15-9.遠謀は計るに値するか


 越に対する方策は定まった。奇を衒(てら)う必要などない。普通に、当たり前に行えばいい。細かな

事は明開に任せておけば上手くやってくれるだろう。

 では何を考える必要があるかといえば、どの技術をどこまで与えるかという点である。次の段階の技術

を得る手掛かりとなるようなものはなるべく省かなければならないが。あまりそれを意識しては、大した

恩恵のないものを交渉の材料とせねばならず、それはいかにも不利である。

 流石に明開も手札とするに相応しいものがなければ、交渉を有利に進めていく事ができない。明開も初

めから無理なものをどうにかする事は不可能だ。それは楓流も良く解っている。だから慎重に定めていた

のだが、こういうものはその席に行かなければどうにも判断できない事だと感じ、結局その裁量をも明開

に任せる事にした。

 つまり教えられるぎりぎりの範囲を教え、それをどこまで使うかは全て彼の判断に任せたのである。

 その任は相応に重くなるが、明開であればその重みに尻込みするような事は無く、むしろ糧としてくれ

る筈だ。そのくらいは信じていても良いだろう。

 いや、信じなくてはならない、と言った方が正確か。明開には今後も様々な交渉事を任せる事になるが、

それは楓の機密を預けるという事でもある。彼を信じられないのであれば、その役割から降ろすしかなく

なる。他に適任の者がおらず、彼にしか任せられない以上、信じ抜くしかない。

 少なくとも、表面上はそうする必要がある。

 そして信じるという事は、その者の持つ権限を大きくするという事にも繋がる。この点にも重々注意し

ておかなければならないだろう。例え信じるしかないとしても、必要以上にそうする事は危うい。

 しんどい事だが、いつもやってきた事だ。今更泣き言を漏らすような事ではなかった。



 明開は今回も上手くやってくれたようだ。結果として、最低限と思われる対価で目的を遂げている。交

渉事に関しては素人に近い楓流から見てもそうなのだから、一目で解るほどにそれは上手く行ったと言え

るのだろう。

 もしかしたら、越の方も楓の力を必要と考えているのかもしれない。

 いや、必要とまで言ってしまえば過ぎるのかもしれないが。少なくとも敵対したいとは考えていないの

ではないか。もし本当にそうなら、それはおそらく秦か双を仮想敵と見ているからだろう。

 越の目は西方へ向いている。そして楓は楚と中諸国に警戒しなければならない。ここに利害の一致する

理由がある訳だ。越も楓と双の繋がりが尋常なものではないという事を、いくらか察しているだろう事も

考えられる。

 楓に対する時、双の態度は他に対するものとは明らかに違う。無私とは言わないが、余りにも協力的過

ぎる。楓流が双を派手に動かした事は少ないが、今までの流れを考えれば、何かを察するに充分なだけの

だけの材料はあった。

 全てを察する事は不可能でも、何かを感じたのなら同じ事だ。楓双の間がただならぬものだと考えれば、

双対策に楓を用いようと考えるのは自然な流れである。越がこちらの申し出を受け容れてくれた事にも、

そう考えれば納得がいく。楓の後ろに双があると思えば、協力し合うに充分な理由ができるのである。

 確かに双は鈍重でどうしようもない国で、はっきり言えば双正以外見るべき人物は居ない。しかしその

国力は馬鹿にならず、以前双の動向に全ての勢力が注目していたように、時にはその一存が決定打となる

場合がある。

 愚かだと侮蔑(ぶべつ)しながらも侮る訳にはいかない、という不可思議で厄介な存在なのだ。

 その厄介さは、以前楓流と趙深が力を貸すだけで大いに領土を広げたという事からも解る。潜在能力だ

けなら大陸一なのかもしれない。もし双人の気質があのようでなければ、もう少し謙虚さがあったなら、

