16-9.反抗


 扶夏王が一時手を止めたのは、狄の真意を確かめる為だろう。

 昨日の一戦で楓流の底は見えた。後数日もすれば落ちる。そこに持ちかけられた狄の提案。大陸人など

胡散臭(うさんくさ)く、腹立たしい存在ではあるが、したいというのならやればいい、それからの事は

それから考えてやろう、後一手の状態になった以上急ぐ理由も無い、という訳だ。

 楓など敵にあらずと見、余裕を見せた。或いはそういう手段もある事を思い出し、楓の中に内応者を探

しているという事も考えられる。門さえ開けさせられれば、内応者共々殺してしまえばいい。口約束など

殺してしまえば何も残らない。

 酷いやり方だが、そもそも南蛮は大陸人を基本的には認めていない。中には例外も居るし、頭を低くし

てやってくれば受け容れもするが、基本的には敵であり、同情する対象ではないのである。

 それは狄も知っていた筈。だからはっきりした行動に出た。これは突発的な判断ではなく、計画的なも

のである。

 矛先を梁ではなく蜀に向けたというのも狡猾かつ冷静な判断である。扶夏王の勝利は決まったようなも

のだから援軍など無意味だが、蜀なら上手く行けばそのまま領土を奪う事も可能だ。

 ここでその矛を東に向け、子遂などと共謀して布や伊推と当たるという方法もある。しかし布も伊推も

中諸国平定の為に国力を増加されている。例え狄、子遂が組んだとしても、互角以上の戦いにはならない

だろう。

 その上、衛軍が南下している。結局兵を退かざるを得ない。

 しかしその軍の多くを梁へ送り、士気も低下しつつある蜀ならば話は違う。ほとんど無防備であり、頼

みの楓軍も虫の息。これではどうしようもあるまい。

 狄軍が激しく攻め立てれば、降伏するしかない。例えそう上手くいかなくとも、いくらかの領土は奪え

るし、何より梁と楓本国を繋ぐ道を断つ事になり、梁とそこに居座る南方楓軍に深刻な打撃を与える事が

できる。

 まだ楓流率いる兵はしぶとく戦おうとするかもしれないが。梁政府は駄目だ。扶夏王が相応しい処置を

すれば落ちる。それだけでも扶夏王に功を示すには充分である。後は南蛮と協力して衛軍とぶつかればい

い。梁、蜀が落ちたかそれに近い状態にあるなら士気も落ち、混乱している筈。難しい相手ではない。

 もしそうならなくとも、扶夏王軍がいれば敵ではあるまい。南蛮とどこまで協力し合うか、得た領土を

どう分けるか、などの問題はあるが。蜀さえ得られれば王を失った楓へ侵攻する事ができる。

 狄は列強の仲間入りをし、扶夏王の力をちらつかせて秦や楚を牽制しながら矛先を東に向け、疲弊して

いるだろう中諸国を制覇、次いで衛まで呑み込んでしまえばいい。

 そうなれば狄は中央、東方を支配する一大大国である。

 狄が狙っていたのは初めから蜀であった。その事に気付けなかったのは迂闊だが、誰もが扶夏王と楓流

の動静に注意を払っていたのだから仕方がない。南蛮のおかげで軍備を整える理由にも事欠かないし、布

も伊推もまんまと出し抜かれた格好である。

 このままでは全てが狄に転び、楓という勢力は滅ぶ。

 それを恐れたのか、布がここで予想外の行動に出た。三千の兵を持って梁の救援に向かったのである。

勿論伊推は子遂をがっちりと睨み、動けないよう見張っている。狄が軍を蜀に向けた事で布にも余力が生

まれたのだ。

 狄もその程度は考えていたが、動かしてもせいぜい千もあれば良いだろうと踏んでいた。だが布は誰が

思うよりも積極的であった。狄には蜀と布を同時に攻められる程の兵力は無い。思いきった数を出しても

大丈夫だと考えたのだろう。三千の兵があれば、扶夏王軍を牽制するくらいの事ならできる。

 狄はこの動きに多少焦ったようだが、結局は無視した。三千程度の軍など今の扶夏王には物の数ではな

