19-12.満ちし絆


 楓流は人選に悩んでいる。何の人選かと言えば、鏗陸の嫁にする女性の事である。

 彼は二つの方向性を考えた。

 一つにはいつでもどこからでも帰ってこれる場所。彼だけを暖かく迎えてくれる存在。

 一つには常に鏗陸に同道し、共に事を成す存在。誰よりも信じられる半身。

 どちらにも良い点がある。

 前者では桐洵が良いだろうと考えたのだが(ここから彼女を天水から動かす気が無かった事が察せられる)、

鏗陸としてはおそらく後者の方がありがたいだろうと思い、その案は廃止した。

 決まった所で、それに相応しい人物を探す。

 鏗陸に想い人でもいれば話は早いのだが、各所にひいきにしている女は居ても、今の所決まった一人は居

ないようである。それなのに今楓流の意志で結婚させるのもどうかと思うのだが、年齢を考えればそろそろ

良い頃合であるし、結婚すれば人から受ける印象も変わる。

 それは今の楓にとっても彼自身にとっても悪くない事。

 様々な事情をを加味した結果、最後に残ったのは白包(ハクホウ)という娘。この娘はあの白祥(ハクシ

ョウ)の縁者であり(娘だとも、親類の娘を預かっていた、孤児を拾って育てていた、などなど諸説あって

よく解らない。ここでは単に縁者としておく)、鏗陸とも面識があってその仲は悪くなく、彼らを知る人の

中には、深い仲だった、と言う人も居る。

 その真偽がどうあれ、信頼していた鏗陸に嫁ぐとなれば、白祥も冥府で喜んでくれるのではないだろうか。

 もしかしたら生前そのように考えていたのではないか、などと想像してみたりもする。楓流も歳をとった

という事か。

 楓流はまず鏗陸に会い、その話をした。どの道一度呼び寄せるつもりだったので丁度良い。鏗陸は驚きな

がら黙って聞いていたが、最後に珍しく口ごもった挙句、白包が良いなら、という条件で承諾した。

 楓流はそこに何も思わなかったようだが。この反応から察するに、鏗陸の方には以前から何らかの想いが

あったのだろう。

 承諾を喜んだ楓流は即座に窪丸へ使者を発し、急で申し訳ないが返答を聞いてくるよう命じた。その使者

に近衛を用いている点を考えても、楓流がこれをより個人的な、そして重要な出来事と捉えていた事が解る。

 単純に女の事は女に任せた方が良い、と考えたのかもしれないが。

 そして鏗陸と後々の事を話しつつゆっくりと返答を待つつもりだったのだが、驚く事に白包本人が早馬に

乗ってやってきた。使者は止めたらしいが、どうしてもという事で最後には受け容れるしかなかったようだ。

気が強いのか性根が座っているのか、どちらにしても楓流が望んだ気質の持ち主らしい。

 彼はこの態度に満足し、直々に応対する事にした。本人が居ては返事がし辛いだろうと、初めは鏗陸を外

させていたのだが、白包は堂々たる態度で、当人に伝えるべく来たのですからどうか会わせて下さい、と頼

むので、その態度にも好感を持った楓流は即座に呼び寄せた。

 いや、もしかしたら何であれ全て応じるつもりであったのかもしれない。

 何しろ相手は白祥の縁者である。楓流としても粗略に扱う訳にはいかない。それに彼女は美しいが女を武

器とするのを嫌っていたようであるので、そういう所も彼の好みに合ったのだろう。

 そして鏗陸が現れたのだが、彼は見るからに落ち着きを失くし、まるで子供に還ったかのようであったと

いう。白包の堂々たる態度に亡き白祥を見たのか、それとも別の理由であるのか。この姿を梁国の者が見れ

ば仰天した事だろう。

 白包は朗々たる声で返事を述べる。

「私には異存ありません。ただし、白の名を絶やす訳にはまいりません。それが亡き父への手向けであると

存じます。鏗陸様に継いでいただきたいとは申しませんが、私達に子ができた時、白家を継がせる事をお許

し下さればと思います。それさえ約束していただけるのなら、私はどこにでも参りましょう」

 堂々としている中にも楓流への礼儀、鏗陸への親密さは隠しようもなく、全ての動作に心の中に凛と響く

心地よいものがある。

 娘らしくない動きやすい衣服もこの娘が着れば美しく映える。客人というよりは伝令か何かのように見え

る立ち居振る舞いも様になっている。

 白祥が女子供に戦闘訓練を課すとは思えないが。有事の際の心積もり、その為の訓練程度ならつけていた

かもしれない。或いは若き頃の白祥のように、思う所あって自発的に学んだのか。

