14-8.利


 呉韓の敵を増やす事。それは何も新たに敵対する勢力を作るという事ではない。それが出来れば確かに

効果的ではあるが、その為にはそうさせるだけの理由と多くの時間、費用がかかる。今はそんな悠長な事

をしていられない。

 楓流が目を付けたのは、越だ。

 知っての通り、越と呉は長く仇敵の関係にある。最早憎むべき理由すら必要でない程に険悪で、今後も

それが良くなる見通しは無い。百年、二百年経てば解らないが。少なくとも、今日明日にどうこうできる

ような関係ではなくなっている。

 だから一から敵を作らずとも、呉のすぐ側には越という絶対的な敵が常に居るのであり。それが目の上

のたんこぶとなって呉を圧迫している事は今までにも幾度か触れた。

 この越を秦に協力させる事が出来れば、大きな力となるに違いない。越の経済力、将兵の能力、そして

何よりもその水軍力は、少なくない影響を呉韓にもたらす事になる。

 だが話は簡単ではない。越はしたたかな国である。どんな状況であれ、この国は常に自国の利益を得て

きた。無論、損害も一方ではなかっただろうが、それを上回る利を得る方向に、必ずこの国は持っていく。

その為ならば呉への憎しみを一時置いても構わないという程、越という国は利益を得る事を徹底している。

 交渉も上手く、楓流もそのおかげで幾度も苦労を重ねさせられてきた。

 越は感情だけでは動かない。勿論感情も大きく影響するものの、その上に利害損得を入れ、差し引いて

ものを考える所がある。冷静というよりは、やはりしたたかだと思える。

 勿論、中にはそうではない者も居るだろうし。もしかしたらそういうやり方が嫌いな者も少なくないの

かもしれない。しかし越という国としては常にそういうやり方を採り、それに反対する者は少ない。もし

かしたら居ない可能性もある。その方針に全く不満が無いという訳ではないとしても、利の方を重んじる。

それが商人としての、越人としての誇りであるのだ、という心が、彼らの深い所に染み込んでしまってい

るのだろう。

 であればそれは感情というものと大差なく、だからこそ崩せないと考えられる。頭ではなく、それが心

にしっかりと根付いているものであるなら、容易く覆す事は出来ない。人間にはそういう所がある。

 感情だけでは動かないと言うよりは、利というものにより大きな感情があるのだ、とでも言い換えるべ

きか。

 故に越を動かすには、それだけの理由、利が必要だ。

 楓流は考える。

 幸い水路を使う許可を得た事で、越との結び付きが良くも悪くも強まっており、連絡を取り合う機会も

増え、言ってみれば話しやすい状況が出来ている。何をするにしても、話を持ちかける事には苦労は無い

だろう。誰の紹介も要らないし、使者を送ればきちんと話は聞いてくれる筈だ。

 後は理由があればいい。越が動くだけの利を考える。そしてその利は恨みを晴らすとかいう精神的なも

のではなく、即物的である必要がある。

 一番解りやすく効きやすいのは金や食糧、或いは工芸品や武具などの商品であろう。商人が喜ぶものを

探せば良いのだから、思い付きやすい。他には税を抑えたり、越商に何らかの優遇措置を取る。そういう

法案を作るのも良いだろう。

 だが楓だけで与えられる物には限界がある。優遇措置も楓一国では話にもならない。行うとす

れば秦、出来れば双も加え、より多くの利を示さなければ、通じないだろう。

 その事は先の戦においても、結局越が最後まで参戦しなかった事からも解る。越は現状のままでも商売

には問題なく。国が護り易い地形にある為、今更領土を広げて要らぬ苦労をしようとは考えない。今の状

態のままで居る方が、越にとってはやりやすい。だからこそ今まで領土を増やそうとは考えず、政策も国

土に頼らないものを選んできた。

 越が商業を重視しているのはその為もあるのだろう。何でも大きく広げれば良いというものではない。

無思慮に領土を広げても統治が困難であるし。先祖の英霊が祭られているなど、人の心が土地と深い関係

にある以上、そこに手を出す事は、それだけで無用な諍(いさか)いを生む原因となる。

 だから敢えて手放す。どの国も目の色変えて領土を漁っている状況に背き、必要な分だけは死守するが、

