14-4.西状流動


 楓が越と正式に結んだ条約内容は、楓が技術提供をする代わり、必要な資金や資材の大部分を越が負担

し、完成した水路の使用権は楓越両国にある、というものであった。

 しかしこれでは完成した水路しか使えず、それが出来るまでに余りにも多くの時間を無為にしてしまう

事になるので、これとは別の条項に現在ある水路の使用権を楓にも認めさせる事を定めた(そうさせる為

に相応の出費があった事は言うまでもない)。こうする事で目的であった水路を利用した諜報活動が可能

になる。

 だが勿論越も水路を諜報活動に用いているし、水運が肝であるだけにその監視は非常に厳しい。水路を

使う以上越の目から逃れる事はまず不可能であり、その全てが悟られる訳ではないにせよ、誰が何処から

何処まで利用したか、どこからどこに何日滞在していたか、程度なら簡単に越に知られてしまう。

 この事は常に覚えておく必要があるだろう。水運に関する事では越が全てにおいて上手である。

 とはいえ、使っていればそれをある程度防ぐ術も見付かるだろうし、時には出し抜く事さえ出来るかも

しれない。越へ行く筈の情報も自然と流れてくる。目論見通り情報を共有する程の事が出来るかは解らな

いが、越と深く関わる事で見えてくる事はあるだろう。

 越の内情もそうであるし、越獅など個人の事もそうだ。今回越に近付く事で、様々な事が見えてきた。

越は今上り調子であるが、そうであるが故の弊害を、歴史上のどの国とも同じように、その内に深く抱え

ている。越を代表する四商の仲も一枚岩という訳ではないし。先王に対する感情も各々違うだろう。越一

族もまた同意して行ったとはいえ、皆が皆全てに納得している訳ではあるまい。

 利害関係から賛意は示したが、内心はどう考えているのか、真意はどこにあるのか、謎は多い。それに

各々全く別の野望を抱いている筈である。それが一時交わる事があっても、永久に交わり続けられるとは

思えない。いずれ目に見える時が来る。欲に囚われている限り、真の平等と平穏は訪れぬものだから。

 楓はそれが露になる時を待てばいい。

 だから越の事は取り合えず置くとしよう。

 楓流は早速水路と越を使って西方の情報を集めた。国政に関する事から市井(しせい)の噂まで、それ

こそ蟻も漏れ出ぬように集めている。今はとにかく情報を集め、そして全てが何処へ向かっているのかを

見定めなければならない。例え小さな事であっても、それが後々大きく作用してくる事もある。疎かには

できない。

 全ての状況が大きく変わり始めているとしても、はっきりと見えてくるまでにはまだ多くの時がかかる

だろう。

 それまでに力を蓄えておかなければならない。楓一国を護り抜く力、そして集縁を取り戻す力を。



 これより暫く、台風の目のように表面上は平和な時間が楓の上を流れていく事になるのだが。その間に

一つ問題が持ち上がっている。

 それは秦との婚姻同盟の話だ。

 以前もその話が持ち上がった事があったが、魯允(ロイン)の横槍がきっかけで流れてしまった事はす

でに述べた。そして魯允はこの秦姫を楓ではなく、双との婚姻、或いは他の西方勢力か楚との婚姻に使う

べきだと考えていたのだが。その計画を乗っ取る格好で三功臣が双との同盟を婚姻以外の方法で結んでし

まい、その結果魯允の力が急速に失われる事になって、ふと気付いてみれば秦姫の事が宙に浮く格好にな

ってしまっている。

 そこで改めて嫁ぎ先を考える事になったのだ。

 そもそも婚姻の話が出たのは、秦姫が婚姻するに相応しい年齢であるし、どちらにしても近い内に嫁ぎ

先を決めなければならなかった、という点からだ。

 勿論年端もいかぬ頃から婚約したり、或いは政略的な意味だけで、老齢と言ってもいい年齢にも関わら

ず嫁がされるような例もあったが。基本的には婚姻に相応しい年齢になった時、自然と嫁ぎ先が決められ

る。よほど必要でなければ、通常はその姫が適齢期と思われる年齢に達してから考えられる事である。

 特に現在は国の興亡と人の浮き沈みが激しく、昨日まで世の春を謳歌(おうか)していた者が、明日に

は滅びている、というような事も少なくなく。どこも姫を出し渋っていたというような理由があり、大陸

的に見て姫が嫁がされず残されている例が多い。だからこれ程多くの国々が生まれていながら、婚姻同盟

を結んでいる国は少なかったのである。

 それに孫文の大侵攻(勿論、侵攻していたのは孫文だけではないが、印象として最も強いという意味で)