 ともあれ、こうして並んでいるとどちらが近衛か解らなくなってくる。もし彼女が白祥の縁者でなければ、

とうに組み入れられていたかもしれない。そして彼女もまたそれを望んだだろう。そういう気質というのは

内から外に溢れ出るものである。

 楓流は彼女の全てを気に入り、一も二もなく願いを許した。それに彼としても否定する理由など無い。

 鏗陸はと見れば、相変わらずの態度だが、ゆっくりと頷いた所を見るに異存無いようだ。しばらく見てい

ると、意を決したのか口を開く。

「私には初めから異存などはありません。亡き白祥様の御遺志を継げる。これ以上の喜びがありましょうか。

私は今から白陸と名を改めたく存じます」

「許可しよう」

 白包を見ると、彼女も満足げな様子だった。緊張も解けたのか、やわらかい笑顔を見せる。こうして見る

と、確かに美しい女だ。

 楓流は彼女が近衛に入らなかった事に満足し、同時に少しだけ失望していた。



 白包はそのまま白陸の副官になり、行動を共にする事が決まった。使者となった近衛に申し含めてあった

からそれなりの準備をしてきていたし、足りない物は遠慮なく与えた。結婚祝いも兼ねてか、国有の建物で

あればどこでも自由に使える権利を与えてもいる。

 これで彼女らは例えそれが楓流の為に用意された宿舎であれ、好きな時に使う事ができる。

 つまり楓領の全てが彼女らの家であり、住まう場所。そしてそれを止める事は楓流にさえできない。賢い

二人の事だ、その意味と望まれている役割を即座に理解しただろう。自分達が定住する事は、隠居するその

時まで無いという事実と共に。

 白陸はすでに覚悟していたが。白包も印象通りの性格であるらしく、何ら異存ないようだった。むしろそ

のつもりで出てきたのだろう。

 使者によれば近衛という仕事にも非常に興味を持ったようで、根掘り葉掘り聞いてきたそうだ。それは自

分がこれからするだろう仕事に役立てる為でもあったのだろう。

 白包を副官に付けた事の成果は早くも出ている。

 白陸を夫として立てながら、彼女は彼女で男の踏み入れられない場所に入り込んで情報を仕入れ、独自の

人脈、情報網を築きつつあるらしい。今はまだ寡少なものでしかないが、これがもし大陸全土に広がれば、

楓流の諜報網とはまた別の大きな情報源となってくれるはずだ。

 勿論、近衛が握る情報も惜しみなく白夫妻に与えている。

 白陸も妻に良い所を見せたいのか懸命に、そしていつも以上に冷静に働き、梁政府を操縦して法瑞の権力

を分散させ、同時に軍事力を抑える方向へ持っていこうとしている。

 それに対し法瑞も現状に相応に満足しているし、元々楓流の意に背く意思は無い。誰が思うより好意的に

二人を迎え入れ、できる限り盛大に宴を催(もよお)した。白陸に持たせた直筆の書状が利いたのだろう。

 或いは、彼は彼で白夫妻を利用する腹なのかもしれない。もっとも、それこそ白夫妻の意図する所である

のだが。

 法瑞は楓流の命に従い、北へ集めていた兵を解散させ、配備されていた場所へ戻した。

 梁が矛を収めた事で狄も警戒を弱め、軍を解散させる事はしないが、そこに漂っていた一触即発の空気は

消えている。

 それを見届けた後、白夫妻は狄に赴(おもむ)き、より詳しい情報を得ながらそれぞれを慰撫した。白包

も岳暈、新檜という二人の実力者の妻子に近付き、良好な関係を築きつつあるという。

 近衛が剛とすれば彼女は柔と言ったところか。凛とした部分ではなく、あのやわらかな笑顔の方が本来の

彼女であるのかもしれない。

 そして楓流は今まで妻子といった所まで気にかけていなかった事を反省し、そういった点にも頭を使う事

にしようと今更ながら考えたようである。

 逆に言えば、それだけ王や実力者、つまり男が中心で、その周りに要る妻や子はそれほど重要視されてい

なかったという事か。例外はあるとしても、それが一般の考えであるのかもしれない。

 そう考えれば、近衛も賦族兵のような印象であったのか。

 この辺りはまだまだ調べる余地がある。

 ともあれ、こうして白夫妻は中諸国に生まれつつあった望ましくない流れを変える事に成功した。その上

で彼女達はそれを決定付けるように、大々的に祝言を挙げている。これには各国の実力者を呼び、楓流だけ

でなく趙深も参列したという。