それ以上は望まない。越は越のやり方で繁栄する。そういう国なのだ。

 その心を考慮すれば、軍隊派遣を要請したところで聞いてくれない事は、初めから解りきっている。越

が外征する事は考えられない。

 ただ、楓流は越にも先の戦に参戦する気持ちはあったのだと考えている。何しろ一度は呉韓を悪として、

そのまま秦、双、魏、越で攻め滅ぼせる機会もあったのだ。呉を憎む越にとって、これは呉を滅ぼす千載

一遇の好機。魅力的な提案ではあった。

 しかし越は動かなかった。それは何故か。

 おそらく越という国は、軍の損失を過度に恐れているのではないか。越の国土ははっきり言って狭い。

河川も多く、だからこそ護り易いのだが、収穫量は少なく、住める場所も自ずと限定される。

 土地と人口は密接している。広ければ多いとは言わないが、その傾向が強い事は確かで。土地の広さが

人をどれだけ養えるのか、暮らせられるのかを最も簡単に表す目安になる事は言うまでもない。

 国土が狭い以上、越の総兵力はどうしても少なくなる。人が少ない以上、こればかりはどうしようもな

い。傭兵を雇うという手もあるが、それにも限度がある。

 故に越は自国が攻められた時以外は、どうしても軍を用いたくなく。外へ出すなどは以ての外だと考え

ているのではないだろうか。人間を兵とするには時間がかかる。一人死んでもまたすぐ補充できる訳では

ない。越が少ない兵力を大事に思うのは当然である。

 越に援軍を要請する方が間違いなのだ。越の感情がどうあれ、越は軍を用いたくない。威圧する為、見

せかけに軍を動かすのならまだしも、実際に戦って欲しいなどといった所で、越が引き受ける訳がない。

 越は戦に関して慎重である。消極的と言える程に。

 確かに先の一戦でも方法が無い訳ではなかった。軍を出せないのなら、対案を出せば良かったのかもし

れない。軍は出せないが物資は援助する。或いは、輸送は越が一手に引き受ける。そのように言えば良か

った。何も軍を用いるだけが方法ではない。越にも方法はあった筈だ。呉を滅ぼせる好機を活かす方法は。

 それでも何もしなかったのは、相手が援軍をこそ望んできたのだとすれば、いくら代案を言った所で、

結局援軍を出さないのであれば、要請した国々はどうしても不満に思うからだ。例えその代案がどれだけ

良く出来ていて、実際に功が大きかったとしても、やはり不満は残る。

 人と言うものは代案で満足出来るように出来ていない。それが半分満たされようと、八割満たされよう

と同じ事。一杯に満たされなければ、等しく不満なのである。そして記憶というものは満足よりも不満の

方を強く残しやすい。時間が経てばいずれ不満だったという記憶だけが強く残る事になるだろう。

 それならば初めから何もしない方がましである。骨を折って不満だけを買う行為など馬鹿げている。

 酷薄と言えばそうだが、元々魏と西方の間で始まった事で、越には関係の無い話。相手しないとしても、

その事で非難される覚えはない。むしろ勝手な事をいう国々に対し、越の方が強く非難したいく

らいだ。

 越には越の考えがあり。例え呉を滅ぼせたとしても、その後越が不利になるような事になっては意味が

無い。だから動かなかった。利害損得を考え、そういう答えを出したのだ。

 先の戦では、皆越に求めるものを間違えていたのだ、と楓流は思う。越にその気がなかったのではない。

その方法を間違えていたのである。呉韓や魏は論外として、もし双か秦が越の望む方法を要請していたな

ら、初めからそれを望んでいたとすれば、越の態度も違っていただろう。

 越を動かすにはまず越を知る事。越の望みを理解する事が肝要である。

 面倒で、厄介な国なのである。



 楓流はそれらを踏まえ、越に双を説いてもらえるよう申し入れた。

 呉韓が得た領土を双に渡す、又は双に寝返らせるように秦が工作している今、双と秦は同一にあると考

えられる。しかし双は秦に賛意を示し、喜んではいるものの、それだけである。秦に全てを任し、双はた

だ双としてぼんやり眺めている。そこからは、双が動く必要はない、そのような端役は全て秦がやればい

い、という心が透けて見える。

 秦はこれに腹を立てているが、さりとてその感情を表に出せない。それに対して非難する事も憚(はば