があったという事もまた大きい。大陸中が戦火に覆われたせいで、どの国も戦で手一杯であったのだ。

 しかしそれが収まり、反動のように戦を嫌い、国力回復に努めようという気運が高まっている今、他国

との同盟から一歩進み、婚姻を考え始めるのはむしろ当然の事である。

 そして秦王と重臣が話し合う中、相手として色々な国名が挙げられたが、やはり先の事もあるし、ここ

は礼儀としても楓と考えるのが妥当であろう、という結論が出た。

 現実的に考えても、集縁一帯と深い関係にある楓との繋がりを強化する事は、集縁を安定する事に非常

に良い効果をもたらす。結局は楓との仲を強める事が、集縁を平穏に治める上で最も効果的な手段であり。

楓と婚姻を結んでしまえば、元楓領である集縁一帯が秦の支配下にあるのも自然な事である、という理屈

も成り立つ。

 例えそれが強引だとしても、何かが成り立つのであればそこにはいくらかの説得力が生まれるものだ。

 少なくとも集縁の民はそれを喜び、歓迎するだろうし、秦への気持ちも自然と良いものになる。楓と秦

が兄弟という事になれば、反秦感情など持つ必要がなくなるし、楓流への後ろめたさもまた薄れてくれる。

 その上三功臣がそれを薦めた。特に今最も発言力が大きいであろう張耳がそれを熱心に進めようとして

いる。こうなると他の者は、例えそれが王であっても、反対し辛い。その婚姻を結ぶ事に現実的な利があ

るとすれば、尚更である。

 そしてそれは楓側も同様で、ここまで秦が乗り気になっていると楓流も無下には扱えない。前回は秦の

都合で上手く流れてくれたが、今度はそうはいかないだろう。楓国家としても、秦と繋がりを深くする事

は、悪くない話だ。

 北方に双と楚、東方に衛、西方に秦、これならどこで何が起ころうとも対処しやすくなる。大陸全土の

情報を得やすくもなるし、打てる策の選択肢が増える。それに結局いずれはどこかとそういう関係を結ば

なければならなくなるのは目に見えている。それならば今秦と結ぶ事も自然の流れではないか。

 楓臣もそれを薦め、趙深もまたそれを悪くない手だと言った。皆して楓流にいい加減覚悟を決めろと言

っているのだ。齢三十をとうに越しているというのに、跡継ぎが居ない。これは臣にしても民にしても不

安を思わせるに充分である。

 いつ戦が起こってもおかしくないこのご時世、楓流にもし死なれでもすればどうなる事か。後継とする

なら趙深だが、今の状況では彼でも難しい。楓流個人が結んだ関係も多く、それらとの関係を維持する為

には、どうしても楓の血と名が要る。趙だけではどうしても不可能な事がある。

 だから趙深もまた楓流の身持ちの堅さというよりは、理解出来ぬ頑(かたく)なさを、はっきりと不快

に思っていたのかもしれない。苦い薬を嫌がる子供のようなその心を、嫌っていたようにも見える。

 しかし楓流はそんな重臣達の意思に対し、一人抵抗を続けている。具体的に言うなら、あちらが駄目な

らこちらというようでは、しかもそれが一度そちらの都合で断った相手であれば、姫君の心は晴れぬだろ

う、という意味の書状を三功臣へと送り、その意を止めさせようとしたのである。

 楓臣からすれば全く困った王であった。

 とはいえ、それを受け取った三功臣、いや張耳は、楓流のいう事も確かに理があるとは言いつつも、逆

にそうであるからこそ、二度も同じ相手に話が流れたとなれば、姫君の心に尚更深い傷を残すであろう、

としてその意をはっきりと退けている。

 最早どうにもならず。楓流の最後の抵抗も虚しく、婚礼の準備は着々と進められていった。

 それでも楓流は諦めず、楚や双など他国の反応を理由に出来ないかとも考えたようだが、張耳がそうい

った国々にはすでに根回しを終えていて、とうに了解を得ていた。

 一国の重鎮が、それも張耳程の者が本気でそれを進めるとなれば、止められる者はいない。それに相手

が楓ならば、どの国もまだ受け容れやすい。衛という油断ならぬ国が付いているとはいえ、衛は楓の所有