大陸に依然覇を称え続けられていたのかもしれない。

 始祖八家の最後の一流として、双王こそが史上唯一の統一王になっていた可能性もある。

 しかし双はその可能性を自分から全て潰している。その事が長く生き延びた処世術でもあったとはいえ、

まったく不思議な国だ。

 双の中には本来なら能力として標準以上の者が少なくはないのかもしれない。しかし双人全体にある生

来の気分がその全てを台無しにしている。その才を発揮し、力を伸ばす事を、それら全てが邪魔している。

そしてそうする事が双人の誇りであるかのように考えている。

 これは重度を超えた末期症状と言えなくもない。この時点ですでに、双という貴族主義国家は完全に腐

敗していたと言えるのだろう。この後長く続いたのは、間に明辰(ミョウシン、或いはミョウタツ)とい

う中興の士を生んだという幸運を入れても、奇跡に近い偶然であったといえる。

 それともこれは腐敗ではなく、完成していたという事なのだろうか。この姿が生き着く姿であり、ある

意味非常に安定した姿なのだと。

 否定したい所だが、そう言い切れない部分がある。確かに行く所まで行ってしまえば、行ききってしま

えば、それはもう変わらないという意味で、例え救いようがなくとも、安定といえるのかもしれない。

 だからこそそのままの姿を保ち、長く生き続けた。その為の社会がこの時点ですでに出来上がっていた。

 仮説としては面白い。無論、肥沃な土地を持っている事で、双はその歴史を通して概ね豊かであった、

という事もその理由としては大きいだろうが。

 ともあれ、双は全ての勢力に対してある程度の影響力があり、越が双を織り込み済みで考えてくれるの

なら、楓としてはありがたい。楓がそう示唆(しさ)した訳でもなく、勝手にこちらにとって有利なよう

に思い込んでくれるのだから、こんなに良い話はない。実際は楓にとっても双は当てになる存在ではない

のだが、そう勘違いしてくれている事は、越との関係において大いに楓を助ける事になるだろう。

 そして実際、双は決して楓の敵にはならない。それもまた非常にありがたい事である。

 これで西方を治める三国の内二国を味方にする事ができた。いますぐどうこうなる事はないだろうが、

いざという時の備えができた事は気持ちを少し楽にしてくれる。

 楓、越、双が組めば、簡単に滅ぼされるような事にはならないだろう。

 西方の問題は一先ず解決した。次に考えるべきは衛だ。

 もし楚が楓と敵対した場合、衛が東方に孤立する事になる。単独で戦えるだけの備えはあるとしても、

不安である事は確かだ。

 東方には緑、布、伊推(イスイ)といった味方も居るが、その力はさほど大きなものではない。周辺の

国家が騒ぎ出せば、彼らも自領土を護るだけで精一杯であろうし、衛が足止めされている内に各個撃破さ

れてしまう可能性もある。

 そうならないよう、楓が中諸国へ圧力をかける必要があるのだが。例え西方に越と双という味方を置い

たとしても、楚への備えを怠る訳にはいかないのは同じ。もし圧力を与える為に軍を動かすとすれば、軍

を二分する必要があり、それでは楚への備え、中諸国への圧力、どちらも中途半端なものにしかならなく

なる。

 楓も兵力に余裕がない。防衛に専念すれば二分しても何とかなるかもしれないが、それもいずれは押し

切られてしまうだろう。やはり衛は衛一国で立っていられなければならない。

 その為に領土拡張したい所だが。北方大同盟の効力が実質失われている今でも、衛はその影響を免れる

事はできない。何故なら、大陸大同盟というものによって、趙深を衛の太守に任命しているからだ。即ち、

北方大同盟があって、初めて趙深に衛を統べる資格が生じる。

 だから北方大同盟を尊重せざるを得ず、その加盟国の許し無しに勝手に動く事はできない。あくまでも

