎重に行動する必要があった。

 だから外へ行く用事は明二人に頼るしかない。彼らにも見張りは付けられるだろうが、その数は少なく、

ある程度は身軽に動ける。自分で出来ないのは歯痒(はがゆ)く不安だが、越に無用な警戒を与えるより

はましである。

 そして楓流は楓流で、無為に過ごすのは勿体無いと思い、思い切って越王に会見を申し出てみた。越側

は迷ったようだが、断る理由も無いので応じる事にしたようである。王が王に会見を求めているのだから、

断るのはよほどの理由が必要である。そこまでして断る意味は無いと判断したのだろう。

 越王は飾りであるので執り行う仕事も多くはない。せいぜい文書に目を通して調印するくらいか。もし

かしたら有無を言わさず調印させられているのかもしれない。ともあれ、楓王からの申し出という事で(勿

体付けただけだろうが)、その日の内に時間をとってくれた。

 四商の内の誰かが同席するかと思ったのだが、楓との条約の事で忙しいらしく、意外にも二人で会う事

が出来ている。

 無論、給仕などの中にお目付け役が混じっているだろうし、警護兵も居る。しかしその人数は少なく、

よほどの事が無い限り話を邪魔されまい。ゆっくり話を出来るというのはありがたかった。場所も謁見の

間のような公的な場所ではなく、応接室のような私的な場所で、広々としていて採光も良く、空は曇り気

味であったが、案外明るかった。互いの表情がはっきりと見え、話をするに何一つ不自由はない。

 越獅は初めから機嫌が良く、父親のような年齢の楓流に対しても臆せず、王として堂々と振舞う。自分

の役割を良く理解しているようで、傀儡に甘んじながらも、自分の考えを持って少しでも越の為に働こう

としているのが見て取れた。

 こういう心を四商は喜ぶまい。はっきりと疎んじられているのか、越獅も時折彼らの事を不満そうに述

べる事があった。

 楓流は越獅の為に四商の不満を述べない方がいいと心配してやったが、その程度の事は今までにも何度

か言っているらしく、全く意に介していない。それでも彼が王で居られるのは、年齢がまだ幼い事と、力

ある外戚を持たない都合の良い存在が他に居ないからであろう。

 過ぎれば報復されようが、少しばかり言っても許してもらえるのだ、と越獅は笑っていた。気の毒に思

ったが、それを言うと、生きていられるだけましだ、と返してくる。それに王になった事で母と親類に多

少は楽をさせる事が出来ているし、自分の立場をどうこうしようという心も、四商を出し抜こうという意

思も無いのだとか。

 しかし四商があまりにも自己の利益のみを考える事への不満と不信はあるから。

「あの者達を皆様が言い負かした時は、流石に喜びを隠せませんでした」

 と言って朗らかに笑う。

 考えていたよりも成熟しており、肝が太く、自らの命を羽のように軽いものだと悟っていても、全く動

じる様子がない。利発で心根も良く、成長すれば見事な人物になるだろう事が、今の段階で充分に察せら

れた。もしそれまで生き延びる事が出来、誰か有力者が手を貸したとしたら、きっと越獅は四商など比較

にならぬ名君になるだろう。

 しかしだからこそ、後五年もすれば追い払われるか、最悪処分されてしまう筈だ。上手く立ち回ればも

う少し生き延びられる可能性もあるし、傀儡に甘んじているなら一生を王として過ごせるかもしれないが。

臣が実権を握っていて、優れた王が生かしておかれた例は少ない。

 人が恐れるのは自分よりも優れた者である。特に自分の後から生まれた者。自分が老いさらばえていく

中で、それを嘲笑うかのように逞しく成長していく者には、誰もが非常なる敵意を、いや恐怖を抱く。

 四商が壮健な内は良い。しかし彼らが衰えを感じた時、或いは越獅に脅威を感じた時、そのまま王とし

て生かしてはおくまい。王位をしかるべき者に譲らせたとしても、王として様々な内情を理解していよう

