雍涯軍はゆっくりと進んでくる。余裕を見せる為なのか、元々そういうやり方なのかは解らないが、明 らかに今までの南蛮兵とは違う。個々の能力に頼るだけではない、統制の取れた動きというものがそこに はある。よほど訓練を積んでいるに違いない。 この兵達が特殊なのか、或いは扶夏王の正規軍は全てこのようであるのか。解る事は少なく、推測でき るだけの材料も無いが、しかし侮れない相手である事だけははっきりと解る。 火計による被害は少なく、兵数にさほどの変化はない。二千の兵が粛々と進んでくる。 雍涯軍は鎧を統一してはおらず、その姿もまた個々に異なる。共通するらしき姿の者が集まって小隊を 成している所をみると、部族単位で軍を編成しているのだろう。 そこから扶夏王の軍勢もあくまでも部族を基調としたものである事が察せられる。確かに統制上の事を 考えても、利便性の面を考えても、それが最もやりやすい方法である事は確かだ。 しかしそれは部族という考え方から脱却できていない事も示している。 とはいえ楓流は彼らを見て、もっと兵の出身地などにもこだわって編成するべきかもしれない、という 考えを抱いた。 今まで楓流も他の国家達もそういう面を考えていない訳ではなかったが。どちらかといえば能力だけを 見て編成していた嫌いがある。なるべく出身地に近い土地に配属するなど、土地との繋がりも考えてはい たのだが、同じものを共有する事からくる連帯感というものを軽く見ていたかもしれない。 人間としてではなく、兵を兵として扱い過ぎていた所があるのではないか。 それは軍を率いる者、編成する者としては自然に行き着く考え方であるのかもしれないが、だからこそ の落とし穴であろう。 雍涯軍の編成は素朴で単純である。でもそうであるからこその強さ、固さがある。 そんな風に思ったのだろう。 何からでも学べるものはある。否定するにしろ受け容れるにしろ、まずそれを理解しようとする姿勢が 大事なのではないか。 ともあれ、その成果が出るにしてもまだ先の話。今は目の前の戦の事に集中しなければならない。勝た なければ、成長も何もあるまい。
新しく得た拠点を楓軍自身が放棄炎上した事で、雍涯軍は補給の面で難しくなっていると考えられる。 そこを落とすつもりで来ている以上、落とせば足掛かりにする考えだった筈で、その拠点自体が焼き払わ れたとなれば、計画にも狂いが出る。 拠点跡にて充分休んだはずだが、その分物資の消費も多いはず。南蛮にどれだけの蓄(たくわ)えがあ るのかは知らないが、扶夏王軍が他方面にて存亡を賭けた戦をしていたとすれば、かなりの負担になるだ ろう。雍涯軍はそれほど物資に余裕がないのではないか。 南開の物資を当てにし、最低限の兵糧しか持っていない事も考えられる。そう考えると時間をかけ過ぎ ているのが妙だが、拠点跡を漁っていたと考えれば不自然ではない。いや、だからこそ時間をかけたのか。 例えそれが希望的観測に過ぎないとしても、兵数に決定的な差が無い以上、篭城して援軍を待つのが得 策なのかもしれない。 だが南開はできて間も無く、防衛能力はお世辞にも頼れるものとは言えない。南蛮兵の苛烈さを考えれ ば消耗も激しく。折角作り上げてきたものを前哨戦となるだろうこの戦で破壊でもされれば、雍涯に勝て たとしても、今後控えているだろう扶夏王との決戦が不利になる。 雍涯を破った勢いで更に侵攻し、新たな拠点を得られればそれを盾にする事もできるが。それはあまり に楽観的過ぎる。拠点を焼いた事で中継点を失ったのは、楓軍にとっても同じ事。 とすれば、ここは引き付けるだけ引き付けた後、打って出るべきか。 南開を温存するには、敵の疲弊を待ち、こちらから攻撃を仕掛けるのが常道である。 そしてもしそこで華々しい勝利を収める事ができたなら、扶夏王との交渉も上手く運ぶかもしれない。 