17-2.役割


 結果として秦は応じた。

 しかし全面的な協力とは言えない。三千の兵を出し、補給なども整えるようにしているが、それを率い

るのが魯允(ロイン)であるという点を考えても、積極性を欠くのを否めない。

 魯允は兵法にも通じていると称しているし、実際にある程度の知識はあるようだが、実戦経験は無いに

等しく、健康とはいえその老体では激しい戦にはとても耐えられない。戦力はあくまでも穆突任せ。本気

で戦う意志はないが、南方と地続きなのが判明した以上、ある程度の兵を置いて防備を固めなければ格好

がつかない。だから形だけ揃えた。と言った所か。

 張耳(チョウジ)、商央(ショウオウ)、范緒(ハンショ)という秦を長年支えてきた三功臣が高齢も

あってそれぞれに弱っており、特に張耳は病の後遺症によって身動きすらできない状態にある。だからこ

の機会に商央と范緒が魯允を遠ざけようと画策した。という事もあるのかもしれない。

 だが魯允がそんな見え透いた手に乗るだろうか。

 確かに彼としても功は欲しい。秦に来てから目に付くような功を立てていないからだ。それでも居座れ

るのは、王族に気に入られているからであり、高官に取り入るのが上手いからである。

 将兵に対してもそうだ。不思議と彼を慕う、或いは利用しようと考える者が多い。一度は旗頭になって、

三功臣と対立した事もある程だ。今では三功臣対魯允という図式が定着しており、三功臣が退けば魯允が

立つ、という雰囲気を皆が持ってしまっている。

 三功臣が必死になって国を富ませよう、強くしようと努力している間にも、魯允は自分の立場を磐石に

する事だけを考えて行動してきた。だから国の為にと三功臣が厳しくすれば、魯允が甘い言葉を囁(ささ

や)き、将兵の心を盗るべく私的に援助したりしている。

 三功臣はその度に苦言を述べたが、魯允はその言葉をするするとかわす。張耳が床についてからは益々

その傾向が強くなり、ニ功臣の負担が重くなっている為にいつまでも構っておられず、仕方なく引き下が

る事も多くなった。

 それが他人の目には二功臣でさえ魯允には一目置いている、という風に見え、事態を悪化させていく。

 魯允という寄生樹は秦という国にしっかりと根を張り、容易に引き抜けなくなっている。

 一度は失脚したというのに、なんとしぶとい男だろう。

 そんな男が今回に限って大人しくしている訳がない。おそらくまた禄(ろく)でもない考えを抱いてい

るのだろう。



 秦の情報が玄張から細かに送られてくる。勿論調べているのは楓の間者だが、その扱いは巧みで、瞬く

間に彼に懐くようになったという。これは楓流が玄張とは別に直接動かしている間者からの情報だ。

 流石は、と言わざるを得ない。長年玄一族を纏(まと)め上げてきた器量は見事である。人の使い方を

熟知しているのだろう。その気になれば、もっと政治的な事もできたのではないか。いや、それができな

い(と思わせる)人柄だからこそ、慕われるのか。

 見習う必要がある。

 送られてくる情報の中で楓流が最も気にしているのは魯允だ。

 楓流と魯允の関係は長い。

 元々は楓流が見出した人材であるが、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、敵対する関係になった。楓

