15-10.血族


 楓流は蜀の二王子、そして彼らと季柱との関係を重点的に調べ始めた。

 それがいかに途方もない目標であれ、目星が付きさえすれば進めていける。どこから手を付けて良いか

解らないからこそ困難なのであり、見当さえ付けば後は努力するのみ。その正否はともかくとして、停滞

させられる事はなくなる。

 情報力を向ける先を絞った事で、その力は大きくなった。楓流の許には毎日のように報が届き、程無く

三者の関係とその変化を手に取るように掴めるようになった。

 これには蜀の官吏の間に鬱屈した感情が横たわっている事が大きく関係しているのだろう。特に武官に

対する扱いが悪くなっている為に、警備兵などの士気も自ずと落ち、防諜力がその分だけ衰えている。

 民もまた季柱を慕っているというよりは、単により利があるからこそ受け容れているだけで、自分から

協力しようなどと考えるような者は少ない。いくらまとまっているように見えても、不純なもので繋がっ

ている関係は、目に触れぬ所で細かに緩んでいるものだ。

 治安が目に見えて悪化している訳ではないようだが、蜀全体に怠惰な空気が満ちている。今なら間者が

その力を揮う事に支障はなかった。それが特別に訓練された者達であれば尚更である。

 蜀王の長兄、蜀鯉(ショクリ)、は末弟の蜀蔡と違い、英雄の片鱗を見せる人物だと期待されている。

年の頃は三十に届くくらいか、身体も大きく生命力に溢れており、そのせいかどうか若さも抜けておら

ず、強情な所があり、それ故に父王と衝突する事も度々あったようだが、その言には聞くべき所があり、

大きく間違ったような事を口にした事はない。

 正に竜となる前の鯉といった所で、王などよりも遥かに有能で将来を期待されている、という。見た目

も良いようで、民の評判も悪くない。

 だから実力、人気共にとても敵わない蜀蔡は、父と兄の不仲を助長するようにして、その立場を固める

しかなかった。そのやり方は執拗かつ陰険であり、彼が持つだろう生来の暗さを暗示している。

 蜀蔡は兄に比べ、小男と言える程の体躯で、さほど強健ではない事も、彼の心を歪んだものにしてい

る原因なのかもしれない。

 兄に対する劣等感を憎しみに変える事で辛うじて立てているような、脆さがある。

 しかしその暗さ故に粘り強い所がありそうで、甘く見ていると足元を掬われるかもしれない。

 蜀鯉もそれを知っているのか、弟を馬鹿にするような事は決して口にせず、あまり関わろうとしないで、

常に一定の距離を置いているようだ。それは蜀蔡が王との仲を深めるのにも都合が良いのだが、蜀鯉はそ

の点はもう諦めているのか、他を気にせず、将来の英雄たる自分自身の力を増す事で、その地位を保とう

としている。

 だからこそ季柱に近付いているのであり、季柱と蜀蔡の仲を黙認しつつ、その隙を窺っているのだろう。

季柱の心を全て知っている訳ではないだろうが、季柱が何も善意で蜀蔡と仲良くやっている訳では無い事

くらいは知っている。そして何故自分との仲も保とうとしているのかも。

 この点、季柱に上手く利用されていると言えない事もない。季柱は蜀鯉の考えを見抜いた上で上手く利

用し、蜀蔡との仲を悪化させて争わせ、それを上手く操作しながら最悪の事態だけは防ぎ、自分の地位を

保とうとする。

 季柱にとってはどちらかが突出してしまっては困るのである。跡目争いに決着が付いてしまえば、自ず

とその力を増し、季柱が脅(おびや)かされる事になる。王位簒奪の意思がない以上、王子と権力争いを

繰り広げる事は、不利益にしかならない。

 そうではなく、どちらも弱め、恩を売った上で、次世代の王たる王子達を上手く彼の支配体系の中に組

み込まなくてはならないのである。その為に季柱は行動してきたし、これからもしていくのだろう。

 ならばその目論見を崩す為には、この王子の跡目争いに決着を付けさせる事が効果的であると言える。

 その為にはどちらかに協力し、後押しする事が必要だろう。

 ではどちらに組するか。二人を比べるなら、蜀鯉である。蜀鯉の方が勝つ見込みが大きい。ただしそれ

は、一時的に、の話である。