楓流の現兵力は二千五百程。雍涯が慎重で居てくれたおかげで、梁からの増援が間に合っている。他国 の反応は未だ芳(かんば)しくはないが、雍涯に勝てば重い腰も動くだろう。 楓が敗れれば次は中諸国が危機に陥る番である事は確かなのに、あまり協力的でない理由もその点にあ る。怖いのだ。全精力を楓に注ぎ、それでも尚敗れ、打つ手を失くす事が。例え戦う力が多少残っていて も、楓が滅べばどうにもならなくなる事は解っているだろうに。 まだ先頭に立つのが双や秦といった国であれば、もう少し積極的になったのかもしれない。だが楓も強 国とはいえ、衛を除外すればその領土は広くない。総兵力も高が知れている。例え強兵であると言っても、 武具が優れているといっても、今一つ頼りないというのが正直な所だろう。 彼らは千の強兵よりも、万の弱兵を頼みに思う。 だから彼らの多くが経済面での支援に留め、兵力を温存している。もし楓が負けても巻き添えを食わな いようにと。 楓は勝たねばならない。勝てる事を証明する必要がある。負けるなど以ての外だ。
楓軍の方針は決まった。五百を予備隊として南開に置き、二千の兵を持って迎撃に出る。 先陣を切るのは猛牙。彼ならば部族相手でも遅れを取る事はあるまい。 後は雍涯がどのような手を打ってくるか、それを慎重に見極める必要がある。楓流が中心よりやや後方 に位置しているのも、観に徹する為である。 勿論、必要があれば前に出るつもりだ。 大将は臆病である事が望ましいが、それを兵に知られてはならない。それが戦場での鉄則である。
雍涯軍が迫り、楓軍が迎え撃つ。時刻は昼を過ぎていた。 二千対二千。数の上では互角。個々の力では雍涯軍が勝る事もあるかもしれないが、全体的な動きと統 率力にかけては楓に分があるだろう。乱れなく進軍してきた点は見事だが、間者に寄れば南蛮兵達の不満 は晴れていない。扶夏王自身が率いていない限り、充分に勝機を見出せるはずだった。 戦端をきったのは楓軍の方である。猛牙が千の兵を率いて突出した。 草木のせいである程度兵がばらける事になるが、それも気にしない。条件が同じであれば、勢いのある 方が勝つと見た。猛牙に迷いは無い。 前衛に配しているのはいずれも恐れを知らぬ兵(つわもの)ばかり。猛牙に遅れじ、我こそが一番槍に 相応しいと怯む事無く進んで行く。 南蛮兵もこちらが向かって来たと見るや、負けじと突撃を開始する。少数の隊が連なったような雍涯軍は、 流石にこの地での戦い方を熟知している。ばらける事無く、皆当たり前のように効果的な動きを見せた。 しかしその程度で勢いを失する楓兵ではない。先に動いた強みか、迷う事無く勢いに乗ってぶち当たる。 喚声と共に剣戟の音が響き、敵味方無く乱れ争う。 しかしそうなる事は考えの内。乱戦時にも三人一組で動くよう訓練させていた為、次第に楓軍が優勢に なった。南蛮兵はやはり個々の意識が強過ぎる。連携を重んじる楓軍に戸惑い、動きに精彩を欠いている。 そこへ楓流が残り千を率いて打ちかかったから堪らない。雍涯軍の前衛は崩れ、後退し、このまま追撃 すれば簡単に勝利を収められるかと思われた。 しかし楓流はあまりにも簡単な撤退に違和感を覚え、すぐさま合図を鳴らして進軍を止めさせ、その場 で兵をまとめる。 まず両軍の死傷者が今までの戦とは明らかに違う。本気で戦えばこの程度の損害で済む訳がない。それ でも退いたのは、楓軍を誘う罠だと察した。 その考えは当たっていたらしく、雍涯軍は楓軍が乗ってこないと見るや、すぐさま陣形を整え、再び打 って出る。 今度は先のように単純な戦ではない。弓隊を上手く使い、こちらの動きを牽制しては歩兵隊が生じた隙 を突いてくる。木々の間を直線的に放たれる矢は、飛距離こそ短いものの威力が抜群であった。 その腕前も見事で、驚いた楓軍は浮き足立つ。 流石に猛牙も陣形を保つ事で精一杯になった。 