い。牽制して時間稼ぎする程度なら大勢に影響は無いと考えたのだ。

 扶夏王も同じように考えたのか、初めは全く無視しようとした。所詮虚勢を張るだけ、何の意味も力も

ないのだと。

 布軍も遠目に陣を敷き、たまに申し訳程度に弓を射掛けてはすぐに去るだけで、実際何の力もなかった。

 それでも扶夏王は狄の事もあり、暫く様子見に徹する構えのようで、啓封へ攻める事を控え、無用の被

害を出す事を避けた。そのおかげで時間稼ぎにはなっているが、そもそも狄の動きを見る為に待っている

とも言えるし、意味がないと言えばそうかもしれない。

 布軍は悩んだが、扶夏王軍が恐ろしく、効果的でないのを知っていて尚二の足を踏んでいる。それでも

やがて決心したのか、扶夏王軍の背後を取る動きを見せた。

 補給線を断つ仕草で、扶夏王も軍を割かない訳にはいかない。二千の兵を出し、布軍の進路を塞ぐ。

 布軍は慌てて引く。しかし尚も窺う気配を見せ、少しでも兵を引き付けようとしている。

 これは見ようによっては扶夏王軍と必死に戦っているように見えなくもない。扶夏王が布軍を意識して

いるようにも。

 全体から見ると無意味にも等しい小さな小さな事だったが、これが意外な効果を及ぼす。

 必死なその姿が蜀や楓本国に決意を促したのである。

 特に楓本国に対してはそうだ。例え大陸同盟という括りがあったとしても、そんなものに大した強制力

が無い事は楓側も知っている。だから秦や楚にも備えていたのだが。楓流火急の時である今、そのような

事をしていても意味が無い。結局楓流が居なければこの国は駄目になる、と奮起し、四千の兵力を凱聯(ガ

イレン)、胡虎(ウコ)の二将が率いて援軍を発した。

 これは窪丸を除き、ほぼ国を空にする数であるが、覚悟の上である。半ば凱聯の暴走とも言えるが、胡

虎もそれを止めなかった。珍しく二将の意見が一致し、まずは蜀へ軍を進める。

 蜀は慌てて援軍に送ろうとしていた兵を呼び戻し、狄軍に当てていたが、勝てる見込みは無く、首脳部

は絶望に浸り、兵の士気もまた絶望的に落ちていた。それでも祖国、つまり家族を護る為に必死に戦って

いたが思うような戦果も挙げられず、次第に降伏していく。

 そんな状況に届いた援軍の報。四千もの兵。狄軍は三千。援軍だけでもその数を上回る。しかもそれは

精強名高い楓軍で、率いる将は凱聯、胡虎という楓流に次ぐ実力者達である。気力が湧かない筈がない。

 狄軍も歩を止めるしかなかった。蜀が絶望に包まれていたからこその電撃作戦だったのだが、楓の横槍

で機を失ってしまった。仕方なく得た領土を押さえる事に専念し、軍を留め、篭城の構えを取る。待って

いれば扶夏王が啓封を落とすだろう。いかに楓軍強しとはいえ、頭を失えば烏合の衆である。それまでの

辛抱だ。

 いや逆にこれは楓本国を狙う好機かもしれない。むしろ計画が早まったのだと狄は理解した。

 ここにきても狄は冷静である。そして扶夏王だけでなく、秦や楚にも密使を送り、協力を願った。例え

色よい返事を得られなくても、密使を送ったという事実がいくらかの影響を与える。

 今は秦や楚が楓の援軍を買って出ないようにできればそれでいい。楓と各国との間の緊張を保つ事さえ

できれば良いのだ。その為にわざと捕まえさせる捨て駒も混ぜておいた。秦も楚も今動く事に乗

り気ではない筈。ならばほんの少しでも理由があれば、それを利用するだろう。ようするに便利な理由を

作ってやったのだ。

 狡猾であるが、冷静である。

 一連の狄の動きをじっくりと確認した上で、扶夏王は動き始める。

 彼としては大陸人同士の関係をこれで理解したつもりなのだろう。誰が敵で、誰と誰が争い、自分と利

を共にできるのは誰か。それらを大意ながら掴んだ。そして狄が利用できる事に納得した。狄など初めか

