16-10.鬼策


 南開が炎上す。

 楓流は驚きを隠せなかった。いや、この報を聞いた者全てがそうであったろう。

 南開に押し寄せた扶夏王軍は容易く門を開き、憎き侵入者共に正当なる報いを味あわせるべく中へ殺到

した。しかし扶夏王軍の全てが門内に呑み込まれた時、突如南開が火を噴き、めらめらと燃え上がったの

である。

 将兵は乱れ驚き、ある者は焼かれ、ある者は味方と争って傷付き、ある者は叫び、正に阿鼻叫喚(あび

きょうかん)の地獄絵図。焼け焦げた肉の臭いが漂う頃には我を忘れて門へ走る人の群れ。濁流の如き流

れはあらゆるものを喰らい、救いなく満ちていく。

 ようやく出口に辿り着いた彼らを待っていたのは雨のように浴びせられた矢。流石の部族も混乱の極み

に達し、扶夏王すら数人の兵に護られながら無様に逃げ落ちるしかなかった。

 南開軍も一手矢を浴びせた後すぐに戦場を去っており、一兵も損じていない。

 こうして壬葵は見事扶夏王に一矢報い。扶夏王は退いた後逃げ延びてきた兵を再編したものの、その数

は七千程度にまで減少しており、再び進軍するまでには長い時間を必要とした。

 扶夏王は失策を重ね、部族内からも疑問視する声が高くなっている。華々しい勝利を収める以外にそれ

を払拭する手はないが、軍を動かすにはまず彼らをまとめ上げなければならない。

 苦心せざるを得ず、暫くは思い切った行動を取れなくなっていた。

 楓流は悠々と空になった江南を押さえたが、実感は湧いていなかった。

 扶夏王が退いた。それもたった五百の兵によって。

 奇策、そういえばそれで済むかもしれない話だが。なんと言う大胆な策を取ったものか。その意は楓流

の上を行く。それほど南蛮への恨みが深かったという事かもしれないが、後の戦略にこだわらないで済む

壬葵達だからこそ取れた手であり、楓流と同じ支配者である扶夏王も読み切れなかったのだ。

 誰が苦労して造った、しかも一から造った拠点を燃やしてしまおうなどと考えるだろうか。

 扶夏王が愚かだったとは言えない。楓流も同じ立場であればひっかかったはずだ。それが彼らの限界で

あると言えばそうであるし、上に立つからこその弱みといえばそうなのだろう。

 楓軍が江南に入ったのを知ったのか、予想していたのか、壬葵達も次々に江南に入り、楓流に目通りし

たい旨(むね)、申し入れてきた。

 楓流としても断る理由は無い。即座に受け入れ、準備を整えた後、歓待の席を整えて呼んでいる。やり

方は褒められたものではないが、結果から見て楓全体を救った恩人である。その礼はせねばならない。そ

うしなければ王としての資質を疑われるのは楓流の方である。王、傭兵という立場を無視し、自ら礼の姿

勢を取って出迎えた。

 壬葵も感動したのか、涙交じりに、しかし明瞭な声で武勲を述べ立てる。

 そして南開を燃やした事を心からわびた。それしかなかったとはいえ、一拠点を炎上させた罪は免れな

い。扶夏王が中央への足掛かりを奪われたと同様、楓もまた南方への足掛かりを奪われた事になるからだ。

 だが当然のように楓流はそれを許す。そして褒美を与え、改めて自分に仕えてくれるよう願った。

 壬葵もそう望まれれば断る理由は無い。五百の兵と共に加わり、すぐさま正規軍に編入される。扶夏王

は去ったが、それは一時的な事であり、戦は終わっていない。今こそ逆賊狄を討ち、失われた威信を取り

戻さなければ。その為の兵はいくらあっても困る事は無い。

 扶夏王を退かせたのは壬葵の手柄である。それでは楓の威信が回復しない。楓流自身が勝たねばならぬ

のだ。

 江南を鏗陸と布軍に任せ、壬葵以下五百の兵を含む三千の兵を持って、狄領へ進軍する。

 扶夏王がいつ動き出すか解らない以上、江南の兵を割きたくなかったのだが、今はそうも言っていられ