楓兵もよく防いだが、結局は最後まで活路を見出せず、その日の戦は痛み分けに終わっている。 確かに雍涯の戦は今までの南蛮兵のものとは違う。その配下の兵も不満はどこへやら、見事な戦ぶりで 命令が徹底されている事がよく解る。連携も巧みであり、大陸人よりも大陸人らしい戦というべきかもし れない。部族の特色を持った姿のままでいるのも、楓軍を油断させる罠の一つであるのか。 楓軍の戦ぶりにもすぐに慣れ、柔軟に対応していた。 こちらを真似、数人一組で向かっていた兵もいたし、戦術での優勢はほとんど無いものと考えた方が良 いだろう。 戦ぶりに驚かされたのはむしろ楓の方だった。兵の顔も厳しいものに変わっている。彼らも南蛮、部族 の個々の強さは賞賛していても、軍としてはどこか舐めていたのだろう。いくら訓練した所で、洗練され た我が軍には敵わないだろうと。 しかし楓軍に匹敵、或いは凌駕(りょうが)しかねない戦ぶりを目の当たりにして、彼らも評価を変え ざるを得なかった。雍涯軍は一流の軍隊である。こちらが手本にしたいくらいだ。 予備隊を使わずに済んだのは運が良かった。念の為に開始時刻を遅くしていたのが幸いした。長く戦えば 戦う程、不利になっていただろう。 「やはり篭城すべきか・・・」 このまま闇雲に打ちかかっても埒(らち)が明かないどころか、一挙に敗北する危険性を感じる。 それならば例え消耗する事になっても篭城して時を稼ぎ、援軍を待った方が良いのではないか。 だがその時間稼ぎこそが相手の狙いであるとも考えられる。敵に援軍がいないとは言えない。 楓流は迷った。 そして結局方針を変えない事に決めた。大した考えもなしに作戦を変更し、消極的な姿勢を見せれば、 兵に臆したと思われてしまう。 敵を知り、己を知れば、百戦百勝危うからず、と云う。敵を知らないのならば、せめて自軍だけはしっ かりと保っていたい。それに雍涯の立場になって考えれば、恐れを知らず立ち向かってくる方が嫌な相手 である筈。それに楓流にはある考えが芽生えていた。 これは必ずしも不利な状況ではなく、むしろ好機である。何故なら、敵もまた楓を知らないからだ。 条件が同じであれば、むやみに恐れる必要はない。今日の敗因も楓流の心が揺れていた事に起因すると 考えた。将が不安げでは兵も力を出し切れまい。 今日の戦を思い出し、冷静に手を考えれば良いのだ。南蛮も大陸人もない。いつも通りにやればいい。 考えられる手はいくらでもある。
警戒していたが、雍涯は夜襲を仕掛けて来なかった。 理由は解らないが、余計な事に囚われるのは止めた。いつも通りにやればいい。 日が昇るのを待ち、楓流は再び打って出る。 木々が邪魔になるので弓を軽視していたが、先の戦でそれも使いようである事を学んだ。今すぐ同じ事 をやれと命じても南蛮兵程巧くはできないだろうが、狩猟の時は大陸人もそういう射ち方をする。全く経 験が無いでもなかった。 弓矢を用いるようになった楓軍に戸惑ったのか、雍涯軍は精彩を欠き、その日は戦を優勢に進める事が できた。しかし押し切るには至らず、結局痛み分けに終わっている。 力は五分五分といった所。これが二軍の力だと考えれば、余りにも不利である。早々に戦力を増強し、 今の数倍、せめて万単位の軍が欲しい。雍涯が率いてさえこれなのだから、扶夏王自身が率いれば、孫軍 どころの話ではなくなる。 このまま消耗戦になれば南方に根拠地を持つ扶夏王軍の方が有利だろうし、未だ地理に疎い楓軍はどう しても戦略的な動きが鈍り、後手後手に回る事になる。 楓流はどうしようもなく兵を欲したが、これ以上は手が浮かばない。本国から幾らかの兵は送られてく るだろうが。距離があるせいで到着まで時間がかかるし、その数も多くない。 雍涯軍に鮮やかな勝利を挙げる事ができれば、状況も変わってくると思うが、雍涯は慎重かつ堅実な戦 で隙がない。このまま戦い続けていても時を消耗するだけだろう。 しかし何故こうも落ち着いていられるのか。 援軍を待っているからか。それとも楓流と同じように敵を恐れているからか。 どちらの可能性もあるが、どちらであっても勝利を得る事は難しい。今の楓にとって余りにも分の悪い 相手であった。 この状況を打開するには、思い切った手を打つ必要がある。 楓流は迷ったが独りでは答えが出ず。知恵を借りる為に主だった者達を呼ぶ事にした。