から見れば魯允は売国奴であり、絶対に許せぬ大悪党。魯允もその感情を知っているから、秦に行ってか

らも事ある毎に楓に対して不利益な政策を通そうとしてきた。

 不倶戴天(ふぐたいてん)の関係にあると言っていい。

 それにしても不思議なのは、何故秦王が一見役立ちそうに見えるが、実際にはさして役にも立たぬ魯允

をいつまでも優遇しているのか、という事。初めは騙(だま)されたにしても、すぐに化けの皮は剥がれ

た筈。なのに今の今までその待遇が変わっていない。

 その謎を解くには、王の微妙なる感情を理解する必要がある、という説が一般的か。

 三功臣は確かに国を守り立て、強大にし、西方で大きな地位を占めるまでに成長させた。だがそのせい

で秦王の影が薄くなり、臣下が王よりも三功臣に遠慮するような面があった事を否定できない。

 王も三功臣を信頼し、感謝もしていたようだが、その心にはおそらく拭えぬモノがあった。だから魯允

という対抗者を作り、三功臣が彼を否定すればするほど、意地になって守ってきた。

 これだけが理由ではないとしても、この説にはそれなりの説得力がある。歴史を見ても秦王に対する記

述は少ないし、当時の国力と権威から考えて、あまりにも無視されていると言えない事もない。

 王が無能であれば、暴挙にも出たのだろうが。悲しい事に彼は有能であり、結局三功臣を軸にした方が

上手く運ぶ事を誰よりも理解していた。だからこそ文句も言わずにやってきたのだが。魯允という存在は

そのささやかな仕返し、復讐、というよりは遊びであったと考えても、あながち外れているとは言えない

のである。

 魯允は王の機微(きび)を一人理解し、上手く利用してきたのだろう。秦王に誤算があったとすれば、

そういう点に関して魯允は誰よりも長けていたという点か。いつの間にか上手く利用されていた事に気付

いていなかった可能性もある。

 そしてその事がまた三功臣との間にひびを作る原因になり、決定的なモノへと変えていく。魯允という

男を皆見誤っていたと言わざるを得ない。蛇のように生き抜く者は、時に何よりも強く、逞(たくま)し

く、いつまでも独り生き延びるものである。

 楓流にも油断が無かったとは言えない。もしこんな事が起こると解っていたなら登用しなかったろうし、

その恐ろしさを悟っていたなら、どういう方法を使ってでも殺していただろう。

 皆が甘く見ていたからこそ魯允は生き続け、不幸の種を蒔(ま)き続けている。誰が悪いと言えば魯允

だが、彼も一個の生命であるならば、その生に異を挟む訳にはいかない。皆誰かを不幸にして生き

ているのだと考えれば、見抜けない方が愚かという事になるのかもしれない。

 当然の報いとしての魯允、といえばそうなのだろう。

 魯允は穆突単于との仲を急速に深め(南方部族にさえ取り入れるとは、最早天賦の才としか言いようが

ない)、様々な便宜を図ってやる事で、切っても切れない仲になっている。

 心を通わせる友情という意味での繋がり、そして現実の中での共通の利、それらを併用する事でその関

係は強固になる。穆突が秦から、いや大陸人全体から嫌われている事も上手く利用した。

 魯允が率いる兵には弱兵が多いが、魯允に好意的な者が多く。本心は嫌々だったのかもしれないが、侠

族にもそれなりに友好的に接しており、今の所摩擦は少なく、表に噴出する程ではない。

 もし侠族が兵達の態度を不快に感じていたとしても、魯允自身は紛れも無く友好を示しているように見

えたし、逆にその事も魯允への信頼に繋がる。

 初めからそこまで考えていたのだろう。そのくらいの事は考える男である。全てを利用し、何をどう犠

牲にしたとしても自分だけは生き延びる。結局最後まで生き延びた者が天下を掴む事が出来るのだと彼は

信じ。誰かから嫌われても、そうであるが故に誰かからは好かれる事を知っている。

 確かに魯允は人の世というものをよく学んでいる。健康に関しての知識も多いし、おそらく長い隠遁(あ

くまでも見せ掛けだったが、実際に努力はしていた)生活の中で、学び、培(つちか)ったモノなのだろ

う。それを卑怯者(ひきょうもの)、卑劣漢(ひれつかん)などと一言で終わらせようとする所に、そも

そもの間違いがあるのか。

 用いる手段がどうあれ、愚か者では生きていけない。彼がいつも生かされてきたという事実に、何故多

くの者が気付けなかったのか。

 思い込み、蔑視(べっし)そんなものは目を曇らせるだけだ。

 しかし楓流には趙深が居た。明慎が居た。この二人は魯允という存在の恐ろしさを理解できた数少ない