ない。鏗陸には扶夏王軍が来れば即座に退くよう命じておいたから、例え来たとしても先と同様啓封に引

いて篭れば救援を待つ程度の時間は稼げる。それで良しとするしかなかった。



 扶夏王が撃退されたと知り、当然のように狄は恐れを抱いた。

 それはそうだ。ようやく楓を窮地(きゅうち)に陥れたと思ったのに、今窮地にあるのは狄自身。正に

四面楚歌。楓本国からの援軍だけでも厄介であるのに、梁からは楓流軍が、そして衛からの援軍も近付き

つつある。

 三方から攻められればどう足掻いても勝ち目がない。希望があるとすれば扶夏王が再び梁へ侵攻してく

くれる事だが、それを望めるかどうか。詳細が入ってきていないからどういう事があったのかはよく解ら

ないが、とにかく南開が炎上し、扶夏王軍が焼かれた事は解っている。

 焼き討ちなら大軍が仇となる。人は誰が思うより燃えやすいものだ。一拠点を包む炎。被害は甚大だろ

う。おそらく当面の間、再編に追われる事になる。扶夏王がこれで終わるとは思えないが、とても間に合

うまい。

 滅亡。狄のニ王には絶望の色だけがあった。

 特に狄仁(テキジン)にはその色が濃い。知に長けるからこそ、己が行く末をくっきりと想像できてし

まう。彼にはそれを免れる事はできないと考えられた。扶夏王を頼りに起こした軍、扶夏王を失えば無意

味にさまようしかない。

 しかし副王である狄傑(テキケツ)の方は勇猛名高いだけにそのような気分にいつまでも浸ってはいな

かった。こういう場合は単純な思考の方が強い。彼は事を起こした以上、戦い続けるしかない事を知って

いた。そして今更楓に投降した所で許しはされない事も。

 王だけではない。将兵もそうだ。

 狄を許せば蜀が黙っていない。それに楓にとってみれば、厄介な狄という勢力を滅ぼす好機である。決

して途上で手を止めるような真似はすまい。必ず止めを刺す。

 戦えば勝つ術はない。最早国を保つ事もできない。しかしだからこそかえって団結できた。選択肢が一

つしかなくなった今、狄の意思は一つになる。

 混乱している者も居ただろう。絶望に負け、自分を失っている者も居ただろう。しかしだからこそ王た

る二人が毅然とした態度を取り、行くべき方向を示せば付いてくる。弱は強になびくものである。心弱っ

た時なら尚更だ。

 王たる者は窮地にこそ強くあらねばならない。誰よりも。

 腑抜けた狄仁を叱咤(しった)するべく、狄傑は蜀攻めに使っていた軍を早々にまとめ上げ、全軍を本

国へ返させた。蜀侵攻の指揮は全て彼が執っていたから、やろうと思えばすぐに行える。

 凱聯と蜀はそれを追おうとしたが、途上にある拠点を放っておけば賊の良い的になってしまうだろう。

楓の威信が衰えている今、放っておく訳にはいかない、と胡虎が強硬に主張し、その意を変えさせた。あ

の自侭な凱聯が聞かざるを得なかったという点を考えると、どれだけ強く主張したかが解る。

 胡虎はすでに敗北の道しかない狄より秦や楚を恐れたのである。

 扶夏王は退いたが、その意が消えた訳ではない。いずれ威信を回復すべく再侵攻してくるだろうし、そ

の時の勢いは想像を絶するものであろう。

 本来ならばすぐに戻りたかった筈だ。衛軍がすぐそこまできている今、凱聯らがこの地にいつまでも居

る理由も無い。

 だがそれを言ったとて、凱聯は聞くまい。蜀としてもまだ全てが終わった訳ではないから、不安が残る。

なんだかんだ理屈を並べ立てて凱聯を引き止める筈だ。だからせめてこれ以上楓本国 から離れるのを避けた。

 胡虎だけは今自分がやるべき事を正確に理解している。いつも誰かの影に隠れていたから余り知られて

いないようだが、彼の能力は綺羅星(きらぼし)のように碧嶺に集った人材の中でも、趙深を抜けば一、