議論の末、雍涯軍を打ち破るには南蛮に無い物を使うしかない、という結論に達する。 しかし南蛮と言われていても、大陸人の戦略戦術にも通じており、特に扶夏王軍はその技術をためらわ ずに取り入れているようである。そこが扶夏王の怖い所だ。 如何に劣っているとしても、自分の、或いは自分達の持つ力を放棄し、他者の、それも絶対的な敵と考 えている者の力を取り入れようと考えるのは簡単ではない。 そこにはこだわりがあり、自負もある。今更変えられぬという思い、何より敵の力など借りぬという誇 りがあるだろう。 それを必ずしも悪いものだとは言わない。それがあるからこそできる事、生まれるものもある。 しかし単純に強弱で言えば、そのような心に纏(まと)わり付いてくるものは邪魔である。その執着と いう愚かさを取り払う事ができるとすれば、それこそが大いなる力といえる。人間味に欠けるように思え ても、それこそが一番効果的な方法である事も少なくない。 扶夏王が南蛮統一を成し遂げようとしているのには、その点が多く作用しているといえる。そしてそれ は碧嶺(ヘキレイ)が後に大陸統一を成し遂げる事になる理由と、おそらく同種のものである。 こだわりを捨てられる強さ。過去に縛られない頑強さ。それらが時に偉大と呼べる力を生む。 だからそんな扶夏王に無い物を使うと一口に言っても、簡単に見付かるものではない。 しかし楓にならば在る筈だ。大陸でも抜きん出た技術力を持つ楓にならば、それは在る。 だが今までにその為の準備をしておらず、その上本国より遠く離れている。これでは打てる手にも限り があり、楓固有の技術を用いる事は難しい。 結局、現状では難しいという答えに辿り着き、一時諦めるより他なかった。 ならば今あるものでやるしかないが、ありあわせの物でやるには工夫と想像力が必要である。より多く の知識を持つからこその発想力が、雍涯軍を上回る事のできる唯一の希望。 とはいえ、そのようなものが簡単に浮かぶ筈が無い。浮かんだのはごく単純な手だった。 それは火を用いる事。 南蛮の皮革技術が優れている事はすでに知っている。そしてそれが南方では非常に有効な事も。しかし 皮革は皮革でしかない。火には弱い。勿論たやすく炎上するようなものではないだろうが、恐れを抱かせ る程度の効果はあるかもしれない。 だがそれだけの事だ。剽悍な南蛮兵の事、むしろ恐れるからこそ立ち向かい、逆に士気を上げてしまう 結果に終わる事も考えられる。 決して無意味な手ではないが、あまりにも頼りない手である。 ではどうするか。その上にもう一段、二段策を乗せる。 しかしその一段、二段が難しい。伏兵という手が思い浮かんだが、すでに姿をさらしている以上、効果 的な場所に伏させる事は難しい。 雍涯軍の後背を突き、補給部隊を襲う、という策も浮かんだが、敵輸送路を特定する事が難しい。 大陸人の輸送技術が道を前提にしている事を考えれば、南方にも道を築いている場所があるだろうし、 今も広げているのかもしれない。しかし未だ大陸中央付近までは伸びていない。それは敵軍の輸送の困難 さを示し、必ずしも悪材料とは言えないが。敵輸送隊がどこをどう通ってくるのかが解らなくなる。 それに輸送隊襲撃用の別働隊を作っても、結局南開から出発するしかないのなら、敵軍に簡単にその動 きを察知されてしまう。 