15-8.友ありしこその利か、利故の友か


 勘違いしてはならない。これは事前に玄一族との間で取り決めがあった事ではない。鏗陸が使者として

行く事で、初めて知らせた事である。だから何の準備もしていなかった玄張、玄信親子は大いに驚いただ

ろう。しかしその中に隠された意図には気付いたに違いない。

 そしてそれは玄一族が満更望んでいない事ではなかった。つまりその事を全く想定していなかった訳で

はない。

 では何に対して驚いたのか。それは楓流が回りくどい手を使った事に対してである。

 楓の要請は、黄夫人に仕える侍女として玄瑛を貰い受けたい、という話だ。しかしそれは楓家に嫁ぐの

と同じ意味になると考えていい。黄夫人の側に置くという事は、楓流自身の側に置く事にもなるからだ。

 それ自体は玄親子も望む所であったろう。でなければ、わざわざ玄瑛に看病させたりはしない。玄親子

がそうさせたのは、彼らが楓との繋がりを欲したからであり、そこにはおそらく友誼以上の含みがあった

と考えられる。

 であれば、二玄と称される程の二人が、長く玄一族をまとめてきた二人が、この話が事実上の婚姻であ

る事に気付かなかった筈がない。

 そして玄一族と婚姻関係を結ぶという事は、ただそれだけで終わる事ではない。その相手が二玄の家族

であるとすれば尚更だ。

 だからこそ隠れ蓑(みの)としての黄夫人であり、それはつまり楓流がそこまで理解し、全てを覚悟し

た上で受け容れているという事を意味する。玄親子は楓流がそこまで玄一族の立場を理解してくれている

事に驚き。それを理解した上で手を伸ばしてくれた事に対して、驚きと喜びを覚えたのである。

 こんな気持ちをぶつけられたからには、玄親子も生半(なまなか)な覚悟でいられない。元々半端な気

持ちではなかったろうが、楓流の応じ方を見、益々それを固くしたに違いない。

 玄一族の立場は複雑だ。はっきり言って、その理念を叶える事は絶望的である。

 玄親子も現状にはおそらく絶望している。確かに現状でもやれる事はあり、ただ生きるという事を考え

ればまず飢えるような心配はない。しかしこのままでは一生西方に、いや秦内に居るしかなくなる。玄一

族の理念を大陸全土に広げるどころか、西方から出る事さえ不可能である。

 もし秦という国が滅びたとしても、それが西方内での争いに過ぎないのであれば、おそらく玄一族の待

遇は変わるまい。彼らは西方に囲われたまま、生涯を終える事になる。

 民からも以前のような敬意を払われているとは思えない。一流の技術者ではなく、便利な道具だと考え

られているのではないか。

 それは、今よりも西方全体としての意識が強かった頃、楓に対して技術提供をした玄一族に対して怒り

を表し、玄一族の意思とは関係なく、一方的に西方側が彼らの処遇を決めた事からも明らかだ。そこには

技術集団への敬意などなく、一人の人間として当然捧げられるべき筈の礼儀すらなかった。

 だから西方に属している限り、彼らは西方から出られない。もし他方面の勢力が秦を破ったとしても、

玄一族という存在を持て余してしまい、結局は西方の民の意に従うという可能性も多い。

 西方の民の玄一族に対する執着はそこまで強く。玄一族も仕方なくそれに従い、今も従ってはいるが。

決してそれに満足している訳でも、諦めている訳でもなかった。おそらくは各地に散らばる玄一族に情報

を集めさせつつ、懸命に現状を打破する手段を考えている筈だ。

 でなければ、彼らは玄一族でなくなってしまう。彼らを彼らたらしめている誇りを失ってしまう。今辛

うじて保てているこの誇り、理念を失ってしまえば、彼らに未来は無い。

 そこに手を差し伸べたのが楓流という訳だ。

 とはいえ前述したように、今のままでは玄一族が表立って楓流に協力する事はできない。例え西方の民

としての意識が民から薄れてきているとしても、いやだからこそ、強引に連れ去ろうとすれば、また抑え