ら信用していないし、今もこれからもしないが、利用できるなら使わない理由は無い。

 故に動く。

 布や楓本国の援軍などどうでも良い。他の国には大きな影響があるのだろうが、ここ梁には関係ない。

後一手で啓封が落ちるという状況に変わりない。

 扶夏王は大陸人達の動きがおかしかった。どんなに足掻いても、どんなに諦めずに立ち向かっても、結

局どうにもならないものがある。それは我々、部族である。大陸人など物の数ではない。今こそ正統なる

大陸の支配者が憎き簒奪者共を滅ぼし、領土を回復する時。

 扶夏王にも悩むべき事は多いが、梁という足掛かりを得られればこの地の問題は取り合えず解決する。

後は兵を再編し、穆突単于を追うなり、中央侵攻に移行するなりすればいい。時間はかかるだろうが、大

陸制覇もそれだけの問題である。大陸人の力は恐れるべきものではない。

 狄もしばらくは好きにさせてやってもいい。せいぜい扶夏王の名を使って動き、力を得るがいい。しか

し最後に勝つのは部族。この地の正統なる支配者である。狄などその為の踏み台に過ぎない。

 恐ろしい自信だが、確かにそれだけの力がある。

 その為にもまずは啓封である。小癪(こしゃく)な策で生き延びてくれたが、それもここで終わり。楓

流の首は必ず獲る。扶夏王の屈辱も雪(そそ)がれるだろう。

 攻めた。激しく攻め立てた。

 猛攻に次ぐ猛攻。もうすぐそこだ。楓流の首に手が届く。ほら、もうすぐそこだ。

 しかし天は残酷である。人がそこに届く事を嫌う。後一歩まで達しながら、必ずそれは奪われる。

 南開陥落の報が届いたのは、啓封陥落まで一時間も必要としないだろうと確信した、その時であった。

 流石の扶夏王も愕然(がくぜん)とし、暫くは呼吸する事を忘れた。



 南開を落としたのは壬葵(ジンキ)という聞き慣れぬ名の男。扶夏王が梁に領土を得、それに安心した

のか南開をほぼ空にしていたのを横から奪い取った。

 率いる兵は素性不明な傭兵五百。

 後に伝えられる所によれば、これらは南開陥落時、もしくはその前に逃げ出した者達だが、その後引き

返して南開付近に潜伏していた。それを壬葵が纏め上げ、南開を攻める兵としたのである。

 傭兵だか盗賊だかよく解らない者達の寄せ集めであるが、その実力は相当なもので、上手く連携する事

ができれば部族とも五分に渡り合える歴とした軍隊である。

 壬葵自身の素性は不明だ。賦族か或いはその混血、もしくは部族との混血、実は部族の一人で元穆突単

于の配下だった、などという話まである。彼が終生賦族などを擁護する側に居た事から、被差別階級出身

だろうと言われているが、よく解らない。

 はっきりしているのはその実力だけである。

 扶夏王はいくら空けたとはいえ、南開に数百程度の兵を押さえとして残していた筈であり、それは部族

内では弱兵だと予想されても、寄せ集めで勝てるような相手ではない。よほど壬葵に統率力と戦術眼があ

り、兵達も以前から訓練を積んでいたのだと考えられる。

 おそらく初めから一つの組織だったのだろう。

 壬葵はあの孟牙の弟(義兄弟であったか、孟牙が楓流を信用させる為にそう言わせたのだと考えられて

いる)と名乗り、どこから手に入れたのか楓流が孟牙に与えた黒き槍を持ち、彼が着ていた黒衣と同じよ

うな物を身に付け、直筆の手紙まで持っていた。

 それによれば、孟牙はこの者達の頭であったという。

 元々この者達を率いて身を立てようとしていたのだが、運良く楓流の寵を得る事ができたので、その力

を借りる必要がなくなった。それに独自の軍隊を持つと危険視される恐れがあるので、一度解散させて南

開に潜伏させ、有事に備えさせていた。扶夏王と友好を結ぶという手段に危険を感じ、念の為に一計を授

