17-6.負の勇


 秦軍は苦戦している。

 部族強しといえど、ここに残っているのは二軍。それも手負い。間違っても負けるとは考えていなかっ

たようだが、それは甘い考えであった。

 南蛮軍は孟角を中心にまとまりを崩さず、むしろ今まで以上の勢いを持って向かってきた。その槍先は

鋭く、苦戦を余儀なくされている。

 最初は数に勝り、互角以上の戦いができていたようだが。それも高鄭軍が到着するまでの話。六千の兵

を率い、精強さも弓勢を見ただけで解る。このままでは不利と悟り、秦軍は一時軍を引き、双と秦からの

増援を待ちながら陣を立て直す事にした。

 秦軍を率いる将の名は、曹閲(ソウエツ)。秦王の乳母の子であり、王の信認厚い男だ。秦政が王に就

いてすぐに抜擢(ばってき)した将で、無能ではないが取り立てて誇れるような所は無い。だがそれを自

覚し、自分よりも有能と信じた者の意見には素直に従う、という補って余りある長所があったので、将兵

の評判は悪くない。

 今回もくれぐれも無理はするなと言い含められていたので、その通りに動いたのだろう。彼にとって王

命は絶対である。

 王も従順な曹閲がかわいく、更なる昇進をさせる為大功を積ませたかったのだろう。だが王も曹閲だけ

では力不足と考えたのか、副将に王旋(オウセン)、王飛(オウヒ)親子を付けた。彼らは代々秦家に仕

えてきた家系で、曹閲と同様に王からの信が厚く、能力にも定評がある。言わば、秦王の虎の子である。

 これは王即位後初にして先王の悲願を叶える為の戦。負ける事は許されない。

 だから王親子を付けたのだが、それでもまだ甘かった。扶夏王さえ死ねば終わる。そう考えていた大陸

人の願いは見事に裏切られ。矛を収めるどころか、益々いきり立っている。

 しかし南蛮も余裕を見せてはいられない。

 高鄭が来たのは良いが、孟角軍の兵力は消耗している。高鄭は味方ではあるが競争相手だ。ここで高鄭

に手柄を立てさせ過ぎれば、今後主導権を握られる事になるだろう。後に高鄭に勝利する為にも、力を温

存しておく必要がある。

 孟角は秦軍を追わず、守勢を保つ。そうなれば高鄭も付き合わざるを得ない。

 確かに今単騎追撃をしても相応の損害を与えられる。だがそれまでだ。秦軍を全滅させる事はできない

し、高鄭が見る所、秦軍は余力を残しつつ引いた。それは積極さを欠く行為で、士気の低下を懸念させる

が。こちらがしたりと攻めかかれば士気を取り戻し、反撃してくるだろう。

 倍の兵もいれば違っただろうが、現状高鄭軍だけでは押し切れない。孟角に同意せざるを得なかった。

 そして台風の目のような一時的な戦の停滞期に入る。



 その頃、楓軍は勢いに乗って南下を続けていた。その過程でいくつかの街や集落を見付けたが、南蛮の

姿は見えない。

 楓流はこれを逃亡ではなく、集結と見ている。何者かが南蛮を指揮し、まとめているのだろうと。それ

が誰であるかは知らないが、扶夏王にも当然後継者と目されていた者達が居た筈。それを扶夏王自身が認

めていたかは重要ではない。そう見られていた者には、それだけで権威が生じる。

 この火急の時、その権威が急激に強まったとしてもおかしくはない。人は困窮の時こそ強い指導者を必

要とする。部族もまた例外ではない。

 力を一点に集め、必勝をもって挑んでくる筈だ。

 楓兵の中には南蛮は逃亡したと笑う者も居たようだが、楓流は諭すように注意を与え、甘い考えに浸る

事のないよう気を引き締めさせた。残党狩りではなく、これからが南蛮との決戦なのだと。

 全兵を納得させるまでには到らなかったようだが、幾らかの効果はあり、それを口にする者は減った。

楓兵の中にも今までとは別の緊張が生まれている。それは必ずしも楓を利するものとは言えなかったが、

今はそのくらいで丁度良いと楓流は考えていた。

 彼もまた他の大陸人同様、扶夏王の死というものを軽く見てしまったのだろう。余りにも呆気なく死ん

だ為に、そして自分の手でそれを成していないという点が、彼を必要以上に慎重にさせた。

 趙深が側に居れば良かったのだが。中央には全体を見極め、指示できる者がどうしても必要であり。楓