られていた感情が盛り返してこないとは限らない。そしてそれを秦政府が利用しないとも限らない。危険

である。

 ではどうするか。

 唯一方法があるとすれば、玄一族が楓に協力できる理由があるのだとすれば、それは楓流自身と深く個

人的な関係を結んでいる場合だけだろう。

 それは友情などというものではなく、もっとはっきりとした強い絆である必要がある。

 つまり、玄瑛を楓流に嫁がせる事。そうする事で楓流、ひいては楓国さえも玄一族の家族となり、玄一

族の一員になる。

 家族が家族を助けたとして、誰に文句を言われる筋合いがあるだろうか。いや、そこまでは望めないか。

婚姻関係を結んだとしても、西方の民の不満を完全に抑える事はできないだろう。だが、その不満をある

程度なら緩和する事はできる。

 だとすれば、玄一族全ては無理でも、その一部を、例えば玄瑛の従者、付き人などとして同行させる事、

或いは後に家族の一員として呼び寄せる事、なら大目に見てくれるかもしれない。

 とはいえ、これは難しく、半ば希望的なものである。

 玄張も初めからそんな事を考えていた訳ではないだろう。おそらくそれを考え始めたのは、楓流が酔い

潰れた時である。客人が酔い潰れ、幸いというべきか自分には年頃の娘が居た。この二つを照らし合わせ

るに、自ずとそういう考えが浮かんできたのだ。

 そして賭けてみる事にした。このまま道を失うよりは、例え少なくとも可能性というものを作っておき

たいと。

 或いは運を天に任せるような気持ちでいたのかもしれない。

 玄瑛に楓流を介抱させたとして、それだけで望むように運ぶとは限らない。楓流も当然それがどういう

事かを理解する筈、だから彼にもそれだけの覚悟がなければ、決して手を出すまい。そこには玄と楓の合

意が必要であり、その時点ですでに個人的な関係ではなくなっていた。

 だがら玄瑛に看病させたのは、それを量る為であったとも言える。

 玄張も楓流が友情の為だけにこの地を訪れたのではない事を知っている。そしてそもそも玄信との仲を

深めた事にも、楓としての理由があった事も解っている。玄張も人間というものをよく見てきた。貴賎問

わず、全ての人間の言動には裏と表がある事を知っている。

 そして例え裏表があるからといって、その全てに誠意が無いという訳ではない事も。

 幸い、楓流個人は悪い人間ではない。多分に合理性を持ち、それ故に冷たい所があるとしても、心底に

は優しさというのか、人の良い所がある。それは切り捨てられないという弱さでもあるのだが、その弱さ

こそが人を惹き付け、安心させる。

 おそらくそれは楓流が幼少の頃に染み付くようにして育まれたものなのだろう。楓流がどういう育ち方、

生き方をしてきたかを玄張は知らないが。その心に優しさがある事は、そして善意がある事は解る。

 楓流ならば、それが政略結婚だとしても、決して玄瑛を粗略には扱わないだろう。玄一族への礼、そし

て友情の証として、精一杯の愛情は注いでくれるに違いない。その程度と思われるかもしれないが、古今

問わず、そのくらいの事ができない人間の、何と多い事か。

 このままでは秦の辺境で朽ち果てるしかないのだ。それなら賭けてみればいい。今楓流がこの地に来た

のも天の導きだとすれば、決して悪い方向へは傾かないだろう。

 後は玄瑛自身の気持ちであったが(碧嶺以前は自由恋愛というのは稀であったようだが、玄一族はその

生き方からか、基本的に結婚などの個人的事情に関して強制はしなかったようだ。だから説得する必要が

あるかと考えていたのだが)、問題はなかった。

 兄から良い友として聞かされていた為か、実際に会ってその人となりに興味を持ち、接している内に好

意を持ち始めていたようで、不満はなかったようだ。楓流がある意味玄一族に似ていた事も、その一因か

もしれない。

 自然にその仲は深まり、それを父と兄が認めているのだから、この時代ではその時点で結婚したも同じ

である。