 何故なら、英邁の資質充分と見られるような者を王にしては、例え季柱を追い落とし、内部争いで疲弊

させたとしても、かえって蜀という国の力を増させる事になりかねないからだ。

 確かに力ある国を同盟国にする事は頼もしい事である。しかしそれは同時に危険でもある。王が英邁で

あれば今の状況を黙って見ている筈がなく、例え王位の事で恩を売っておいたとしても、この乱世で己が

力を試したいと思うだろうし、他国に干渉される事も我慢ならない筈である。それは新たな争いを生み出

しかねず、蜀に英邁なる王は、現状では不必要だと言える(蜀以外の国にとって、という意味で)。

 王にするには蜀蔡のような人物がいい。この男は欲が深く、劣等感を多く抱いており、心が安定してい

ない分操りやすい。

 例え今は利害の一致から季柱と歩を共にしているとしても、自分が王位に就けば必ずやその関係を反故

にし、自らの権力を強めようとする筈だ。英邁の聞こえ高い兄ではなく、自分こそが相応(ふさわ)しく、

現にそうであるのだと、彼は示したくて堪らない。翻(ひるがえ)って考えてみれば、それだけの為に王

位を欲しているのだとも考えられる。

 蜀蔡を王にすれば、それも季柱ではなく他者の力添えで就いたとなれば、必ずや蜀を自滅に導いてくれ

るだろう。楓流が何もせずとも、自ずからそうなる。その未来を変えるには季柱が王位を簒奪するしかな

いが、そうなればなったで好都合である。蜀蔡との繋がりを示し、大義名分を掲げて堂々と季柱を討てば

よい。

 後は適当な者を王に立てるなりし、名義はどうあれ、実質は属国にでもしてしまえばいい。そうすれば

蜀に脅かされる可能性は大きく減少し、他の中諸国に対しても効果的な手を打ちやすくなる。

 蜀派楓派という枠組みに意味がなくなれば、求心点となる蜀を押えれば、現状よりも遥かに中諸国を平

定しやすくなるだろう。一番大きな点さえ押えてしまえば、他の点も力を失う。反抗する力を失うとまで

は言わないが、その力は脅威ではなくなる。

 だから蜀蔡の方に王になってもらった方が都合がいい。

 では何故、一時的にとはいえ、蜀鯉に味方するのだろう。

 それは季柱に対抗できるのが、蜀鯉しかいないからである。

 楓の望みを達する為には、まず王子の間に決着を付けさせる必要がある。命を奪う必要はないが、その

跡目争いに一時的な決着をつけさせる必要がある。それには蜀鯉こそ相応しい。季柱が間に立って初めて

蜀鯉と蜀蔡は互角なのだから、楓が少し力を貸せば、その力は弥増し、季柱にすら匹敵するものとなるだ

ろう。

 力さえ与えれば後は蜀鯉が勝手にやってくれる。彼は必ずや政治を牛耳っている季柱に挑み、それを取

り戻そうとするだろう。そしておそらくは負ける。季柱が蜀鯉がそこまでの力を付ける事を、黙って見て

いる筈がないからだ。

 蜀鯉の敗北が決定した時点で、楓が意気消沈しているだろう蜀蔡に力を貸す。蜀鯉と戦う場合、季柱が

表に立つしかなくなるから、言わば蜀蔡は脇に押しやられる格好になる。不満を増しているだろうし、誘

いにも容易く乗ってくるだろう。季柱の目は蜀鯉に向いているから、工作しやすい。

 例え蜀鯉が勝ってしまっても、それはそれで構わない。その時は人形から現実に戻された蜀王に接触し、

生きていれば蜀蔡と協力し、蜀鯉を謀反人として討ち取ってしまえばいい。蜀鯉が季柱に勝っていれば権

力のほぼ全てを手中に収めているだろうから、蜀王は対抗するに他国の力を借りざるを得なくなる。付け  方策は成った。後は実行するのみである。

 楓流は早速行動を開始した。定まれば動きが速いのが楓の特徴だ。



 計画は予定通りに進んだ。蜀鯉は常日頃からよほど腹に据えかねていたのだろう。楓が間者を使って接

触を試みると、呆気ない程に簡単に協力し合う事を約束し。王座に付けば楓と同盟を結び、中諸国平定に

協力する、という楓の条件もそのまま受け容れた。

 無論、彼が約束を守るとは思えない。そのまま受け容れたのも、どうせ守らないのだから交渉する必要

は無い、という事なのだろう。その思いが透けて見えるのが、彼がまだ鯉である所以(ゆえん)と言える。