 楓の二大実力者が揃ったとなれば、属国達も相応の人物を送らなければ格好が付かない。自然と実力者か

それに近しい人が集まり、彼らと話できる格好の機会となった。

 祝言には中諸国の名立たる者がほとんど出席し、流石に双や楚、秦などからは一段下の者が来たものの、

どれも王に次ぐ重臣達だ。

 その辺は楓流、趙深が直接工作したのだろう。彼らも今中諸国で大規模な戦を起こされたくはない。多少

無理しても応じるしかない、という訳だ。

 祝言は白夫妻の立場を非常に重くさせた。ある意味この二人は楓とその同盟国の和平の象徴となったので

ある。これで全てが解決する訳ではないが、猛立っていた心を和らげる理由とするには充分であり、戦など

言い出せぬ気分を植え付ける役にも立った。

 祝言が終わった後、白夫妻は返礼という意味合いで改めて中諸国を回り、民や兵にも強く印象付けた。祝

いの返礼と称して様々な物を誰彼問わず振舞ってもいるので、誰からも好意を持たれた。

 普段ならこのような人気取りは禁じられるべきだが、祝い事なら何も言えない。各国政府も渋々認めるし

かなかったようである。

 この策は誰が思っていた以上に中諸国の動きを封じさせる事になる。

 楓は時間を得た。

 他の誰にとっても、それは言える事だとしても。



 残る問題は法瑞をどう遇するかだが、大人しくさせる事は難しくないようだ。白陸が楓流の真意を何かの

ついでのようにそっと耳打ちするだけでいい。

 楓流は満足している、しかしこれ以上の事を今は望んでいないのだと。

 偉くなるというのも考えものだ。些細な事でも大事に取られてしまう。楓流が公式に動けば他に与える影

響が強すぎ、意図せぬ結果を招きやすくなる。

 だからこそ手足となる駒が必要なのであり、それが白夫妻という訳である。

 法瑞が大人しくなれば、それ以上は望まない。子遂との事も知っているが、不問にする。全てを閉ざす必

要は無い。人との繋がりを得るという事は、弱みを生む事にも繋がる。

 法瑞、子遂という繋がりは、楓に福音をもたらしてくれるはずだ。

 梁政府に近付く事にも成功している。

 白夫妻は望まれて彼らの庇護(ひご)者となった。それは必ずしも梁政府びいきになったという事を意味

しないが、そこから何を汲み取ろうと向こうの勝手であり、こちらの与り知らぬ事。それを騙(かた)りだ

というのであれば、それもそれで良いだろう。

 楓は楓の為に事を成すのみである。

 狄にも同様に気を配り、岳暈と新檜の仲を以前のものへ戻した。外敵さえいなければ団結する理由は無い

のだから、至極簡単な事である。両者に平等ではなく、新檜寄りに接したのは、軍部にある事を期待するか

らだ。

 不満は一方に押し付けるに限る。平時ならば分散させるのも良いが、今は集中させる方がいい。例え岳暈

が反旗を翻したとしても、現状を崩すのは困難、いや不可能である。討伐できる程度の乱なら、国家安定に

利用できる。

 だからこそ敢えて挑発、爆発させ、その後に討伐する。などという方法が古来から用いられてきたのだ。

これは別に楓流、趙深が編み出したものではない。人が自然発生的に完成させた、言わば人類共通の知恵で

ある。

 趙深の法を記したとされる兵法書、軍讖(ぐんしん)にも、実はこのような策が多い。彼はその多くを無

から生み出したのではなく、あるものを組み合わせ、或いは改変、応用する事で、数多の状況に合うよう仕

立て直し、効果的に用いた。

 それまで無形だったものを体系付ける事ができたからこそ、彼は大軍師などと今も呼ばれているのである。

人類の歴史の中で誰もできなかった、しなかった事を彼は完成させたのだ。その発想と思考力は楓流より評

価されて良い。

 尤も、その軍讖にも楓流の影響は強く残っているようだが。

 やはりどちらがではなく、二人で一人と考える方が良いのだろう。

 二人の出会いこそ、運命と呼ぶべきか。

 天風に対してはあまり触れず、天水と共に桐洵らに任せ、基本的には黙認の格好である。

 子遂は察しが良く、敏感だ。物事を必要以上に大げさに受け取る。だからそういう態度を見せるだけで充

分なのである。

 泳がせておけばいい。

 彼の元部下に対してもどちらかと言えば甘く接している。

 しかし蜀に対しては態度を変えた。はっきりと冷遇している。

 朱榛はあれから大きな動きを見せていないが、王の心を獲り、民や臣の多くを掌握している。反発する動

