18-6.生ある時


 胡虎は自分にできる全てを尽くし、撤退の準備を進めた。後先の事は考えず、凱聯の意向も半ば無視し

ている。凱聯もこの状況が不利である事は知っている。意地の為に退けないが、本心はさっさと退きたい

筈だ。だから胡虎が無理矢理やったという形を繕えば乗ってくると考えた。

 そしてそれは当たった。しかし問題はここからである。

 逃げるとしてもこのままでは楚燕軍と江陵軍に挟撃されるは必定。秦軍の動き次第で江陵軍を抑える事

ができるかもしれないが、今更秦が味方してくれるとは思えない。

 生き延びるには、窪丸からの増援と共に江陵軍、秦軍を撃退し、窪丸にまで戻るしかない。

 退こうとする所へ楚燕軍が攻撃してこないか、という不安があるが。楚燕は時間をかけても確実に事を

進めようとしている。挟撃態勢が整ったとはいえ、逸って単騎襲うような事はしないだろう。必ず江陵軍

と足並みを合わせる。

 今すぐ戦闘になる事はない。

 胡虎は例えそれが詰む前の数手でしかなくとも、時間が残っている事に感謝し、何とか無理を通す方法

を考えた。一見不可能に見える事でも、現実にはまだ突破できる可能性が残されている事がある。最後の

最後まで諦めてはならない。

 陣を崩さないよう慎重に後退を続けさせながら、胡虎は殿(しんがり)として最後尾に付き、楚燕の動

きを窺(うかが)っている。

 蛇のように付かず離れず迫る楚燕軍に苛立ちと恐怖を覚えないではなかったが、彼の内に燃え盛る使命

感が恐れを打ち消し、誰よりも冷静であり続けさせた。

 程無く、秦軍の裏切りをはっきりさせる報が入ってきた。秦軍は江陵軍と交代するように江陵に入ったら

しい。楚軍に凱聯軍を挟撃させ、秦軍が窪丸からの援軍を食い止める、という作戦なのだろう。凱聯軍にと

っては止めを刺されたにも等しい。

 だが窮地は覚悟を強くさせる。胡虎は希望が潰されていく事にうろたえず。その姿は凱聯と真逆であり、

彼の芯の強さ、強靭な精神を証明するに充分で、兵達の胡虎への評価は益々高まった。

 圧倒的不利な状況を覆す手があるとすれば、それは一致した強い意志である。共に成し遂げようという

思い、それだけが奇跡を現実にする。

 未だ希望は費えていない。むしろ希望を新たにしたのだ。

 凱聯軍は慌てず慎重に進んでいく。追われている立場である事に変わりないが、驚くほど兵を動揺させ

ていないのは、一つにその速度が関係している。ここで焦って速度を上げれば、それこそ追われている気

分を強くし、軍を混乱させる事になる。

 こういう時にこそ堂々と振舞い、豪胆な行動を採る。それが兵を統率する要である。決して追われてい

るという雰囲気を出してはならない。

 極論すれば、自分が追われていると思わなければ、追われている事にはならない。挟撃もまた同じ事。

二つの軍に挟まれるとしても、それで兵力が倍になる訳ではない。ただ前後に敵が居る、それだけの事。

むしろ敵が分散していると考えれば、そこに優位を見られるかもしれない。

 冷静に眺め見る事ができれば、兵の混乱も最小限に抑える事ができる。

 机上の空論といえばそうかもしれないが、今の所は上手くいっているようだ。悠々と進むその姿からは、

不利な状況を窺えない。張子の虎であれ、敵が襲ってこない今ならば、有用か。

 勿論、いざ戦いとなれば虚勢など吹き飛ぶ事は理解している。

 この状態は自分に言い訳しながら現実逃避しているようなものだ。実際に前後から敵に襲い掛かられれ

ば、恐怖心を取り除く事などできはしない。兵は乱れ、惑うだろう。

 それを防ぐ為には虚ではない確かなもの。兵を鼓舞できるだけの勝機、対策、寄りかかれるしっかりし

た何かが必要だった。