 故に事前に連絡を入れなくとも、おそらく玄張はいずれこういう事になるのを解っていた。だからそこ

まで秦に対して遠慮してくれた、玄一族の状況を考えてくれた楓流に対し、驚きと共に感謝心を抱いたの

である。

 秦の許しを得ている以上、玄一族が断る理由は無い。玄張は鏗陸に良い返答を預け、早速その為の準備

に取り掛かった。

 正式な婚姻でもなければ、正式に楓流に求められた訳でもないのだが、事実上の結婚である。分を乱さ

ない程度には立派なものにしてやりたかった。

 玄張もこうなれば、ただの一人の父親でしかない。

 母を随分前に亡くしている娘にとって、親はもう彼一人。しかも玄瑛は一人娘である。どれくらい気を

配り、懸命になったか、容易く察する事ができよう。

 できれば正式なものとしてやりたかっただろうが、今の状況では無理な話である。



 楓流は鏗陸からの返答を受け取る以前から、その為の準備していたようである。それはつまり彼が玄張

の出す答えを知っていた、推測できていたという事で、ここからもすでにやるべき事は済んでいた、とい

う事が察せられる。

 正式な返答が来るまでは、彼も不安がないではなかったろうが、失敗するとは思っていなかったのだろ

う。それとも取り合えず準備だけはしておこうと考えたのか。確かにそうする事で誠意を見せるという事

はできるだろう。

 初めから失敗を前提に申し込むなど、失礼極まりない事であるし。例え失敗しても、楓流が恥をかくだ

けで済む。玄一族に迷惑はかからない。

 この辺も推測するしかないが、まあ大した問題ではない。

 今は玄張がそれを受け入れ、秦の公認の下で行えるという事が重要である。

 表向きには侍女を一人連れてくるだけの事なので、それほど派手に執り行う事はできない。事情が事情

だけにある程度なら秦も疑いを持たないだろうが、あまりにやり過ぎれば気取られる可能性がある。もし

不信に思われでもするような迎え方をすれば、今後の事がやり難くなってしまうだろう。それでは許可を

得た意味を失ってしまう。

 楓流は何度も玄張と連絡を取り合い、慎重に事を進めた。そしてできる事とできない事を書き出し、で

きる中で精一杯の事をしている。勿論、事前に妻である黄夫人と今では彼女の侍女というよりは教え子に

して側近となっている胡曰(ウエツ)には許可を得てある。この二人に対しても楓流は実に細かく心を配

っている。

 それは当然秦との関係を考慮した上での事であるのだろうが、それだけと考えるには行き過ぎており、

彼が生来持っている人の良さが出ているといえた。

 秦が国として許している以上、今更黄夫人が何を言う理由もないし、胡曰の方は初めから楓流に逆らう

事を望んでいない。例え黙って連れて来たとしても、どちらも何も言わなかっただろう。

 黄夫人は一々嫌味に口出すような人ではないし、胡曰と胡虎は楓流の絶対的な味方であり、心からの家

族なのである。

 豪勢とは言えないが、玄張の精一杯の想いが込められた行列によって運ばれてきた弦瑛は、暖かく黄夫

人に迎え入れられた。そしてこれ以降、玄瑛は楓流の内々の妻にして黄夫人の教え子、つまり胡曰と立場

を同じくする事になる。

 ただ胡曰の方はあくまでも玄瑛を上とし、自分は常に一段下がって考えていたようである。それが自分

の分だと思っていたし、そうする事が楓流の為にもなると考えていたのだろう。

 とはいえ玄瑛は気立ての優しい娘であったし、父や兄から充分に言い含められていたのだろう。あくま

でも新参者としての態度を崩さなかったので、すぐに三者仲良くなり、友情を越えた家族としての強固な

関係が結ばれる事となった。

 これもまた楓流にとって軽くない財産になっていくのだが、それはまだ置いておく。

 ともかく、こうして楓流と玄一族は血の絆で結ばれ、晴れて家族となった。

 関係ができた事で玄一族が堂々と(ある程度は慎む必要があるが)楓へ行く事ができるようになり。今

