16-7.猜疑


 楓流は表洞(ヒョウドウ)、邑炬(オウコ)の二名を兵から取り立て、副官として猛牙に付けた。

 この二名は雍涯の首を持ち帰った兵であり、その功績を評しての措置(そち)である。

 表洞は商人の出であるらしく、口が達者で処世術に長けている。その分どうも軽く思える所もあるが、

さほど悪い人間とも思えない。邑炬の方は農民の出であるそうで、純朴な所を残しており嘘が付けないよ

うな印象を人に与える。どもる癖もあり、話す事が得意ではない事がその印象を強くさせているのだろう。

だがどこか執念深い所があるようで、表洞とも小さな事で喧嘩する事がある。少し扱い辛いといえば、そ

うかもしれない。

 どちらもそれなりに才覚があり、欠点があり、ようするに普通の人間である。

 一人ではなく二人を取り立てたのは、そうしなければ二人で争う事になるだろう、という点もあったが。

一人だけでは副官として心許ない、という方が大きかった。

 猛牙の方も不満など持たず、さっそく二人を指導し始めている。面倒見の良い男なので、任せておけば

そこそこの人材に育ててくれるだろう。そうならなければ、それなりの役目を与えてやればいい。

 幸い表洞、邑炬共に懸命に励み。特に表洞の方は猛牙のやり方をどんどん吸収してすぐに一人で動ける

までに成長した。邑炬の方は少し物覚えが悪いようだが従順であり、表洞に作戦を伝え、邑炬にその補佐

をさせれば充分に使える。力も強く、どちらかといえば頼りない体格である表洞を補って余りある。

 確この二名は二人合わせて初めて使える人材になる。それを当人達がどう思っているかは解らないが、

少なくとも表面上は協力して上手くやっているようだ。

 猛牙の負担も少なくなり、より効率的に運営できるようになって、兵の再編や訓練もより早く終えられ

るようになっている。

  おかげで楓流も政務に集中する事ができ、この登用策はまず上手くいったと思われた。



 南開が落ち着きを見せ、さて南蛮との決戦の前に力を蓄えん、と考えていた所に意外な報が届く。

 扶夏王の本体が到着し、すでにこちらに向かいつつあるというのだ。

 兵数は現状でも五千に達し、続々と後続部隊が集結しつつあるという。総兵力は万に届くのではないか。

その数を見ても扶夏王の気分が解る。全力を持って楓、いや大陸人勢力を粉砕し、南方から一掃するつも

りなのだろう。

 対する楓軍の兵力は二千弱。相手にならない。一撃の下に粉砕される。

 逃げるという手も考えたが、この進軍速度相手に逃げ切れるだろうか。こちらが弱みを見せれば扶夏王

はそれを見逃すような人物ではないし。下手すれば梁にまで侵攻されて、決定的な損害を与えられるかも

しれない。そうなれば町村連合、中諸国共に離れ、立て直す事が不可能になる。

 戦うも逃げるも駄目。

 どうするべきか。

 再び主だった者を呼び出して協議を重ねたが、今度は良策を見付けられない。南開を餌(えさ)にする

策も二度は通じないだろうし、例え効果があったとしても雍涯が率いていた時のようにはいくまい。扶夏

王の強力な統制の下、乱れなく襲い掛かってくる筈だ。

 扶夏王は激しい気性と聞き及ぶ。部下も少々の利に目を眩(くら)ませている余裕はないだろう。そん

な事をすればその場で斬り殺されるだけ。

 だからこそ雍涯もあっさりと死を覚悟したのであろうし、その事が扶夏王軍の規律を物語っている。孫

文同様、小細工など通用しない相手だ。少なくとも一度正面からはっきりと破らない限り、その威を衰え

させる事はできない。

 頼りの猛牙も一言も無く、ただ時間だけが流れていった。その間にも非戦闘員を逃がすなどできる事を

しているが、状況を窺うように南開に残ろうとする者も少なくない。彼らはいざとなれば楓を裏切り、そ

れを手土産にして扶夏王軍に投降するつもりでいるのだろう。

 不気味であり、不安である。

 その気分は軍内も変わらない。南方楓軍にはこの地で集めた兵が多く、その者達は大抵故郷を捨ててい

るか、初めからそんなあたたかいものを持たない。勝利を望めなくなれば、どこまで忠義を示すだろう。

楓にも大した愛着はないのだ。

 それを裏切り者と罵れる程、彼らとの関係は濃密なものではない。何年も経てばこの地を自分の居場所

のように考え、愛国心めいたものも生まれてくるのかもしれないが、今はそこまで望めない。戦うなら、