人間であり、魯允の動きを知り、二人それぞれ楓流へ注意するよう進言している。

 楓流もこの二人、特に趙深から言われれば、考慮せざるを得ない。魯允には凱聯(ガイレン)に対して

のような複雑な気持ちは無く、いずれ決着を付けなくてはならない敵とだけを想っている。手を出さなか

ったのは単に秦へ遠慮せざるを得なかったからだが、こうしてその側を離れた以上、そして南蛮と繋がっ

た以上、話は変わってくる。

 魯允もまた油断していた。いや、余りにも楓流という個人に執着していたと言うべきか。これだけ人の

心を熟知した男が、楓にも様々な人間がおり、自分のように人の世に長けている者が居るとは考えなかっ

たのだから、不思議なものである。

 愚かと言うよりは、秦に甘やかされ過ぎたのだろう。

 古びた庵(いおり)で神経を研ぎ澄まし、鼠(ねずみ)のように全てを窺っていた時の彼であれば、こ

のような油断はなかった筈だ。

 地位、安楽な場所ができた事で、野生の嗅覚を知らず知らず失い、秦宮廷とそこから得られるモノだけ

が世界の全てになってしまっていた。

 自ら狭めたのは彼自身の選択である。

 しかし、だからこそ悔しかったに違いない。



 魯允は侠族を使い、南東部の開拓を始めた。それが秦側の条件だったのか、侠族の独断かははっきりし

ないが。南蛮は基本的に農耕をしないので、秦側の条件だったのだと思える。侠族は家畜を育てる為の場

所と草、後は獲物がいる森さえあれば充分なのだ。

 秦から場所と草は得たが、秦領南東部には狩るべき獲物が少なく、秦の援助を受けなければ生活が成り

立たない。だから慣れぬ開墾(かいこん)作業をしているのだろうし、魯允のありがたみがある。

 これに対して扶夏王がどう動くか。それが最も大きな関心事の一つなのだが、はっきりしない。間者も

流石に奥にまで行く余裕が無く、魯允達の動向を見守るので精一杯。解るのは未だ扶夏王軍が攻めてきて

はいないという事だけ。

 秦兵と共に居るのを知り、警戒しているのかもしれない。

 或いは兵力が足りないのか。扶夏王が手勢の多くを引き連れて出ているせいで、攻勢に転じるだけの余

力が無いのだと。甘い予測に頼るのは危ういが、可能性としてはある。

 実際扶夏王自身も動かないし、動けないと見る方が妥当かもしれない。そう思わせる為の策とも考えら

れるが、そんな事をする必要性があるのか。もしあるとすれば、それは何だ。

 このように扶夏王勢の動きは不透明である。

 楓流は当然勝つつもりだった。扶夏王にも、そして魯允にも。その為の道もすでに造りつつある。しか

しそれが上手く行くのか、南蛮が予測通りに動くのか、不安要素は多い。

 もっとはっきりした手を打っておくべきかもしれない。しかし下手に動けばやぶへびになる可能性も高

く。扶夏王がもし覚悟して全軍を持って攻めて来れば、今の江南の防衛力ではとても防ぎ切れない。歯痒

(はがゆ)くとも、短慮(たんりょ)は危険である。

 だが何もしなければ何も解らないままだ。

 どうすべきなのだろう。



 半月の時が流れた。秦南東部はそれなりに形になってきている。移住者や技術者が増え、家屋を造り、

集落を形成し始めた。

 そしてこの頃から扶夏王との間に小競り合いが生じている。

 偵察の為だろう、数十人という小部隊だが、集落の付近に現れ、護衛の兵と戦闘を起こし、それぞれに

死傷者が出たのだ。

 扶夏王勢が直接的な手段に出てきた事で民間人の間に恐怖が芽生え、作業効率も落ちている。

 これが狙いだったのだろうか。大部隊を運用できないのなら、時間稼ぎも悪い手ではない。

 だがこれは秦に対する宣戦布告に等しい。扶夏王、或いはその部下、からすればあくまでも穆突への攻

撃なのだろうが。ここには魯允率いる秦軍が居る。見張りや護衛は穆突の部下から出ているが、はっきり

と秦軍の存在を示しているのだから、そこに攻撃を仕掛けるという事は秦に攻撃するのと同じ。

 秦政府は色めきたった。

 三功臣も王もこうなれば静観している訳にはいかない。戦いを仕掛けられて放っておくようでは秦の威

信が地に落ちてしまう。侠族にも舐められるだろう。秦の力を見せ、扶夏王との関係もはっきりさせてお

かなければならない。

 三功臣は慎重である。敵側の情報を得る時間を稼ぐ為にも、戦争の準備を整える為にも、まずは話し合

う場を作り、抗議する事にした。

 すでに死傷者が出ている以上、問答無用に反撃しても文句は言われないだろうし。景気の良い事をした