から、結局は邪魔に思われて殺されてしまう可能性の方が高い。

 邪魔者も用済みも等しく処分されるだけだ。

 そして越獅自身もそれを知っているからこそ、その命を軽いものだと悟っているのだろう。

 そう思えば同情心が浮かんでくるが、ここで楓が余計な手出しをする事は、越獅の為にならない。越獅

に力を持たせれば、必ず追い落とされる。彼を生かす為には、無力のままで居させる必要があった。少な

くとも、今は。

 考えるに、それを楓流が理解していると思ったから、四商もあっさりと二人で会う事を許したのかもし

れない。確かに越獅の代わりは居ないが、その気になればどうとでもなる。越獅はその程度の存在でしか

ないのだと、楓に釘を刺しておこうという思いも、そこにはあったのかもしれない。

 しかし楓流が考えていたのは、そのように単純な事ではなかった。四商に誤算があったとすれば、楓流

が越獅の将来のみを視野に置き、成長して生存していられた時の事を考えていた、という点にある。

 今回越獅に会ったのも、何も今すぐ利用しようというのではなく。将来的に使える駒になる可能性のあ

る人物を、自分の期待通りの人物であるか、王になって尚その心を保っていられるのか、見極めたかった

だけなのである。

 そういう目的から言えば、今回の会見は非常に実のあるものとなった。越獅は期待以上の人物であり、

都合の良い事に自らの運命を教えるまでもなく悟っている。そして悟っている上で自暴自棄になるのでは

なく、少しでもやれる事をやれる内に行おうと、四商とは別に考えている。

 これこそ正に楓が望む越獅の姿であり、利用するに格好の存在であった。

 とはいえそれだけでもなく。楓流は利害関係とは別に、越獅に対して個人的に好意を抱いた。その心に

は楓王としての思惑があるとしても、好意までが消える訳ではない。出来ればこの男を生かしたいと考え

ているし。将来的に四商を蹴落とし、越獅に実権を握らせ、信頼のおける同盟者としたいとも考えている。

越獅ならば信を置くに足る。無論、今のまま育ってくれれば、の話ではあるが。

 要するに紀の紀陸同様の役割を、彼にも期待できると考えているのだろう。そしてそれは越獅自身にと

っても必ずしも悪い事ではない。四商への不満がある以上、越自体を滅ぼすような事でない限り、越獅は

楓と手を結ぶ道も考えてくれる筈だ。

 有能な人物であれば、いずれ恐るべき敵となる可能性を秘めているが。例え越獅が敵となってもそれは

好敵手という関係となり、不快なものにはならないように思えた。不思議だが、彼と話し合う事でそうい

う確信を得ている。こちらが卑劣な事をしない限り、相手もまたそうしない、とでも言うような。

 楓流は快い気持ちでまた会う約束をし、帰るまでの数日の間、時間が空けば越獅と話し合う時間を設け、

じっくりと話し合った。彼と個人的な繋がりを持つ事は、この時の楓流にとって何よりも優先すべき事だ

と思えたのである。



 余り長居するのも不審に思われるので、楓流達は三日滞在して後、越を発った。明二人もそれぞれに目

的を果たしたらしく、機嫌よく従っている。

 そして楓流は長い船旅の中で、彼らから例の報告をゆっくりと受けた。

 楓流が彼らに命じたのは、郭申と清鐘の二将についての事である。出来れば彼らとも会見の席を設けた

かったのだが、流石に他国の王が軍部と関わりを持つ事は許されない。

 他国の王が軍の将と親しくする。これが例えば同郷であったとか、以前矛を交えた時に互いの力量を認

め合ったとか、そういう理由があり、公的な会見の場で親しくしたならまだ解る。しかし個人的に会うと

いう事は、それだけで相手国に大きな不安を抱かせる。

 それは将をそそのかして反乱を起こさせはしまいか。引き抜かれはしないか。という不安である。

 軍とは純粋な力。武力という人間の持つ中でも一番解りやすい力である。だからこそ古来より常にその