けておいたのだそうだ。

 そして南開が空いた今、楓流火急の今こそが兄との約束を果たす時だと確信し、奮起して計を実行した、

という事らしい。

 それなりの理由を付けているが、この半分は手紙ではなく壬葵自身の口から話された事であり、本当の

所はよく解らない。機を得て南開を奪ってはみたものの、それからどうして良いか解らず楓を頼った、と

も、扶夏王に恨みを抱く者達が裏切り、仕方なく楓流を頼った、とも言われているが、どれも予測の範囲

を出ない。

 ともかくも、この男こそ後に碧嶺(ヘキレイ)の武官筆頭、つまり大将軍となって軍を率いる事になる

壬牙(ジンガ)その人である。孟牙との繋がりも本当ははっきりしないが(直筆の手紙は現存しておらず、

また手紙を持っていたという点も実は怪しい。たまたま孟牙の事を知っていた壬葵がその名を利用した、

という説もある)、今の楓にとって正に起死回生の一手。楓勢は俄かに元気を取り戻した。



 楓流とは逆に肝を冷やしたのが扶夏王である。

 彼は梁北部にまで達している為、南開の詳しい状況が解らない。追い追い解ってくるだろうが、これは

すぐさま処理しなければならない問題である。続報をのんきに待っている訳にはいかない。

 暗殺に失敗し、軍を持って挑んでまで失敗した。屈辱である。屈辱であるが、引かざるを得ない。

 背後の布軍もこうなれば危険だ。南開軍と連携し、すでに奪った梁内の領土を回復させられれば、扶夏

王は孤立する。拠点に篭られれば簡単に落とせず、四方を囲まれ補給を失ったのでは、流石の南蛮部族も

力を失う。

 扶夏王は南開の戦力を知らなかったが、落とされるくらいであるから千単位の軍が現れたのだろうと考

えていた。南蛮部族に対する過信、大陸人への侮り、がその誤差を招いたのだと思われる。そしてだから

こそ恐れた。

 押さえの為、梁領土内に置いてきた軍勢は一箇所につき多くても数百程度であり、千単位の兵を使われ

れば一挙に取り戻される危険性がある。

 まさかまだ南方に大陸人が潜んでいたとは考えもしなかったから防衛も何も考えていないし、その為の

指示も与えていない。敵がくれば迎え撃つとしても、戦局全体を見渡した判断など、一部隊長程度にでき

るものではない。

 指揮官級の人材は部族の長などが多いが、援軍を呼んだり、一時拠点を放棄して一点に集まって後迎撃

するなどという判断はとてもできず、各個に戦い、各個に撃破されてしまうだろう。

 どうしても一度引いて、体勢を立て直さなければならない。扶夏王自身が行くしかないのだ。

 この判断は間違っていない。

 確かにこの時強引に啓封を攻め続ければ、歴史は変わっていただろう。楓軍の士気が揚がったとはいえ、

所詮は張子の虎。多少兵の能力が増すとしても、兵力自体が増える訳ではない。扶夏王は押し切れていた

筈だ。楓流は殺されるか捕らえられ、楓という勢力の力が失われる。大陸中が混乱し、安定は崩れ、扶

夏王こそが唯一大陸統一を成し遂げた存在となり、神格化されていたのかもしれない。

 だが南開の詳しい状況が解らない以上、無謀な事はできない。彼に勇がなかった訳でも、愚かだった訳

でもない。言うなればその冷静さが仇(あだ)となったのだが、それを責めるのは酷というものだろう。

 英邁(えいまい)であるが故に誤ったのである。

 扶夏王は決断するや即座に軍を引き、梁南部の拠点、江南へと軍を移した。

 布軍もその歩みを妨害するような事はしない。大人しく道を譲り、行くに任せている。彼らもおそらく

状況をよく理解していなかっただろうから、突如引き返してきた扶夏王軍に驚き、かといって楓流軍が反

撃してくるようでもないので、困惑しつつ慌てて道を空けたという所か。

 扶夏王に何か策があるのではと疑っていた布軍は暫くその場に居て状況を眺めていたが、やがて何も起