そういう点を考慮する必要がある。

 今楓流の目の前にて頭を捻っている者達もそうだ。この者達との関係もさほど濃いものではない。策を

練っているふりをして、どう逃げ出すか、どう自分を高く売るか、算段を付けている 可能性もある。

 こうなると楓流の方針は自ずとある方向に傾いてくる。

 扶夏王と交渉し、いざとなればこの地から退いてでも命を確保する、半降伏とでもいうべき手である。

情けないといえばそうだが、戦うも逃げるも無理なら、最早こうでもするしかない。

 とはいえ、扶夏王を説く事などできるのだろうか。

 考えた末、楓流自らが敵陣へ赴(おもむ)く事を決めた。猛牙などは大反対したが、南蛮が勇を好むの

なら、それが一番好意を得られる手段だと信じたのである。



 楓流は使者を発し(この役目は猛牙が買って出たが、楓流はそれを許さず、代わりに猛牙に続くように

申し出た表洞、邑炬へ任せている。それでも猛牙は引き下がろうとはしなかったが、主命であると言われ

最後には諦めている)、謁見の許可を取った。

 ただし時間と場所までがはっきりと指定されている。これには再び猛牙が猛烈に反対したのだが、楓流

は全て承知したと返答させた。しかし猛牙も今回は最後まで引き下がらず、護衛の一人に加える事で何と

か承知させる事ができた。

 後を表洞、邑炬だけに任せるのは不安だったのだが、猛牙がここまで言っているものを無下にする事は

できない。それに護衛を任せるに猛牙以上の人物はいない。楓流もやはり南蛮の陣へ赴くのは心細く、結

局はその心が最後の一押しになったのかもしれない。

 準備を整え、楓流は猛牙率いる五十の精兵のみを引き連れ、扶夏王の許へと向かう。

 大陸人から、しかも王その人が南蛮に出向くなど、双などからすれば考えられない話。非難囂々(ごう

ごう)浴びせられるかもしれないが、気にしている余裕は無かった。ここで扶夏王を説き伏せられなけれ

ば、楓軍は終わる。例え上手く逃げ延びられたとしても被害は甚大、最早諸国に威を張る事はできなくな

るだろう。

 そうなれば列強が動き始め、大陸の勢力図が変化する事になる。その時に楓が生き延びていられるかど

うか。南蛮への備えとして暫くは生かされるかもしれないが、役に立たないとなればすぐに滅ぼされるだ

ろう。楓はその程度のものに成り下がってしまう。

 何としても敗戦だけは避けなければならなかった。扶夏王と今争ってはならない。

 どんな汚名も、大敗するよりはましだと思えた。



 時刻は早朝、大陸がはっきりと光に包まれた頃、楓流は扶夏王の陣に到着した。

 扶夏王の軍勢は堂々たるもので、装備も雍涯軍の比ではない。やはり雍涯は二線級の兵しか与えられて

いなかったのだ。だからああも簡単に猛牙の計略にかかったのだろう。例え扶夏王が率いておらずとも、

この兵を相手に戦っていたなら、どうなっていたか解らない。

 顔付きも凛としたもので淀(よど)みが無い。楓流から見ても惚れ惚れするような軍勢であった。そう

思わせる為にそういう兵を目に立つ所に揃(そろ)えておいた、という事はあるだろうが。それを差し引

いても見事なものである。

 これほどの軍を持っているのであれば、予想よりも遥かに早く現れた事にも納得がいく。しかし扶夏王

と覇権を争った勢力はどうなったのだろう。滅びたのか、それとも・・・。いや、どちらにせよ、ここに

来たという事は脅威ではなくなっているという事。扶夏王の矛先は完全にこちらへ向いていると考えてお

いた方がいい。

 この時点で楓流も自らの誤算に気付き、自分がいかに甘かったかという事を悟ったが、今更どう

なるものでもなかった。

 自分の考えに従い、他人の考えを考慮しなかった事を。いや、違う。楓流は単純に恐れたのだ。扶夏王

を恐れる余り、愚かな考えに縋(すが)ってしまった。これはその当然の結果であるに過ぎない。

 楓流は腹を括り、粛々と進んで行く。

 猛牙にはそれがまるで死刑場へ向かう罪人のようにも見えたが、流石にそんな事は口に出せない。代わ

りに王の威厳を損ねぬよう、気を引き締めて兵を進ませた。彼は自分を含むこの五十の命を犠牲にしてで

も、必ずや楓流を逃がすつもりだった。それが天命だとも思っている。

 この黒き槍に誓って、必ずや成し遂げてみせる。そうでなければ自分が生まれた意味は無い。そこまで