か)られる。何故なら、ここで双に機嫌を損ねられては、秦の計画自体が水の泡になってしまうからだ。

今は何としても双の賛同が要る。後ろに双があると思えばこそ、呉韓に圧力を与えられる。

 もし双がへそを曲げてしまうような事になれば、呉韓が領土の割譲を条件にして双を味方に引き入れて

しまいかねない。呉韓が秦と領土問題で争っているのは、領土欲というよりも、秦が敵だからである。だ

から秦を共に叩けるとすれば、喜んで領土を双へと差し出すだろう。いずれは双も滅ぼすのだから、その

時に取り戻せば良いだけの話。秦という油断ならぬ相手さえ滅ぼせれば、呉韓に不安はなくなる。

 呉韓にも双を味方に付けられる可能性は今でもあるのだから、油断できない。

 今の双は、正確には中立に近い位置に居る。双は自国に利があればそれでよく、秦や呉韓の事情も心理

も知った事ではない。そこに何があろうとも考慮せず、自分の利のある方へ素直に転ぶ。今秦に味方し

ているのも、その方が利があるからだ。それ以上の考えは無い、と言っていい。

 楓として困るのはそこだ。何としても双を秦の味方とし、呉韓を敵にさせなければならない。

 その為に趙深にも頼んでいるが、それだけでは難しい。双の重臣も信頼している趙深の言葉なら一応考

えるかもしれないが。昔は昔、今は今と趙深の言葉をさほど重く考えない可能性もある。

 身分の高い人、人を使い慣れている人というのは、往々にしてそういう所があるものだ。人が自分に何

かをしてくれるのは当たり前、自分は大事にされて当たり前、そう生まれた時から教えられ、それに大し

て疑問を抱かずに生きてきたのだから、どうしても人に対する感謝や罪悪感などは薄くなる。

 趙深が双を離れて少なくない時間が経つ事もそれを促すだろう。これ以後も時が経つに従い、趙深の双

王宮への影響力は日増しに薄れていく筈だ。これは仕方の無い事である。人の心もその距離に応じて離れ

やすくなるもの、双の貴族相手では尚更だ。

 だから秦、越、趙深、楓、出来れば楚にも協力してもらい、反呉韓同盟というような図式を築きたい。

 そしてそれが越を引き込む為の布石にもなる。こちらが優勢となれば、越が味方してくれる可能性もそ

れだけ高まるというものだ。

 遠いところから少しずつ少しずつ核心へと踏み込ませ、気付いた時には引き返せぬ場所に居させる。そ

れは一つの確実な方法であろう。

 だがしかし、そこに達するまで情勢が待っていてくれるかどうか。越と双を思う方向へ導く事ができる

だろうか。楓流にも確信がある訳ではなかった。



 秦、呉韓に楓を加え、外交戦はその激しさを増していく。

 呉韓も負けてはいない。楓や秦の望みなどは重々理解している。何としても有利に立とう、双を味方に

しようと必死だ。

 当初の方針を変え、秦よりも双相手の外交を重視するようになっている。

 秦の工作には効果がある。認めなくはないが、それは確かである。呉韓に不満を持つ元周所属国も多く。

秦は論外としても、双にならば組してもいい、呉韓よりはましであろう、と考える勢力は少なくない。

 ならば呉韓としてはその不利な状況を抱えているよりは、いっそ手放す事で双を味方に引き入れた方が

いいのではないか。そう考え、呉韓の方から領土を双へ差し上げたい、お譲りしたい、と言い出した。

 双としても秦に工作させるより、呉韓から直接もらった方が話は早い。断る理由はなかった。そこで先

の失態はこの領土によってあがなわれるとして、呉韓と仲を深めようという双臣が増えている。

 こうなれば秦は劣勢となる。その言葉は虚に浮き、無意味となった。元周所属国達も秦の言葉に耳を貸

す意味がなくなる。裏切りの危険を冒さずともそれを達せられるとすれば、誰が敢えて裏切ろうとするだ

ろうか。呉韓の方がそうしてくれるのであれば、秦に仲介してもらう必要は無い。

 秦が双に文句を言っても詮無い事。元々秦が勝手に言い出した事で、初めから双は秦の立場も感情も考

慮する気はないのである。利が無くなればお払い箱という訳だ。

 秦は危機感を募らせ、状況を打破する為、急ぎ対策を練る。しかしこれは非常に難しい問題だ。

 まさか呉韓がそこまで思い切った方法を採るとは。これでは完全に手詰まりである。先の戦での呉韓の

違約をここで持ち出しても、双が領土の代わりにそれを許すと言うのなら、効果は無い。与えられる利