物ではない。冷静に考えれば楓一国などただの小国である。むしろ楓で済んで幸運だ、と言う訳だ。

 確かに集縁一帯は安定し、その結果秦もまた安定するとしても、それだけの事である。所詮飛び地が安

定するだけの事であり、崩そうと思えばどうにでもなる。例え秦と楓が婚姻を結んだとしても、脅威とな

る理由はない。

 そう考えれば今回の事は、単に張耳が以前手前勝手な理由で話が流れてしまった事への罪滅ぼしの為に

行った、という言い方をするのが一番しっくりくるかもしれない。

 国益よりも個人的な理由から発した事であると言ってしまっても、過言ではなさそうだ。

 秦の姫こそ気の毒で、いい面の皮であったが。彼女が表立って何かを言う事も、姿を見せる事もなかっ

たようだ。秦姫はただ秦王邸の中に居て、己が運命を受け容れている。当時の姫は、大抵そうである。別

に犠牲になるなどとも思っていない。それが当然であったのだ。

 心構えは幼少の頃より出来ている。今更じたばたする事はない。むしろ全てを受け入れ、己が役割を果

す事にこそ、女の見せ所があった。言わばそれが女の戦である。

 そして婚姻の日取りも決まり、日々は流れるように過ぎ去り、遂にその時を迎えたのである。



 秦姫は豪奢(ごうしゃ)な輿(こし)に乗せられ、多くの供を連れて、はるばる楓へと送られてきた。

これは秦にそれだけの富と力がある事を内外に知らしめる為の示威行為であった、という理由もあるが、

この姫が生来身体が弱かったという点も大きい。大事にされてきたのである。

 姫の名は黄(コウ)。秦黄(シンコウ)、楓黄(フウコウ)、黄夫人など様々な呼ばれ方をしているが、

その記録は多く残されていない。平凡な容姿であったとも、類稀なる美人であったとも言われているが、

全て風聞の類であり信憑性には欠ける。

 ただその精神が肉体に反して非常に健康的かつ朗(ほが)らかであった事が伝えられており、活動的な

性格で彼女の行く所明るい風を起こした事は確かである。

 健康が優れなかった為に外出はほとんどしなかったが、その代わりに夫の助けとなるよう内を固める事

に励み、胡曰(ウエツ)などと協力して王に相応しい家庭を築こうと生涯努力し続けた。

 胡曰に対しても、王との関係を認めるばかりでなく、むしろ王に仕えるに相応しい女官とするべく誠意

をもって教育したようだ。そしてこの事が後々に少なからぬ影響を及ぼす事にもなる。

 一説には自分の身体が優れぬ事があり、もし自分に何かあった時、夫の生活に支障がないよう胡曰を育

てたとも。秦の都合によってたらい回しのようにされた事に対し、彼女なりに思う所があり、自らの価値

を知らしめるべく、王后としての務めを果たそうとした結果だとも。結局押し付けられる格好になった楓

流に対し、自分が健康でなく満足に子を産む事もままならないかもしれない、という事もあって、負い目

を感じ。それを償うべく懸命に働いたのだとも、様々に伝えられている。

 要するに、この点でもよく解らないのだ。

 しかし楓黄が伝えられる通りの女性であったとしたら、単純に為すべき事をやった、楓にとっても秦に

とっても一番良いと思われる方法を行った、と考える方が的を射ているような気がする。

 活動的ではあったが粗野ではなく、礼法にも通じており、双に嫁がせようと思わせるだけの器量は充分

に持ち合わせていた。双に比べれば秦は辺境の地でしかなく、その事に反発し、双なにするものぞ、とい

う気持ちはあっても、内心どこか劣等感があり、それを払拭すべく、どこに出しても恥じないよう、姫に

礼法を厳しく教え込んだのであろう。

 時に都の中よりも、そこから遠く離れた場所に何故か礼法に通じた者が居る事がある。勿論本式と比べ

ればどこか蛮風を感じ、我流である事は否めないけれども、礼というものに中央以上に神経質になるのが、

都化を目指す辺境のある意味正しい姿というもの。楓黄は正にその産物といえる存在であった。

 幼少の頃から教え込まれたのか、感情を表しても怒りを見せる事は少なく。皆に絶えず気を配るその姿

