17-1.侠族


 とにかく勝った。狄(テキ)に(表面上は)鮮やかな勝利を収め、楓流(フウリュウ)の威信も多少は

回復しただろう。

 しかし問題が全て解決した訳ではない。特に梁(リョウ)の民に関してはそうだ。

 いくら劣勢であったとはいえ、強引に民達を街から退去させた。どの道南蛮に蹂躙(じゅうりん)され

るしかないのだとしても、腹立たしい気持ちは変わらない。家屋は好き放題に使われ、荒らされたままで

あるし、家財など壊された物も多い。

 歴史から見れば瞬きの間でも、当事者達にとって、その間の一日一日は恐ろしく長く、苦難に満ちたも

のである。そのまま残ったらもっと酷い目に遭っていた、などと尤もらしく言い聞かせた所で、誰が納得

するだろう。

 それは楓流側の勝手な都合であり、自分達には関係ない。民はそう思う筈だ。

 この不満を抑える為に、楓流は少なくない金額を使わされた。結局仁義など説いても無意味であり、彼

らが求めているのは端的に言えば見返り、補償なのだ。善悪の問題ではない。彼らの生活を保護しきれな

かったのだから、当然の償いであろう。

 とはいえ、腹が立たないでもない。豊富に稼いだ資金も多くは使い果たし、南開(ナンカイ)を失った

今、扶夏(フカ)王が南に退いたとはいえ、新たな拠点を築く事を考えると心許ない。

 それでもこの地を初めて訪れた時よりはましだと思い直し。江南(コウナン)付近に限定して南方開拓

を再開させる事にした。幸い資源は豊富にある。能率は悪くなったが、儲からない訳ではない。

 もう一度地盤を固める所から始めよう。

 楓流は以前よりも積極的に民やこの土地の事を調べ、それぞれに手を打っておく事にした。

 まず法瑞(ホウズイ)を呼び、改めて江南一帯を任せ(地元と馴染みのある者の方がやりやすいだろう

から)。鏗陸(コウリク)には引き続き梁政府を任せる。

 軍事面では、狄傑(テキケツ)を討った功を称え、壬葵(ジンキ)に将軍位を許し、彼の希望で黒将

軍の名を与えた。壬葵は兄である孟牙(モウガ)から名を継ぐ事も許してもらい、壬牙(ジンガ)と名を

改めている。

 これが後の大将軍、壬牙誕生の瞬間である。黒き槍もそのまま帯び、名実共に楓流直轄軍の筆頭になっ

た。孟牙の役割を継いだ格好である。これは孟牙に大きな恩を感じている楓流を喜ばせるに充分で、もし

かしたらそれを見越して願い出たのかもしれない。

 壬牙もまたしたたか、いや必死であったのだろう。彼としても孟牙との繋がりを利用する以外に自分を

証明、信頼させる手段が無かった。孟牙への嫉妬をも引き継ぐ事になったとしても、選択肢は他に無かっ

たのだ。

 楓流もそれを知っていて受け容れたのだとすれば、何かしらの思惑があったのだろう。

 壬牙の下には表道(ヒョウドウ)、邑炬(オウコ)を副官扱いにして付け、全ての兵を編入した。これ

が楓流の第一軍となる軍団である。この軍団を中心にして南蛮と戦い、勝たねばならない。

 兵数は四千といった所か。長く国を空けさせておく訳にはいかず、布軍を帰し、衛軍の多くには趙深と

共に狄を任せている。蜀にも兵を帰しているし、残ったのはこの程度である。

 しかしいつでも援軍を送れるよう命じているし、以前のような不安はなかった。

 情勢が乱れてくれば狄のようにする者が現れないとは言えず、その点が心配だったが、現状は問題ない

ようだ。

 苦労も多く、問題は山積みであるが、何とかできるだろう目星は付き始めていた。

 だが当分の間は中央安定に力を注がねばならず。拠点造り、南方侵攻など夢のまた夢。動けない事に変

わりなく。扶夏王の出方によっては苦戦を強いられる事になるだろう。安穏としてはいられない。

 趙深と話し合うが、南蛮の情報がほとんど無い状態で対策を練る事はできない。地盤を固めつつ、南蛮

の情報を積極的に得る方法を考えなければならないだろう。

 中央一帯はどうにでもなるとして、一言に南方を調べるといっても難しい。多少は開拓し、調べられて

いるとはいえ、南方は遥か深く、深奥まで辿り着くのはまだまだ先である。

 扶夏王軍の駐屯地を探すのもそうだ。南開という拠点を失った今、南蛮勢力の拠点が益々遠のいた。中

継点無くそこへ辿り着き、更に奥へ進むなど無謀である。

 間者にも足掛かりが必要だ。

