18-5.士


 陣を敷き、西城に臨む。広く浅く、包囲の構えである。今夜は休み、日の出と共に仕掛けるつもりだ。

楓軍の士気は高く、だれる事はない。それを自然に行なえるのだから、凱聯にも確かに天賦の才があった

のだろう。

 胡虎は凱聯の側に居て、常に心を配っている。疎まれるようになっているが、だからこそ余計に側に居

なければならない。今はしっかりと手綱を締めておく必要がある。それが彼に与えられた、一番重要な役

割である。

 幸い、細かな指揮などは魏繞が行なってくれている。彼も歴戦の猛者、史上では高名と言えないが、そ

の実力は中々のもの。問題なく任せられる。

 胡虎は魏繞に深く感謝している。おかげで凱聯との確執を埋める事ができる。

 悲観してはいなかった。凱聯との仲にいずれ限界がくるだろう事は理解していたし、それが今きた事に

は焦りを覚えるが、覚悟はしていた。充分に対応できる。

「楓流様、この胡虎が必ず使命を果たします。例え、何を代償としようとも」

 楓流に拾われたあの時から、自分と姉の命は楓流の物。楓流自身がどう思っていようと、胡虎はずっと

それだけを想い、それだけの為に生きてきた。

 今こそ恩に報いる時である。

 夜襲に備え、念入りに準備し、警戒を強めさせた。胡虎自身が見回り、万全に万全を期す。

 そのせいで今日も胡虎は満足に休めていないが、そんな事はどうでも良かった。眠気も緊張と焦りが吹

き飛ばしてくれる。今この時を切り抜けなければ、明日もない。

 一夜明け、気力充実する兵達の先頭に胡虎が立つ。

 本当は凱聯がこの役割を担うと言って聞かなかったのだが、それは大将の役目ではないと強硬に反対し

た。魏繞も意を共にし、凱聯も頷かざるを得ない。

 また機嫌を損ねるだろうが、構わない。この関係を修復できるとは思っていなかった。そして今後も崩

れていくしかない事が、胡虎には見えていた。

 千里眼という程ではないが、休みなく働き、精神がぎりぎりまで研ぎ澄まされた結果、驚く程勘が冴え

ている。万物の呼吸一つ一つを聞き分けられ、全てのものが曇りなく見えていくような気になる。

 しかしそれに溺(おぼ)れはしない。しっかりと現実を見据える。

「これから何が起ころうと、我らの目的はただ一つ。決してそれを見失うな。我が命のみに従い、疑う事

なかれ。であれば、必ずや天は我らを勝利させん。我らが手で、北方平定の礎を築くのである」

 朗々と告げる胡虎に対し、兵達の気分が染み入るように高揚していく。凱聯が熱を入れるのが上手いと

すれば、胡虎は打ち直す事に長けていた。それは激しく燃え上がる事はないが、だからこそ長くある一点

を照らし続け、導いてくれる。

 凱聯と胡虎、二人が一つになった時、最大の効果を発揮する。それはその仲にひびが入った今でさえ、

変わらない。

「疾く疾く駈けねばならぬ。しかし忘れるな。踏みしめる指先が、一体どこへ向いているのか。間違えて

はならぬ、全ては天の名の下に。そして楓の御旗の下に」

 良い具合に風が吹いてきた。

 この風がこの心を後押しするだろう。天啓であれ、まやかしであれ、背中を押す何かが起これば、人は

それを信じられる。

「全軍前進! 西城を包囲せよ!!」

 音が弾け、轟き叫ぶ。

 鬼神もたじろぐとすれば、これをおいて他に無し。

 数千の人の意。猛々しい瞳の群れ。

 胡虎の目に炎が宿る。それは珍しく、真っ赤に燃える熱き炎であった。



 凱聯軍が近付いても、楚燕は篭ったまま出てこようとしない。予測していた通りである。

 篭城しての時間稼ぎとなれば答えは一つしかない。

「火の如く攻め立てよ!」

 胡虎は凱聯のお株を奪うように烈火の如く攻め立てさせた。一つにはその方が凱聯の受けがよく、一つ

にはあわよくば、という希望を持ちたかったからである。

 しかし楚兵は良く耐えた。孫軍を思い出し、真似るようにしてやってみたが、胡虎には荷が重かったの

だろう。悪戯に疲労を増すばかり、一日で諦めた。楚燕も相応に準備していたのだ。簡単には崩せない。

 胡虎は緩やかな戦法に戻した。その時の為に力をためておく必要がある。

 そして数日経った頃、江陵が反旗を翻したという報が入ってきた。

