18-1.南蛮賦族


 南方部族の勢いは費えた。完全にとは言えないが、時間の問題である。いかに個々の部族としての力が

強くとも、せいぜい数十から数百程度の規模。同族同士で相争う事も少なくなく、初めから全部族が一つ

になる事などありえない話だったのだと思わされる。

 扶夏(フカ)王が志半ばで倒れ、高鄭(コウテイ)、孟角(モウカク)も逝った。旗印となれる人物は

居ない。狄仁(テキジン)もまた姿を消し、南方部族との争いは大陸人の勝利に終わった。

 しかし楓流(フウリュウ)はまだ喜べない。彼は狄仁が核にしようとした拠点に居るのである。

 北部は落とされたが、再び南部へ結集しようという可能性がある。もしそうなれば再びここは戦場に変

わる。

 楓流もまた部族を理解するには遠い。再び集って当然と考えていた。

 そうして心中穏やかではなく待っていたのだが、その気配が無い。七日、十日と経つが何も起こらず、

ようやく彼も安堵した。

 南方統一の流れが崩壊し、狄仁、高鄭、孟角という三派に一時的にでも別れた事が部族間の関係を更に

こじらせてしまい、今ではもう修復する事は不可能に見える。

 彼らの多くは、扶夏王達が部族としての誇りを忘れ、大陸人かぶれしたからこんな事になったのだ、と

考えているようだ。

 楓流は部族の不和を眺め、頃合を見て叩くなりするだけで良かった。漁夫の利というやつである。

 中には楓や秦双に投降しようとする者まで出てきている。その多くは大陸人に関係の深い者達で、南蛮

への協力者、寝返った者、混血など素性は様々だ。

 投降する者は基本的に受け容れられ、守備兵などに次々と編入されている。それだけ兵力が不足してい

るのであり、地理や状況に明るい者が必要だったのだ。

 信用ならない者には監視の目が付けられたようだが、それでも門前払いするには到っていない。大陸人

側が勝利したとはいえ被害は予想を上回っている。兵はいくらでも欲しかった。

 受け容れられる事を知ると、部族単位で投降する者達も現れた。

 不安視する声も出ていたが、楓流は受け容れている。部族としての誇りを信じたのだろう。

 部族は強い者を認め、勝者には敬意を払う。孟角、高鄭の部下の中には秦に投降した者も少なくない。

 計略も嫌う。楓流の首を獲りにきたのなら、回りくどい方法を使わないだろう。本心がどこにあるかは

知らないが、投降の意志はあるのだ。それが仕方なく抱いた思いであれ、同じ事。芽生えてさえいるのな

ら、育てていく事は可能。

 それに楓流はこのまま部族の力と姿が失われていく事をよしとしなかった。

 趙深もそうだ。

 彼らは部族の力にあるものを重ねていた。

 賦族である。

 彼らは賦族の力を重要視してきた。一度双に協力した時も賦族の力によってそれを成したし、それ以後

も頼りにしてきた。

 だがその賦族は大部分がまとまっておらず。依然(いぜん)被差別者に甘んじ、全てを諦めている者の

方が多い。

 大陸人一般の賦族に対する考え方も大して変わっていない。中には使える賦族が居る、程度に思うのが

せいぜい。結局差別意識は抜けておらず、いつも蚊帳の外。

 賦族の力を発揮させるには彼らをまとめ上げるしかないが、楓流、趙深にもその形が見えていなかった。

 そこに扶夏王と部族である。

 それは完成形ではなく、結局は失敗に終わった形だが。敵を恐れぬその姿、同じく身体的能力に優れた

賦族にその心を宿らせる事ができれば、未曾有の軍隊に変わる。孫軍を上回る程の。

 雛形に過ぎないとしても、漠然としていたものに形が与えられる事には大きな意味があった。

 つまり賦族を部族化させる事。

 だから楓流は少々不安材料があろうとも、遠慮なく迎え入れ、自らもそうするよう部族へと呼びかけた。

部族の事をもっとよく知る必要があったから。

 一度ならず少数の同程度の兵を用い、部族を正面から打ち破っても見せた(勿論、賦族兵を中心に組ん

だ精鋭部隊で)。

 初めは話など聞こうともしなかった部族も、はっきりと実力を見せられれば態度を変え始め、少しずつ

話を聞いてくれるようになっている。

 不戦関係を築く程度の関係が多かったが、始めはそれでもいい。きっかけさえ作れれば良いのである。

 楓流は部族の土地の支配を認め、彼らの誇りを立てる姿勢を示している。

 こんな事を勝手にしているのだから、秦双らは不快感を隠さなかったが。南部は楓軍が自らの力で切り