二を争う。最も貢献した者は誰かと問えば、おそらく彼だろう。それを知る者は少なかったが、正しく胡

虎こそが楓流の片腕、欠かす事のできない人材であった。

 それは楓流の残した歴史書の中に彼に割いた部分が多い事からもよく解る。おそらく最後まで感謝して

いたのだ。心から。

 ともあれ、凱聯軍と蜀軍は蜀領安定に専念し、狄滅亡後の混乱に巻き込まれぬようしっかりと押さえた。

 狄傑もそれを予測していたのか悠々と引き返し、狄仁と会って後の事を話し合っている。

 狄仁が王、狄傑が副王という事で、狄仁が主導していたと思われがちだが、実際には実行者たる狄傑の

方が狄の意志を決めていたのかもしれない。だとすれば彼もまた不当な評価を受けていた事になる。何事

も表面だけ見ても解らぬものらしい。

 とはいえ、ニ王がいくら話し合っても先は見えている。狄の総兵力は五、六千あれば良い所か。かき集

めれば七千も動員できるかもしれないが、それを待つような時間はない。今すぐ動かせるのは狄傑が退却

しながら連れてきた四千の兵、そして狄仁が対布の為に残しておいた二千の兵か。

 護ってもいずれは滅ぶ。ならば一か八か攻めるしかない。攻めるなら、布を狙うのがまだ可能性のある

道だろうか。

 しかし布本軍が梁に行っているとはいえ、すぐに楓流軍が駆けつける。扶夏王が撃退された事で士気も

揚がっているだろうし、簡単に抜けるとは思えない。蜀に居る軍勢がどう動くかは知らないが、道は全て

塞がれたと考えるべきだ。

 だがそれは最終的な話。程無く狄包囲網は完成されるだろうが、今はまだそうではない。時間は残され

ている。その筈だ。

 狄仁、狄傑は兵を集めて演説した後、自分に従う者、そうでない者をふるい分け、従う者達を率いて急

ぎ南下し始めた。梁を目指したのである。つまり楓流軍と矛を交える道を選んだのだ。



 楓流は狄の動きを意外だとは思わなかったが、それでも訝(いぶか)しいものを感じた。確かに自領に

篭ってもじり貧になるだけだろう。しかし打って出れば勝てるとは思えない。むしろ滅亡が早まるだけで

はないのか。

 楓流が率いるのは三千。対して狄軍は三千から四千と言った所か。南下する途上でありったけの兵を入

れてくると考えればもっと増えるかもしれない。そうなれば倍近い兵力差という事になり、優位と言えば

優位に立てる。

 だがそれでどうなる。衛軍がすぐそこまできているのだ。そういう状況なら伊推を動かす事もできる。

伊推なら二千か三千かの軍を用意している筈。楓流が阻み、伊推が背後から襲う。そうこうしている間に

衛軍が到着し、狄の敗勢が決定的なものとなる。結局狄包囲網から逃れる事はできない。そうではないか。

 それならば自領にて時間を稼ぎ、いずれ来るだろう扶夏王軍を待つ方が現実的である。

 単に玉砕覚悟で一か八かの賭けに出たのだろうか。ならば迎え撃つのみであるが、どうにも納得いかな

い。何か別の理由があるのではないか。楓流が考えているものではなく、もっと他に成し遂げようとする

意があるのではないか。

 それは何だ。

 解らない。

 解るのは狄という国を捨てたのだろうという事。死を覚悟しているにしても、何か別の意図があるにし

ても、これは国を護ろうという姿勢ではない。彼らは国を空にして出てきているのだ。放棄したと見るべ

きだろう

 楓流は足を止める。どんなに弱い者であっても不退転の決意をすれば不可思議な力を生む。勢いと言い

換えてもいい。そしてその勢いが時に誰も想像できなかった事態を巻き起こす。それは楓流自身が今まで

の生で何度となく体験してきた事だ。それが今狄に起こらないとは言えない。

 決戦を覚悟し、道を睨むように高所に陣を敷き、狄軍を待った。

 どんな狙いがあろうと戦って負けるとは思わない。ならば心乱されず、冷静に待つ。焦る必要はなかっ