 いや、反旗というのは間違いか。初めからその意図を持って開城したのだろう。凱聯軍を楚内に引き入

れ、封じ込める為に。

 補給線を断たれた以上、戦闘続行は困難である。窪丸から兵を出させているが、兵力が充分ではない。

補給路を確保するまでに多くの時間を必要とするだろう。その間に凱聯軍が枯渇し、自滅する。それが楚

燕の狙い。

 おそらく秦も一枚噛んでいる。

 江陵と足並みを揃えているようではないから、様子見をし、勝敗が決まってからどちらに味方するかを

決めるつもりなのかもしれないが。どちらにせよ今は味方してくれない。

 怒り狂った凱聯が西城を落とす事を主張したが、胡虎は同意しない。

 確かに死を賭して戦えば西城を落とす事はできるのかもしれない(勿論、秦軍が攻めてこないという前

提での話だが)。しかしできたとしても被害は甚大。結局秦に漁夫の利を得られてしまう。下手すれば窪

丸にまで侵攻されるかもしれない。

 窪丸が落とされれば楓は北方からの侵攻を防げなくなる。衛が頼りだが、配色濃厚となれば斉も協力を

渋る。無理矢理通ろうとすれば、斉まで敵にしてしまう。

 だから今できる事は窪丸に撤退する事だけ。楚燕軍の追撃が怖いが、このまま意地を張っていても仕方

がない。今なら窪丸の援軍に江陵を引き付けさせ、何とか逃げ延びる事ができるかもしれない。

 時間を浪費すれば、その分だけ生還率は落ちていく。とにかく一秒でも早く逃げなければ。

 凱聯は不満そうだったが、状況は理解している。ここで無様に負けてしまえば、趙深と張り合う事もで

きなくなる。その点を突いていけば撤退に同意させる事は難しくなかった。

 そういうやり方は恨みを買うが。胡虎はもう今までのような弟分ではなく、口うるさい副官としての役

目を果たそうとしている。長年側に居て、それとなく操縦してきたのだ。その気になれば望む方に動かす

事は難しくなかった。

 胡虎も楓流と同じく、やるべき事があるなら自分の好みに執着しない。すでに凱聯との仲に溝ができて

いるのだから、遠慮する理由はなかった。

 胡虎が中心となって撤退の準備を整え、すぐさま軍を退き始める。

 凱聯が先頭に立ち、それを魏繞が手助けし、胡虎自身は殿(しんがり)に就いた。率いる兵も厳選し、

死を覚悟している者だけを選んでいる。撤退戦に必ずしも高い能力は必要ない。高いに越した事はないが、

それよりも心を一つにする方が重要だ。

 追撃の有利さは今更述べるまでもない。追われるという心境は何よりも心をかき乱し、平素ではとても

しないような行動を起こさせる。

 撤退戦こそ将兵の真価が問われるものだ。

 凱聯は勇猛であるが、その点心許ないし、全体を見極めながら随時命令を下していく器用さも持たない。

そういうきめ細やかな指揮を彼に求めるのは間違っている。

 それは胡虎の役割だ。

 凱聯の隣に居るのも、楓流からそれを求められているからである。ならばそれを今果たすのみ。

 その覚悟には凱聯も何も言えなかった。

 ここからも凱聯がいかに中身のない人間であったかが解る。彼には初めから答えなど無かった。

 自分が無いからこそ常に誰かに立てられ認められていなければ自己を保てない。

 自分が無いからこそ他人が尊重される事を許せない。他者の中にある自分がその分薄められてしまうよ

うな気がするから。

 自分だけが尊重されていなければ不安なのである。自分の中に自己を見出せないから、他人の瞳に映る

自分の姿を見なければ安心できない。誰もが視線を自分に向けていてくれなければならない。

 自己主張するわりに、強く出られると気圧されてしまうのもその証拠だ。正確には、凱聯に他人に主張

できるようなモノは無い。単に自分の居場所を他人に求め、その為に必死であるに過ぎない。だから反論

もできず、感情を爆発させて拗ねるしかない。

 その果てが凱聯なら、これもまた人があるべくして流れ着いた、一つの姿なのかもしれない。

 何もせず、何も無い。何も生まれなければ、何をしようともしない。ただ、その場に在り続ける。あり

もしない自分を見付けたいと悶えながら。

 そんな人間が胡虎のような強靭な心に逆らえる訳がない。凱聯を護るべき取り巻き達にも、それを退け

られるような力は無かった。

 胡虎は憐れになった。