取った土地、それをどうしようと文句を言われる筋合いはない。

 それにそういう事であるなら、秦も自らの力で切り取った北部を好きにしていい、という理屈が成り立

つ。不快感を示すのは形だけで、実際は望む所であった。ここに複雑というのか、下らない飾りがあるの

だが、楓もまたそうである以上、最後まで付き合うしかない。

 こうして秦双が北部、楓が南部を治めるという事も自然に決まった。

 問題はその間、中部をどうするかだ。

 秦はここから発した高鄭軍を打ち破った以上、この地一帯も秦(双)に所有権がある、と述べているし。

楓は楓で、ここはどちらも直接には関与していないから、今後の話し合いによって境界を定めるべき、と

主張している。

 どちらも一理あるといえばあるように見えるし、無いといえばはっきりと無い。ただ秦が譲らないだろ

う事だけははっきりしている。北、中、南と大雑把に分けているが、南部だけで北部の倍はある。だから

秦はどうしても中部をも押さえたいのであり、これ以上楓領が拡大する事を許せないのである。

 楓は南方以外にもこの戦で事実上梁、狄を支配する事になった。これも交渉次第で幾らか利を掠め取る

事はできるだろうし、傀儡(かいらい)であれ一応梁、狄政権を存続させる事になるから、名目上は楓国

ではない、とする事も可能だろうが。楓は東方、中央、南方に強力な支配権を確立している。

 東方の衛にはまだ北方大同盟の呪縛が及んでいるはずだが、西方の秦には直接には関与できない話。楚

を使って牽制をしたとして、どこまでの効果があるだろう。

 斉の楓人気は健在と聞くし、もし楚と手を組まれてしまえば、秦は中央と南方から圧力を受け、双、越

に北を塞がれ、四面楚歌の状況になってしまう。

 意地でも南方中部を得る必要があった。

 だが秦側の主張は理由として薄い。双は楓に肩入れするだろうし、難しい状況にある。

 楓流はそんな秦の心を理解している。楓としてもこのまま秦と争いたくはなかったし、玄一族や妻、甘

繁(カンハン)の事を考えても、避けたい所だ。

 その為にはある程度の譲歩が必要。

 そうする事で秦を認める部族の信を集める事ができるだろう、という狙いもある。

 秘密裏に話し合った末、北部を秦、中部を双に与える事で双方同意した。

 双はただ己の権威を認めてもらえればよく。初めから双重臣は面倒な決め事は楓秦に任せるつもりだっ

たようである。双主導の形で決定してやれば、それだけで満足した。

 秦は楓と深い繋がりのある双に居座られるのにも不満があったが、双軍は秦に対して良い感情を抱くよ

うになっているし、飛び地となればいくらでもやりようがある。

 このように三者三様の事情を考慮して、北部を秦、中部を双、南部を楓が治める事に決まったのだ。

 部族を押さえ、真の意味で統治するまでには、多くの時間が必要だろうが。南蛮との戦いは一応の決着

という事になる。



 交渉成立の後、楓流は南方南部の安定に専念した。これには主に投降した者達で編成した部隊を使って

いる。敵対する部族との戦いに協力する事を条件に引き入れた部族もいたので、楓が信用できるという事

を証明する必要もあった。

 楓流も一度に部族を同化させようなどとは考えていない。百年二百年かかっても良い。今はその為の道

を築く段階だと考えている。

 勿論、論功行賞する事も忘れていない。

 まず凱聯(ガイレン)を正式に集縁の太守に任じ、副官に胡虎(ウコ)を付ける。魏繞(ギジョウ)に

は窪丸太守を任じ、奉采(ホウサイ)を付け、内政の長とした。奉采の権限も大きく、ここから楓流が魏

繞を警戒していた事が解る。梁には法瑞(ホウズイ)を将軍にしてお目付け役とし。蜀、布、伊推(イス

イ)には働きに応じた金銭と物資を与え、趙深には今しばらく狄に居てもらい、新政府が軌道に乗るまで

宰相として腕を振るってもらいながら中央を見据えてもらう。衛は鏗陸(コウリク)らに任せた。

 楓流自身は南方南部、東西の真ん中となる辺りに新たな拠点を造り、南方安定まで自ら力を揮う。

 新しい拠点の名は南改(ナンカイ)。以前焼失した南開を意識した名である事は言うまでもない。

 これが完成するまでは今居る名も無き拠点にて過ごす。ここにも名を付けねばならないだろうが、それ

は部族に任せる。それくらい気を遣わなければ、彼らの心を得る事はできない。