衛は衛のままでいなければならず、言ってみれば趙深はその為の管理者に過ぎないのである。

 例え実質的に大同盟がどうなっていたとしても、名目上それに従わざるを得ない。楓一国ではなく、複

数の国家の総意でそう定められているから、どうにもできないのである。もしそれを無視して強引に動こ

うとすれば、姜尚が身罷った今そんな事をしてしまえば、全ての民から大いに反感を買う事になり、衛を

まとめている事すらできなくなるかもしれない。

 衛は衛という括りで安定しているように見えるが、それも観念的なものでしかないのである。衛という

括りを利用して強引に押え付けているとも言える。楓流と趙深で衛という国を再興してからそう長い時間

が経っている訳ではない。しっかりと形を成すまでには、まだ多くの時間が必要だろう。

 今は穏やかに治められているが、もし何か起これば、それを引き金として瓦解するような事態も、考え

られない事ではない。

 例えそうなっても趙深が上手く抑えるだろう。

 確かにそうかもしれない。趙深はそこまで深く衛に入り込み、手綱をしっかりと握り締めている。ある

程度強引に締め付ける事も可能かもしれない。

 だがそうだとしても、その際の趙深の負担は果てしなく大きく、衛そのものが火薬庫のように危ういも

のであり続け、その上その危険は高まる事はあっても、抑えられる事はない。そうなれば中諸国への圧力

も大いに減じ、たがが緩む。そうなれば子遂(シスイ)などが蜀と手を結んで暗躍する事も考えられる。

 その時、果たして楓はそれを抑えられるだろうか。

 ここはもしそうなっても何とかなるように、最悪の流れを食い止める事ができる何かを作っておかなけ

ればならないだろう。衛を表立ってどうこうする事ができないのだとすれば、他に衛を助ける事のできる

何かを置いておかなければならない。

 楓流は考える。

 衛以外を考えるとすれば、それは、緑、布、伊推、の三勢力しかない。現状で絶対的な味方と言える三

国の力を増し、このそれぞれだけでもいくらかの圧力を加えられるようにさせる事が、おそらく今唯一打

っておける手であろう。

 しかしその為にはどうすればいい。力を増すと言っても、徒(いたずら)に領土拡張させようとしても

無用な乱を起こすだけである。この三国には衛のように一国だけで中諸国を押え付けられるような力はな

い。衛の後ろ盾があって、初めて影響力を与える事ができる。

 その力は小さいものではないのだが、三国を合わせてもまだ足りない。緑は布と伊推から離れ過ぎてい

るし、布と伊推は周辺に厄介な敵を抱えている。単純に力だけを頼ってはどうにもならなくなる。

 力に頼れないとなれば、調略を用いる事を考えるしかない。

 だがそれもまた困難な事だ。蜀が勃興し、何度か敵対して以来、あの地には楓衛派と反楓衛派という図

式ができている。反蜀派、親蜀派と言い換えても良い。個々の利害も忘れていないが、衛と蜀という二点

を軸として考えるようになっている部分がある。

 その上、諸勢力はそれぞれに複雑な思いを抱えており、表面上はどうあれ、実際にはどちらとも言えな

い勢力が多い。その力は個々を見れば小さいとしても、今の今までしぶとく生き残っているような連中だ。

決して侮れないし、束ねれば大きな力となりかねない。

 だからこそ今も勢力が乱立するような状態なままでいる訳で、楓や衛だけではなく、どの国も中諸国に

絶えず目を配っている。今のような状況になれば尚更だ。中諸国は時を経る毎にその重みを増しているよ

うに思える。

 そこへ当てもなく調略を試みた所で、失敗するのは目に見えている。それにできる事はすでに趙深がや

っているだろう。それでも目立った効果が出ていないのだから、今更楓流が遠方から手を出したとして、