 楓流が捨てようとして捨てられない、どうしようもない一面がそこに在る。

「それを見守り、和らげるのが俺の仕事」

 気が付けば凱聯とずっと過ごすようになっていたが、今思い返すと驚く程思い出というものがなかった。

薄っぺらく、吹けば飛ぶような記憶だけがある。

「果たしてこれで良かったのか」

 今更疑問に思う事が不思議だったが、もし間違っていたとしてもそれでいい。いや、間違っていなけれ

ばならない。凱聯という恥部を、楓流の汚点にしてはならない。自分が被る必要がある。楓流ではなく、

全ては胡虎の不徳の故。そうでなければならない。

 これでいい。これからもこれでいいのだ。

 人は詰まらぬ人生と言うだろう。しかし彼自身は満足している。そして楓流もまたそう思ってくれれば

いいと、それだけを願っていた。



 凱聯軍が退いても楚燕は簡単に動こうとしなかった。

 罠と考えたのか。いや、そうではないだろう。

 すでに江陵という出口を塞いでいる。窪丸から援軍が来るとしても、易々と抜けるものではない。そう

こうしている内に疲弊(ひへい)する。それを待って討てば良いのだ。

 秦軍にも注意しなければならない。口惜しいが、現状で一番優位なのは秦だ。

 楚燕と手を組んで窪丸を攻めても良いし、楓と組んで江陵、そして西城を攻めてもいい。両方滅ぼすと

いう道もある。衛という脅威もあるが、この軍勢は簡単に動けない。斉を敵にさえしなければ、いつまで

も行動を封じていられる。

 斉は油断ならぬ国だ。信用ならない。だがそれ故に利用価値がある。

 秦にとっても、楚にとっても。

「師父よ、貴方の息子はとんだ食わせ者であったな」

 楚燕も楚が天下統一を成し遂げるとまでは考えていないが、北方に覇を称える事は可能だろうと見てい

る。そうなれば、斉も従わざるを得まい。それまでは泳がせてやればいい。

 斉には楚に対する遠慮が残っている。それがある限り、向こうも簡単に手出しはできないだろう。

 不安はあるが、今はそれで良かった。

 半日程準備を整え、日の出と共に楚燕軍が西城を出発する。兵数は七千。ほぼ全ての兵を連れたのは裏

切りを恐れたからだろう。秦軍がどう動くかはっきりしない今、相応の守備兵を置いておくべきかもしれ

ないが、兵の中には項関、李晃を慕う者が居る。

 楚燕が軍勢と共に出れば、得たりと行動を起こす可能性が無いとは言えない。

 楚燕は味方を信用できなくなっていた。自儘(じまま)な行動に出るようになったのも、姜尚という抑

えが居なくなったというよりは、他者を信じられなくなったという点が強く影響していると思える。

 姜家と項家は楚燕が深く信頼し、長く頼りにしてきた者達だ。それが今になってどちらも王に逆らうよ

うな真似をし、わざわざ隠居した李晃まで連れてきて非難する。これ以上の屈辱があるだろうか。

 楚斉を王にしてもそれを立てるでもなく、やる事と言えば楚を二分し、弱体化させるような事ばかり。

一体あやつらは何をしたいのだ。楚を滅ぼしたいのか。自らが王にでもなりたいのか。

 楚燕には彼らの行動が理解できなかった。

「師父の意を継ぐというのであれば、まず王を守り立て、国を強くするのが道ではないか。それを平気で

王を無視するような事をし、好き勝手に動いておる。これのどこに師父が居る。愚か者どもが、好き勝手

やりおって! 王は誰か、尊重されるべきは誰か、今それを解らせてやろう。斉のような軟弱者には任せ

られぬ」

 世間では王の自儘な行動に家臣達の方が愛想を尽かしているように思われているが、楚燕からすれば逆

である。家臣の方が分を弁(わきま)えず好き勝手している。自由にさせていたのは姜尚だからだ。王が

認めた者であればこそ、王もまたそれに従う。誰にでも許す訳ではない。

 それが姜尚が死んでみればどうだ。皆口々に姜尚、姜尚と呼びつつ矛盾した行動をとっている。皆型通

りを真似、その真髄(しんずい)を理解しようとしない。自分に手落ちがあったとすれば、そこだと楚燕

は悟っていた。

 姜尚に威を任せ過ぎたのである。王の威を忘れさせてはならなかった。

 師父であれ、遠慮なく臣と扱うべきであったのだ。

 姜尚に特権を許した事が、知らず知らず王威を失わせていた。

「師父よ、貴方はこれをなんとして見る。王であるこの私と、貴方の縁者が争うこの姿を。しかし嘆かれ