た。立場はとうに変わっている。



 狄軍が到着する。迷いは無いようだ。それはそうだろう。ここまで来た以上、楓流軍を打ち破る以外に

生き延びる法はないのだから。

 出発を急いだ為だろうか、装備はばらばらで、辛うじて武器だけは身につけているという姿の者も見え

る。もしかしたら民兵かもしれない。誰が治める事になるにせよ、今後の統治が不安である。そういう人

間も居るだろう。特に政府と密接な関係にあった者は、そうせざるを得ない。

 そういう者は大抵士気低く、軍を乱すものだが。行軍を見る限り、乱れている様子はない。統率はしっ

かり執れているようだ。

「全軍その場で待機せよ。相手の出方を窺う」

 楓流はそう命じると、自身は床机に座したまま狄軍を睨み、機が訪れるのを待った。狄は当然一戦を交

えてくる。ならばこちらから敢えて動く必要はない。

 しかしこれが一つの油断になった。目前に敵が居る。ならば当然戦う。そこに選択肢は無い。確かにそ

うだ。そのはずだった。だが狄はそうしなかったのである。楓流軍が高所にて睨みをきかせているにも関

わらず、そのまま楓の眼前を通り過ぎて行く。

 楓流は虚を突かれた。

 そして熟考する。これは罠だろうと。

 戦場を限定していても大地というのは広い。地形の関係で進む事のできる場所は限られてくるが敵が塞

ごうとしている場所、進ませたくないと考えている場所、を通るのでなければ案外空いている。

 数千という人間が通れる場所は限られてくるとしても、この大陸がその呼び名よりも遥かに小さいとし

ても、人間から見て余りにも広い。

 だから逃げられない訳ではない。

 ただし、そこを追撃されれば大損害を被(こうむ)る事は必至(楓軍の眼前を通らざるを得なかったよ

うに、楓流も押さえるべき場所を押さえている。追うのは容易い)。

 それなのに楓流軍を一切見る事なく、その眼前を逃げている。これを好機と襲えれば良かったのかもし

れないが、楓流はそういう型の人間ではなかった。まず罠を考える。相手が何を考えているか読もうとし、

予め対処してから動こうとする。

 これは運び屋時代での痛い失敗から今の今まで引きずっている想いでもあり、理屈ではなかった。楓流

は勇猛で豪胆にもなれるが、酷く臆病で、敗北、いや終わりを何よりも恐れている。

 その恐れが迷いに変わり、楓流の動きを止めさせた。何か意図がある。ならばそれを読まなければなら

ない。迂闊(うかつ)に動けば命はない、と。

 だが狄には何か考えがあった訳ではない。彼らはただ単に逃げていたのである。その目的はただ一つ。

南方へ逃げ、扶夏王に投降する事。

 狄は最早大陸人の中に生きる場所が無い。頼みの秦や楚も配色濃厚となった今、狄に味方する事は考え

られないし、どこにも逃げ場がない。降伏するしかないが、そうしたとしても命が助かる保証はない。な

らばもう扶夏王を頼るしかなかった。幸い、扶夏王は投降する者なら大陸人であれ受け容れるという。

 南開の火計で相当な損害を受けているだろうし、千単位の兵力が来たとなれば無下には扱わないだろう、

という目算もあった。

 だから逃げた。一糸乱れず、隊列を保ち、ただただ逃げて行く。初めから誰と戦う意思もなかったのだ。

南下し、逃げる。その為だけに逃げている。

 楓流はその気分までを読みきれなかった。国を捨てているだろう事は理解していたのに、戦う事まで放

棄した事を読めなかった。そんな思考は初めから彼の内に無かったと言っていい。それが彼の限界といえ

ばそうだが、それほど狄の行動が意外であったという事である。

 しかしいつまでも呆けてはいなかった。その意を知れば、動きは速い。

 戦意が無いのを見て取るや、即座に命を下す。

「全軍、追撃ッ!!」