察知されるのを前提に動き、敵に輸送路確保への不安を与える事ができたなら、それはそれで有用だと いえるが。その程度の事に貴重な兵力を割く訳にはいかない。 良策が浮かばない。 余裕を持って勝とうなどという考えを捨てないから、次に来る戦いを考えているから、こんな事になる のだろう。敵は余力を持って勝てるような相手ではない。それははっきりと解った筈。ならば考えを改め、 目の前の敵に死力を尽くすべきだ。 楓流はきっぱりと今までの考えを捨ててしまった。扶夏王との前哨戦というような考えを捨て、今が決 戦であると覚悟したのである。そして部下にもそう告げ、死力を尽くす、あらゆる物を使うという前提に おいて考えるよう命じた。 するとそれに逸早く猛牙が応じた。 もしかしたら彼は初めからそういうつもりで考え、策を立てていたのかもしれない。 彼の述べた策はこうである。 まず我らには南開という拠点がある。これに篭れば如何に防衛設備が(楓本国などに比べ)整っていな いとはいえ、簡単に落とす事は不可能。それは南蛮の拠点、集落を見ても明らかである。彼らには防衛設 備という考えが無く。なかなか動かなかった雍涯に不満を覚えている事からも、守りを恥と思うような所 があるのではないか。 略奪に対する防衛は当然考えているにしても、それも篭って待つという事はしない。常に攻める事を考 え、その為に動いている。そして彼らが狩猟と略奪を基本にして成り立つ社会を形成しているのであれば、 敵を殺すのではなく、奪う事を第一に考えているのではないか。戦も農耕を基本とする大陸人が行うよう な領土争いとは基本的に違い。縄張り争い、良狩場を得る為の争い、財産を奪う、などの手段でしかない のではないか。 だとすれば、もし目の前に略奪の対象があり、それを敵が放り出して逃げたとすれば、嘲笑しつつもそ れ以上は追わず。そこに積まれた餌に飛びつくのではないだろうか。 その時その拠点に伏されていた兵が油断している敵を襲い、更に逃げたはずの敵軍が戻ってきて背後か ら攻撃すれば、流石の南蛮兵も混乱する。 本来護るべき城(拠点)を敵に開け放ち、敵にこちらに何か考えがあるのではないか、と思わせて疑心 暗鬼に陥らせる。これがいわゆる空城の計と呼ばれるものだが。猛牙の策は逆に敵を城に誘い込んで討ち 取るという策である。しかし同じく敵の心理を操り、その行動を限定させるという点において同じだと言 えなくもない。 少なくとも後世にまで伝わる趙深の兵法には、同種のものとして扱(あつか)われている。もしかした らこの計略の種の一つはこの猛牙の策なのかもしれない。それを趙深が感心し、己が兵法に取り入れた。 充分に考えられる事だ。 楓流もまたこれは有用だと感じた。これを啓示のような閃きと思い、すぐさま準備に取り掛かっている。 しかし馬鹿正直にそれだけを行うのは芸がない。人を騙(だま)す為には、相応の仕掛けが必要である。
楓軍はそこから数日似たような戦を繰り返した。変わった点といえば火矢を用いるようになった事だが、 予想通りこれだけでは大した効果はなく、多少敵を戸惑わせたような気はしたが、味方にさえ無駄である ように感じられた。 しかし楓軍はその間それを続け、最後の日にはその態度に怒ったかのような雍涯軍の猛攻を受け、死傷 者は多くなかったものの、戦線は南開の目と鼻の先にまで達し、予備兵を投入する事でようやく撃退する 事ができている。 そして次の朝、楓軍はなかなか動こうとせず、痺れを切らした雍涯軍が挑発するように前進するのを見 て進路を北へ変え、道なりに撤退し始めた。 雍涯軍はその惨めな姿を見て大いに笑い、罵倒し、自身の疲労を隠すかのように大騒ぎする。 しかしそれを聞いても向かってくる所か、楓軍は足を速めて逃げていくばかり。 