方が民の支持を得やすい。しかし秦政府も南蛮は恐ろしい。楓からの要請を無視できるのも、南蛮が中央

を通ってくると考えればの話である。

 だが今直接秦領に侠族が来た。これを扶夏王が追い、戦を仕掛ける事になれば、間に何も介さず直接矛

を交える事になる。

 秦も扶夏王には中央と西方を同時に討つ程の戦力は無いと見ていた。もしそれがあるなら穆突は生きて

いなかっただろうし、とうに梁に向けて侵攻している筈だからだ。話に寄れば楓流は仰々しい壁を造り始

めているとの事。一日でも早く討つべきである。

 それをしないのは、つまりそれだけの兵力が無く、国力も無いという事。なら交渉の余地がある。

 向こうから手を出してさえこなければ、秦は扶夏王と戦う意志は無いし。楓がどうなろうと構わない。

 むしろ楓が滅ぶ方が好ましい。楓流という男、今はまだ良いが、このまま生かしておけば秦の脅威とな

りかねない。婚姻同盟という深い繋がりを結んでいるとはいえ、そんなものは建前に過ぎない。

 狄に踊らされる訳ではない。楓との関係は変わりつつある。ここら辺が潮時かもしれないと考えただけ

である。

 秦は密かに扶夏王勢力に向けて使者を発した。情報に寄れば扶夏王自身はこちらには居ない筈だが、代

わりとなる者が必ず居る。その分交渉に手間取るかもしれないが、その間は向こうもこちらに手出し出来

ないのだから、むしろ好都合と言えた。



 南方北西部を任されている者の名は孟角(モウカク)。南方部族の名はほぼ当て字だから(彼らは文字

というものを持たない)、孟牙(モウガ)や他の孟姓の者とは何の関係もないだろう。この当て字も誰が

使い始めたのか定かではなく(趙深か碧嶺、もしくは彼らに命じられた者だろうと言われているが、はっ

きりとした証拠が無い)、存外いい加減なものであるが、一般的にこれで通されているので、ここでもこ

れらを用いる事にする。

 この孟角、名は知られているが、他の南方部族同様、詳しい事は解らない。蛮勇の者と一般には考えら

れ、どちらかと言えば知恵足らずな印象があるようだが、実際には政務一般に長けており、武官というよ

りは文官という立場だったようだ。

 無論、部族で高い地位に就くには相応の武力が求められるから、武にも秀でていただろうが。政治に長

けていただろうこの男に任せたという点を考えると、扶夏王は、いや南方部族は以前から西方と繋がって

いる事を知っていたと考えられる。

 それを示すように孟角には交渉の一切を任せる権限が与えられていたし。当たり前のように秦領へ斥候

(せっこう)を向けている事からも解るように、侠族がどこを目指し、何を考えているのかも知っていた

と思われる。

 それなのに問答無用に戦を仕掛けさせている事には疑問が浮かぶが。もしかしたらそれは、穆突と敵対

関係にある事をはっきり知らせたかったからかもしれない。

 もっと突き進めて言ってしまうと、警備していたのが侠族と知っていたからこそ攻撃を仕掛けさせた、

という考え方もできる。そこまで秦と侠族の事を調べ上げていたのだと。

 今までの事からも解るように、南蛮、南蛮と大陸人から蔑(さげす)まれていても、南方部族達、とく

に扶夏王は大陸人に匹敵、ある面では凌駕するような知識と文明を持っている。彼らを見下し、馬鹿にし

ているようでは、南方部族という存在を正確に捉える事はできない。

 ともあれ、孟角は秦の申し出に合意したようである。

 無論、ただではなく、相応の条件を突き付けたようだが、彼らもそれを望んでいたのかもしれない。

 秦という国を知っていたのだとすれば、穆突が秦を頼るのを知っていたのだとすれば、秦と繋がって共

に侠族を滅ぼすのが一番速く、確実な手段である。

 しかし大陸人は南方部族を馬鹿にしている。扶夏王軍の力を知った今でさえ、それは変わらない。

 だからこちらから話を切り出したとしても、足元を見られ、まともな交渉にはならないだろう。だから

秦の方からそれを望ませる必要があった。

 そう考えれば辻褄(つじつま)が合う。

 大意を了承した上で条件を出したのも、下手に突っぱねて機嫌を損ねれば、大陸人の誇りなどという詰

まらないモノを持ち出し、感情論になって冷静に話し合えなくなるからだろう。

 まず提案を受け入れ、そこから話をしなければならない。難しいが、孟角ならお手の物だった筈であり、

自信があったからこそ策を立てたのである。

 こうして秦と孟角の間には密約が結ばれた。

 この事は秦の中でも限られた者しか知らない。