 その何かが見付からない。命を捨ててもまだ、逃がせるという自信がない。双にでも救援に来てもらい

たい所だが、今救援にきてもらいたいのは双の方か。楚燕が離れた事で多少楽になっているだろうが、天

軍で手一杯の双に楓を心配するような余裕はないだろう。

「こうなれば回り道するしかないか」

 このまま道なりに進んでも江陵軍が待っているだけ。それならばいっそ進む道を変える事で、状況を変

化させる事ができるかもしれない。

 進路を変えるとすればその先は一つ。

「南西へ向かう」

 南西には越、そして秦がある。



 秦は越領を通らなければ楚へ達する事ができない。秦軍がああいう動きに出たという事は、越とも何ら

かの密約を交わしていると見ていい。

 しかし胡虎はそれが直接秦と越に密接な関係ができた事を示す理由にはならないと考える。

 越は商業優先の国。四商を退き、王、越獅(エツシ)の権威を高め、新体制になってからもそれは変わ

っていない。越は受けられる利益以上の物を対価として支払ったりはしないだろう。この場合も秦と共謀

して楓に敵対するというのではなく、あくまでも中立の立場を貫こうとする。それが最も越の利益になる

からだ。

 越は領土欲が少ない。商いさえ広がればよく、農地や労働力を増やそうとは考えていない。むしろ広が

りすぎれば防衛し難くなり、良い事はないと考えている。呉の領地を奪ったのは例外である。

 それに越は軍を自国外に出す事を極端に嫌う。

 そういう具合であるから、わざわざ自分から渦中に飛び込むような真似(まね)はすまい。今凱聯軍が

向かっても、こちらが何もしなければ攻撃される恐れはない。通行許可を得られれば、無傷で通り抜ける

事も可能だろう。

 秦もその事を理解している。

 楚と秦が協力している以上、退路を塞ぐ事にあまり意味はないが(楚から補給を受けられる為)、越を

通って逃げられるとなれば話は別だ。

 秦軍の動きは速かった。凱聯軍の動きを知るとすぐに江陵を出発し、凱聯軍の先回りをするべく南西に

向かった。凱聯軍と秦軍が目的地まで到達する距離はそう変わらない。焦っている筈だ。

 楚燕も挟撃を諦め、江陵軍を江陵に戻している。今度は秦軍と挟撃するつもりかもしれない。

 後は凱聯軍と秦軍、どちらが先に目的地へ到達するか。それが勝負の分かれ目だろう。



 軍配は秦軍に上がった。退路を事前に準備していたからだろう。凱聯軍は発作的に南西へ向かった。当

然準備などしていない。どちらが早く着けるかは言うまでもない。

 その上、越は河川が多く、その付近には緑が茂っている。交通の便は水運を除けば良いとは言えず、そ

の事もまた凱聯軍に不利に働いた。

 しかし追い詰められた事で腹を括ったのか、速度を落とし、堂々たる進軍に戻り、背後から迫る楚燕軍

を待つようにゆっくりと南下、秦軍に臨(のぞ)む。

 戦法も変えており、秦軍に姿を見せた頃には、険しい地形に適する為だろう、軍を少数部隊に分け、部

隊間の距離もできるだけ広げている。部隊数が少ないようだから、おそらくどこかに伏せているのだろう。

 凱聯の姿も前衛に確認できたとか。わざわざ見せ付けるように自分を配してる点が彼らしい。秦も凱聯

という男の事はよく調べている。

 せめて最後は華々しく散ろうというつもりなのだろう。全く愚かな事だ。

 いや、もしかすると自分を囮にするつもりか。

 今までの冷静な進軍、そしてここにきての作戦変更を考えれば、よほど冷静沈着な副将が付けられてい

る。それは自儘(じまま)な凱聯に自説を変えさせるくらい優秀である。とすれば、凱聯というものの性

格を利用する事も充分に考えられる事だ。

 迂闊(うかつ)に手を出せば火傷するかもしれない。

 秦軍は王自らが率いている。兵質も悪くないだろうし、今までの動きを見れば王の実力も明らかだ。的