る事はない。今、私が正す。全ては王の名の下に。それこそが師父の目指した強き楚の姿。それを我が解

らせてやる」

 楚燕から迷いが消えていく。

 そう、ただ示せば良いのだ。己が強さ、王の威を。

 さすれば全ては王に平伏すであろう。



 凱聯軍はゆっくりと退いて行く。急ぎたいのは山々だが、あまり速度を出すとそれに引きずられてしま

いかねない。撤退には非常に繊細な気配りを必要とする。

 集団が乱れれば、回復する事は不可能。胡虎は自分が万能だとは考えていない。だからこそ頭を使い、

慎重に行動する。努力する。

 楚燕軍がここぞと追い立ててこない事にも危険を感じる。それはつまり焦って追う必要が無いという事。

秦軍と足並みを合わせているのかもしれない。

 いっそ急いで追ってきてくれれば、その油断を突く事もできたのだが。

 もしここで撃退する事ができていたなら、状況はぐっと楽になっていた。

 秦軍がいつ来るか、いつ来るかと恐れる必要もないし。そのまま勢いに乗って西城を落とすのは難しい

としても、江陵を落とすのは難しくない。援軍に任せ、秦軍に専念する事もできただろう。楚燕と秦両方

を同時に相手するから困難なのであって、どちらか一方だけなら五分に戦える。

 楚燕、秦、江陵と三軍に包囲されている限り、勝機は無い。秦が傍観に徹するとしても、居るだけで脅

威となる。未だはっきりした意思表示をしない点も不気味である。

 秦はどう動く。

 これが楚燕軍をおびき出す為の罠であり、敵を欺くには味方から、という事であれば、どれだけありが

たいか知れない。しかしそれはあまりにも都合の良すぎる考え方だ。

 それでも一縷(いちる)の望みは持っている。

 夢に溺れるのは禁物だが、絶望してもいけない。可能性は可能性として留めておくべきだし、状況が適

さなくなれば秦が裏切る事に意味がなくなる。

 まだ諦めるのは早い。

 凱聯は決断を迫られている。

 楚燕軍は付かず離れず追ってくる。これは明らかに江陵とで挟み撃ちにする意図がある。胡虎が援軍を

呼んでいるそうだが、間に合うかどうか。

 このままでは趙深に勝てなくなる。扶夏王を討った以上の戦果を示すには、もっと鮮やかに勝たなけれ

ばならなかったのに。

 その為に意に反してまで西城から退いたのだが、楚燕軍に積極性が見えないし、秦軍もまた同様である。

胡虎が読み違えたのではないか。江陵の裏切りもそれほど大きな事であるようには思えないし、このまま

ではどうにもならなくなる。

 凱聯は思う。楚燕が出てきたのだから、それを攻めて捕らえれば良いと。楚燕さえ討てば、楚も天軍も

治まるのだ。

 退くなど馬鹿げている。それこそ楚燕の思う壺ではないか。やるならば今ここでやるべきだ。補給など

関係ない。一息に決めてしまえばいい。なのに何故それをしてはならぬのか。

「胡虎、魏繞を呼べ!」

 軍を止め、伝令を発す。二人ともすぐにやって来るだろう。どちらも小心者だ。何かあればすぐに来て、

くどくどと無意味な事を申し立てる。しかしそんなものが何の役に立つ。戦は勝てばいい。楚など正面か

ら叩き潰せばいい。それだけの事。

 凱聯の心は決まった。

 いや、初めから決めていたのだ。それを胡虎に少し迷わされただけ。

「胡虎も衰えたものよ」

 最近の無礼は目に余る。今こそ強く言い、兄としての尊厳を保たなければならない。



 胡虎は激しく反対し、魏繞もまたそうしたが、今の凱聯に何を言っても無駄であった。指揮権も凱聯の

方が強い。我を張られれば譲(ゆず)らざるを得なかった。

 兵達にも付かず離れず迫る楚燕軍を侮る空気が生まれていたから、この事を喜び、流石は凱将軍と色め

き立つ。南方との戦に出られず、結局補助的な役割しか担えなかった事に不満を抱いている兵も少なくな

い。楓の領土が広がった今こそ、手柄を立て褒美をもらう絶好の機会。その好機を消化不良のまま終わら

せたくはなかった。

 その不満が凱聯の意を得て燃え上がり、胡虎の手を離れ、暴走していく。

 中には慎重な兵もいただろうが、その者達も勢いに飲まれ、浮かれてしまい、冷静な心を保てている者

はほとんど居なかった。