を失った秦と、得た呉韓、双がどちらに味方するかは言うまでもない。

 窮した秦。そこに飛び込んできたのが楓であった。

 渡りに船とばかり、秦は手を握る。秦と楓は対呉韓に関して、ここではっきりと意を通じた。これ以後

の秦と楓の言動は、双方了承の事と考えていいだろう。

 秦としても自国だけで事を成せぬ以上、他国の手を借りるより他はない。その為に幾らかの代償があっ

たとしても、潔く呑む。

 呉韓が優勢になった事が秦の態度を軟化させ、楓に追い風を吹かせる結果になったと言えば、皮肉に過

ぎるだろうか。

 だが秦と楓だけではまだ不安が残る。魏と楚とも交渉したい。一国でも多くの手を借りる事が必要だ。

 とはいえ、それが上手くいくかどうか自信はない。魏はまだ良いとしても、果たして楚が乗って来るだ

ろうか。その点は甚だ疑問である。

 楓流はすぐさま楚に使者を発した。魏の事は秦に任せる事にしている。今後の事を考えても、秦と魏の

関係を深めておいた方が良いと考えたからだ。その繋がりがどんなものであれ、繋がりさえ得れば、その

国の関係は良くも悪くも深くなる。上手くいけば魏への影響力が増し、より動かしやすくなるだろう。

 魏は最早秦に付き従い、呉韓と争う道しか残されてはいないのだから、難しくはない筈だ。

 いや、そう断言するのは早計というものか。例え今どんな関係にあろうとも、その関係は永遠に変わら

ないものではない。場合によっては魏と呉韓が手を組む事も考えられる。簡単に切り捨てず、しっかりと

その動向に気を配っておく必要があるだろう。

 その為にも秦と関係を深めさせる事は、重要である。

 楚からの返答は早かった。しかしあまり思わしい答えではない。楚としては今の所西方と特に関係があ

る訳ではなく、今深く関わる気持ちも無い、という考えであるようで。反対はしていないものの、控えた

い、との事だ。

 様子を見たい、という意味なのだろう。

 確かに西方の状況が二転三転している今、何がどう転ぶか解らない。関係の深くない国の為に、わざわ

ざ危険を冒してまで関わりたくない、という気持ちは楓流にも良く解る。

 この返答には当然姜尚(キョウショウ)の意が含まれている。返答が早かった事を思えば、事前にこう

いう場合に楚が取る態度を決めてあったのかもしれない。姜尚が拒んでいる以上、受け容れさせる事は難

しい。下手すれば楚との仲にひびが入る可能性もある。

 楚としては当分の間富国強兵に努め、徒(いたずら)に事を急ぐような決断は避けていく腹なのだろう。

老獪(ろうかい)というべきか、冷静というべきか。姜尚がその中心に居る限り、それがただの日和見主

義ではない事が解る。その底にはいつも確固とした意志があり、覆すにはよほどの理由が必要だ。

 今の楓には、そのよほどの理由を提示する事ができない。

 だから反対はしないという言動を取れただけでもよしとしよう。それだけでもいくらかの効果はある。

それに姜尚は老齢である。いつまでも今のままではいられまい。だからこそ疲弊を避け、将来の為に力を

蓄えているのだ。これはこれでいい。今はまだ多くを抱く時ではない。楚と斉は友好中立のような状態を

結べただけでよしとするべきである。

 後は越を味方に引き入れ、秦、楓、越、魏で双を動かすだけだ。いざとなれば楓流が直接双王に会って

もいい。会って話をすれば双王を動かすだけの自信はあった。王が動けば、双臣も逆らえない。

 だがそれをすれば双臣の不興を買い、双民からも余計な干渉をした、双王に余計な事を吹き込んでたぶ

らかした、などとよからぬ噂を立てられる可能性がある。出来ればしないで済ませたい所だ。

 国土が増え、勢威が上がり、増長しているのは何も臣ばかりではあるまい。民の中にも特権意識のよう

なものが芽生え。いや、以前からあったそれが強まっている筈。迂闊な事をすれば、楓こそが敵とされて

しまいかねない。奥の手は使わないで済ませるからこそ意味がある。

 現状だけではなく、今後の事も視野に置きながら行動しなくては、窮するのは楓の方であろう。

 西方の乱れも、楓から見れば対岸の火事でしかない。これに自分から手を出して、こちらにまで燃え広

がったとあっては、冗談にもならない。