何が変わる訳でもない。よく見えぬ遠い場所へ無闇に手を伸ばせば、考えもしなかった災難を呼び込む事

になる。人は分を過ぎた事をせず、目と耳と手が届く範囲に止めておくのが賢明というものだ。

 だからもし楓流が今できる中で。効果の見込めるものがあるとすれば、距離が近い蜀に対してのものだ

けであろう。

 そして蜀こそが中諸国の中で最も大きな影響力を持っている国である。この国を動かせたならば、確か

にそれは意味ある事となる。

 楓流は防備を固め、国内統治を整えながら、すでに放っていたのとは別に、有能な間者を幾人も蜀へと

送り込んだ。蜀の価値が高まっている今だからこそ、できる事がある。下手に自信を持った人間ほど、操

りやすい者はいない。逆に今こそが好機だと、考えられない事もなかった。



 蜀は現在、蜀王が実権を握っている。それは当然の事だとも言えるが、一時期将軍に実権を奪われ、楓

と甘繁が手助けする事で権威を回復したという経緯がある。その事もあって暫くは大人しくしていたのだ

が、楓と楚の間にきな臭い空気が漂い始めると、その関係も変わってくる。

 彼らも心から楓や秦に服している訳ではない。仕方なくその力を頼っただけで、その代償として大人し

くはしていたものの、単に手出しできないから大人しくしていただけで、隙あらばその領土を奪ってしま

おう程度の事は、おそらく今も考えている。

 楓流は常に蜀をそういう目で見てきた。彼らを味方だと考えた事は一度として無い。警戒を崩さず、

その間には拭えない緊張感がある。

 間者からの報告に寄れば、今の所蜀は概ね安定しているそうだ。

 現蜀王、蜀季(ショクキ)は取り立ててこうと言う所はないようだが、決して無能ではなく、順当に国

を治めている。実権を奪っていた将軍を憎みつつもそのやり方を学んでいたのか、それを概ね踏襲しなが

ら民の声も聞き、無難に政務をこなしているようだ。

 そこには急激な変化を起こす事への恐れもあるのかもしれない。下手に変えるような事をすれば、また

将軍と同じような存在が出てくるのではないか、と。

 蜀王が恐れるのは当然だ。そしてそれを象徴するように、軍部への、もっと正確に言えば、将へ与える

権限を著しく減らしており、軍もほぼ全てが王直轄になっている。つまり王自身が将軍になっているよう

なもので、ここからも軍の反乱をどれだけ恐れているかが解る。変化への恐れよりもそれが強いからこそ、

ここだけは大きく変えられたのだろう。

 他にも蜀王は武官を疎(うと)んじ、文官を重んじるようになっている。

 常に側に置いているのは文官のみであるし、武官は文官よりも一つ下の地位しか与えていない。武の上

に文を置く。これは楓流とも共通する考えであるが、この二者の間では決定的に違っている点がある。そ

れは、楓はそこに考えがあってからであるが、蜀はただ恐れからしている、という点である。

 根本となる部分の違いは、例え同じ事をやっていたとしても、その結果と過程に大きな違いをもたらす。

人が同じ事を口にしながら争ったり、同じ事を口にしながら全く別の事を行っているのには、そういう理

由がある。

 例え同じ目的、同じ場所へ向かっていたとしても、その道筋、手段が違えば、自ずと全てが違ってくる。

だからこそ上辺ではなく、その奥にあるものを正確に捉えるようにしなければ、その物事の本質というの

か、現実を掴み難い。

 気を付けなければならない。

 蜀の文官団の頂点に立っているのは、王の片腕たる宰相、季柱(キチュウ)である。王の名と彼の姓が

同じ字である事も手伝ってか、王の信頼は厚く、それに応じるように季柱もまた王には従順である。ただ

し、部下に対しては一転して神経質で恩着せがましい所があり、必ずしも慕われている訳ではない。

 頂点に立つ者がこうであるから、文官団はまとまりにかけ、余りしっくりいっていなかった。そこに王