 今は勝者に敬意を表する形で大人しくしている者が多いが、それもいつまで持つか解らない。先祖から

募る大陸人への恨みも消えていないだろう。

 将兵にも働きに応じた褒美を与え、相応しい者は遠慮なく昇進させた。今ある役職だけで足りない時は

軍を新設し、そちらに配備している。これからは今まで以上に多くの兵を必要とする。むしろ好都合であ

った。

 そして南蛮貿易を再開させて資金を獲得、傭兵や流れ者を次々に登用し、厳しい訓練を課した。脱落者

は放り捨てる。こうして不埒な者を間引くのだ。一々面接などをして心根を調べている時間はない。

 少しずつ形が出来上がっているが、全てが落ち着いた訳ではない。南方中部では双の統治法に対して反

発する部族がもう出てきているし、それに呼応するかのように南方中から散り散りになっていた部族が集

まりつつあるという情報も入っている。のんびりしていられない。

 彼らが団結して向かってくるとは考えられないが、どこかで火が付けば、それに応じるように挑んでく

る事は確かだ。

 部族の中にも様々な考えがある。しかし基本的には大陸人に治められる事をよしとしていない。双は南

蛮を人と見ていないから、実際に治めている人物がどうあれ、様々な面で無理が出てくるのは避けようが

ない。火種はそこかしこにある。

 実際に部族に接して気持ちが変わった双人も少なくないようだが、基本的に彼らは権威主義であり、大

陸人の血統を重んずる。彼らの理論から言えば南蛮は人ですらなく、言わば温情を与え、飼ってやってい

るに過ぎない。

 双本国はその考えに則って無謀な命令を強いてくる。その呼称を南蛮ではなく、南部族と改めた所が変

化と言えば変化だが。それも双の風を受け、晴れて人になった、という程度の意味であり。部族を部族と

して公式に認めたという事ではない。

 この地を任された者も本国の命令には逆らえず、自然衝突が起こり始める。勝利者への敬意などすぐに

吹き飛び、反乱の意が日に日に強まっていく。

 秦と楓が仲裁(ちゅうさい)に入るが、そんな事で不満が解消される訳がない。ここに双が居るという

だけで数多の問題が発生する。それを抑えるには双側に譲歩させるしかないが、不可能に近い話。楓と秦

でどうにかできる問題ではなかった。

 そこで双正に願い、憐れな者達に温情を見せよ、という言葉を下してもらった。効果はあったようだが、

時間稼ぎにしかならないだろう。

 双が被害を受けるのは良いとして、北部、南部に飛び火してもらっては困る。

 部族にはもうこの状況を覆す力はないが、命を捨てて立ち上がれば、南方を維持できなくなる程の大乱

を起こす事はできるかもしれない。力を見せ付けておく必要はあるが、やり過ぎれば火傷するのはこちら

の方だ。

 楚や子遂が大人しくしているのも気にかかる。

 南蛮という大きなものが出てきたせいで、色々な事が棚上げされていたが、一つとして解決された訳で

はない。いずれ耐えられなくなり噴出するだろう。火山がそうであるように、突然に、しかし確かな自然

の流れとして。



 双という問題を抱えながら何とかしてきたのだが。一月程経ってくると、今度は楚に不穏な動きありと

いう報が入ってきた。

 楚は焦っている。深刻に。

 当然だろう。そもそも狄、南蛮という流れを生み出したのは楚だ。強大化する楓に不安を抱き、狄を通

して中諸国に乱を起こし、更には南蛮というものを利用して楓を弱体化しようとした。

 しかしその目論見は外れ、結局中央を安定させ、南方を楓に奪われる結果になった。扶夏王という予想

以上の勢力が居た事で楚も楚で迂闊に動けなくなっていたし、侠族からの流れで秦まで南蛮との戦に巻き

込まれ、結果楚秦の間に共通しない利害関係が生まれる事にもなった。

 楓秦が相応に消耗している事はありがたいが、今後南蛮貿易によって大きな利益を得、名を高め、国力

と軍事力を増していく事は確かである。

 双越も楓に組している上、斉の動きも怪しい。このままでは秦か楓に従うしかなくなる。

 特に斉を任せている姜白(キョウハク)が悩みの種だ。

 姜白は楚の意向よりも父である姜尚(キョウショウ)の意に沿うように、とそればかりを考えている節

がある。

 基本的に姜尚は楚の為に生きたのだが、それは楚政府の為というものではなく、真に楚の為になると考

えれば時に政府の意向さえ無視する事があった。それだけの権威と信頼があったのである。