は玄瑛(表向きは黄夫人に仕える侍女であるので、名を変えていない。これも胡曰と同じである)の付き

添いとして玄信が来て、楓に滞在している。

 こちらも秦の許可を得ているとはいえ、あまり長く居れはしないだろうが、誰にも文句を言われずに再

び楓の地を踏めた事は、玄信にとっても非常に嬉しい事であった。

 なにしろ玄信は西方に戻されて以来、ほとんどあの村から出られなかったのである。それが期限付きと

はいえ好きに行動できる事は、彼の心を非常に軽くし、また愉快にさせた。身も心も伸び伸びとし、久方

ぶりにその思考から陰りが消えたような気分であったようだ。

 そして鬱屈していたものを晴らすかのように、今までの時間を取り戻すかのように、早速楓の技術者の

許へ行き、協力して研究を進めていく。

 別に彼が一から十までやる必要はない。確かにそれが一番良いのだが。そうでなくとも第一歩といえる

部分、彼だけができるだろう天才的発想とそれを実現させる方法を教えさえすれば、後は時間をかければ

凡人でも何とかなる。

 天才と凡人は手先の器用さなどの身体的能力に関しても相応の差があると思えるが、一番大きな差は想

像力、いや発想力の違いである。たった一つの閃きが、全てを分ける要素になる。

 玄信は己の才能を惜しむような人物ではなかった。全身全霊を込めて様々な工夫を見出し、それを実現

させる為の手段を生み出す。そして惜しむ事無く、全てを教えた。その発想はどれも当時の技術者なら驚

く、いやあまりにも突拍子もなくて一笑に伏すようなものであったが、楓の技術者達は真摯にその意見を

受け止め、それを実現させる為に惜しみなく力を揮(ふる)った。

 彼らの間には自分の手柄や功績に興味が無かった事が共通している。いや、興味がないと言ってしま

えば語弊(ごへい)があるのかもしれないが、その技術そのものに対しての誇りはあれど、それを人に誇

ろうとか自慢しようとかいう気分はなかったのは確かである。知識欲、そして名誉欲が満たされる事に対

してのみ、大きな喜びを感じていたのだろう。

 そしてその心が玄一族と共通しているからこそ、玄信がその全ての力を尽くして協力してくれたといえ

る。おそらく玄信は、行動を封じられる前の玄一族の中に戻ったような気がしたのだろう。政治や人の欲

望とは無縁に、ただただ己が力を揮い、公共の利益を為す。その為に生まれてきたかのように、それを為

す。そうしてがむしゃらに励んでいただけの日々が、懐かしくも麗しく甦ってきていたに違いない。

 こうして楓は玄信という協力者を得、その技術力を一段上のものへと昇華させた。玄信が滞在した期間

は十日程度だったが、それだけの時間で著しく発展したのは、全員に共通する強い意志があった事と、玄

信が誠実な姿勢でそれに臨んだからであろう。

 最後に楓が大々的な別れの宴を開き、玄信は満足して帰っていった。

 その行った事、行おうとした事から考えれば、非常に短い時間ではあったが、彼は必要な事は全てやり

遂げていったのである。

 楓流もこの結果には非常に満足し、久しぶりに楓全体に笑顔が満ちるようであった。



 新技術の完成を急がせると共に、楓流は次の段階への準備を慎重に整えている。

 玄信を臣とするには並大抵の方法では不可能だ。血縁関係を結んだと言っても、それは表立っての関係

ではないし。二玄と並び称される程の者が他国へ仕えるのを許せる程、西方の民も国家も懐が広くはない。

 楓と玄一族の交流を許すのと、その話は全く別である。もしそんな事をしようとすれば、一転して反対

の姿勢を取るだろう。今回は妹の付き添いという事で、仕方なく許したに過ぎない。十日という滞在時間

も骨折ってようやく得たものである。事二玄に関しては、まだまだ西方の態度は厳しい。

 だから尋常の手段ではこの願いを叶える事ができない。

 かといって明開の時のような手段を採ろうにも、困難がある。戦でも始まっていれば、その騒ぎに乗じ