が文官に重きを置いた事によって、文官間での出世争いが活発化する事になり、元からあった溝が更に深

まり広がって、文官同士は総じて不仲になっているようだ。

 特に季柱への憎悪は高まるばかり。その権力が増大する事によって、以前からあった憎しみに、妬みや

僻(ひが)みが加わったという訳である。

 浅ましいと言えばそうだが、人が自分の利に敏感な事は古今変わらない。特に他人の利と比べ始めると

厄介だ。

 信頼する宰相とはいえ、軍事権は一つとして委ねられていないのだが、現在の季柱の権力は小王とでも

いえる程大きなもので、その命令は時に王と同等。範囲は限定されるが、王に問わず自ら判断し裁可する

事すらできるという。

 そこまでの権威があるのだから、当然のように実入りもよく、賄賂なども後を絶たない。季柱次第で全

てが決まるのだから、それも当然である。そして季柱自身もまたそういうものを断らない。それが横行す

るのは自然の流れであった。

 季柱も王の目を憚(はばか)っているようではあるが、そのような事をやっていれば、その利に釣られ

て閥(ばつ)が生まれる。王とは別に、臣民問わず季柱との間に個人的な多数の関係ができており、それ

が王威すら圧迫する程に大きくなっているのだとか。

 蜀王も愚かである。権威を持たせすぎたから下克上を生んだのだとすれば、それを与える相手は武であ

ろうと文であろうと関係ない。王ではなく季柱の機嫌さえ伺っていればいいとなれば、王の権威が衰え、

季柱の権威が増していくのは当然である。

 だがこの状態は長く続かなかった。何かが動けば、その分反動というものが起きるものだ。

 文官団を上手く統率していたのなら、或いはこのまま季柱が実権を握れていた可能性もあったのだが、

彼は部下達から余りにも嫌われている。主人にばかり媚(こ)び諂(へつら)う犬に対して、自分を人間

だと思っている犬達は過剰なまでの嫌悪感を示すものである。そして自分の座を奪われていると錯覚し、

非常な手を使ってでも追い落とそうと画策する。

 蜀王の文官優遇策もまた元より歪(ゆが)んでいたのだから、そこに歪(ひずみ)が生まれるのは当然

である。

 武官の地位が低いのを幸い、文官達はそれぞれに武官と接触し始め、閥を築き始めた。季柱閥も主であ

る季柱自身がああであるから一枚岩ではなく、中には対抗勢力が生まれたのを幸いに、鞍替(くらが)え

しようと考える者も出てきているようだ。

 こうなると、季柱自身の価値というのか、重みは失われていく。季柱を無視して勝手に裁量する者達ま

でが出てきて、権力が更に下へ下へと移り始めた。

 このような動きに季柱が気付かぬ訳がない。特に軍部と手を結び始めた事に危機感を持ち、その飼い犬

的性質も手伝って、大げさな言葉で王へ忠言(彼にとっては)した。

 王がどれだけ激怒したかは容易く察せられる。武官のみならず、今度は文官までが王を貶(おとし)め

た。最早臣など信じるに足らずと考え、文官武官問わず次々に厳罰を加えていった。

 その中には無実の者も多くいたようだが、王にとっては関係ない。信じられるのは忠言してくれた季柱

のみであり、疑わしきは全て罰するのである。自分は王だ。文句は言わせない。そしてその季柱もまたこ

の機会に競争相手を全て潰してしまおうと、自分の閥以外の者を讒言(ざんげん)して失脚させ、代わり

に季柱閥の者を大いに取り立てる。

 こうして季柱の権威は以前とは比較にならぬ程増大したが、彼に対する憎悪もまた比較にならぬ程増大

した。その怨嗟(えんさ)の声は、貴賎問わず、あらゆる所から注がれている。

 しかし王を完全に掌握した今、季柱に表立って逆らうような者はいなかった。王は季柱のみを信じるよ

うになり、その言葉しか聞かぬようになっている。傀儡(かいらい)にされている事にさえ、気付いてい