季柱に上手く使われる訳だ。

 楓の後押しを受けると、蜀鯉は強引なくらいに自らの計画を押し進めた。ただ誤算であったのは、その

計画が弟と季柱を廃するどころの話ではなく、そのまま王位簒奪を狙うという直接的な行動であったとい

う事だ。

 そう、蜀鯉はすでに王に見切りを付けており、生かしておいても自分にとって良い事はないと考えてい

る。だからこの際殺しはしないまでも隠居(といっても実際は軟禁だろうが)させて黙らせてしまおうと

考えていたのである。

 しかし当初はそれを見せようとはせず、あくまでも逆臣討伐、跡目争いという名目で協力者を募り、楓

という後ろ盾を得ている為もあってか、蜀鯉は順調にその勢力を伸ばしていった。官吏の頂点に立つ季柱

がどちらの王子も立てているのだから、官吏達もさほど考えず強い方に付いたのかもしれない。どちらで

もいいのだろうと。

 それに蜀蔡は官吏達からの人気が薄く、その点でも有利であった。

 季柱はこの事に対し、密かに恐れを抱いたが、最早覆し難い勢力になってしまっている。官吏達が季柱

を恐れている事を知っているから、蜀鯉も表面上は季柱に対して丁寧な物言いであるが、本心では季柱を

さぞや恨んでいる事だろう。ここで逆らえば何をするか解らない。季柱が表立って王子と争うのは望む所

ではなかった。避けねばならない。

 しかしこのまま蜀鯉の行動を許し置けば、季柱の権力が衰えてしまうだろう。黙認する事は季柱の敗北

と取られかねない。

 季柱は蜀王を盾にとって蜀鯉の行動を牽制し、時間を稼ぐ事にした。

 蜀鯉も王を無視する訳にはいかない。如何に彼の望みが王位簒奪でも、今強引に進めれば後々悪影響を

及ぼす事くらいは解っている。王も季柱も民からの評判は悪くない。無闇にこれを追い落とすような真似

をすれば、蜀鯉の名に瑕(きず)が付く。自尊心の強い蜀鯉にとって、それは許しがたい事だった。そう

ではなく、堂々たる態度で正面から王位を奪わなければならない。

 それに彼もまた味方に付いている者を掌握する為の時間が必要だった。

 つまり両者共に時間が必要で、利害は一致し、蜀鯉も一時矛を収める事にした。

 この時点ですでに蜀蔡の存在は無視されている。誰もその名を頭に浮かべる者はいなかっただろう。蜀

鯉が権力を無闇に増そうとし、それを季柱が王に代わって押えている。そういう構図に見ていた筈だ。

 季柱は時間のある間にと、急ぎ対策を練り始めたが。その時、思わぬ訃報が届いた。なんという事か、

蜀蔡が自分の前途に見切りを付け、或いは再び兄に敗北した事で劣等感を極度に刺激されたのか、自害し

てしまったというのだ。

 この点、誰もが蜀蔡という人物を見誤っていた。確かに彼は兄に対して深い劣等感を持ち、執念深くも

あり、暗い情念を常に抱いているような男だったようだが。その心は非常に脆(もろ)く、敗北に幾度

も耐えられるようにはできていなかった。

 そう考えれば、単に兄に対する敗北という傷を、生涯持ち続けていただけの、それだけの男だったのか

もしれない。

 ここで季柱だけではなく、楓流の目論見も外れた。

 蜀鯉もまた困惑しているようで、三者の関係に思わぬ停滞が漂ったのだが。ここで立ち上がってきたの

が王である。耳目をふさがれているとはいえ、流石にいつまでも我が子の死を隠しておける訳がない。誰

が知らせたのか、季柱が驚く程早く王の耳に入り(おそらくこの機会に季柱を追い落とし、その後釜に座

ろうと考えた者の策動だろう)、怒り狂った王が蜀鯉を謀反人として、即刻討伐を命じたのである。

 すでに王は実質の王ではなくなっているとはいえ、その形式は重んじられていた。だからその命にも幾

らかの力が残っている。ただし軍部、武官は総じて王を恨んでいたから、王命に逆らってまでも蜀鯉に付

こうとする者が多く、王は逆に自らの首を絞める事になってしまった。言ってみれば、蜀鯉に謀叛を起

こさせる引き金を自分でひいてしまったのだ。

 だが、これこそが好機。

 楓流は即座に季柱に接触し、王の名をもって即座に楓へと救援要請するよう呼びかけた。