確に状況判断し、迅速に動く力がある。それは秦の名将たる王旋(オウセン)にも負けていない。

 秦軍は冷静に計り、ここは楚燕軍を待って、いや楚燕軍に攻撃させようと考えた。秦軍は言わば部外者、

手を出さず傍観していても痛むものはない。手を出さない事は裏切り者という汚名を避ける事にもなる。

 反して楚燕は当事者。できれば自身の手で凱聯軍を打ち破り、威を示したいと考えているだろうし、勝

手に戦ってくれるだろう。

 いやらしい計算といえるが、確かに秦は最後まで何もしない事が最良であった。



 楚燕軍が到着し、秦軍を南に配して、北から攻めかかった。この時には江陵は窪丸からの援軍によって

包囲されていたようだが、構わない。防衛の為の兵力は残してある。絶対に落とせぬとは言わぬでも、今

日明日に落ちる事はない。

 楚燕もまた軍を小部隊に分け、伏兵に注意しながら慎重に凱聯軍を攻める。

 兵数は楚燕軍の方が上、質も楓流が南方に精兵を率いて行っている事を考えれば五分五分か。楚燕も準

備を整えてきたのだ。その上凱聯軍は二転、三転する状況に追われ、満足に休む事もできず、疲労がたま

っている。

 どれだけ隠そうと、追う側と追われる側の心理面の優劣は覆(くつがえ)らない。凱聯軍が命を捨て、

死兵となる事には恐れを抱くが、覚悟はしている。常に数的有利を保つよう命じ、一部隊ずつ確実に撃破

していった。

 少しでも戦を長引かせる事で状況の変化を待つつもりか、楚を疲弊させようというのか、凱聯軍側に積

極性が欠ける事も幸いした。二千以上の死傷者を出したが、最後の一兵まで討ち、捕らえる事に成功する。

 しかしここで疑問が浮かんだ。明らかに兵の数が少ない。情報が確かなら五千はいる筈なのに、その半

数も確認できない。

 敵将も凱聯ではなく、影武者であった事が判明した。討った首は凱聯ではなく、副将の胡虎のものであ

るという。

 これは一体どういう事だ。楚燕は激怒し、捜索を命じたが、付近をいくら捜しても一兵たりとも出てこ

ない。

 そうこうしている内に双領の天軍から報が届く。

 凱聯軍を確認したというのだ。

 楚燕は一杯食わされた事に気付き、歯噛みして悔しがったが、後の祭り。今できる事は一時でも早く北

上し、次に備える事だけ。

 秦もまたこの報を聞いて慌(あわ)てたが、考えてみれば悪くはない結果だ。楓の副将が討ち取られ、

両軍共に被害が大きい。。

 それに比べ、秦は一兵も失っていない。

 予想とは違ったが、秦王はこの結果に満足する事にして軍を引き上げさせた。楚が救援を乞うてくるか

もしれないが、知った事ではない。勝手に共倒れになればいい。

 これ以上軍を出しておく理由はなかった。



 北上する楚燕が恐れるのは、凱聯が西城を襲わないかという点だ。

 双領に抜けたという事は西城に向かったのではないのだろうが、敵軍の行動を見聞きして報告が届くま

でには時間がかかる。もしかしたら手薄な西城に進路を変えているかもしれない。

 捨てて置けない事態である。

 とはいえ、ある程度冷静さを取り戻し、上っていた血が下りてくると、楚の戦場が一つではなかった事

を思い出す。

 江陵である。今も江陵は窪丸軍に包囲され、激しく攻め立てられているはずだ。これを放って西城へ戻

っていいものだろうか。

 しかしほぼ全ての兵を率いて出ている今、西城の防備は薄い。江陵はまだ耐えられるだろうが、西城は

一瞬で落ちてしまう可能性がある。残している兵も弱兵、訳も解らないまま降伏してしまう事さえ考えら

れる。

 そう思うと居ても立っても居られない。だが江陵はどうする。放ったまま戻って本当に良いのか。江陵

に行き、江陵軍と共に敵援軍を叩いておくべきではないのか。そうすれば失策の穴埋めになるかもしれな