 それは村や町のような大掛かりな物でなくていい。むしろ木や草で作った小屋か洞窟など隠れ家のよう

なものである方が望ましい。その方が敵に発見される可能性が減るし、処分するのも楽だからだ。

 そこでまずそのような足掛かりを各地に設置する為の間者を数人一組で四方へ発した。簡単な物で良い

のだから数人と大工道具がいくらかあれば設置するのは難しくない。幸い森が多く、資材に困らず、身を

隠すのも容易。簡単な仕事である。

 実際着々と進み、探索距離を大きく広げる事ができた。中には近付き過ぎて発見された物もあったよう

だが、例え警戒されてもこの広大な南方から小さな小屋を全て見付けるのは不可能だ。気にしなくていい。

 扶夏王勢もそれを知っているのか、大規模な調査隊を編成する様子はなさそうだ。警備は厳重にしてい

るようだが、それはいつもの事だ。

 続々と情報が集まる。

 言語などの問題から、あまり詳細な事は解らないが。どの辺りに拠点となる街があり、その規模、兵は

どれくらい居るのか、程度なら察せられる。部族の身体能力が優れているとはいえ、賦族、混血も負けて

いない。条件が五分ならば、欺(あざむ)ける自信はあったし、実際発見された人数は少なく、逃げられ

ない時は即座に自害する。もし捕まったとしても彼らが知る情報は少ない。問題はなかった。

 楓流は間者に多くを知らせたりはしない。あくまで敵の情報を集めるのが目的であり、味方の情報を知

っている必要はないからだ。

 この辺、楓流も冷酷(れいこく)と言わざるを得ないが。間者達も初めから覚悟してやっている。楓流

達も戦争を奇麗事で済ませる気はない。いざとなれば命を失わさせる事にも容赦(ようしゃ)なかった。

 戦争を行う者に冷酷でない者はいない。もしいても、その者は自ずから滅びる。これは生存をかけた戦

いなのだから、人道ではなく自然界を持って考えるべき問題だ。弱肉強食、その言葉が相応しい。

 とはいえ、使える道具、という意味以外にも人の情として彼らの命を惜しむ気持ちは当然ある。くれぐ

れも無茶せず、見付かりそうなら大人しく退くように命じてもいた。今は扶夏王の勢力図を大まかに知る

事ができればいい。

 扶夏王の勢力で江南に一番近いのが、以前楓流が焼き払った拠点を再建したものである。

 一から造るよりも、元在った場所に造る方が様々な面で便利だ。区画整理もできているし、場所を新た

に憶えなくていい。その場所の問題点を改善する事もできる。

 それにこの地に住んでいた者、復興を望んでいた者が多く居る筈で、彼らに押されたという点もあるの

だろう。例え焼かれたとはいえ、いやだからこそ人は帰りたいのである。土地を取り戻したい、という思

いも当然ある。

 扶夏王は楓に多大なる損害を与えたが、自身も名声を著しく減じる事になった。痛み分けと言ってよく、

威信は揺らいだままである筈だ。最近敵対勢力を討ったのであれば、まだ残存勢力と言うべき者達が居る

かもしれないし(楓流は未だそれをはっきりとは知らない)、新しく得た領地を押さえるにも影響が出て

くるだろう。

 彼もまた失う物が多く、だからこそ力を蓄え、安易に攻めて来ないのだと考えられる。扶夏王軍には大

きな動きが見えない。兵を増員させる様子も無い事を考えれば、彼らもぎりぎりの所でやっているのか。

 扶夏王の中央侵攻は速かった。楓流の予測を大きく上回り、だからこそ多大なる損害を被(こうむ)っ

たのだが。無理をすればその分だけ歪みが出る。戦勝気分と新領土獲得で払拭させようという狙いだった

のかもしれないが、結局扶夏王は退かざるを得なくなった。

 即ち、不満は消えずに残っている。

 動かないのではなく動けない。楓流はそう分析する。

 南方に逃亡した狄仁(テキジン)以下約三千の兵は、そのまま扶夏王の陣営に入り、大陸人でいう将軍

位を与えられ、死んだ雍涯(ヨウガイ)の代わりのような立場に居るらしい。

 新参者とはいえ三千という兵数はやはり魅力的だったらしく、破格ともいえる待遇で迎え入れられてい

る。ただしそれは今扶夏王が困った状況にあるからで、それ以上の意味は無く、状況が好転すればどるな

るか解らない。

 扶夏王の気性を考えれば、簡単に信頼は得られないだろう。おそらく国を捨ててまで出てきたという心

意気を評しているに過ぎない。部族達はそういう話が好きだろうから。