「オオオォォォオオオオオオオオオオオッ!!」

 逸早く飛び出したのは、一陣の黒い風。壬葵率いる五百の兵である。彼にはその功に報いる為、その手勢

を丸々組み入れ、指揮権を許している。特殊部隊とでも言える扱いであり、正規軍ではあるが、また別の

扱いとなっていた。

 一糸乱れず突き進んでいくその様は見る者に雷光を思わせる。

 だがすでに狄軍との間に距離があった。いくら速いといっても人である。軽々しく追い付ける距離では

ない。追う、追われるという心理の差か、追い付くには追い付けたものの、それまでには随分距離と時間

を費やしてしまっている。

 その上、追い付くや否やという距離にまで来ると、狄軍千余りが突如反転し、攻撃してきたのである。

 長く走っていれば、当然陣形が乱れる。それは狄も楓も変わらない。壬葵率いる気心の知れた部隊です

らそうだ。兵と兵との距離が開き、軍という組織ではなく、兵という個人に戻っている。それならある意

味数的優位は無くなる。

 狄軍千を率いるのは猛将、狄傑。驚くべき事に、待って迎え撃つという態度ではなく、全速力で向かっ

てきた。先陣をきる壬葵を狙い、迷う事無く突撃する。

 そしてぶつかり合う両雄。勢いを乗せた一撃は双方を弾き、体勢を崩させた。そこへ両軍殺到する。あ

っという間に混戦となり、勝敗並び着かなくなった。

 楓流はこれを見、初めて自分の失策に気付く。確かに狄は初めから逃げる事が目的であった。しかした

だ逃げていくのではない。わざと追撃を誘う事によって楓軍の陣形を乱し、混戦に持ち込む事でより多く

の時間を稼ぐ。それが狄傑の策。無謀であり、言わば逃がす為の生贄であるが、確かに効果はある。

 例え早々と狄傑が討たれ、彼に従った兵が壊乱して逃げ惑ったとしても、それはそれで楓軍を乱す事に

なる。乱れた兵を追うには追う側も乱れざるを得ず、それ以上の追撃を困難にする。少なくとも先を逃げ

続ける狄仁に追い付く事は叶わなくなるだろう。

 人は無限に走れるものではない。追撃を続けさせていたが、最早上手くいかないだろうと楓流も悟って

いた。すでにしくじったのだ。そう彼自身が思っている限り、決して追い付けはしないのである。



 壬葵は狄傑を討ち取り、他の者も多くの戦果を挙げたが、しかし結局二千から三千の兵と狄仁には逃げ

られてしまった。各拠点から兵を出し、足止めさせるという手もあったのだが。狄の兵は少なくない。退

路を塞げば、窮鼠(きゅうそ)猫を噛(か)む、ような破目にもなりかねないし、それを命じようにも伝

令自体が間に合わない。

 これ以上被害を多くするより、いっそ逃がしてしまった方がいいと判断したのである。

 今は狄傑を討てただけで良しとする。

 楓流は功のあった兵にそれぞれ褒美を取らせると、壬葵以下五百の兵のみを連れて狄へ向かい、後の兵

は江南に移動させた。

 狄の二王が捨てて逃げてしまったのだ、さぞや混乱している事だろう。治めるには楓流自らが行くしか

ない。本音を言えば自分もまた江南へ引き上げ、当面の脅威である扶夏王に当たろうと考えていたのだが、

そちらは鏗陸に任せるしかないだろう。

 気は焦るが、それ以上考えない事にした。考えるべき事は他にもある。

 実際戦ったのは楓勢力のみであるが、南蛮相手となれば大陸同盟というものを考慮せざるを得ない。秦

や楚が口出ししてこないとは言えないし、そういう事態に対しても色々と準備しておかなければならない

だろう。

 狄には元々反楓の傾向が強いという事もまた彼を悩ませた。今更逆らおうという者は居ないだろうが、

今後様々な点で問題となって出てくるだろう。勝ったは勝ったで子遂に次ぐ厄介な地を得た。果たして楓

にとって利があったのかなかったのか。判断の難しい所である。