 軍事力を減じた季柱は藁(わら)にもすがる思いでこれを受け容れるしかなく。予定とは大きくかけ離

れてしまったが、結果としては楓流が望んでいた形になった。不思議なものである。これを運の良し悪し

だけで片付けるには、あまりにも疑問が残る。



 楓流は慎重に行動している。救援要請を受けたが、それですぐに軍を発するような真似はせず、まずは

楓王として季柱へ使者を送った。その行動の真意、そして正当性を問う為である。無論、そもそも楓流が

要請させたのであるから、それも形を取り繕う為だけのものに過ぎない。

 ただし本当に楓流は軍を準備していなかった。まるでそれを待っていたように用意周到であれば、自分

の策動であると公言するようなものだからだ。何事も取り繕(つくろ)わなければならない。

 無論、形だけ繕ったとしても、誰もが蜀の乱に楓の意思を感じるのは変わらないが。季柱の行った事と

同様、その形が重要なのである。誰からも文句を付け難い形を取らなければ、言い訳が難しくなる。面倒

だが、これは必要な措置(そち)だった。

 そしてその上で秦や楚、そして越に対して事情を説明し、楓が軍を蜀へ送る理由を伝えている。

 その腹は見えているとしても、こう丁寧に行われれば、無下にはできない。今回は楓が自発的に動くの

ではなく、蜀王自身からの救援依頼というきちんとした理由があるのだから尚更である。

 それにどの国も今は蜀に関わっている暇(ひま)がないから、不承不承ながらも承知するしかない。こ

こで楓と蜀から恨みを買うのも得策ではない。

 楓流が心配していたのが唯一安定している楚の動向であるが、楚も民心を考えてか、楓が大義名分に則

(のっと)っている限り、向こうから敵対する意思はないようである。或いは争わせる事で、楓軍の疲弊

を狙っているのか。

 確かに同じ攻めるのであれば、蜀鯉と一戦交えさせた後の方が、色々とやりやすくはなる。戦をするの

もそうだが、策謀をめぐらすには戦を行う前よりも、むしろそれが終わった後の方が都合がいい。そこに

は必ず大きな不満を持つ者が無数に居るからだ。

 戦が終わっても、それで全てが解決する訳ではない。むしろそこからが問題である。新たな火種はどこ

にでもある。戦とは物事を解決する手段ではなく、新たな紛争を生み出す手段である。つまり、ごまかし

に過ぎない。

 しかし楓流もその程度の事は理解している。楓軍を実際に血にさらすつもりはさらさらなかった。

 楓軍が来るぞと思わせておいて、調略にて蜀鯉内部を切り崩しにかかったのである。

 そもそも蜀鯉に多くが協力したのは、その背後に楓の存在を見たからだ。隣国にして精強なる軍を持つ

楓。油断ならぬ仮想敵であるが、これを味方に付ける事ができれば百人力。楓ならばこの乱が収まった後、

漁夫の利を得るようにして動く、という心配も要らない。

 そのような義に叛(そむ)く行動を起こせば、他国が介入する為の格好の理由を与えてしまうだけだか

らだ。

 だから蜀鯉も楓の申し出を簡単に受けたのである。確固とした力を早々に手に入れておかなければ、自

らの地位、そして命までが危うい、という事だけではなく、そういう計算もあったのだ。

 内乱時に恐れるべきは、他国の介入である。それも乱が収まった後、疲弊(ひへい)している所をその

協力者に突かれてしまうのが一番恐い。

 しかし大陸中の国同士が互いに介入する隙を窺いあっているような今、裏切り行為を抑える効果が働く。

楓に裏切られる事を考える必要はなかった。今そんな事をすれば間違いなく、悪、とされ、都合よく扱わ

れてしまう事になる。

 悪。これほど便利な言葉は他にない。その言葉さえ貼り付ければ、その相手に何をしようと許される。

それが例え普通なら嫌悪されるような言動であったとしても、悪を貼り付けられた相手に対しては、人は

いくらでも無慈悲になれるのだ。

 言わば悪とは、そうする為に生み出された理由、なのかもしれない。

 人は残酷である。そしてそうありたいと願っている部分すらある。だからそうできるだけの理由付けを

してやれば、それを拒む人間は少ない。どれだけその行いが酷かろうとも、心が痛む事はない。そういう