 姜白はそれを身勝手に捉えているように楚からは見えた。

 楚王が度々叱責するが、表面上は聞くものの、実行する様子がない。王は気が荒い所があり、激怒する

王を堪りかねて項関(コウセキ)が諌(いさ)める場面もあったが、それも火に油を注ぐ事となった。項

関にまで飛び火し、彼もまた癇癪(かんしゃく)持ちであるから、売り言葉に買い言葉で王宮を飛び出し

てそのまま家に引き篭もってしまったのである。

 流石に王もやり過ぎたと感じたのか、この頃には引退して詩作に専念するようになっていた李光(リコ

ウ)を強引に呼び出してなだめてもらい。何とか機嫌を直す事ができたが。楚の足並みは乱れ、今では姜

尚存命時のような強固なものではなくなっている。その焦りから狄を動かし、逆効果になった事を思えば、

全く良い所が無い。

 そしてこの騒ぎを後押しするように、項関が姜尚と親しかった事から、王に対しての恨みをいつまでも

抱き、姜白と共謀して孫である楚太子、楚斉(ソセイ)を王に仕立てようとしている、という噂が流れ始

める。

 これは秦が流したのだとも、楓が流したのだとも、越が流したのだとも、様々な説があって、中には項

関自身が流したのだ、というものまであるが、詳しい事は解らない。

 そんな陰謀説よりも、楚の現状に対して不安を抱く民から自然発生的に出てきた、という考えが一番説

得力があるかもしれない。 王だった、という声まであるらしい。

 こういう噂が信じられるのだから、楚と斉の関係も本当にいつ切れてもおかしくないものになっていた

という事だろう。

 すぐにこの噂は根も葉もないでたらめだという事がはっきりしたが、何かが依然燻(くすぶ)っている。

 このような醜聞を晒す事になった項関はめっきりと意欲を無くし、権力さえ疎ましくなったかのように

隠居を申し出。楚王は幾度も考え直すよう伝えたが、最早項関にはそれに応じる意志、元気はなく、息子

の項亮(コウリョウ)に後事を託して、何と李光に弟子入りしてしまった。

 李光も思いとどまるようにと説得したらしいが、項関は頑固でこうと決めれば引かぬ所があり、居座る

ようにして無理矢理弟子入りしてしまった。

 ちなみに詩の才はなかったのか、これという作品は残されていない。

 李光の作品集の中に紛れて載ってしまっているという噂もあるが、嘘か本当か、それが本当だとしても

どれがそうなのか解らない。

 後事を託された項亮だが、彼も親分肌というのか面倒見の良い人物で、まめまめしく人の世話をしたり

と評判は悪くない。父程の豪胆(ごうたん)さはないが、充分に政を任せるに足る才の持ち主だとは言わ

れている。

 だがどうも評判を取り過ぎている嫌いがあり、勝手に民に施(ほどこ)しをしたりしているようだ。楚

王とも反りが合わないのか、重用されているようには見えない。

 とはいえ、項関の功と立場を思い。項亮が太子の叔父に、つまり妻の弟に当たる事を思えば、無下に扱

えない。その役を進めさせ、相応に大きな権限を与えた。ただし項関のようではなく、堂々と王に何かを

述べられるような立場ではない。

 それでも昇進は昇進である。項亮は素直に礼を述べ、王の疑念を晴らすように政務に励んだ。そして自

身が姜白とも浅からぬ関係がある事から、彼を諌める手紙を何度も送っている。

 それで王との関係が良くなると思われたのだが、王はそのような態度に益々警戒するようになって、今

ではその関係に修復できない溝が生じている事は誰の目にも明らかであった。

 この事に責任を感じた項関は、一度ならず息子を叱る為に赴(おもむ)いたらしいが、その効果は無か

った。表面上は謝罪するが、表面だけのものに意味などない。その意もないのに謝られて王は益々へそを

曲げてしまい。降格はしないものの、話しかける事も目を合わす事もなくなった。

 こうなれば項亮もそのままではおれず、そこに合わせるように今度は項亮と姜白が繋がり、王を隠居さ

せて太子を王に立てるつもりだ、などという噂が流れ。止せば良いのにそれを王が直々に問うたものだか

ら、憤慨(ふんがい)した項亮は楚政府を去ってしまった。

 彼は家財一切を引き払い、家族と共に斉へ向かったという。

 これは王に対しての痛烈な批判(ひはん)に思える行動だが、流石に王も自分の短慮を恥じたのか、そ

れ以上追求する事を止めた。

 項亮は親子二代でこうなった事を恥じたのか、斉に行ってからは名を田亮(デンリョウ)と改め。その