は好感を得るのに相応しく。未だどこか煮え切らない楓流を除けば、彼女は楓国にあたたかく迎え入れら

れた。

 そして楓流の態度も気にする事なく、楓黄は自らの責務を全うし、楓王というものを内側から作り上げ

る事に大きな功を挙げたのである。

 楓流が王らしい体裁を繕えたのは、全て彼女のおかげであった。

 楓にとって秦の姫は、思わぬ拾いものとなったのである。



 そんな事もありながら、越との条約終結から約一年という歳月が流れた。

 秦との婚姻同盟と水路を利用した諜報能力の向上のおかげで、随分西方の情報を得る事が出来。水の諜

報網を広げる事で、その手も大陸中に伸びつつある。完成するのはまだまだ先だが、後々までこの新たな

諜報網が楓を大いに助ける事になる。

 大陸人と賦族の混血を用いた諜報機関も順当に完成に近付き、少数だが実戦経験を積ませる為に間者と

して働かせられるまでになっている。これも氏備世(シビセイ)と呂示醒(リョジセイ)が上手く組織作

りをしてくれたからだろう。特に氏備世の熱意は並々ならぬ効果を生んだ。

 そして彼らとの繋ぎ役である楊岱(ヨウタイ)も、賦族と混血の事を多く知る事で様々な偏見や誤解が

解け、楊岱を中心にして水夫達と賦族との関係も良くなっていると聞く。勿論まだ一部での話でしかない

が、楊岱が積極的に仲を取り持つ為に動き、その輪は着実に広がっているとか。

 楊岱もいつの間にか自分の意志だけで物事を動かせるようになっているようだ。これは何よりも喜ばし

い事で、期待していた以上の成長を見せてくれた事に、楓流はいたく満足している。

 混血諜報機関が大きな働きをするのには時間がかかるだろうが、順調と言えるだろう。

 しかしそれらによって入ってくる情報は吉報だけではない。

 西方内での動き、特に三功臣の改革が成功し、その成果がはっきりと出つつある秦を、他の西方三家が

危険視し始め、西方内での対立の図式が変化し始めているという。

 その事には集縁も少なからず関係している。楓と婚姻同盟を結んだ事で安定し、更に楓からの技術提供

によって目に見えて繁栄する事になり、それらが予想もしていなかった利を秦へもたらす事になった。飛

び地という不安が治まり、半分厄介者であった筈の集縁がはっきりとした利を生み出している今、秦はは

っきりと強大化している。改革が成功したのも、集縁が安定し、秦国内のみに集中出来るようになった、

という事も大きく理由としてあるのだろう。

 状況は一年前と変わり、秦こそ西方随一の勢力と呼べるまでになっている。いや、まだそこまでは行っ

ていないか。しかしいずれそうなる事は明白であり、呉韓はまだ二国で協力すれば充分対抗できるから良

いにしても、周が一歩置かれた形となって、より多くの危機感を募らせているようだ。

 周は確かに魏を属国にし、越とも結んだが、それ以上に秦が強くなり始めている。それに魏は強引に従

えさせた国である。裏切らない保証は無い。力で押さえつけた関係は、より大きな力の前には無力である

し、周の力が衰えれば危険な存在となるだろう。

 周が双と越と結んでいると言っても、秦もまた双と楓と結んでいる。そして楓は秦、双、越、楚と結ん

でおり、周とも浅からぬ関係がある(それを知る者は一部ではあるが)。この複雑な関係が、結局は同盟

の意味を打ち消してしまっているとも考えられるし、確かに戦争を抑制する効果があるとしても、周一国

の力を伸ばす事には繋がらない。

 物資や資金を得る為には有用であるが、それも秦の得ているものを凌駕する程ではない。

 周が危機感を抱くのは当然だった。

 呉韓にも安穏としていられない理由がある。呉が居る以上越とは敵対せざるを得ないし、越との関係か

ら周、秦、楓とも結び難い。呉商が楓に協力したのも、あくまでも商人連としてであり、呉としてではな

いから、呉政府には直接関わりの無い事だ。

 呉も越同様商業を重視しているとはいえ、越のように商人が政権を握るような政体ではない。この国は