流を除けば適任者は彼以外にいなかった。

 だから楓流が必要以上に硬くなってしまうのを防ぐ者はおらず。それが楓軍の侵攻速度を衰えさせ、狄

仁に時間を与える事になる。

 しかしだからこそしっかりと南方を押さえる事ができたとも言えるし、悪い事ばかりではない。故に趙

深も何も言わずにいたのだろう。



 楓軍は慎重に移動しながら無数の間者を発し、情報収集を第一にしている。

 考えていたよりも南蛮の混乱は少ない。しかし扶夏王が死んだ以上、全く影響が無いとは考えられない。

必ず綻びが出ている。それを知る為にも、誰が継いだのか、分裂して争っているのか、今だけは協力し

合っているのか。等、欲しい情報は無数にあった。

 まず知らなければ動く事ができない。

 それが楓流の弱点といえばそうだろう。

 南進を続けながら情報を集めていくと、驚くべき報が入った。

 狄仁が万近い兵を抱いて南蛮の拠点の一つに篭り、楓軍を待ち構えているというのである。

 楓流は耳を疑ったが、続報がそれを裏付けていく。どういう事情があったのかは解らないが、狄仁は南

蛮に認められたのだろう。という事は楓流が思う以上に、彼は扶夏王から信頼されていたのか。

 信じられない話だったが、状況からそう判断するしかない。もし間違っていたとしても、そう考えて動

くのが良いと考えた。

 楓流は補給線を確保しながら慎重に狄仁に一番近い拠点に入り、睨みあう姿勢を取っている。

 ここまできて狄仁に時間を与えるのは愚挙ではないか、という意見もあったようだが。楓流は狄仁が後

継者という事にどうしても納得がいかず、何かしらの誤解があるという考えを捨てられなかったのだろう。

裏に何かあると見た。そしてそうである限り、彼は狄仁を簡単には攻められない。良い意味でも、悪い意

味でも。

 扶夏王が投降者にどれだけ寛大だったとしても、後継者は必ず部族から選ぶ筈である。

 そうでなければ誰も納得しないだろうし、皆が納得しない者を後継者にしても意味が無い。後継者はは

王と将兵、民との約束事であり、彼らの承認無しには成り立たないものだ。扶夏王の支配力が思っていた

程強くなかった事を思えば、尚更である。

 狄仁がその役に適う訳が無い。誰が認めるだろう。

 だが事実として確かに狄仁は兵を率い、扶夏王の後継者を自認している。その下に付いている将兵はそ

れを認めたという事だろうし、万近い賛同者がいる以上、狄仁の発言力、影響力は小さくない。

 もし万が一楓流軍に勝ち、仇を討った事にでもなれば、誰も彼を認めない訳にはいかなくなるだろう。

 だが現状は楓軍に勝った訳でもなければ、それに足る功があった訳でもない。

 何か大きなからくりがある筈だ。ならその秘密を暴く事で、戦わずして狄仁軍を壊滅させる事もできる

かもしれない。

 楓流はその秘密を暴く事こそ急務であると考えた。

 間者を総動員させて調べ抜くと、様々な事が解ってきた。

 南蛮の有力者である二人の将軍が二人とも北部に行き、秦軍と対峙している事。

 狄仁はどうやら王の証となる物を扶夏王から託され、それによって南蛮兵を支配している事。

 この三者の間には緊張があり、特に狄仁は他の二将から毛嫌いされている事。

 どれも楓にとって有利な情報である。この地域には狄仁率いる軍団しかおらず、その内情も一枚岩では

ない。正式な後継者だと認められている者は居らず、後継者争いの渦中にある。

 狄仁はどうやらその座から最も遠い。もしここで楓に敗れる事でもあれば、南蛮で生きる道さえ無くな

るかもしれない。

 状況はこちらが優位である。

 楓流は戦後の事を考えた。

 ここで狄仁の持つ証とやらを奪えば、扶夏王を討った事もあって、楓が文句無く第一の勲功となる。民

は彼らを認め、南方支配に置いて大きな力になるだろう。

 だが秦双が二将を討ったとなれば、その功績を無視できなくなる。必ず秦はそれを用い、自らの正当性

を主張して多くの領土を得ようとするだろう。楓もいくらかは譲歩しなければならなくなる。

 そして南方を楓、秦、双で三分する事になるだろう。

 だが楓と双が強く結ばれている。秦は危機感を持つだろう。他の勢力もそうだ。中央、南方、東方にま