 これで扶夏王の軍勢はざっと一万に回復した。脅威は衰えていない。兵達も雪辱(せつじょく)に燃え

ているだろうから、楓相手であれば不満も一時呑み込むかもしれない。

 扶夏王の力を疑っていたとしても、楓に対する怒りの方が大きい。散り散りになって逃げる、という屈

辱を味わったのだ。次は前のようにはいかない。

 楓流は江南に防壁を築いて備える事を決めた。それも今までのような物ではなく、もっと大規模という

のか、窪丸(ワガン)に造られているような物を一から造ろうと決意したのである。

 今まであった防壁も強化するが、外側にもう一枚堅い壁を造る。部族の攻撃にも耐えられる厚い壁を。

 この発想が出た時から、後々まで続く城塞都市という形が完成したと言っても良い。楓流には当初から

街そのものを壁で囲ってしまう、という発想があったが。それをもう一歩進めて考え始めたのはこの時か

らだろう。

 それだけ扶夏王軍が強く。そして孫軍さえ防いだ窪丸の防壁を、楓流は高く評価していたという事だ。

 こうなると資金が問題になるが。南蛮物の入手量が減り、資金調達が困難になると思われていたのが、

供給が減った事で需要が益々増し、価格が沸騰して品数が少なくとも何とか揃えられる目算が立った。

 本国から技術者を急ぎ呼び、防壁の建造に取り掛からせる。

 これが完成し、楓軍の力を結集すれば、扶夏王といえども簡単には抜けまい。ただし防壁完成までには

多くの時間がかかる。それまで扶夏王が大人しくしているかどうか。

 間者の数を増やし、より詳細で密な情報収集をさせる事にする。

 敵の一手に大きく左右される今、情報こそ宝である。



 扶夏王は依然動きを見せない。慎重に準備を整えているのだろうか。それとも南方にて窺い知れぬ問題

が起こっているのか。

 扶夏王軍の繋がりは思っていたより強固ではなさそうだ。各部族を尊重するというやり方そのものが扶

夏王を圧迫している。勝っている間は良いが、負ければ信を失い、その分だけ支配力が衰える。

 その点も孫(ソン)と似ていた。かの国は王、孫文(ソンブン)の強烈な指導力によって完璧に支配さ

れていたが。敗北を重ねる内に抱えていた歪が深く大きく育ち、最後には自壊するようにして滅んだ。

 強烈な一つによって成り立っている組織は、意外に脆(もろ)いものだ。

 それが楓流が得た教訓であり、だからこそ彼もまた人材を育てるという点を重視する。全てを自分がや

らなくても済むようにと。

 それなのに子を作ろうとしないのは不思議だ。故に、子のできない体だったのではないか、という説も

ある。後にこの件に関して触れる事になるが、確かにそう捉えられない事もない。

 まあ、今は置いておこう。それよりも扶夏王の事だ。

 扶夏王は依然積極的な手を打てないでいる。今日明日に動くという事はなさそうだ。

 不安だった狄も何とか趙深が治めてくれている。扶夏王が梁を落とすような事にでもならなければ、何

とか押さえていられるだろう。

 間者が足掛かりに作った小屋が発見され、破壊される事が増えていたが、そんな物はいくらでも代えが

きく。殺される間者も出ていたが、その数は多くない。予定の範囲である。

 情報戦もまた戦争であり、その場は常に戦場である。間者らもそれを重々承知し、覚悟している筈。で

なければ間者団をまとめる氏備世(シビセイ)が前線に送ってくる筈がない。氏備世は情け深い男だが、

剛毅(ごうき)でそういう緩み、甘えを許さない。これを命がけの仕事と理解できないような者を、楓流

に渡す訳がなかった。

 半月程膠着(こうちゃく)状態が続く。

 そこに秦に居る玄張(ゲンチョウ)から意外な報が楓本国に届く。その事を知らせに来た使者に寄れば、

秦に南蛮が現れたらしい。

 楓流は初め扶夏王軍がニ方面作戦を展開していたのか、と驚いたのだが。話を聞くにどうもそうでは無

さそうだ。

 秦に現れた南蛮は侠(きょう)族を名乗り、秦王(というよりも大陸人にだが)に庇護(ひご)を求め

てきたという。長の名は穆突(ボクトツ)。扶夏王と南方の覇権を争った、あの穆突単于である。率いる

兵は万を超えるとか超えないとか(非戦闘員も含めてだが、この時はそこまではっきりしていない)。

 秦はその申し出に驚いたが、穆突の言い分など信じられない。一万の南蛮兵は脅威であるが、秦にも誇

りがある。