 未来を考えるのはしんどい事だが、楓流にはそれだけの責任がある。目を逸らす訳にはいかなかった。



 楓は秦から魏の同意を取り付けた、という連絡が入ると、すぐさま越へ使者を発している。出来れば自

分が行きたい所だが、今王である自分が楓を離れるのは不味い。そこで明慎(ミョウシン)を正使、胡虎

(ウコ)を副使にして、大きな権限を持たせると共に、楓がそれだけ大きな意を持っているのだ、という

事を越側に悟らせる事にした。

 明慎は越の有力者と面識があるし、胡虎が楓流の最も信頼の厚い将である事は知られている。この二人

が来るとなれば、越も軽々しくは扱えまい。越側にもこの使者に重い権限を持たせた事を通達しているし、

楓流と同等に扱わざるを得ないだろう。

 明慎と胡虎には越の望む立場を吹き込んである。後は得意のだんまりで押し通してくれるのを祈る。楓

流はこれをそう困難な交渉であるとは考えていない。今回は越にも大きく関わる問題であり、いずれ中立

を保っていられなくなるのは明らか。越に呉と協力する道が選べない以上、秦楓側に付くしかない。

 問題があるとすれば、こちらが提示する条件だけである。最低限の事さえ守るならば、越は同意してく

れる筈だ。例え断ったとしても、それは値を上げる為の策に過ぎまい。

 案の定、越は渋る様子を見せたものの、楓のたっての頼みとあれば、と恩を着せた上で、秦楓に協力す

る事に同意を示した。

 当然である。このまま中立を固持し続ければ、孤立してしまいかねない。そうなれば損をするのは越だ。

越が明らかに損をするような道を選ぶ訳が無い。あちらから言ってこなかったのは、値を吊り上げ、恩を

売る為だろう。

 越とは有事の際にも軍の派遣を求めず、水路を使った輸送とある程度の援助を求めるのみに止める、と

いう条約を結んだ。ただし、事態が重くなれば、国境付近に兵を集めさせる事は認めさせている。どの道

そのような事態になれば越も防衛準備をしなければならない。どうせやらなくてはならない事なら、調印

しても損はしないと考えたのだろう。

 条約が結ばれるとすぐに越は秦と楓に同意する旨を表明した。直接使者を双へ送る事はしていないが、

参名しただけで用は足りる。

 何しろ越商と双重臣には深い繋がりがある。越商が双重臣に賄賂(わいろ)を贈り、様々な事に便宜を

図らせてきた事は明白なのだ。おかしな話に思うかもしれないが、そういう意味で双と最も関係の深い国

は越なのである。流石の双重臣もその意を無視はできない。己の利欲の為に。

 そこに越参戦表明の妙がある。越に損無く、何もせずとも双に圧力を加える事ができる。面白い話だ。

 しかし双重臣の意が再び秦に傾いたとしても、そもそも呉韓の領土を呉韓自身が割譲しようと言ってい

る所へ、不思議な横槍を入れている格好となってしまった秦の意を汲(く)むというのは、おかしな話で

ある。何か理由が必要だ。

 そこで双から秘密裏に呉韓から出されている条件、つまりそれらの書かれた書状の写しと、使者の発言

を文に起こしたものの写しをもらい。そこから打開策を考える事にした。他国からの書状を他国に見せる

とは無茶苦茶な話であるが、双に悪びれた様子はない。臣国からの書状を臣国に見せ、その対応策を聞い

たとて、一体誰に文句を言われる筋合いがあるのか、程度に考えているようだ。

 今の双に遠慮という心などありはしない。

 呉韓の書状には、今呉韓が得ている領土の少なくとも半分は双に進呈する、と書かれていた。

 楓流はここに着目する。そして双に、元々双の物である筈の土地を、双に進呈するとは何事か。これは

双にお返しすると書くべきもので、返すとなれば半分などとは生ぬるい、その全てを返すべきである。先

の戦も双の力で勝ったのだから、初めから呉韓に権利などないのである、と伝えている。

 双臣が喜んだ事は言うまでもない。これは至極当然、呉韓とはなんと悪辣(あくらつ)で、不届きな輩

(やから)であろう、危うく騙(だま)されるところであった。それに引き換え楓は見事である。呉韓の

陰謀を見抜き、その事を知らせようとしてくれていた秦もまた苦労である。として、双臣の感情は一息に

秦楓の方に傾いた。上手い理由を付けてくれて、その上益々双に利があるのであるから、双臣が子供のよ