たがる大国家となる楓に対し、危機感を大きくする。そうなればその力を結集させて楓と覇権を争おう、

という形になるかもしれない。

 その時、勝てるのだろうか。

 解らない。

 特に楚には注意が必要だ。秦、双、楓は南蛮との戦いで疲弊する。覇権を握ろうと考えているなら、そ

の機会を逃す訳がない。必ず積極的な手に出てくるだろう。

 それとも楚はあくまでもあの地にてその力を誇示しようとするのか。

 その可能性も小さくない。斉(セイ)に不安がある事もあり、動かないという選択肢もあるだろう。統

一国家の同盟国として生き残るという手もない訳ではない。そして機を窺い、覇権を奪う。そういう戦略

も悪くない。

 だが例えそうだとしても、楓に隙があれば見逃すまい。楓は領土を広げた分、兵力を分散する事になる。

中諸国にも不安が残るし、どうしても不安定になる。

 その時の為にも兵力を温存しておかなければ。

 南方部族という勇のみに生きる敵を相手にして尚、それを考えなければならない。これは誰思うよりも

困難な問題であった。

 狄仁にどの程度の支配力があるかは解らないが。もし烏合の衆だとしても、部族は命知らず、まともに

戦えば被害大きい。

 楓流はまず最低限秦双よりも早く勝利を掴まなければならないと考えた。ここ狄仁を南蛮の最後の拠り

所にしてはならない。その前に狄仁の支配力を失わせ、孟角、高鄭の方へ部族の心を向けさせる。

 そしてそれは可能だ。

 彼らが狄仁に付いた理由は、扶夏王への義理でも、狄仁への敬意でもない事ははっきりしている。なら

ば必ず崩せる。狄仁に集う理由があっても、今ここで狄仁と最後を共にする理由が無いのなら、南蛮兵を

切り離す事ができる筈だ。

 おそらく狄仁は後継者の証を持っているが為に、仮宿として利用されているに過ぎない。他の二将とは

折り合いの悪い部族、或いは狄仁の方が相手しやすいと考えた部族が狄仁を利用する為に集った。そう考

えるとしっくりくる。

 そして狄仁もそれを知っていて利用している。

 しかし彼には後継者の証があっても、その資格が無い。内心焦っている筈だ。

 資格を得るには楓軍に勝つしかないが、自信は無いだろう。精強なる南蛮兵とはいえ、統率できない軍

隊など高が知れている。

 張子の虎。楓流はそう結論付けた。

 だが攻めれば団結する可能性がある。例え一時でも団結して反撃されれば、楓にとって脅威である。

 まずは崩さなければならない。

 楓流はこれらの情報を元にその為の手段を考え始めた。



 楓軍が目の前に居る限り、南方部族は心中がどうあれ、そこから逃げようとは考えないだろう。狄仁へ

の義理はないとしても、部族の意地、誇りがある。敵を目の前にして逃げる事は考えられない。

 だから彼らを崩すとすれば攻撃に出る前だと考えた。

 楓流はすでに南蛮の敵であるが、それはあくまでも南蛮全体としてであり、直接血を流しあった関係と

はまた違うものである。個人的な恨みを抱いている部族も居るだろうが、今ならまだ全ての部族にそう思

われている訳ではない。

 時期は決まった。後はどうするかだ。

 楓流は今までそうしてきたように、理由を与えてやる事だと考えた。

 彼らも内心は不安だろう。相手は扶夏王を破った軍勢、その上将としなければならないのは手勢を失っ

て無様に逃げてきた狄仁だ。

 王印があったとしても、実のない力など部族は認めない。彼らは彼らの利益の為に狄仁を利用したので

あって、彼を認めた訳でも、王印に平伏(ひれふ)した訳でもない。

 正直な所、彼らも困っている。今残っているのも、敵前逃亡するのが恥だからだ。利によって狄仁に付

いた部族なら、利を失った今、いつまでもそこに居たいとは思うまい。

 なら与えればいい。狄仁を見限るに足る、部族としての正当な理由を。

 楓軍は本隊を残し、小部隊を繰り出して狄仁を挑発するような行動を取り始めた。

 武器は装備しているが本気で攻める様子は無く、その眼前を掠めるように行っては戻り、行っては戻る。

 矢を放つ事さえしなかった。

 それは楓流が徹底させた事で、開戦してしまえばその意図を遂げられなくなるからである。その為、敵