便利な状況を、理由を、人は常に一面では求めているのである。己が欲望を際限なく吐き出させる事がで

きるような、無慈悲な状況を。

 だから蜀鯉は楓の力を得て、勢力を作った。そこに武官達が持つ蜀王への恨みがあったとしても、楓の

後押しがなければ、こうも上手くはいかなかった筈だ。そういう意味では、皆蜀鯉を見ていたのではなく、

その背後を見ていたと言える。

 その楓が何を考えたのか、蜀王、いや季柱に鞍替えした。これはなんという事だろう。

 しかし蜀鯉は動じなかった。窮地に追いやられたと感じている筈なのに、それに挫(くじ)けるどころ

か、逆に闘志を燃やし、形振り構わぬ行動に出たのである。

 確かにきっかけは楓軍にあった。それを否定する事は蜀鯉にもできない。しかしこうしてすでに集まっ

ている以上、それも蜀鯉を中心に集まっている以上、最早彼らは一つの独立した勢力である。楓の僕でも

家来でもない、蜀鯉という勢力である。

 楓が鞍替えしたとしても、武官達が持つ王への憎しみは消えていない。事を起こしている以上、彼らに

も選択肢はない筈だ。今更王と共に行く訳にはいかず、例えそれをしても、いずれ季柱に始末されるだけ

だろう。生きる道は他に無く。蜀鯉と共に突き進むしかない。

 蜀鯉はそう考え、味方に付いている者達の動揺を払いながら、見事に軍を統制した。その腕は確かに得

難いものであり、彼の才能を物語るものであったが、やはり彼は本当には何も理解していなかった。

 蜀鯉に付き従う者達は蜀王に虐(しいた)げられている者達であり、何も蜀鯉に天命を見たのではなく、

あくまでも自分の利の為。そして現政権に不満があるからこそ、それを打ち倒して自分にとってもっと都

合の良い政府を作ろう、という事でしかなかった。

 言ってみれば誰でも良いのだ。武官を憎んでいる現蜀王さえ退けば、どうにでもなる。事実はどうあれ、

それで現状が変わるのだと、季柱に思い込ませられている者も多かった。そしていくら季柱でも王の後ろ

盾がなくなれば、今までのような権勢は張れなくなるだろう、と計算する者もいた。

 季柱はそれを知っている。自分も恨まれているが、元凶は蜀季にあるのだと。そこで即座に王に退位を

求め、隠居してもらい。嫡子の資格を剥奪された蜀鯉に変わり、次兄の蜀望(ショクボウ)を嫡子に立て

させ、王位を譲らせたのである。

 そして自らも隠居し、蟄居謹慎(ちっきょきんしん)する事を申し出た。無論、これもまた形式だけの

事で、後任人事も季柱閥がしっかりと握り、権力を手放さない。あくまでも怒りの矛先がこちらへ向かな

いよう避ける為の名ばかりの謹慎である。

 しかしそれは徹底的で、これ以後季柱は一度として王宮へ入らなかった。自宅から一歩も出ようとすら

しない。宰相としてこの乱が起こった責任を取るとして、表面上は厳かに謹慎生活を続けている。

 彼は己の為ならば、いくらでも偽る事ができるのだろう。多くの人間と同じく。

 王となった蜀望の方は有能なのか無能なのか計り難い人物で、長兄と末弟の争いを見て様々な事を諦め、

ただ波風を立てぬようにだけ心を配って生きてきたような人である。その性質から季柱が次代の人形にと

考えていた人物で、彼は初めから蜀鯉であれ蜀蔡であれ最後には捨ててしまうつもりだったようだ。

 ただ季柱と蜀望が深く繋がっているという噂はない。それは勿論、季柱がこうなる場合を想定し、その

ように振舞ってきたからである。あくまでも裏で影で工作し、それも時間をかけてゆっくりと進めていた。

季柱の真の目論見に感付いていた者は、おそらく居なかっただろう。

 ともあれ、これらの工作が幸をそうしたのか、次第に季柱側へと寝返る者が出てきた。季柱側の対応を

考えれば、そして楓が肩入れした事を考えれば、これ以上蜀鯉に付き合う必要は無いと判断したのだろう。

より強い者が出てきている以上、終わった者はもう用済みである。誰も蜀鯉と心中しようとするような者

は居ない。利害で繋がった関係は、終わりもまた利害で決まる。

 楓流が圧力を加える必要はなかった。季柱に味方したという事実があれば、蜀季が権威を完全に失った