思い詰めていたようだ。

 何故なら、彼は悔いていたからである。雍涯との戦、あの時、もしくはその後に素直に退却していれば

こんな状況にはならなかった。それを切り札まで使ってようやく得た結果がこれである。物資も消耗し、

南開の防衛能力も衰えた。今の状況は彼が生んだ結果である。

 それを選択したのは楓流だ、だから彼の責任である、とは猛牙は考えなかった。全てを自分の責任だと

考え、だからこそ今ここに居る。全ての責任を自分が取らなければならない。その為には楓流を無事逃が

さなければならない。

 巻き添えになる部下達には申し訳なかったが、彼らも猛牙に同意してくれた。そしてそういう兵を率い

ている点からも、楓流を死なせてはならないと考えたのである。この人こそ彼自身の夢を託すに足る人物

であると。

「人が生あってのものだというのであれば、我が生、今こそ尽くさん」

 猛牙は死を受け入れ、それを前提に活路を見出す術を考えていた。

 必ずそれを成すのだと。



 扶夏王の天幕にまで来ると番兵に歩を止められ、丁重だが断固とした姿勢で、楓流と五人の兵だけが通

る事を許された。これは当然の処置といえ、受け容れざるを得ない。逆らえば、殺されるだけだろう。

 扶夏王としては大陸人などに礼を払わぬでもよいのだ。例えここで殺してしまっても、何も問題はない。

ならば何故礼を払っているのかといえば、彼らが勇を好み、勇を見せている限り尊重されるからである。

 迷いも恐怖も見せてはならない。臆せば死ぬ。

 楓流は即座に頷(うなづ)くと、選ぶように猛牙へ命じ、自分は独り堂々と先に進んだ。

 これには番兵も少し驚いたらしく、慌てて彼に付き従い、心なしかその態度も変わってきたようである。

それは扶夏王と対峙しても動ぜぬその態度を見て、はっきりと改めた。大陸人にも勇があると認めたのだ

ろう。

「ようこそお出でなされた。私が扶夏。部族の王でございます」

 扶夏王は楓流と同年代か、もう一つ若いくらいだろうか。風を斬るが如くに引き締まった顔をし、堂々

たる偉丈夫であったが、その声は落ち着き、激しい気性などどこにも見えなかった。礼儀も言葉も心得て

いるようで、礼の姿勢を取り、ゆったりとした動作で楓流を迎える。

 ただし頭は下がっておらず、目礼に止め、その威は十二分に主張されていた。

「身勝手な願いを聞いていただき、感謝しております」

 楓流も同様の礼を取り、自らを示す。

「どうぞ、お座り下さい」

 二人は置いてあった床机に腰を下ろすと、再び視線をぶつけ合った。

 どちらも一歩も退かない。まるで見開いた目だけが存在意義であるかのように、瞬きすらしない。

 とはいえ、そんな状態でいつまでもいられるものではない。主人役として扶夏王から口を開いた。

「我らは一度矛を交えた身。今更なんの話でしょうかな」

「確かに、今では我ら互いに割り切れぬものを抱いております。ですが、だからこそ、これ以上それを増

させるような行為は遠慮致したく」

「それは、どういう意味ですかな」

「つまり、我らは手を引くという事です」

「ほう・・・」

 次いで楓流は細かな事を説明する。南開を引き渡す事、その代わり自分達が撤退する間手出しをしない

事。その上、望むなら賠償しようとまで言外に含めている。これは全面降伏に等しい提案だ。

 扶夏王も流石に不可解な色を隠しきれない。

「戦わずに逃げる、という事ですかな」

「いえ、互いの国境を定めようという事です」

「なるほど、国境を」

 ようやく楓流の言いたい事を理解したようだ。楓流は南蛮ではなく扶夏王の勢力を正式な国として認め、

その上で互いに国境を引き、これ以上の争いを避けようと言っている。それは楓が退くというのに変わり

ないが、相応にごまかせるような気にはなる。

 特にこの付近から離れた国へ与える印象は軽いものになるだろう。

 そしてその上で南蛮交易を続けるよう持ち掛ける。今まで得た利益を話し、それを南蛮自身がやるので

あれば莫大な利益となるだろう事を王に説いたのだ。

 扶夏王も覇権争いと楓との戦によって少なからぬ被害を受けている筈。だから交易相手として認め合う

事でその穴を埋め、長く利益をもたらそうと誘ったのである。

 そこには休戦という匂いがある。このまま戦を続けるのはそちらにとっても楽な事ではないだろう。な