いし、士気も上がる。

 命からがら逃げ去った凱聯が態勢を立て直すには時間がかかるだろう。今は頼りの副将もいない事であ

るし、尚更だ。

 楚燕は迷ったが、西城へ戻る事にした。

 色々考えたものの、西城を落とされるという恐怖心が一番強い。楚燕は自分の力を過信してはいない。

自信を持っているが、できない事があるし、苦手な事、不利な状況がある事を知っている。

 彼も姜尚から多くを学んだ。その全てを忘れた訳ではない。

 ただし、何もせずに行き、江陵を見捨てたと取られる事を恐れた。そうなれば士気に関わるし、民の信

頼を損なってしまう。

 そこで二千の兵を割き、江陵へ援軍として向かわせた。これで満足に戦える兵は三千程度になってしま

うが、西城に篭ればある程度の軍勢にも抗する事は可能。それならなるべく援軍に送る数を多くし、早々

に窪丸軍を討たせ、それから西城へ向かわせれば良いと考えたのである。

 凱聯軍が恐ろしいのは、手薄な西城を襲われる事だけ。それ以外は脅威ではない。

 全ての指示を終えた後、自身は急ぎ西城へ向かう。

 胡虎にかなりの時間を稼がれたが、決して遅くはない筈だ。楚燕軍が急ぎ向かっていると知れば、西城

に残してきた将兵も活気付くだろう。



 楚燕軍が無事西城へ帰還する。

 心配していた凱聯は双と揉めているらしく、未だ遠い。双は天軍討伐を主張しているが、凱聯は胡虎の

敵討ち(というのは名目で、少しでも早く恥を雪ぎたく、功が欲しい)を主張する。両者の意見は平行線

を辿り、歩み寄る様子はどちらにも全く見えないらしい。

 胡虎という抑制薬を失った凱聯を誰も止められない。魏繞が胡虎の遺志を継ごうと懸命に調整している

ようだが、彼には胡虎に代われるような能力も才もない。惨(むご)いようだが、それが現実だ。

 凱聯という暴れ馬を操れる者を失った。これは楚が姜尚を失ったのと同じく、楓にとって重大な問題で

あった。

 江陵を攻めていた窪丸軍も早々に撤退したようである。凱聯軍が逃げおおせた以上我を張る必要はない

と考えたのか、楚燕が送った援軍が来ると聞くやさっさと退いて行ったそうだ。

 優秀な将が率いていたのだろう。凱聯軍が双に行った以上、窪丸と集縁一帯が手薄になる。これでは例

え江陵を落としたとしても、維持するのが難しい。窪丸の方が遥かに防衛能力が高いし、少しでも被害が

少ない内に帰すのが上策といえる。

 江陵の被害は少なくないようだが、不問とする事にした。今は味方同士で争っている場合ではない。敵

軍を撃退できたのだから、むしろ称(たた)え、褒美(ほうび)を与えておく。楚燕も今は丸くならざる

を得ない。

 何しろ目と鼻の先に凱聯軍が居るのだ。双と意見を戦わせているとはいえ、いつ強引に出てくるか解ら

ない。彼の我の強さは行動の早さとそれを遂げる執拗さを意味し、決して馬鹿にできるものではなかった。

 楚燕軍の被害も多いし、油断していられない。

 これからが勝負だと慎重に構えている。



 楓流に胡虎の死を告げたのは、彼の姉である胡曰(ウエツ)だった。彼女は楓流の内縁の妻として尽く

し、今は集縁にて楓流の后であり体の弱い楓黄(フウコウ)の世話をしていたが。弟の死を知るとそれを

楓流へ伝える使者に強引に志願し、楓黄の口添えもあって叶い、ここまで来たという。

 服装も男が着るものを着、一人の武将といった姿である。南方へ到着するまでの時間もかなり速く、そ

れが彼女の身体的能力の強さを証明している。

 だがこの時はそのような点に気付く事なく、自らの半身とも言える胡虎の死に衝撃を受け、楓流は呆然

と立ち尽くして人の目も気にせず嘆き、涙まで流し始めた。

 そして凱聯を罵(ののし)り、秦を罵倒する。