雍涯は流石に慎重で、楓軍の姿が視界から完全に消えるのを待っていたが、彼とても目の前の餌にいま しも飛び掛らんと目を輝かせている兵をそれ以上抑えておく事はできず、半数を自分と共に警戒に立たせ るまで譲歩し、半数に略奪を許してしまった。 略奪兵は目の色を変えて南開へ飛び込み、女子供、老人さえ居ない事にも、獲物が思ったよりも少なく て残念だとしか思わず。豊富に残されていた食料などを見て歓喜の声を上げ、すぐにその些細な疑問を忘 れてしまった。 その中には南蛮では手に入らない物などもあり、彼らが魂を奪われてしまうのも仕方の無い事であった。 こうなると待たされている兵は不満を感じる。雍涯は仕方なく交代を命じたが、全ての兵が去っても戻 ってくる兵は少なく、最後には扶夏王の名を出してまで命じたが、兵は遅々として揃わなかった。流石に 雍涯も腹を立て怒鳴り散らしたが、効果は無い。王の名を出してまでこの有様とは、王に知られればどん な目に遭わされるだろう。 降格ならまだいいが、見せしめの為に首を刎ねられる可能性もある。 だが何を言っても兵達は聞かない。長く戦場から離されていた事もあって、皆飢えていたのだ。雍涯も その気持ちは解らぬでもないが、しかしだからこそ余計に腹が立った。前線から遠ざけられた自分が一番 悔しく、今も我慢しているというのに、貴様らの態度は何だ。今すぐ全員斬り殺してやりたい思いだった。 しかしその怒りも一瞬にして覚める事になる。 突如断末魔の声が響き、一転して南開内が騒がしくなったかと思うと剣戟(けんげき)の音までが聴こ えてくる。慌てて斥候を差し向けると、状況は掴みかねるが、内部に敵兵を確認。それも十や二十ではな いとの知らせ。 ここに至って雍涯もはっと気付き、全軍に進撃を命じた。しかし略奪物に心を奪われ、全身を持てるだ けの物で覆っている彼らの動きは鈍く、状況を理解できているかさえ危うかった。 雍涯は手近な兵の首を自らの手で刎ね。血の粛清(しゅくせい)によって目を覚まさせたが、その時に ある筈のない声を聴く。 楓軍が戻ってきたのである。 後はもう言うまでもない。雍涯軍は散々に打ちのめされ、恥辱に塗れながら逃げるしかなかった。 雍涯もどうする事もできず、流れに呑まれるようにして後退していく。そして楓軍はそれを追う。追う に追う。 雍涯は必死に抵抗しようとしたが、兵はばらばら、自身がどこに居るかすら解らなくなり、このまま戻 っても扶夏王に殺されるだけだろうと悟って、潔くその場で死を選んでいる。 それを楓軍の兵が見付け、首を獲る事で勝利とし、楓軍もまた兵を引いた。 猛牙の策は予想以上の成果を挙げ、ここに一つの大きな勝利を得たのである。 代償は多かったが、楓流は一先ずこの戦果に満足する事にした。 そして猛牙を筆頭に功を評し、それぞれに褒美(ほうび)を与えたのであった。
楓軍は勝利を得たものの、被害もまた大きい。 兵もそうだが、奪われた物も多く。折角の蓄えを失ってしまった事は痛い。ただし、残った物も少なく なく、早速それを用いて修繕を急がせた。幸い、建物にはそれほど被害はないようだが、奪われた物を補 償してやるのに相当な資金と物資を必要とした。 避難せず残っていた者は全て兵に偽装させたので、その労もねぎらってやらなければならないし、怒り に燃える雍涯軍残党が復讐に来る可能性もある。暫くは食事する暇もなかった。 しかし勝利は勝利である。 これで南方楓軍の名も揚がり、協力者は増えるだろう。戦場と勝ち戦を求めて傭兵も数多く訪れるに違 いない。何とか勝利を繋ぎ止める事ができた。後は次に控えているだろう扶夏王との戦までに、急ぎ準備 を整えなければならない。 それまでにはまだ時間があるだろうと楓流は考えていたが、実はすでに扶夏王率いる軍勢は南開付近に まで迫っていた。 しかしその事に気付く者がいない。 本当の窮地とは、いつもそのようなものなのであろう。 |