 狄は元々多数の勢力がまとまって一つの勢力になったものだが、狄仁、狄傑が他の元王達を始末した事

で強力な政権を確立させ、年月を経た事でしっかりと掌握していた。ならその分押さえやすいだろうと考

えられるのだが、それは逆である。

 この国にも二王のやり方に不満を持つ者は多かった。当然だ。強引な事をやったのだから、その反動は

免れ得ない。抑えていた力が消えた今、今度はそこに自分が就こうと、自らの正当性を改めて好き勝手に

主張し始めている。

 反楓感情を利用し、すでに自勢力を固めようという動きが各地の有力者の間に出ているし、民の反応も

それに倣(なら)うものがある。このままここを楓領土としてしまうのは問題があるかもしれない。

 だがそうとはいえ、狄は新しい国であり、二王には子がなかった。后や愛妾なども多くは残されていた

のだが、未だ王族と言えるようなものはできていない。

 いくら忙しくとも、子の数人は居ておかしくないのだから。もしかしたら外戚を恐れたのか。

 王、次(副)王という立場は明確ながら、必ずしもその力関係がはっきりしていた訳ではない。一応王

である狄仁が尊重されていたようだが、狄の二王と通称されていたように、狄傑の威が弱かったという事

はない。

 そこに外戚同士のしがらみが加われば、確かに面倒な事になるだろう。

 二王の事情などどうでも良いのだが、子が居ないという事は厄介だ。傀儡政権を立てようにも、その旗

となるべき人物が居ない。有力者を立てるという手もあるが、誰かを立てれば誰かに不満が出る。結局上

手く治める事はできないだろう。

 考えた末、狄という名だけを残し、楓流の直轄地とする事にした。言わば一時預かりの格好である。

 そして楓流は国内情勢を探るべく、各地に間者を放った。



 狄国内の情報を集めながら、楓流は大陸全土の情勢を把握(はあく)しなければならない。扶夏王は健

在であるし、南蛮によって起こされた波が今後どう働いていくのか。そして狄仁と彼が率いる軍はどうな

ったのか。考えるべき事は多い。

 取り合えず凱聯軍に楓本国へ戻るよう命じる。蜀も領土を取り戻したし、当面の問題は解決した。これ

以上居る必要は無い。

 ここでようやく趙深率いる衛軍が到着した。趙深とは常に意見を交換しているが、こうして会うのは随

分久しぶりの事だ。互いに健康を祝し、ささやかながら二人で祝宴を開く。

 だがそこで交わされた言葉は祝宴とは名ばかりの厳しいもの。楽しい会話ができたのは最初の数分で、

すぐに政治的、軍事的な問題に移っている。最早この二人の間には友人らしい会話ができる機会はないの

かもしれない。二人の友情が変わった訳ではないが、あまりにも背負うものが大きいのだ。

 そう思えば、一体この二人は何の為に生き、何の為に死んだのだろう、という素朴な疑問が浮かぶ。英

雄とは得てしてそういうものなのか。私も公もなく、それでいて公がある。そういう不可思議な生を歩む

しかないのか。

 必要な事を話し合った後、狄を趙深に任せ、楓流は衛軍と共に江南へ移動した。

 今はともかくも扶夏王である。なんとしても彼の侵略を防がなければならない。秦や楚の動きも気にな

るが、扶夏王が健在である限り大きく口を挟む事はないだろう。南蛮という脅威が晴れるまで楓を利用す

る。その方針は変えない筈だ。

 問題はそこから先である。各国とも黙っているだけに不気味だ。一体何を考えているのか、何を狙って

くるのか、解らない事は多い。

 それに果たして扶夏王に勝てるのだろうか。その規模も軍事力も底が見えないというのに、楓が勝つ道

などあるのだろうか。

 解らない。

 楓流が安息できる日は、まだまだ先であるようだ。




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