という事実があれば、後は見る見るうちに全てが崩れ、一時は王すら凌いだ蜀鯉の勢いも、一転して元に、

いやそれよりも遥か地に落ちてしまった。こうなれば彼もただの反逆者でしかない。協力しようとする者

など、居る筈がなかった。

 何をやったとしても、蜀鯉にはこの劣勢を覆すだけの力はない。まだ付き従っている者もいるが、それ

らも次第に離れていくか、共に力を失った者である。放っておいても害はない。

 蜀鯉も迷っていたようだが、結局味方に裏切られて殺される事を恐れ、信頼のおける者のみを共にして

去って行ってしまった。おそらく中諸国の内いずれかの蜀派の国へと亡命したのだろうが、はっきりとは

解らない。もしかしたら別のどこかを目指しているのかもしれないし、何か考えがあるのかもしれない。

 少し気にかかるが、今の所は何の力もない。慌てふためく事はないだろう。蜀鯉にこの一連の流れが全

て楓の陰謀だと言い立てられれば少し困る事になるかもしれないが。主だった国は全て楓を黙認している。

大した効果は無いだろうし、何かするとしても、それだけでは弱い。

 ただし、それを大義名分として後々戦端を開く理由として使われぬよう、今から注意しておく必要はあ

る。できれば始末しておければ、安心できる。

 そこで楓が中諸国へ大きく手を伸ばすのも、干渉するのも得策では無いので、蜀に対し、蜀鯉を捕らえ

るよう働きかけた。

 しかし蜀は動かない。季柱に言っても、謹慎を理由にして、あくまでも協力を拒む構えである。いや、

蜀鯉が生きていて困るのは季柱も同じなのだから、もしかしたらすでに手を伸ばしているが、値を吊り上

げる為にそのような態度をとっているのか。

 或いはそのような余裕がなく、蜀鯉を結局取り逃してしまった、という汚名を着ない為に、哀れんで逃

がしてやったのだ、という態度を繕っているのか。

 どちらなのか、どちらでもないのか、それは解らないが。やはり季柱は必要以上に楓に協力するつもりは

ないようだ。つまり今までの大陸中での蜀という位置、立場を変えるつもりはなく、楓の潜在敵として居

続けるという事だろう。

 甚だ無礼なやり口ではあるが、楓が実際に軍を動かした訳ではなく、乱平定も表面上は全て季柱閥がや

ったと言えなくもない。それなのに楓が腹を立てて軍を出すような事をすれば、それこそ物笑いの種、自

滅への道を突き進む事になりかねなくなる。

 それは愚かというものだ。

 楓流はそれは置き、新たな工作を始める。

 季柱が誤解しているのは、季柱への恨みは、王への憎しみは、隠居や蟄居謹慎程度で償えるようなもの

ではなかったという点だ。加害者はすぐに忘れる事も、被害者はずっと覚えているものである。

 確かに上辺(うわべ)はまとまっているように見えるが、実際には何も解決していない。何故なら、今

も当たり前のように季柱が上に居るからだ。形ばかりの謹慎など、何の意味もありはしない。

 それでも従ったのは、楓を恐れたからである。それに季柱の立場が悪くなっていれば、その分高く売れ

ると考えたからだ。誰も季柱達に心服などしていないし、いずれ季柱が処罰を加えてくる前に、政権の座

から引き摺り落としてやろうと多くが考えている。季柱を信頼している者など、どこにも居ない。

 それを勘違いして季柱自身がわざわざ楓との仲を悪化させているのだから、蜀臣が三度腹を変えたとし

ても不思議はない。むしろ季柱こそが蜀を侵す病魔であると考える。

 一度大きく揺らいだ事もあって、今の季柱閥は以前よりも遥かに脆い。付け入る隙はどこにでもありそ

うだった。

 蜀季が隠居して無力となり、蜀蔡が自殺し、蜀鯉が逃亡した今、王族を立てる事でその権威を借りてい

た季柱も同じくその権威を減じて当然なのだと、愚かにも気が付けなかったのである。

 そして季柱が人形と見ていた蜀望もまた、それだけの人物ではなかった。

 季柱は多くを見誤っていたのである。

 おそらく、初めから。




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