多くの国と同様にあくまでも王が治め、商人連の発言力は低くないとしても、政治を自由に動かすような

所まではいっていない。

 呉に対する周辺の国家の態度はほぼ敵対か中立と見ていい。中央に領土を伸ばしつつあるが、それもど

こまで効果があるのだろう。中央東部と西方西南部の一帯に居る勢力と結託して集縁に圧力をかけるとい

う手段もあるが、それも楓と秦の結び付きが強まった為に、簡単にいくとは思えないし。もし上手くいっ

たとしても、周辺の全てが敵となる可能性が高い。そうなれば窮地(きゅうち)を免れなくなる。

 呉と韓という二つの勢力を合わせれば、今の所は充分秦に対抗出来るのだが。これ以上勢力を拡大する

事は難しく、周囲から圧迫され行動を封じられている格好である事は否めない。それを崩そうとすれば争

いを避けられず。かと言ってこのまま座していても、いずれは劣勢に追い落とされる事になるだろう。

 秦が成長を続ければ呉韓を上回る勢力になるかもしれないし。そうなれば呉と韓が結んだ意味が失われ、

以前のように中途半端な姿に戻るだろう。

 それは耐え難い事で、思い余った呉と韓が正気とは思えない行動に出る可能性は少なからずある。

 要するにそれぞれの間にある溝が大きくなっていて、周辺の国家を巻き込んだ大戦を起こしかねない雰

囲気が生まれているのである。

 孫との一連の戦から時間が経ち、全ての国家が国力を回復しつつある今、戦を避けるというよりは、い

つ戦を行うのか、を考える時期に入っているとも言えるのかもしれない。

 積極的にそれをしたいとは思わないが、さりとて必要があればやぶさかではない、という所まで状況は

変化しているのだろう。

 民の中にはまだ戦を避けたいという感情が多く残っているから、簡単に起こす事は出来ないだろうし。

それが為にある意味ここまで持っているとも言えるのだが。逆を言えば、民さえ納得させられる手段さえ

あれば今すぐにでも戦を行える、という事になる。

 これは捨て置けぬ事態であり、誰知らぬ場所からひしひしと血を呼ぶ声が聴こえてくるかのようにも感

じられた。

 まるで、まだ足りぬ、まだ足りぬ、と悪鬼羅刹(あっきらせつ)が叫んででもいるかのように。

 楓流は情報を得れば得る程に、危機感を募らせている。

 後はもう、いつ起こるかだけの話になっていたのだ。



 正確に言えば、そのきっかけとなったのは西方ではなかった。しかしそうだと言ってしまっても半分は

間違いではない。意外と見るか、当然と見るか、火種となったのは北方の魏国であった。

 魏は周の属国になっているが、当然のように大きな不満があった。それ以前から周に属しており、確か

にその力を利用してきてはいたが、その命には逆らわず服してきた。紀(キ)国での双との争いも身を引

いたし、周には逆らわずに仕えてきたのだ。

 それなのに属国にされるとは何という事だろう。今まで我慢してきたのは、こんな事の為だったのか。

 確かに以前から半ば無視されているような所はあった。しかし少なくとも国としての体面だけは保てて

いたのである。だから我慢に我慢を重ねる事もできた。

 それが属国にされてからはどうだ。ただでさえなかった魏に対する遠慮と国家に対しての礼儀というも

のを周は捨て、まるで物のように扱う。まさに従属者、下僕であり、ただの臣下として、いやある意味そ

れ以下の扱いを受け、都合よく使われた。

 それも国家延命の為と考えればまだ我慢もしよう。周から離れる道を選んでいたとしてら、おそらく双

に侵略されていただろう。代理戦争という形を取ったとしても、双と敵対していた事には変わらず、周の

後ろ盾がなければ必ず双は魏に報復されていた。

 それを考えれば今国として残されているだけでも幸運と言える。確かにそうだ。

 しかしそんな事で納得できるようなら、人は苦労しない。魏にも野望はある。魏は日々反意を募らせて

いた。だが周から離反したとしても、結局は周に喰われてしまう。魏だけではとても対抗できない。下手