 しかし胡曰がさっと近付き、何事かを口にすると、我に返ったのかその場に居合わせた者達に無礼を詫

び、私室へ胡曰を伴って篭(こも)った。

 臣は何事かを察したが、そういう訳ではない。

 嘆いている暇などないのだ。素早く手を打たなければならない。胡虎が死んだ今、趙深にだけ任せてお

く訳にはいかなくなった。

 楓流は胡虎の死を振り払うように対策を練る事に没頭し、すぐさま趙深と凱聯と窪丸に向けて使者を発

し。秦へ今回の行為を非難する使者を送る事にした。この役目は弁舌(べんぜつ)に優れる明開(ミョウ

カイ)に任せる。

 他には、蜀に急ぎ軍を用意させ、集縁へいつでも送れるよう準備させている。

 秦を信用させる為に採った手が悉(ことごと)く裏目に出ている。直接手を出していないという事は、

攻めに転じる意思が無いという事かもしれないが、油断ならない。楓と敵対するのなら、この状況を放っ

ておく理由は無いからだ。

 狄(テキ)や子遂(シスイ)を動かす事もありうると思い、布や梁(リョウ)、伊推(イスイ)にも警

戒するよう命じておく。勿論その使者に労(ねぎら)いの言葉と土産の南蛮物を持たせる事も忘れない。

これからも世話になるのだ。細やかに慰撫(いぶ)しておくべきである。

 一通りの事を済ませた辺りで、楓流はようやく胡曰の変化に気付く。

 これは一朝一夕で身に付く変化ではない。一体どうしたのかと聞いてみると、胡曰はこう言った。

「私達姉弟の命は貴方様の物です。貴方にお仕えする事が喜びでした。表向きの仕事は弟が、奥向きの仕

事は私が、二人で初めて一人前の働きができたと思っておりました。ですがお后様のお世話をさせていた

だく中で、こんな私にも様々な事をお教え下さり、妹にするようにして慈しんで下さいました。そして私

もまた、他にもできる事があるのではないか、貴方の為にもっと何かできる事があるのではないかと思う

ようになったのです。男ではない、女である私だからこそできる何かが。

 考えた末に辿り着いたのが、常に貴方の側に居り、貴方を護る兵を作る事。ただ侍るだけでなく、相談

相手になり、慰める相手になり、表奥共に貴方にお仕えできる女兵隊を作る事。それを私達はちかきにて

まもる者、近衛と名付けました。

 その長が私でございます。勝手な事とは承知しておりますが、弟が死んだ今になって思えば、これも天

命。志半ばで果てる弟を哀れに思い、私にその遺志を継げる機会を下さったのだと思います。

 この胡曰。今日からは女として、男として、貴方様にお仕え致します。私を弟と思い、何なりと命じて

下さい。死しても我ら姉弟の魂はいつも貴方と共にあります」

 楓黄が以前から胡曰と共に何かしていた事には感付いていたが、まさかこのような事になっていたとは

・・・。楓流は驚き、そしてまた胡虎を想って涙した。確かにお前の魂は姉である胡曰に宿っている。凛

々しき眼差しがそっくりだった。

 近衛となる女性もすでに数人育ててあるという。それは楓臣の子女であったり、楓黄が秦から連れてき

た女官であったりするが、忠誠心を疑う必要はなく、文武に優れた者達であるという。

 これからもこれと思う女性が居れば、近衛に取り立てていくつもりらしい。後は楓流の許しさえ得れば、

正式な部隊として発足できる。

 楓流は少し迷ったようだが、最後にはそれを許した。

 弟を失って一番辛いのは胡曰だろうと思ったからだ。おそらく彼女は自分だけが戦地から離れた場所で

生きる事に我慢ならないのだろう。弟が命を賭して役目を果たしたというのに、自分だけがおめおめと生

きていられない。そう思ったのだ。

 楓流には痛いほどその気持ちが解る。己が半身を失った今、彼もまた行動せずにはいられない。