うに喜んだのも道理である。何かあれば楓と秦に騙された事にすればいいし、双には(双臣が考えている

範囲では)全く損の無い話だ。

 単純なものだが、しかしそれだけに恐ろしくもある。ここまで簡単に場合に応じてどこにでも転べる存

在というのが、実は一番厄介な存在ではないのか。楓流は結果とは逆に、双に対して警戒心を強めた。も

し状況が逆であったらと思うと、不安を隠せない。

 これだから双には注意しなければならない。今呉韓にふりかかっている災難が、将来楓にふりかからな

いとは言えないのである。

 とはいえ、自分が出馬する必要もなく、無事意を遂げられた事には非常に満足している。

 後はこれに対して呉韓がどう出るかだ。双に一蹴された以上、おそらく軍事行動を考える。双に奪われ、

力を失う前に動かなければ、状況は不利になる一方になるからだ。秦にはそれに備えるよう知らせておか

なければ。秦もそのような事は承知しているだろうが、善意を見せておくに越した事はない。

 呉韓が軍事行動に出ると考えれば、気がかりなのは中央東部、東方南部一帯の諸勢力(面倒なので以後、

大陸中央付近の諸勢力という事で、中諸国と表記する)である。双と中立以上の関係が結べなくなった今、

呉韓が頼みとするのはこの中諸国であろう。

 何としても双を中立に止め置き、中諸国と連携を取って事を成そうと考える筈。それを証明するように、

呉韓は双の命(楓流が入れ知恵したもの)を拒否している。当然だろう。少なくない損害を出し、様々な

危険を覚悟して取った領土。それを全て取り上げようなどと、虫の良過ぎる話である。

 だが呉韓も双を怒らせる訳にはいかない。そこで、呉と韓は最も忠義厚い臣国である。秦や楓という不

忠な輩の讒言(ざんげん)があるようですが、臣国である以上、働けば主国から褒美が出るのは当然の事。

この申し出は甚だ道理に反しておられる。

 とはいえ主国がそう申されるのであれば、こちらもそれを受け容れる事に吝(やぶさ)かではありま

せん。今すぐという訳にはいきませんが、何とかできる限りお望みに適うようには致しましょう。と、低

姿勢で時間を稼ごうとした。

 双は不快に思うかもしれないが、秦を打倒出来た後なら、双など恐れる必要はない。むしろこの件を使

って双の非道を訴え、宣戦布告する理由にできる。だから今は時間さえ稼げればいい。

 ともかく急ぎ秦を打倒する事だ。幸い今最も多く兵を動かせるのは呉韓である。双は先の戦終結と共に

軍を解散させているし。秦は準備し続けているとはいえ、初めに兵力の多かった呉韓の方が依然(いぜん)

優位である。呉韓も黙って見ていた訳ではない。いざとなればいつでも動けるよう準備していた。

 軍事行動に出るなら、一日でも早く行動する事が望ましい。

 そしてその理由にも今回の件を利用する事にした。つまり、秦は呉韓を陥れ、双との仲を裂き、その中

に立って不当に利を得ようとした。その行為、残虐非道にして許し難いものである。ここに呉韓は秦へと

宣戦布告し、道義を正す所存である。と言う訳だ。

 双が慌てた事は言うまでもない。双が得る筈の領土を再び戦地にする気か、と問い質した所。呉韓は、

これは我らと秦との問題、我らと秦の領地で戦いはしますが、他の領土には決して戦火を及ぼしません、

と返答し、双を押し止めている。そしてこれによって秦もまた双が望む領土に干渉する事が出来なくなる。

 もしこの領土に秦軍が足を踏み入れれば、双への宣戦布告であると受け取られかねない。呉韓もまたた

だでは起きない。それが意にそぐわず出来た状況であれ、利用できるものは全て使う。呉韓もまたしたた

かであった。

 こうして双を中立の立場に置いたまま、秦と呉韓との戦が始まる。

 双が外された事は痛いが、初めから当てにはしていなかった事だ。越と魏が居るし、双が呉韓に味方し

ない限り、五分以上に戦えるだろう。後は秦に任せておけばいい。

 楓の方は中諸国に専念しなければならない。呉韓が戦に踏み切ったとなれば、中諸国への工作もすでに

終えているという事だろう。程無く大きな動きがある筈だ。趙深とも連携をとって、上手く治めなければ

ならない。




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