ないのだろう。耳目を塞がれた王は、ただそこに居るだけの存在でしかなかった。

 もうこうなればそうなるべき王であったとしか言いようがない。自ら望んでそういう風になっているの

だから、同情すべき点もない。余りにも愚かであり、狭量(きょうりょう)であった。

 今では王命を季柱が勝手に書き換える事さえ平然と行われているという。知らぬのは王ばかり、蜀内で

は子供でも知っている。

 ただ季柱も身勝手なばかりではなく。吏としての才能はあったようで、むしろ王自身が多く口を出して

いた時よりも、民としては暮らしやすくなっているのだとか。

 そこには自分が賄賂を貰うのは良いが、人が貰うのは許せない、という思い。民の機嫌を取って取り込

んでしまおう、という季柱の狙い。などが上手く作用しているのだろう。権威の増大に比例して季柱への

賄賂の額と数は増えていったが。他人に対しては厳しかったので、全体的には減っている。だからある意

味善政になっている、という妙な具合になっているのである。

 王に対しての忠誠心も彼なりには持ったままであった。季柱は謀叛を起こした将軍が最終的に失敗した

のは、王に対する遠慮と敬意を余りにも失していたからだと考えている。上に対する敬意を失えば、下か

ら自分に捧げられる敬意も同じだけ失われて然りという訳だ。

 例え実権を握っていたとしても、あくまでも王を立て、それを途中で好きなように改変するとしても、

全ての命が王の口から出ているという形式を繕う事が重要。そういう形式さえ守っていれば、自分を利す

る形式もまた守られる。

 このような考えを持っているらしく、決して王を粗略にするような事はしなかった。

 王を飾りにするのではなく、人形にさせる。実権を取り上げるのではなく、形だけは持たせておく。そ

してその手綱を握るのは常に季柱。王さえ握っていれば、恐い者は居ない。王は王として居させればいい。

実際にその人形を動かすのは自分だ。

 王の命を受けねば、例え季柱に対して謀叛を起こしたとしても、大義名分は得られない。逆に季柱の方

が王命によってそれらを合法的かつ正当に処罰できる。その為に民心にも気を配っているのだ。愚かな大

衆。いや大集は、小利さえ掴ませておけば文句を言わない。その点官吏などより、遥かに扱いやすかった。

 これは卑劣(ひれつ)なやり方で、王に対して敬意があると本当に言えるのかどうかは疑問だが、季柱

にとっては全てに適う素晴らしいやり方である。

 蜀臣は手出しできず飼い殺しにされ、民もまた自分の暮らしが楽になっているのだから文句を言わない。

 王の正統性などどうでも良い事なのだ。自分達にとってより利があり、楽な統治者であればいい。楓流

や姜尚のような存在の方が、古今見ても稀(まれ)なのである。誰も聖人君子など望んでいない。民が王

に対して愚かな夢を抱くような時代は、前政権の段階でとうに終わっている。心などどうでもよく、利さ

えあればいい。

 季柱はその立場を磐石にするべく励み、今では主要な官職は季柱閥の者で埋められ、覆す事ができなく

なっている。季柱が王を擁している限り、誰も手出しできない。文句を言えば、すぐに処罰されてしまう。

 これではいくら揺さぶろうとも、大した効果は出せないだろう。恐怖と利を上手く用いた統治法は一時

的にしか通用しないが、その間は非常に強固かつ強力なものとなる。

 国を縦(ほしいまま)にしているとして、季柱討伐の軍を差し向ければ、確かに大義名分を繕う事はで

きるだろう。だが王も民もそれを望んでいない以上、虚しいものにしかならない。実の伴わない大義名分

など、無力である。

 楓国の身勝手な侵略行為と取られ、逆に利用されるのが落ちだ。楚や秦が動くのに、これほど都合の良