こらない事が解ると啓封へと向かった。

 そして楓流と布将は互いの無事を確認して喜び合い、布軍はそのまま楓流の指揮下に入る。

 伝えられる所によれば。

 碧嶺が遠征時、同盟国の裏切りによって後方を遮断され、四面楚歌の状況に陥った事があった。そこは

山々に囲まれた一本道であり、行き場を無くした碧嶺軍は士気みるみる衰え、前後から挟撃を受けて散々

に打ちのめされ、最早武運も尽きたかと思われた。

 碧嶺もこの時ばかりは死を覚悟したようで、せめて華々しく散ろうと兵を奮い立たせたその時である。

 突如、黒馬を駆る黒ずくめの男が山中より現れ、硬く鋭い黒刀を持って聳(そび)え立つ山々を真っ二

つに両断。退路を得た碧嶺は、驚く敵兵を尻目に無事生還する事が出来、すぐさま兵を整えると裏切り国

共々敵軍を大いに打ち破った。

 その後、碧嶺はこの黒武者を手厚く迎え、終生信頼を寄せたという。

 これが一般に知られる碧嶺と壬牙の出会いだが。全くのでたらめである。確かに後の碧嶺である楓流の

命を救ったが、状況は全く違うし、黒馬も黒刀も創作である。壬牙が黒将軍の異名をとったのは事実だが、

初めからそう呼ばれていた訳ではない。

 膂力(りょりょく)は確かに相当なものであったそうだが、山を真っ二つまでは不可能である。岩を割

った、鎧ごと両断した、などという逸話があるので、そこから転用して膨らませた話だろう。

 これと同じような話は多くあり、一般に伝えられているもののほとんどは面白おかしく尾ひれの付けら

れた話、或いは全く事実とは関係ない話、である事が多い。興味深い話もあるが、鵜呑みにするのは止め

た方がいい。

 ともあれ、後の壬牙こと壬葵が楓流を救った事に変わりなく。深い感謝と信頼を寄せたという点は、本

当かもしれない。



 楓流は一呼吸吐き、情報を整理しようとしたが、情報が錯乱(さくらん)していてなかなかに難しい。

一通りの整理がつく頃には数日が経ってしまっていた。

 楓流はある程度把握した後、凱聯の暴走気味の動きにも今回は苦言せず、蜀を任せる旨の伝令を発し、

自身は江南へ向けて軍を率いて出発した。

 布軍と合わせて六千の兵。質も数も勝てるべくもないが、南開をこのままにしておけない。扶夏王も近

い内に軍を動かすだろう。そうなれば南開の兵力がどうであれ(楓流もこの時点では実兵数を知らなかっ

た)、まず落とされる。援軍の期待できない篭城など、ある意味勝利を放棄した戦いである。

 だから勝てぬまでも楓軍が動き、扶夏王の注意を引き付けなければならない。そうしていれば蜀の手が

空き、凱聯軍の応援を期待できるかもしれないし、衛軍が間に合うかもしれない。

 この時には楓流も覚悟していたようだ。例え楓本国が危機に陥ったとしても、今ここで扶夏王に一太刀

浴びせておかなければ、この先どうにもならなくなるだろうと。

 壬葵は実兵力を知られるのを恐れてか、全く姿を現さない。間者への警戒心が強く、夜間の警備も必要

以上に厳しいものだという。それは楓に対しても変わらず(間者が楓を騙るのを警戒したのだろう)、接

触できない為に全くと言っていい程情報が入らない。楓の特別に訓練を積んだ間者でさえそうなのだから、

扶夏王が情報というものに重きを置いていたとしても、何も解らなかった筈だ。

 壬葵も実兵力を知られればお仕舞いだと言う事をはっきりと理解していた。

 万に届く扶夏王の大軍を前に、五百程度の数で何ができる訳もない。瞬く間に落とされ、蹂躙されてし

まうだろう。堅固な要塞ならまだしも、南開の防衛能力など高が知れている。

 少ないながら情報が入ってくると、楓流にも何となく考えていたよりも兵数が少ないのでは、という疑

問が浮かんできた。