の前を堂々と横切れるだけの勇を持ち、しっかりと統率力の取れた部隊、つまり壬牙の隊にそれを命じて

いる。

 壬牙隊はしっかり役目を果たし、毎日毎日欠かさず狄仁を、いや正確に言えば彼に組した部族達を挑発

し続けた。

 それでも狄仁は動かない。当然だ。野戦に絶対の自信があった扶夏王でさえ、ああいう結果になった。

自分に絶対なる指揮権があればともかく。忠誠など見込めない軍を率いて向かったとて、良いようにやら

れるだけだ。

 命を惜しまぬ部族の勇猛さならば楓軍に大きな損害を与えられるだろうが、それが何になろう。孟角、

高鄭、そして他の大陸人勢力を喜ばせるだけではないか。

 狄仁は一度負ければ、全てを失う。何とか逃げ延びたとしても、もう二度と立ち上がれなくなる。分の

悪い賭けなどできる訳がなかった。

 今でさえぺてんのような手で何とか一軍の将を繕(つくろ)っているのだ。一度敗れれば、二度と部族

は彼に付かなくなるだろう。

 だから動けない。狄仁は動けない。己が命と出世の為には、負けると解って挑発に乗る訳にはいかなか

った。拠点に篭って楓軍の攻撃を防ぎ、孟角軍と高鄭軍を待つのが精一杯である。

 狄仁は楓軍が勢いに乗ってそのまま攻めてくるか。北部の動向を気にし、暫くは安定の為に軍を発しな

いと考えていた。後者ならば最良であるが、前者でもいい。部族が楓に寝返る事など考えられない以上、

楓軍は外から攻めて落とすしかない。それならば部族の強さもあって、充分な時間を稼ぐ事ができるだろう。

 攻めてくる敵を防ぐだけなら細かな指揮は必要ない。護れと命じれば、後は部族の誇りが彼らを闘わせ

る。統率が執れなくても何とかなる筈だった。

 しかし楓流はどちらも選ばなかった。事もあろうに目の前で陣取るという最悪の手段に出たのである。

 こうされれば怒りを持って攻め滅ぼす以外の選択肢がなくなる。そうしなければ、勇にあらず、という

致命的な評価を与えられてしまうからだ。

 しかし行けば負ける。楓も勝算あってそうしているのだから、そこへ飛び込むのは愚かである。一度負

ければ終わる狄仁に、そんな選択ができる訳がない。

 後は黙って見ているしかなかった。選択肢は一つしかないのに、それを選ぶ事ができない。

 狄仁は孤立していく。初めは文句を言いつつも我慢していた部族達も、二日、三日と敵の侮辱行為を黙

ってみているしかない状況に対し耐え難い怒りを覚え。その怒りをはっきり狄仁への怒りへと転化させ始

めた。

 普段の彼らなら、我々だけでも楓軍に攻め入り、例え死んでも部族の誇りだけは見せてやろう、などと

息巻いて出陣していたかもしれない。

 だがここに居るのはその理由からも解るように、部族の中でも利己的な、いや自分に正直な者達。思っ

ていたよりも集まってくる部族が少なかったし、狄仁が頼りにならぬ事もはっきりした。楓軍は憎いが、

ここで狄仁の配下として死ぬ事など我慢ならない。それこそ屈辱である。

 ここでこの場所から出陣すれば、狄仁の配下として出た事になる。例え勝利したとしても、功は全て狄

仁が持っていくだろう。扶夏王ならば手柄に応じた物をくれたが、狄仁など信用ならない。名誉どころか

死に損である。

 その時は狄仁を殺せば良いだけかもしれないが、例え一時でも彼の為に戦うなど耐えられない。

 彼らは後悔し、今ここに居る事にさえ屈辱を感じるようになった。

 我慢できなくなった彼らは、敵を前に臆する狄仁を勇にあらずとし、扶夏王の後継者という資格を剥奪

(はくだつ)して次々に去って行った。

 狄仁を見限った、という形にする事で、彼らは敵前逃亡という汚名を隠したのである。強引ではあるが、

部族としては当然の事だった。命を賭けるに値しないとなれば、どんな約も無効となる。むしろ見限る事

が名誉なのだ。

 楓軍は部族が去りきって後、ゆっくりと攻めれば良かった。付近に潜伏されれば厄介だが、現状でそれ

は無いと見る。今は南蛮部族にとって重要な時。自分の住処に戻って日和見主義を気取ろうものなら、後

に全ての権利を奪われてしまうに決まっている。

 部族としては今こそ勇を見せなければならない。その為には北部へ向かい、部族の旗頭となっている孟