い口実はない。例えどの国も二の足を踏んだとしても、楓の評判は落ちる。そうなれば楚斉の民の好意を

失い、楚を抑えている力が失われる。結局は楓こそが全てを失う事になりかねない。

 これは最悪の結末だとしても、何でも初めは小さな事からだ。そうならないとは誰にも言えまい。そし

てこれこそが、楓流の最も恐れるものである。

 だからこそ今まで信義にもとるような行動を慎んできたし、そうであるからこそ今の楓がある。その事

を忘れた事は一度としてない。全てを失うような破目にだけは、もう二度と陥(おちい)りたくない。そ

の心は常に楓流の中で鮮烈な息吹を繰り返し、絶えずある一定の方向へと駆り立てさせている。

 せめて民の同意を得られれば手があるのだが。それもできない以上、何をする事もできなかった。

 しかし手を拱(こまぬ)いたままでいる訳にはいかない。

 考えた末、とにかくこの季柱と接触してみる事にした。どうにかしてこの男を動かす事ができれば、そ

こに隙が生まれるのではないか。例え全ての要職を押えているとはいえ、いやだからこそ不満が前以上に

高まっている筈。もっと内側に踏み込む事で、内情を知る事で、違う道が見えてくるかもしれない。

 楓流も奇麗事だけで済ませるつもりはなかった。



 更に情報を得させると、現在季柱に対抗できるような人物は一掃されていて居ないが、それでもそれな

りの力を有している者達は居る事が解った。それは季柱閥に属する者である事が多いが、中には属してい

ないが必要であるから残されている者、季柱でも遠慮せざるを得ない者、も存在している。

 その中で楓流が特に注目したのは王族である。

 前述したように季柱は王に敬意を払う格好にはしていたい。だから王族にもある程度譲歩せざるを得な

くなる。勿論明確な反意を示した者は王へ讒言する事で排除しているようだが、全てを全てそうする事が

できる訳ではない。

 特に王のお気に入りの蜀蔡(ショクサイ)に対しては、簡単にどうこうする事はできないようだ。

 蜀蔡は蜀季の末の子で、嫡子(ちゃくし)ではないが、常に王に忠実で王子の中でも一番才があると言

われ(王へのお世辞という要素が強いようで、実際にはさほどでもなかったようだが)、彼が生まれる前

に蜀季が立て続けに子を亡くしていた事もあって、殊(こと)の外愛し、我が儘(まま)を許してきた。

 臣への猜疑心(さいぎしん)が強くなれば、元から愛情を抱いていた肉親に対しての情が強まる事は当

然といえる事で、蜀蔡の言葉だけは蜀季もそれなりに信用する。簡単に手出しする事はできない。

 ただ、季柱にとって幸いな事に、蜀蔡とは馬が合うようで、表面上はこの二人も仲良くやっている。蜀

蔡としても己が野望の為には後ろ盾になる者が必要で、それならば季柱しかないと考えているのだろう。

この末弟は我が強く、その分だけ野心も強く、それが為に嫡子である長兄と不仲であるようだから、何を

考えていたとしてもおかしくない。

 とはいえ長兄も愚かではなかった。彼もまた季柱に近付き、その権威を保証させている。王が健在とは

いえ、いつ何が起こるのが解らないのが世の中というもの。いざという時の為に嫡子も押えておかなけれ

ばならない。季柱もそれなりに大事にはしているようだ。

 こうなると蜀蔡に恨まれると思われるが、そこはそれ、上手くその憎しみを長兄の方へ逸らし、長兄を

悪者とする事でむしろ蜀蔡との連帯を強めているという。流石に二王子もその手の計略において、とても

季柱に及ばない。

 とはいえ、いつまでも続けていられるような関係ではない。自ずと歪み、いずれ良からぬ結果を招き寄

せる事になるだろう。

 楓の付け入る隙は、どうやらこの辺りにありそうだ。




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