らば双方矛を収め、今は国力増加に努める。そして交易を通して互いにより深く関わっていけば、南蛮、

大陸人という垣根を越えて、もっと良い関係を築けるかもしれない。

 その上勝ちをそちらに譲る。それも言い方はどうあれ、楓側の完全な敗北という形で。

 これは確かに南蛮にとって悪くない提案だと思われた。少なくとも、楓流はそう考えている。

「ふうむ・・・・」

 扶夏王も一理あると感じたのか、或いは放つべき言葉を探しているのか、考え込むように目を落とした。

 彼も大陸人の事情をよく解っている。本拠を離れ、出店のように出てきている楓を倒すのは容易いが。

その背後に控えている大陸人勢力全てと戦うのは得策ではない。扶夏王は万に届く大軍を持っているが、

大陸人全体の総兵力と比べれば小勢である。勝つのは不可能だろう。

 楓流はそこに迷いを見た。いや、見たかった。

「よかろう。考慮に値する提案だ。氏族の長達に了承を得る故、明日まで待たれよ」

 扶夏王はそう述べると部下に宴を開くよう申し付け、拒否を拒むようにそのまま出て行ってしまった。

 それは余りにも強く迅速な行動であったので口を挟める暇がなく、黙って見送るしかなかった。

 鮮やかな手並みだ。こうなった以上、歓待に応じ、勇を見せるしかない。宴こそ一番殺される危険性の

高い場なのだが、今更断れない。

 扶夏王を信じ、天命に身を委(ゆだ)ねるしかなかった。



 猛牙は逃げるべきだと主張した。宴を開く。これはその隙を突く好機でもあると。

 しかし楓流はあくもでも望みを捨てず、その意を拒否した。ここで意味無く逃げ出せばそれこそ物笑い

の種であるし、南蛮に生涯侮られ、全ての可能性を潰してしまう事になる。

 猛牙は尚も引かなかったが、楓流はどうしても聞かず、とうとう約束の刻限になり、案内の兵が彼らに

与えれた天幕を訪れた。時間切れである。こうなれば行くしかない。

 猛牙も仕方なくそれ以上口を開く事を止め、代わりに常に楓流の側で強く警戒した。他の楓兵達も同様

にしようとしたが、それは楓流が止めさせている。あまり警戒すれば、やぶへびになりかねないと。

 外に待たされている他の楓兵にも相応の歓待がなされるようだ。楓流は警戒しつつもこちらから無用な

争いを招くような真似はするなと厳命している。

 死地にまで付いてきてくれた兵達だ。何があっても耐えてくれるだろう。そして楓流もその気持ちに応

える為、何としても成功させなければならなかった。

 宴では上下の別のない円座が大きく一つだけ設けられ、両王が隣同士に座り、その横に互いの部下がず

らっと並ぶようになっていた。勿論誰も武器を帯びていない。少なくとも外見上はそうである。四隅に立

つ警備役の兵が、一振りずつ剣を腰に下げているのみだ。

 こういう場合は主と客は普通向き合って座るものだが、これが南蛮の作法だと思い、またそれだけ扶夏

王が信を寄せてくれている証だと信じ、楓流も異論なく受け容れている。それに隣座なら扶夏王を人質に

とって逃げる事もできる。楓流も立場は同じだが、五分なら悪くない提案であると思えた。

 猛牙のみはくれぐれも注意するよう言ったのだが、楓流はどこか安心してしまっている。しかし勿論彼

も全幅の信頼を寄せている訳ではない。冷静に周囲を窺う事を忘れていない。給仕、余興としての舞い手。

刺客には事欠かない。

 楓流も警戒していた。

 だが宴が進み、酒が入るに従って自ずと警戒心が緩み始め、猛牙に頼らざるを得なくなる。南蛮人は皆

酒が驚く程強く、楓流も自然と酒量が増えた。こっそり捨てたりもしていたが、とても間に合わない。

 護衛達は酒は申し訳程度に口を付けただけで、専ら食べ物の方にいっている。無論酒を勧められれば断

れないが、半分は何とかごまかしているようだ。特に猛牙は酒に強いのか、ほとんど乱れがない。南蛮が

飲み比べを申し出、それにも応じていたが、平気な顔で相手を潰している。

 流石に南蛮側も恐れをなしたのか、それ以上言ってこなくなったが。事ある毎に酒を注ぎ、とにかく酒

量を増させようという狙いがありありと見えた。

 これはもう明白であり、何とか早く終わらせようとしたのだが。南蛮はあらゆる手を用いて宴を長引か

せ、とうとう朝を迎えてしまった。

 楓流はすでに限界を迎え、落ちてくる目蓋と戦うだけで精一杯。護衛達も満身創痍(まんしんそうい)