 南開の警備は厳重であるが、それ以外に人の気配を感じない。人が居ればどうしても生活の跡を隠せな

いが、それが見えないのだ。千単位の軍が居るとはとても思えない。むしろ遥かに少数なのではないか。

 それに気付けば確認するのは容易い。

 扶夏王もそうだろう。彼もいずれ気付くし、そうと知ればそのままにしておける人物ではない。即座に

侵攻を開始する。

 江南を捨てて全力を持ってぶつかるか、半数を向けるかは解らないが。どちらにしても烈火の如く攻め

立て、意地でも落とす筈だ。そしてそれは何よりも迅速に行われなければならない。二度の失敗が部族達

の心の表に出てくる前に、その印象を勝利と言う名で覆い隠さなければならぬのだ。

 楓流は何としてもそれを止めたいが、南開の兵力が少ない以上、難しい。楓軍単騎でできる事など高が

知れている。正面から挑んでも扶夏王には勝てない。

 一体どうすれば良いのか。

 楓流にも確たる答えは無かった。



 楓流は迷いながらもとにかく軍を進め、空いた拠点を奪い、領土を回復させた。今更こんな事に大した

意味は無いが、取り合えず何かをしておけば士気は下がり難いものである。それが一応の勝利であるなら

尚更だ。

 得た領土に食料物資はほとんど残されていなかったが、持ち運べぬ分は置いて行ったのか、ある程度残

されている拠点もあり、それらを兵に与える事で多少の信も得ている。

 その場で褒美として与えてくれる将など当時はまず居なかったので、兵からすれば楓流は非常にありが

たい存在である。中には口約束だけなら簡単にしてくれるが、実際後になって言った額の半分もくれない

ような将も居たし、多くの兵は将の言う褒美など半分も信じていなかった。

 だから多少効果はあったが、物で釣った信など脆いものだ。兵の不満を和らげられただけいい、程度に

考えておくのがいいだろう。

 楓軍は順調に進み、やがて江南の近くに布陣したが、依然として案は無く、困っていた。

 扶夏王もほとんど無視している。南開にのみ興味があるようで、多少兵数を増した程度の楓軍など歯牙

にもかけない。実力を見抜いていたからだろう。

 遠慮なく動いた。

 楓軍が側で見る前で動く。わざと到着を待っていたのかもしれない。そうして目の前にいながら何もで

きない楓を嘲笑(あざわら)い、将兵の士気を高めたという考え方もできる。そして悠々と南開に向かい、

何もできぬ楓軍を二度笑う。

 軍を出せば江南を奪われるかもしれないが、扶夏王にとってそんなものはどうでも良かった。南開を取

り戻し、返す刀で奪い返せば良い。何度でも奪う。その力が自分にはあるのだ。全てはそれを誇示する為

の行動であった。

 楓流はその様を歯噛みして見ているしかない。

 彼も扶夏王の考えをある程度読んでいただろうが、動けない。援軍の協力無しにはとても戦えず、それ

を勇無しと言われれば、まさしくその通りであった。

 この時には扶夏王も南開の実情をある程度把握していたのだろう。

 怒りは倍増しただろうが、それでいて尚この状況を利用しようと考える所にしたたかさが見える。扶夏

王は時に自分を抑えられなくなる激情家であるようだが、したたかな部分も持っている。勇猛だけで南方

制覇できる程、部族も甘くない。

 扶夏王は南開を易々と落とし、再び北上して今度こそ楓流に止めを刺すだろう。そうなれば事態が好転

している蜀の状況も再びきな臭いものになってしまう。その前に衛軍が来てくれれば良いが、果たしてそ

う上手くいくだろうか。

 不安要素は未だ限りなくあり、打開するにはどうしても力が足りなかった。

 楓流はその事を思い知らされている。

 力が、足りない。




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