 密約が結ばれてからは、秦にも孟角にも大きな動きは無かった。扶夏王にも楓流にも動きは無い。その

後の事を考えれば、この時の扶夏王の態度も大陸人を油断させる為、言わば孟角の策を助ける役目を果た

していたと言えるのかもしれないが。単に様子見であったとも言える。

 どちらにせよ、侠族と魯允は順調に領地を増やし、功を積んでいった。南蛮の斥候も怖気づいたのか、

その必要がなくなったのか、戦闘を仕掛けて来ず、侠兵を見れば去っていくようになった。

 多少その態度に訝(いぶか)しいものを覚えた者も居たようだが、多くは頓着(とんちゃく)しなかっ

たし。斥候の役割を考えれば、ここで戦い、犠牲者を出すのは無意味である。その態度が変わったのにも

不思議はない。

 これは無理の無い答えというものだった。

 更に半月が過ぎ、集落が完成、予定の範囲を耕され、秦との約は一応果たされる事になった。

 そこで穆突は扶夏王の拠点を攻める事を求めたが、魯允はなかなか首を縦に振らず、結局は開墾作業を

続けさせられ、侠族が秦に農夫として雇われているかのような格好になってきた。

 これでは約束が違うと魯允に抗議するが、態度を変えない。ここに来て二者の仲は一挙に険悪なものに

なってしまった。

 魯允としては穆突の言い分も解るが、ここで戦っても馬鹿を見るだけであるし、実際に戦をするなど初

めから考えもしない事。魯允は魯允で侠族を都合の良い労働力として用いる事だけを考え、そう王に進言

をし、役目を与えられたのである。

 戦う気などなかった。いや、戦えなかった。

 質の良い兵は三功臣派がほぼ独占していたと言って良いし、中立や魯允よりの中にもいるにはいたが、

そういう者達は簡単に自分の兵力を使ったりはしない。

 いざという時に物を言うのは軍事力、資金力といった現実的な力であり、名声や個人の能力も重要だが、

数に勝る安心感はないからだ。三功臣の健康が思わしくない今、次世代の権力闘争はすでに始まっている。

貴重な兵を魯允などに貸す者は居なかった。

 王命であれば従うしかないが、そうなれば魯允など上に立てず、自ら将として名乗り出るだろう。

 それでは意味がない。

 だから集まったのは新規の余所者か、実績も伝(つて)も無い者達ばかりだった。

 秦は多くの国が集まってできた連合勢力である。三功臣などの活躍によって互いにあった垣根が低くな

り、秦という一大国としての連帯感も強まっていたが、やはり出身によって派閥ができるのを防ぐ事はで

きなかった。

 特に西方大同盟締結(ていけつ)以来ずっと共に居た国家にはそれなりの誇りがあり、古参、新参者と

いう垣根はどうしても崩す事ができない。三功臣とても、やはり信じるとなれば古参であるし、魯允が対

抗者の旗頭になれたのも、そういう対立を利用したという点が大きい。

 古参と新規の勢力争い。それに乗っかる事で、魯允は勢力を増したのだ。

 だからこそ古参との間に大きな溝ができている。三功臣の協力無しにそれを動かすのは難しい。王のお

気に入りという点は大きいが、どの将もそれがどこまでのものかを疑問に思っている。

 三功臣への反感、といえば言い過ぎかもしれないが。秦王が魯允を取り立てている理由は、三功臣への

対抗意識にある事を、それなりの地位にある者は皆薄々察している。

 三功臣が退けば今度は王自ら指揮を執るだろうし。そうなれば今までの反動から独裁色を強めるのが自

然の流れ。その時用済み、いや新たなる三功臣になろうとするだろう魯允をどうするかは自明の理。

 言わば魯允という存在はそれまでの気晴らし、まさに道化であって。魯允自身がどう考えているかは知

らないが、秦王は初めから魯允を買ってはいない。と考える事がこの頃には主流になっていたよ

うだ。

 人に取り入るのが上手く、王も実際気に入っていたようだが、それだけの理由で動くような者が秦の王

で居られる訳が無い。

 三功臣を上手く用い、自らの存在感が薄れる事すら利用する。それくらいでなければどうして王で居ら

れよう。魯允という道化を用い、本当に得をしてきたのは誰であるか。それを思えば、今までの見方も変

わってくる。

 歴史の上では結局影に隠れて終わったという言い方になるにせよ、秦王は決してその程度で済ませられ

るような単純な存在ではなかったのかもしれない。

 それを知らぬのは、魯允と我々のみだった。そう考えても、大きく外れているとは思えないのである。




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