 返答を延ばしながら兵力を集め、現状威嚇し合う格好でいるらしい。

 玄張以下玄一族のいる場所は秦の最南西部だが、幸いにも穆突は南東からやって来ており、戦が始まる

にしても被害は無く。例えこちらまで戦火が広がるとしても、逃げる時間は充分にあるそうだ。楓流は一

先ず安堵し、逃げる時に必要だろうと幾らかの金銭を送るよう指示しておいた。情報の礼でもある。

 楓流はこの侠族が扶夏王の競争相手だったのだろうと察した。万と言えば相当な大軍である。その数が

正確なものとは思わないが、そう見せられるだけの数でも相当なものだ。扶夏王でさえ率いた兵が万程度

であったのだから、一介の族長程度にそこまでの兵数を集められるとは思えない。

 しかし生きているとは意外だ。扶夏王の性格なら必ずや単于を討ち取った筈。それとも穆突とは扶夏王

の競争相手の血縁か何かで、その地位を継いだ者でしかないのだろうか。

 それに秦と繋がろうとするとは。あの辺りはまだまだ未開の地が多く、その先が南方と繋がっていたと

しても驚くべき事ではないのかもしれないが。大陸人に庇護を求めたのは意外である。

 穆突は部族として立つ事を捨て、大陸人の下に置かれても生きる道、或いは復讐の道を選んだと言うの

だろうか。

 ・・・・いや、ありえない。

 部族という存在を考慮するに、ありえない。戦わず、大陸人に降伏するなど勇ではない。本当に穆突が

そう願っていたとしても、他の族長が許さないだろう。例えそれが策略であったとしても、そのように屈

辱的な手を認めるだろうか。それとも穆突の権威は扶夏王以上で、強固な支配力があるとでもいうのか。

 敗北して尚付き従う者達が多いのであれば、そういう可能性も否定できない。

 となれば古い権威ある部族なのか。もしそうなら扶夏王は新興勢力であろうと察せられ、それ故に支配

力が一時の勝敗によって大きく影響されるのであって、部族にも個人的な武勇以外に尊重される伝統や古

い権威というものがある事になるのだが・・・。

 いやいや、予断は禁物である。

 全ては少ない情報から想像しただけのものであるに過ぎない。そんなものに頼るようでは判断を誤る事

になろう。ここは慎重に情報を集めるべきだ。

 扶夏王がどう出るかも気になる。

 侠族が秦と繋がろうとしている事を彼が知ったとすれば、今強引に楓流と戦を再開させるよりも、穆突

の意図を知る事を優先させると考えるのが妥当か。

 追い落とした勢力とはいえ、万の兵は恐ろしい。秦が穆突と協力して南方へ攻め入るような事があれば、

扶夏王の優位が一挙に覆る可能性もある。

 できれば自ら赴(おもむ)き、完全に決着をつけたい所だろうが。雍涯亡き今、後を任せられる者が居

ない。狄仁に拠点と兵を任せると何をしでかすか解らない。支配力が低下している今、部族達もうっかり

心を動かされる可能性がある。扶夏王は動けない。

 扶夏王が動かない理由があるとすればこれか。

 だが確証は無い。別の理由なのかもしれないし、特に理由などないのかもしれない。

 扶夏王は壬牙の奇策によって敗退した。しかし正面から戦って負けた訳ではない。火計にあって止む無

く逃げたに過ぎず。今でもおそらく楓軍など物の数ではないと思っているだろうし、それは事実だろう。

 楓流自身も今完成を急がせている防壁が出来上がらなければ、まず防げないだろうと踏んでいる。

 例え趙深の頭脳を借りたとしても難しいだろうと。

 扶夏王は強い。大陸人の兵法にも精通している。策を用いても見破られ、逆に利用される恐れがあった。

趙深ならば、とも思うが、どうしても踏み切れない。不安は兵質の差にある。部族との戦、特に扶夏王自

身が率いる軍に対して、五分の兵力で勝つ自信はなかった。

 兵数であれ、防壁であれ、武具であれ、何かはっきりと上回ったものがなければ安心できない。

 それは余計な不安なのかもしれないが、楓流でさえそう考えているのだから、将兵達も当然そう考えて

いる。その不安を消す事ができなければ勝つ事などできはしない。

 それ程楓軍は扶夏王軍を恐れている。今戦えば必ず負けるだろう。

 資金をぎりぎりまで使って労働者を増やし、防壁の完成を急がせているが、まだまだ時間がかかる。

 楓流は秦へ急使を派遣し、穆突を使い扶夏王に圧力を加えられないだろうかと打診した。勿論、双、越、

楚などにも使者を送り、同意してくれるよう頼む事も忘れない。