動向には敵味方問わず注視し、一軍の将が大きく歴史を動かしたような例も少なくない。だから一番信頼

のおける者を置く訳だが、いつもそう出来るとは限らないし、もしそう出来たとしても、それだけで安心

できる訳ではない。

 有能な将が王の不審から殺された例も多くあるし、逆に将が王を殺す例も少なくない。とかく軍とは大

事に到りがちであり。その刃が鋭ければ鋭いほど、どちらにとっても脅威となる。その扱いには神経質に

ならざるを得ず、他国の王と会わせるなど以ての外だ。

 しかし楓流はこの二将を買っていた。出来れば腹心の部下にしたいとまで考えているし、白祥(ハクシ

ョウ)亡き今、二将のどちらかでも居ればどんなにありがたい事かと思う。無理を承知でどうしても繋が

りを持ちたかった。

 確かに、この二将は野望とかいう脂ぎった心をさほど持っておらず、権力争いにも興味が薄い。その上

四商の血縁であり、越を裏切るという事はまず無い。例えその心に何かしらの気持ちがあったとしても、

越を裏切る事は無いだろう。どちらも愛国心が強く、生粋の軍人らしいさっぱりとした心を持っている。

 惜しい人物であるが、それだけに手が届かない。

 だが戦となれば軍部を握っているこの二将の独壇場となるだろうし。敵となるにせよ、味方とするにせ

よ、仲良くしておいて損はない。それに未来は誰にも解らないものだ。一つの可能性を考えて手を打って

おく事も、決して無駄ではあるまい。

 だから明二人に話し、この二将の事を調べ、そして楓流がくれぐれもよろしく言っていたと伝えるよう

命じたのである。二将も楓流が趙起(チョウキ)であった事は知っている筈。以前会った時に受けた好意

を思えば、決して無下にはしない筈だ。大した効果は望めなくとも、こうして細やかに気を配っておく事

は、人の好意を得る上で小さくない効果を及ぼす。全ては積み重ねである。

 楓流はこれと見込んだ人物に対しては、惜しまない。楓に居る間は無理だが、こうして側に来ている以

上、挨拶程度はしておくのが人情というものだろう。

 明二人の報告に寄れば、この二将も四商よりは越獅に対して好意を持っているらしく、その扱いには

同情的であるという。それに四商の度を越した態度にも、上下関係を重んじる軍人としては不満を抱いて

おり。血縁である郭把、清楽との仲にも以前以上にはっきりとした溝が生まれているとか。

 これは越では常識とも言える事で、二将は隠しもしていない。それは軍には自分達が必要だという絶対

の自信の裏返しともいえるが、楓にとって悪くない感情である。これから後も出来る限り情報を集めてお

けば、いずれ使える時がくるかもしれない。

 後は明二人が越で何をしたのかが気になる所であるが、付けさせていた間者から大した事は聞けなかっ

た。相場や商人の事を調べているようだったが、それ以上の事は解らなかったとの事。まあこれは予期し

ていた事だ。何かしていたとしても、彼らが簡単に尻尾を出すとは思えない。今は良しとしよう。

 越との交渉は上手くいったのだ。これで万事解決とはいかないまでも、計画を進める事が出来た。随分

回り道をしたような気もするが、それもそれでいい。欲は出さぬ事だ。

「急がば回れ、急いては事を仕損じる、と言うからな」

 楓流はこの成果に満足する事にし、今後に備えてゆっくりと船内で身体を休めた。幸い酷い船酔いに煩

わされる事も無く、無事楓に帰り着く事が出来ている。

 明開は、いや桐伶は途中で別れた。楓にて褒美と成功を祝した宴を開くと申し出たのだが、これ以上店

を離れる事はできないという。ただし褒美だけは後で送ってくれと言う所が、抜け目ない商人らしい。く

れるものは遠慮なくいただく。そういう姿勢も見習うべきだろう。

 だがそれだけに油断ならぬ相手である。桐伶という繋がりを得た事が、果たして良かったのかどうか。

 今更言っても仕方がないが。迷いが無いと言えば、嘘になる。




BACKEXITNEXT