て連れ去る事もできるし、戦火の犠牲になったという言い訳も繕えただろう。しかし厳重にとは言わない

が、しっかりと監視されている二玄を、あの平和な場所で、嘘でも死なせてしまう事はまず不可能であり。

例え上手くそれを行ったとしても、おそらく誰も納得しまい。

 秦の間者は当然この楓にも入り込んでいる。いくら諜報能力が増していて、防諜能力もまた他国より高

くなっているとはいえ、その全てを捕らえる事は不可能である。それにそこまで警戒してしまえば、秦に要ら

ぬ警戒心を抱かせてしまう事にもなる。

 重要な情報以外は、ある程度漏らす事も必要だった。できれば諜報能力を強化している事も他国へ知ら

れないのが望ましい。

 そんな中、例えば楓に玄信を隠したとしても、いつまでも隠し通せるものではなかった。明開と違い、

玄信は執着されている。間者がその後を追う姿勢も尋常なものではなく、いずれ必ずどこかから漏れ、秦

と西方の民に決定的な不快感を与えてしまうだろう。

 ではどうするか。

 それを滞在中の玄信と共に練り、どうにか方策を見付ける事はできた。しかしその為には非常な苦労と

不安を伴う。その上、失敗した時には相応の報いを受けるし、その方法というのが、酷く不安定というべ

きか、まあ無茶なものであった。

 玄信は見込みはあると言っていたが、果たしてどうであろう。楓流にはそこまでの自信はない。

 だが彼の力を得たいのなら、その手段を用いるしかない。後は懸命に工夫をし、成功率とその持続時間

を一秒でも延ばすしかなかった。

 平素なら無理でも、西方内の緊張が完全に治まっている訳ではなく、いつ新たな火種が生まれるか解ら

ぬ現状であれば、何とか騙し果(おお)せる可能性は確かにある。

 楓流は慎重に事を進め、その機が訪れるのをじっと待つ事にした。

 幸いというべきか、今の所楓は新技術を完成させる事だけで精一杯である。どの道やれる事は少ない。

何をするにしても待つ必要があった。

 玄信側の工作にも時間がかかる筈であるし、万全を期すのであれば、もっと多くのものが必要となる。

玄親子であれば何とかなると思うが、それも一日二日でできるような事ではない。元々長い時間が必要と

なる手段だったのである。

 ただ、すでに玄信が工作を始めている以上、事を起こしたも同然だという事を忘れてはならない。もし

その動きを秦が察知してしまえば、楓に対して厳しい処置を講じてくるだろう。計画の一部が動いている

以上、相手の動きにも常に影響される事になる。それを忘れてはならない。



 ともあれ、玄一族の事は一先ず方がついた。全てが希望通りとは言えないものの、現段階ではこれ以上

行える事は無い。ならば楓流は違う場所へ目を向ける必要がある。

 それはどこか。

 楚斉には今の所急ぎ対処しなければならないような問題は起こっていない。中諸国も大人しくしている。

となればやはり西方であろう。

 現在秦との仲が、玄一族に対して利害の一致を見た事で、深まっているといえる。三功臣はある程度楓

流の意図を察してはいるのだろうが、その上で受け容れている。楓との友誼によって玄一族の不満が少し

でも和らぐのなら、それはそれで秦にとっても利のある事だからだろう。

 それに黄夫人と玄瑛の関係を借りれば、今までよりも玄一族に対して物が言いやすくなる。これはなか

なかにありがたい事だ。そういう意味でもこの一件は良いきっかけとなってくれた。秦にも表立って不満

はない。

 しかし楓流の真意に気付き、今行っている事を知れば、恐らくその仲は一挙に冷え、下手すれば楓から

の宣戦布告と取られる可能性すらある。事は西方の民全体の気分にも関係する事だけに、大事になる事を

避けられないだろう。

 例え秦の重臣が半分受け容れる気持ちになっていたとしても、民の手前怒りを見せざるを得ない。今わ

ざわざ自分から敵を増やす事は得策ではないとしても、人の感情にそんな理屈は通じない。煮え滾(たぎ)