といった姿で足元が覚束無(おぼつかな)い。南蛮側も相当に酔いが回っているようだが、扶夏王だけは

平気であるようだ。そういえば彼だけは亭主が酔い潰れる訳にはいかないと言い訳し、余り飲んでいなか

ったような気がする。

 それでも流石にこれ以上は引き止められないと思ったのだろう。

「流石に雍涯に勝利しただけあって、強健であられる。このまま二晩でも三晩でも飲み明かしたい所です

が、私は氏族の長達と話し合わねばなりません。一先ずお開きにさせていただきたい」

 そう言って席を立った。

「お心尽くし、感謝致します」

 楓流はほっとして、ようやくそれだけを返す。もっと言うべき言葉はあったのだが、それ以上は頭が回

らない。吐き気もするし、返事をするだけで精一杯だった。それでも彼はよく頑張ったと言うべきであろ

う。意識を保っていられただけ幸運といえる。

「おお、これは気が付かず、申し訳ない事をしました。僭越ながら、私めがお運び致しましょう」

 それを見、扶夏王がゆっくりと手を伸ばして楓流の肩を掴み、抱え込むように立ち上がらせようとした。

「無礼者ッ!」

 その瞬間、猛牙が叫びながら扶夏王を突き飛ばし、その勢いのまま楓流を抱えて天幕外へ消える。

「逃がすな! 必ず首を獲るのだ!」

 扶夏王もすぐに立ち上がり、大声で命じた。その手には短刀が握られている。おそらくこれで楓流を殺

すつもりだったのだろう。しかし必殺を期した策も阻まれ、面目を失する結果に終わった。

 扶夏王は歯噛みして悔しがり、慌てて寄ってきた警備兵から剣を引っ手繰(ひったく)ると、恐るべき

勢いで一刀の下に残っていた楓兵を一人斬り殺したが、そんなもので治まるものではない。それどころか

他の楓兵の命を賭した一撃で、危うく傷を負わされる所であった。

 酔っているとはいえ、流石は選びに選んだ精兵。程なく皆殺されてしまったが、南蛮側も数人の死者を

出し、楓流を逃がすだけの時間を稼(かせ)がれてしまう。

「急げ! 急げい!」

 本来の気性を最早隠しもしない扶夏王は、仁王のような形相を浮かべたまま血塗りの剣を振りかざし、

怒声と共に次々と命を下し、合図させ、扶夏王軍の陣は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。

 猛牙は別にされていた楓兵の許へと一直線に向かった。距離はさほど離されていないので、天幕内から

響いてくる剣戟の音がはっきりと聴こえてくる。楓流を殺した後、こちらの兵達も即座に始末する手筈だ

ったのだろう。

 声を立てず一心不乱に走っていくと、程無く楓兵の姿を見付ける事ができた。彼らも酔い潰れていた所

を襲われ、半数が討ち死にしたものの、何とか脱出する事に成功したようだ。しかし今もすぐそこから剣

戟(けんげき)の音が響いてくるし、危機的状況に変わりない。

 何しろ相手は五千を優に超える大軍。三十にも満たない兵数ではどうにもならない。