名を現すように家財と引き換えに田を得、新しい生活を始めている。その名と態度がこの地に永住すると

いう意思表示でもあるのだろう。慎み深い生活をし、人の往来も少なく、静かに暮らしている。

 これがまた彼の評判を良くする事になり、王は苦々しい思いを抱いたが、もう好きにせよ、と黙認する

格好だ。

 項関もこの件に関しては何も言わなかった。むしろ子の態度に満足している風であったというから、項

関の許しを得た上での行動だったのかもしれない。

 これは項親子からの痛烈な批判と取れない事もなく。しばらくはまたその類の噂で市井は賑わっていた

ようだが、長くは残っていない。

 斉には今の所楚と事を構える気はないし、姜白がいかに斉中心に物を考えるようになっていると言って

も、彼は彼で楚の臣である事を弁(わきま)えている。太子と繋がろうという思いなどなかったし、取り

立てて何もしなかったのも、何かすれば項親子に迷惑がかかり、自分への嫌疑が深まるばかりで良い事は

ない、と考えたからである。

 確かに、この件に関して王が何か言ってきた訳ではなく、ただの噂でしかないのだから、大げさに捉え

る必要はなかった。下手に動けば噂の種になるだけで、良い事はない。

 だから治まるのを待ち、項親子に対して慰みの手紙と入用な物を贈り、自ら楚に赴いて王前にて噂をき

っぱり否定している。

 王もまさか姜白自ら来るとは考えていなかったので、この態度には打たれるものがあったのか、自分が

疑った事は一度も無いのだと伝え、褒美を与えた。

 楚と斉の間にあった緊張も幾らかは和らぎ、少しだけ穏やかになっている。

 だが本質的な問題は何も解決しておらず、楚は功臣を失った事でいよいよ不安定になり、斉(姜白)も

今までの姿勢を変えようとはしていない。結果的に見れば、小休止を得た代わりに大きな災厄を招く可能

性を得た、と言えるのだろう。

 楚には最早これといった人物が居らず、その事も王を苛立たせ、孤立させていく。王の猛々しさを和ら

げる事のできる者も理解できる者もおらず、しばしば政務が滞り、民は不安をいよいよ強くす。

 英邁(えいまい)であろう王も、手足と頭脳を失ってはどうする事もできず。孤軍奮闘するだけ名を下

げるばかり。

 項関が去り、項亮が去り、そして斉が離れていくのも結局は王の支配力、権威が薄れているからで、つ

まりは王が不甲斐ないからだ。などと市井の話に上る事も増え、王の権威は失墜し、その能力に疑問を抱

かれるようになっている。

 こうなると思い出されるのが姜尚である。

 楚が楚として立てていられたのは姜尚様が居たからで、王には最早往時の力はあられず、荒々しい所だ

けが目立たれるようになられた。これではこの国の将来は真っ暗だ。

 ならばいっそ王位を太子様にお譲りになり、ご自身は王を後見する立場になられれば良い。太子様と姜

白様の仲も悪くないし、王がお退きになられれば、田亮様をもう一度迎え入れる事もできるのではないか。

名だけを譲り、実際の権威は王がお持ちになっておられれば良いのだから、これが一番良い方法である。

 などと囁(ささや)かれ始め、その声は次第に大きくなり、楚臣の中にもそういう話をする者が多くな

った。

 王は甚だ不快だったが、言われてみればそれも悪い手ではない、と思い直し。この状況を打破するには

思い切った手を打つ事が必要かもしれぬ、と考え、自ら譲位を宣言する。

 こうして太子、楚斉(ソセイ)が王に就く。

 新王は早速田亮を呼び寄せようとしたが、田亮はそれを辞し。代わりに弟の成を推挙し、項家を継がせ

て項成(コウジョウ)の名に戻して楚に送り出した。

 新王は残念がったものの、再び項家とよりを戻せた事を喜び。臣民もまたこの事を喜んで、ようやく楚

も落ち着きを取り戻すかのように見えた。

 楓流もこの事にほっとしたが、依然警戒を解かず、楚に注意するよう凱聯や魏繞、奉采に命じている。

 楚内の不穏を煽(あお)るように、丁度良く噂が流れた事も気になる。

 南方がどうやら落ち着きを見せ始めたものの、それだけでは足りない。楚の不穏も先延ばしになってい

たものがやってきただけの事であるし、今後も似たような事が起こるかもしれない。

 警戒を怠(おこた)るべき理由はどこにもなかった。




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