角、高鄭に所属する事が必要だ。でなければわざわざここを去る理由を失う。ただ闘うだけなら、ここで

楓軍に立ち向かえば良いのだから、どうしても北部へ向かわなければならない理由が生まれた。

 どういう理由を付けていても、要するに彼らはここで楓軍と闘うのを恐れたのである。

 去る者が去った後、楓軍は狄仁の拠点を落とした。だが少数とはいえ、残った者には引くに引けない理

由があり、それなりの痛手は受けている。初めから死ぬ為に向かってくるようなもので、大きな被害には

ならなかったが、強かった。

 狄仁の姿はどこにも無い。捕虜となっていた者達を開放し、去る者は去らせ、残る者はそれに任せたが。

彼らによると狄仁は王印なる物と誰も知らぬ間に逃げていたらしい。行く先は解らず、共にした者も居な

い。一人で逃げたのかもしれない。

 気にかかるが、構っていられない。楓流は南部安定に努め、いつでも出発できるよう準備を整えながら、

北部の動向を窺(うかが)う。



 伝えられる所に寄れば、狄仁は逃げ出して後、せめて王印と引き換えにそれなりの地位か金銭を得よう

と考えたらしく、去った部族を追うように北上を続けた。

 だがそれ以後彼に関する報はどこにもなく。その途上で獣にでもやられたのだろう、と言われている。

 中には名を変えて他人になりすまし、その後も長く生きた、という説もあるが。これには何の根拠も無

い。王印も彼と共に消え失せ、結局それがどういう物だったのか、果たして本当に存在していたのか、は

っきりしない。

 結局過ぎ去った歴史の中で我々が知れる事など、欠片にも満たない塵のようなものなのだろう。我々は

何も知る事はできない。昔も、今も、そしておそらくはこれからも。

 南部の決着がついた後も北部の動静に大きな変化は無かった。

 双や秦からの援軍が届き、南蛮にも南部から去った者達が集ってきたが、依然戦況は膠着(こうちゃく)

したままである。どちらも決定打に欠ける、というよりは、この戦いで被害を大きくする事を恐れたのだ

ろう。

 両軍共にその意識の中には南部の楓軍が在る。今は南部を押さえているので精一杯だが、その力と影響

力は少なくない。まるで無言で恫喝(どうかつ)するかのような威圧感がある。

 秦双には楓軍と協力する、という道があり。ただ勝つという面でみれば最善であるのだが。そうなると

楓の功績が余りにも大きくなる。せめて扶夏残党といえる孟角、高鄭だけでも倒しておかなければ、秦の

立場は弱くなる。

 その上南方と西方は繋がっており、その距離も考えていた以上に近い。南方北部まで楓に取られる事に

なっては、喉元に刃を突き付けられるようなものである。

 北に双、南に楓では勝ち目が薄い。

 例え楓にそれだけの領地を治める兵力が無いとしても、慰(なぐさ)みにならない。南蛮貿易を独占さ

れれば楓の資金力は越や双をも凌ぎ、大陸随一となるだろう。

 傭兵だけでなく、ありとあらゆる人間が楓に集う。黙っていても向こうからやってくる。時の勢いとは

そういうもの。秦も膝を屈して従属する以外に手はなくなるだろう。

 楚、越、中諸国と連携して立ち向かうという手もあるが、そこまでの規模となると予測する事が難しい。

最早勝つ負けるの問題ではなくなり、大陸人そのものが滅びへの道を歩む事になるのではないか。

 秦としては南方を幾らかは得たい。双を交えても良いから、とにかく楓に独占される事だけは避けなけ

れば。

 ここは秦双だけで勝つ必要がある。しかも戦力を温存してだ。

 そんな事ができるのだろうか。援軍も来ているが、南蛮も南部から続々と集まってくる。楓がお得意の

策略で上手く動かしたに違いない。秦王は全ての報を聞く度、耐え難い怒りを覚えた。しかしそれは現実

逃避のようなものである。側近に諌(いさ)められると、あっさり捨てた。

 そして意を決する。

 ともかく勝つ事だと。まず勝たなければ話にならない。迷っている場合ではないのだ。

 秦王は伝令を飛ばし、曹閲に攻撃命令を下す。

 秦軍が動いた。




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