った感情の渦は、その力を発散させるまで、決して消える事は無く、秦を動かし続けるだろう。

 もしそれを無理に止めようとでもすれば、その力はそのまま秦政府への不満となって、抗えぬ力で襲い

掛かってくる。

 秦政府としてもそれだけは避けたい所だ。だから自然と楓に敵対せざるを得なくなる。

 しかしその事には秦にとって不利益ばかりになるとは言えない部分がある。何故なら、これで堂々と楓

を攻める事ができ、領土拡張の機会を得る事になるからだ。その際は双や越の動きが気になるが、楚斉、

そして中諸国を動かせる事ができれば、勝算はある。

 再び大きな戦が起こる事は国情としても人情としても辛い所ではあるが、いずれそうなる事はもう決ま

っているのだから、それを自らがきっかけとなって起こす事で主導権を得られると考えれば、それを敢え

て行う事にも利がない訳ではない。

 それに引き換え、楓側は秦に宣戦布告されては堪らない。双が確実に味方になってくれると言っても、

双兵は弱く、有能な将が居ない今の双軍が、どれだけの力になるかは疑問だ。

 もし秦が楚斉と手を組んで、楚斉に楓を任せ、自分は双に専念する、という形を作れば、八割方負ける

だろう。確かに防衛に専念すれば楚の猛攻を長期間防ぐ事はできる。しかしその内中諸国、そして越が動

き出すだろうし、一度不利な状況になってしまえば、済し崩しに押し切られていく可能性が高くなる。

 一度流れに乗せられてしまえば、誰もその流れに逆らえなくなってしまう。

 秦に対して後ろめたい事が出来てしまった今、秦との開戦も本気で視野に置いておく必要がある。

 楓としてそれは恐怖以外のなにものでもない。

 秦と開戦すると考えれば、どういう手を打っておくべきだろうか。楚斉との仲を強固にしておくのが望

ましいが、その為に最も良いだろう婚姻という手段は使えない。楓流には子供も兄弟もいないし、この時

代一夫一婦でなければならないという法はないとしても、ほんの少し前に秦姫を娶(めと)っているの

だから、ここでまた楚姫を娶ろうと言い出せば、それは非礼になる。秦も良くは思わないだろう。

 それにもし成功したとしても、秦姫と楚姫、果たしてどちらを上位に置くか、という問題が起こる。同

格としたとしても、それで終わらぬのが人情だ。二姫はそれぞれの国の思惑を引き摺らざるを得ず、結局

平穏を乱される事になるだろう。

 それでは婚姻を結ぶ意味が無い。第一、二人、いや三人も嫁を貰うなど、楓流には耐えられない事であ

る。今度来る姫が、黄夫人や玄瑛、胡曰のように受け容れてくれるとは限らない。

 楓流の方が立場が上であったなら、重臣の家族か親類から養子を取って婚姻関係を結ばせる、という手

も使えるのだが。今の楓流がそのような事を望めば、楚臣と民は黙っていまい。そのような不釣合いな条

件を提示する時点で楚への礼を欠いているとして、今ある信まで失いかねない。

 それは非常に危険な事だ。

 ならばどうするか。

 今の状況を考えれば、越との繋がりを深くするしかあるまい。現越政権との関係も浅からぬものがある

し、越と繋がっていられれば、例え秦と敵対しても越を通して双と繋がっていられる。楓が孤立しないで

済むという状況は、何よりもありがたい事である。

 それに西方にある三国の内二国が味方してくれるとなれば、楚斉も中諸国も下手に手出しできなくなる

筈だ。大陸での越の水運の影響力は非常に大きく、例え実際に兵を出す事はないと考えても、越が付くか

付かないかで、補給の面に関して大きな差が出てくる。

 兵の輸送も楽になるだろうし、越が補佐をしてくれるだけで、随分戦況が有利になる。

 無論、それで全ての不安が解決する訳ではないが、越を味方とする事ができれば、ある程度不安要素を

打ち消す事はできるだろう。

 次なる方針は決まった。

 しかし無闇に近付く訳にはいかない。各国間の緊張が高まったままである今、何をするにも言い訳をし

ておかなければならない。何が火種となるか解らないし、特に西方の緊張感は馬鹿にならない。楓双に対

する不満も湧き上がっている事であるし、できる限り配慮していかなければ危うい事になるだろう。

 楓流自身が出向くのが一番友好を示す事になるのだが、それは控(ひか)えておいた方がいい。それよ

りもまず使者同士を交わして行くのが無難な手であろう。

 後はその理由をどうするかだ。

 理由なく使者を交わす訳にもいかない。それも今突然繁く交わし始めたとなれば、疑うなという方が無

理である。

 楓流は考えた末、格好の付く理由を一つ見付けた。それは新技術を利用する事である。新技術のごく初

歩の段階、前技術に毛の生えた程度の段階のもの、もしくは軍事にそれほど影響を与えないものなら越に

教えてしまっても構わないだろう。勿論ただで教えるのではなく、交渉の材料にする。

 楓と越で結んでいる水運の条約などを技術提供と引き換えに、楓にとってより有利なものに変える交渉

をする、という形であれば、不自然ではない。他国も玄一族と楓の関係が強まった事で、新たな技術を見

出していてもおかしくないと考えている筈だ。ならばむしろこれは自然な事だと考えてくれるだろう。

 楓流は明開を呼び、具体的な案を練り始めた。




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