すれば周と双二国から同時に侵略される事も考えられる。そうなれば双と周の間に溝を作る事もできるか

もしれないが、魏は滅びるだろう。滅びてしまっては意味が無い。

 双を上手く利用する手も考えられるが、流石の双臣も周と正面きって争おうという気は起こすまい。双

を誘っても、徒労に終わるであろう。

 だが西方に一触即発の空気が漂う今なら魏にも光が見える。

 それは何かと言えば、つまり魏の価値が上がっているという事である。

 魏は周の属国、しかし名ばかりでも国名が残されている以上、いや例え残されていなくとも、その名が

あったというだけで立ち上がる理由になる。

 西方が安泰で、周が堅固であれば全く無意味であるものの、今のような状況なら魏にも選択肢がある。

小国とはいえ、一触即発の状況である今、その力は小さくない筈だ。例え周を裏切ったとしても、生き延

びる先はいくらでもある。

 何しろ魏は地理的に非常に良い場所にある。北方を後ろ盾にする手も使えるし、西方の勢力と繋がって

周を挟撃する手もある。特に周といずれかの国が敵対した時、戦場で魏が周から離反すれば絶大な効果を

挙げられよう。魏を解放する為だと言えば、大義名分にもなる。現に魏の民は周に苦しめられているのだ

から。

 周と敵対しても構わないという国が出てくれば、魏には万金とは言わぬでも千金の値が付くのだ。

 結局魏はどこかの国に属する以外に生き残る道がないとしても、今よりはましな待遇を受ける事は出来

るだろう。高く売れれば、それだけ手も増えるというものである。

 今までは西方内で争うという可能性が現実的ではなかったから考えられなかったが(西方は外敵が居れ

ば一致団結する為に、いくらその仲がこじれたとしても、外敵を作ればそれに対して団結する)、西方内

に不穏が生まれている今、魏の価値は自然と高まる。

 しかしそれならそれで、魏もまた北方なら、どれと組するとしても外敵となるのではないか。

 確かにそうだが、その心配は今は当たらない。

 すでに魏は西方(周)の一部とされている。西方の勢力内であれば西方の内部争いと見られ、外敵に対

して発動する団結は意味を失う。魏もまた西方大同盟に属しているからだ。魏を大義名分にする限り、魏

を表に立てて対決する限り、そこに北方が介入しても外敵にはならない。

 勿論、強引にそれを理由として他の西方三家が参戦してくる可能性はあるから、上手く話を付けておく

必要はあるだろう。一番良いのは、やはり西方同士を争わせる事か。介入するにしてもそれからがいい。

おかしな言い方になるが、そうすればより安全に内乱を起こす事ができる。

 魏は勝算があれば、それをただ黙って待っているような国ではない。利益の問題ではなく、周に対する

恨みもあって、積極的により良い状況を作り出そうと動いた。

 そして魏はそれを成す手段として呉韓を選んだ。勢力拡大を封じられ、秦が目に見えて成長し続けてい

る今、おそらく周以上に恐怖心を抱いているのはこの勢力である。

 それに一国よりも二国相手の方が手玉に取りやすい。いくら婚姻同盟を結んでいるとはいえ、利害のみ

で生まれた関係など、容易く利用できる。信頼が強い関係であれば崩すのに時間がかかるが、呉韓の関係

など脆いものだ。

 例え呉韓が乗ってこずとも、魏が呉韓と関わろうとしただけで、周に疑心を抱かせるには充分である。

今魏を失えば、秦と呉韓との力関係に大きな影響を与える。周は魏を宥めるべくその態度を改めるしかな

くなる。呉韓への疑心を抱いたとすれば、呉韓との関係にも溝が生まれるだろう。周が焦れば焦る程、魏

にとって好都合である。

 不安に思う事があるとすれば、西方外の国が先に余計な手出しをして外敵となってしまう事であったが。

そんな事をすればどうなるかは子供でも解る。よほどの馬鹿者でも居ない限り、それは考慮する必要の無

い問題であった。

 そう、よほどの馬鹿者でも居ない限りは。




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