 胡虎も諦めるしかないと悟り。数少ない冷静な兵を別働隊に編成して、いつでも動かせられるよう手元

に置いた。本来は先陣を任せるべきであるが、今の凱聯に使わせても宝の持ち腐れ。自分が率い、最も重

要な箇所に投入すべきと判断した。

 胡虎はお前達が要、楓存亡の危機を救うのだ、などと説き伏せ、どうにか彼らの支持を得た。そこまで

して何も起こらず凱聯が勝利する事にでもなれば、胡虎の株は急落するだろうが、そんな事には構ってい

られない。

 彼は全てを覚悟していた。

 楚燕軍は依然ゆるゆると移動している。こちらが歩を止めたのを知ると、更に速度を落としたようだ。

 予想していた事だが腹立たしい事に変わりない。刻一刻と食料、水が減っていく。堪え性のない凱聯が

いつ暴走するか、それを思うだけで精神を消耗させられる。

 ここ最近満足に休んでいない事もあって、息が乱れるというのか、ふと疲労を感じてしまう事が多くな

った。仕事に支障が出ている訳ではないが、良い傾向とは言えない。できるなら少し休んでおきたいが、

そんな余裕は無い。

 常に目を光らせ、暴走を警戒する必要がある。それが自分に与えられた役割なのだ。それを果たせない

ならこの生に意味が無くなる。

 胡虎の思考にはどこか陰に篭るようなものが増え、集中力はあるものの暗い影が付きまとうようになっ

ている。悲壮というよりは悲愴という感じで、言動にも力が見えなくなっていた。

 しかしそれを見聞きした凱聯は自重しようと考えるどころか、それも凱聯の行いが正しく、胡虎の行い

が間違っていたと気付いたからだろうと思い込み、気遣う事も無かった。

 そして痺れを切らした凱聯はとうとう進軍を命じる。

 胡虎は無駄だとしても一応反対しておくべき、と初めは考えたようだが。ここまでくるといっそこちら

から仕掛けた方が良いかもしれないと思い直し、誰の予想にも反して凱聯の考えを支持した。これから戦

うにあたり、少しでも仲を改善しておいた方がいい、という考えもあったのだろう。

 凱聯は基本単純だ。好意を示せば喜び、反意を示せば怒る。無条件に認められたいのである。それが間

違っている、間違っていないは関係ない。ただ自分を認めて欲しく、自分の考えを支持して欲しい。

 そんな事を考えている限り、永遠に彼が一番求めているだろう楓流から得る事はできないのだが、それ

を言っても理解できはしまい。

 いままでそうやって生きてきたし、これからもそうして生きていく。

 反省とは無縁の生である。

 楓流が叱れば一時は聞くかもしれない。だが結局何も変わらない。多分生れ落ちた時から変わらないの

が凱聯なのだ。

「ならば、それを嘆いている暇はないな」

 胡虎はもう止めようとは考えなかった。前に出るという凱聯に反対もしない。好きにすればいい。ここ

に到っては同じ事。逃げないのなら、後はもう戦って勝つしかない。

 そう考えれば凱聯が前に出る事にも利点がある。

 そして自身は別働隊の指揮に専念した。後の事は魏繞に任せる。彼も胡虎の決意を理解したのだろう。

何も言わず頷(うなづ)いてくれた。

 胡虎はその事が何よりも嬉しかったようだ。そして凱聯が他人の同意を求めている事にも少しだけ理解

を示したが、やはりそれは愚かな事だと思った。



 楚燕軍に挑みかかるように凱聯軍は速度を上げ、打ちかかる。

 勢いに呑まれたのか、楚燕軍は積極的に前に出ようとはせず、攻めれば攻めるだけ退いて行く。

 警戒すべきだが、凱聯は敵が恐れをなしたのだと単純に考え、もっと前へ、もっと前へと兵を進ませる。

それでも一人突出する事をせず、全軍の足並みを合わせているのは流石だ。

 楚燕が望んで引いていたとしても、それを打ち破れないとは限らない。追いに追えば、本当に撤退させ

られる可能性もある。

 しかしそれも江陵から軍が発し、それを知った秦軍が江陵へ移動し始めた事を知るまでの間だった。

 秦軍が江陵を落としに行ったとも考えられるが、そうだとしても同じ事。楚燕であれ、秦であれ、封じ

られる事に変わりない。事態は好転しないのだ。

 胡虎は来た事を悟った。

 今こそ己が使命を果たす時。これこそが天命であろうと。




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