 だが胡曰の悲壮(ひそう)な決意が彼の心を冷静にさせた。鮮烈な驚きが彼の脳髄を走り、その刺激が

一時耐え難い悲しみを忘れさせたのだろう。

 胡虎への手向けになるものがあるとすれば、それは彼の死を無駄にせず、生きる為の糧とする事だ。そ

の為に彼は死んだのであり、それだけを願っていた。

 それを一人で悲しみ、嘆くだけで彼の遺志を無為にするような事をすれば、それこそその死と生を侮辱

(ぶじょく)する事になる。

 楓流は即座に胡曰へ楚燕討伐を命じ、集縁へと返した。一晩の内に思い付く限りの事を叩きこんでいる。

すぐさま胡虎の代わりが勤まるとは思えないし、兵が突然現れた新たな将に戸惑いもし、反感を持つかも

しれないが、胡虎の姉である彼女ならばできるかもしれない。

 そして実績さえ出せば、自ずと人は付いてこよう。

 自分が南方から動けないのが腹立たしいが、意図せず心強い味方を得た。天運は去っていない。楓流は

そう信じ、準備に取り掛かる。

 秦と敵対する以上、南方でやるべき事は無数にある。嘆いている暇などない。

 涙など、胡虎を侮辱する行為でしかない。



 趙深も胡虎の訃報を聞くや、大いに嘆(なげ)いた。彼も胡虎を買っていたのだ。そして最も大きな不

安要素である凱聯を止められる者が居なくなった事に対し、危機感を強くしたと思える。

 しかしいくら嘆いてもどうにもならない。やらなければならない事が山積みだ。

 衛に閉じ込められていたが、趙深も遊んでいた訳ではない。調べられる事は調べ。工作できる所はして

おいた。

 斉もそうだが楚もまた一枚岩ではない。特に項関と李晃が捕らえられてからは楚燕に対する不信感を強

くしている。項関とは以前一悶着あったからそれが理由と言えば理由になるが、李晃との間には何もない。

それなのに功臣を自分の意に従わぬというだけで幽閉してしまうとは。

 これでは大して功がない者はどうなるか。

 不満を抱く者は多い。しかもそこまでしておいて結局凱聯には逃げられたのだ。副将を討ったらしいが、

それでどうなろう。被害が多く、まったく振るわない。自儘に振舞った結果がこれでは救いようがない。

このままでは仇討ちに燃える楓にしてやられるのではないか。頼りの秦も協力的ではないようであるし。

 地道な工作もあって、楚燕を孤立させ、楚王と斉の間に新たな関係を結ばせる事ができそうだ。これが

叶えば楚燕を謀反人に堕とせる。そうなれば今彼に従っている者達も考えを改めるだろう。

 軍勢は送れぬでも、やれる事はいくらでもあった。

 得た情報を楓流へ送る事も忘れていないし、双を動かすべく双政府に働きかけてもいる。本当ならば凱

聯にも一刻も早く指示を出すべきなのだが、趙深が行なえば逆効果になると思い、楓流からの使者を待っ

ている。

 胡虎を失った責任は自分にある。これ以上失態を続ける訳にはいかない。

 趙深はその責に報いる事を胡虎の魂に誓った。今の趙深にしては珍しく、感傷的な面が強く出ている。

 そして思う。胡虎と凱聯が代わっていたなら良かったのにと。そうすれば厄介事はここで終わっていた。

 これがまだ凱聯という不運の始まりに過ぎない事を、趙深は誰よりも理解していたのだろう。それに対

する怒りは、もしかすれば楓流が抱いているものよりも強かったのかもしれない。

 彼にはこれ以上理不尽な運命は無いように思えた。最も信頼すべき者が、もっとも信頼できない者の身

代わりとなって死ぬとは、なんと言う皮肉であろう。

「これも我らがやった事への報いだというのか」

 趙深は少し解らなくなってきている。

 天意。それは何であろう。本当に人を救うのか。

 解らなくなってきていた。




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