 秦も孤立すれば命運尽きるしかなくなる。同意が揃えばある程度の効果を期待できるだろう。

 しかし双は良いとして、越も楚も色好い返事をくれなかった。どちらも他人事と見、引き続き静観する

構えのようである。

 確かに万の軍勢とはいえ、補給もままならないだろう穆突軍など秦一国で対処できる。秦もまた西方の

大国、驚きはしても負けるとは思っていまい。だからこそ穆突も略奪せず、庇護を乞うているのであり。

その事自体彼らの弱みを現している。

 だが秦の準備が整っていない今、風のように南部の街を略奪して回れば、止められる者は居ないだろう。

その点を強調し、そこから好ましくない状況が飛び火してくるかもしれないと述べてみたのだが、越も楚

も同意しない。

 越は何か条件を提示すれば呑んでくれるかもしれないが、楚は全く無視している。地理から見ても、楚

が南蛮に侵されるという事はまずない。それを知ってるから後々の為に温存しておく。良い手だ。楓流で

も、そして亡き姜尚(キョウショウ)が生きていても、おそらくそうする。

 ここで粘っても心象を悪くするだけであるから、楚を諦め、越に相応の条件を提示する。これで受けら

れないようなら諦める。無用に焦れば足元を見られるだけだ。それに肝心なのは秦の意向。脇の事より、

中心に力を注ぐべきである。

 そこで使者には胡虎を命じ、相応の権限を持たせ、秦との交渉の一切を任せることにした。その上で副

使として明開(ミョウカイ)を付ける。楓流と趙深がその地を離れられない今、この二人以上に適任者は

いないだろう。凱聯を抑える者が居なくなるのは辛いが、短い間なら奉采(ホウサイ)や明慎(ミョウシ

ン)だけでも何とかなる筈だ。

 念の為、凱聯には書状で釘を刺しておく。



 交渉は困難だったようだが、胡虎と明開は何とか役目を果たした。金銭と兵糧を要求されたが、南蛮貿

易によって得た富は楓本国にも分けられている。用意できる額であったそうだ。

 これは少なくない出費だが、だからこそ即答する事で楓の財力を見せ付けたられたらしい。流石に胡虎

と明開、したたかである。秦臣の方が驚いていたようであったというから、その目論見は成功したと見て

いい。

 とにかく今は弱みを見せてはならない。楓流はそう考えている。胡虎はそれを察していたからこそ、そ

うしたに違いない。彼は相変わらずよく理解してくれる。楓流はその事が何よりも嬉しかった。

 こうして秦の方から歩み寄る形で穆突との間に盟約が結ばれた。勿論、あくまでも穆突が従である。彼

が王ではなく単于と呼ばれ続けるのは、そういう意味もあるのだ。大陸人にとって穆突は南蛮の従属者に

過ぎず、結局初めから最後まで脅威と思われなかった。

 それに農耕を基礎としている大陸人は、国という土地を持たない者を王とは呼ばない。

 侠族には秦最南東部を与えられ(住民も居ない、建物も無い、ただの荒野)、必要最低限の道具と食料

が与えられた。穆突はこの待遇に不服そうだったが、秦の心象をこれ以上悪くすまいと考えたのか、受け

容れているようだ。

 彼にどんな意図があるのかは解らないが、どうやら大陸人勢力と一戦を交えようとか、秦を切り取り勢

力を再建させよう、という気は今の所無さそうだ。

 秦の力を持って扶夏王に一矢報いる腹だと思えるが、さて秦はどう動くだろう。結局どうするかは秦次

第。侠族を生かすだけで約を果たしたと言われても、文句は言えない。

 あくまでも穆突を使って扶夏王に圧力を加えさせるという約であり、それならばそれだけでも適えてい

ると言えない事もないからだ。

 皮肉にも後は穆突に期待する事になった。彼が上手く秦王を口説けば、楓の望みも達せられる。

 しかしそんな事を期待しても良いものだろうか。

 楓流は穆突の真意を知らない。

 解った事といえば、侠族がおそろしくまとまった集団だという事。扶夏王と違い、穆突の支配力は絶対

なのだろう。或いはそこまで侠族全体の扶夏王に対する怒りが強いのか。

 今後は侠族の動向にも注意する必要がある。

 楓流は玄張の許へ腕利きの間者を送り、情報収集しつつ、随時連絡してくれるよう頼んだ。

 玄張は快く引き受けている。




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