 楓流を討ち取る手筈だったから、すでに南開を攻め始めている可能性もある。

 急がなければならない。

 楓流はまだふらふらしていたが、猛牙が喉に手を入れて吐かせ、水を飲ませると、返答も要領を得るも

のになってきた。

 だがまだ本調子ではない。とても一人で逃げられるような状態ではなく、ここは護衛長である猛牙が何

とかせねばならないだろう。



 楓流率いる兵は程無く全滅した。十の兵二部隊に分け、一方を盾にしながら必死に逃げようとしたよう

だが、盾は一時間と持たず、楓流を護っていた部隊もすぐに全滅させられた。楓流自身も捕らえられ、扶

夏王の許に引き出されたようである。しかしなんとした事だろう。それは楓流ではなく、猛牙その人であ

った。

 つい先頃まで同じ席に居たのだ。扶夏王が気付かない訳がない。服こそ取り換えたのか楓流に間違いな

かったが、その顔がはっきりと違う。眼光鋭く場を見据え、扶夏王の必殺の策を邪魔した張本人。忘れら

れる訳がない。

 憎さの余り即座に手にしたままだった血塗りの剣で首を刎(は)ねたが、そんなもので気は晴れない。

 偽者にまんまと騙(だま)された愚か者達の首も刎ね、残りの者達にも極刑を命じ、急ぎ探すよう陣に

残っている全兵へと命じたが、それでも治まらず。笑ったままの猛牙の首を何度も何度も蹴り、斬り付け、

罵声を浴びせ続けた。仕舞いにはただの肉と骨の塊になってしまったが、扶夏王の目にはその笑みが焼き

付き、離れない。

 このままでは憤死してしまう、と思った兵の一人が死を決して抱き付き、それに何人もの兵が続いてよ

うやくの事で押さえ込んだが、全くその時の扶夏王は異常であり、冷静さを欠いていた。

 彼がここまでの怒りを見せたのは、いつ以来だろう。

 扶夏王の怒りは暫く続き、治まるまでの間、南蛮兵は生きた心地がしなかったという。

 その頃楓流本人はどうしていたかといえば、数人の兵と殺した南蛮兵から奪った鎧で偽装し、この一連

の騒ぎに乗じて上手く逃げ延びている。特に楓流(猛牙)を捕らえた際などは他に注意を払う者がほとん

ど居なかったから、補給隊に扮(ふん)して脱出する事は難しくなかった。扶夏王が南開侵攻を同時に行

っていた事が、またしても裏目に出たと言える。

 しかしその後が問題で、すでに南開は包囲されており、南蛮兵の苛烈な攻撃の下、陥落(かんらく)す

るのも時間の問題。楓流はその包囲を抜ける事ができず、結局はほうほうの体で梁に落ち延びるしかなか

った。

 楓流もまた歯噛みして悔しがったが後の祭り、どうしようもない。表洞と邑炬が援軍を届けるまで抵抗

してくれる事を祈るしかなかった。

 生を取り留められたものの、事態は依然窮地にある。むしろ悪化したと言えるだろう。楓流には猛牙の

死を嘆く暇すら与えられていなかった。




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