きもあるようだが、いかにも小さい。前述したように、討伐できる程度の乱なら、朱榛の力を堅牢にするだ

けである。

 反朱榛派の多くは彼に権力を奪われた恨みを持つ臣達だろうが、この者達はずっと何もせず流されるまま

生きてきたのだ。王を諌(いさ)めもせず、自身で何かをするでもない。反乱も大過ないようそっとやるだ

け。矢面に立つなどとんでもない。

 集まって愚痴を吐く程度がせいぜいだ。

 それならまだ王に期待をかける方がいい。王もまた積極性を欠くが、だからこそ心変わりしやすく、朱榛

がそれを逆にできたのと同じ理由で、再び楓に付かせる事ができる。

 王には楓に敵対する意志は無い。秦に対してもそうだ。対岸の火事として過ぎ去ってくれる事を最も望ん

でいる。今は要らぬ事を吹き込まれて気が大きくなっているだけで、夢と解れば以前の彼に戻るだろう。い

や、すでに戻っているのかもしれない。

 そういう毒にもなれない人物だからこそ、今まで半ば放っておいたのだ。

 蜀はどこまで行こうと中立以上にはならない。朱榛もそれを確認する手段でしかない。

 だがもし彼個人が何かしらの力を持てば、国や王の意思とは別に、かつての魯允(ロイン)同様、私怨に

よって行動に出る可能性がある。

 だからこそ敢えて蜀のみを挑発するような行動を採り、中諸国の一つの大きなまとまり、動きから外そう

としているのだ。

 簡単に言えば、蜀を外敵に仕立て上げようとしている。

 蜀は元々中諸国に含めるには関係性の薄い国だ。軍を発したりもしているが、積極的に攻撃に出た事はな

く。あっても全て楓の命。積極性を欠き、常に副次的な役割を受け持ってきた。

 布も似たようなものだが、それよりも更に薄い。地理的にも外れているし、楓への盾、門番として外から

見ていた、という印象が誰の頭にも強く残る。

 戦禍も割合少なく、国土を戦場とした事も少ない。そういう政策をしてきたし、それは唯一積極性のあっ

た人物、蜀礼(ショクライ)が居た時でさえそうであった。彼ができたのは現蜀王を王位に就け、今後の道

筋を決定したくらいか。

 それは言うなれば思想という行動の準備段階であって、実践には程遠い。

 そこに朱榛という行動者が現れた。何についてもはっきりしない所のある王だから、彼が強引に兵を動か

せば、止められるとは思えない。それが蜀に常に付きまとう不安である。

 状況によっては脅威となりうるものだ。

 早い内に片付けておかなければならない。

 謀らずも法瑞の行動によって乱が起きた。鎮まりつつあるが、不安、恐怖といった感情はより現実的な意

味を持って各人の脳に刷り込まれたは

ずである。

 それは統治する側にとって不利益にしかならないが。統治者なのは楓流や秦王だけではない。属国扱いと

はいえ、蜀王達もまたそうである。であれば同様の方法を用いる事で、その権威と立場を崩す事ができるは

ずだ。

 秦と組まれると話は変わってくるが、準備が調っていない今、かの国が動くとは思えない。それも間に集

縁を挟むこの蜀に、一体どうやって援軍を送ろうというのか。

 それでも仕掛けてくるならくればいい。蜀を助けるという大義を掲げるのであればそうするがいい。どち

らにせよ蜀は孤立する。

 子遂や布崔を動かしたいならそうすればいい。各個撃破の好機となるだけだ。

 楓流は考えを修正した。今までのようにただ不安を減じる為だけに行動するのではない。もっと進めてそ

れを無にする、或いはそれに近い状態へ持って行く。

 法瑞には感謝しなければならないだろう。

 ただの厄介者でしかなかったが、考えを変えてみればその立場、評価は大きく変わる。だからこそ恐ろし

く、人の世とは解らないものなのだ。



 楓流は白陸に命じ、蜀に対しての苦言という形でその意を伝えさせた。

 つまり朱榛の事である。それが正式な外交官とでも言うべき白陸の口から出たのだから、楓全体の意見と

して言っているに等しい。

 さすがにこれには家臣一同色をなした。昨今の楓のやり方を見、蜀の態度を見ていれば然るべきものであ

る。中諸国が形だけでも治まった所で、次は蜀。自然の流れだ。

 法瑞が楓の命によって動いていた事を確信した。

 朱榛はこの物言いに対し、大いに異を唱える。これは蜀の威信を無視し、王威、そして民意すら無視する

暴虐極まりない脅しであると。

 家臣一同、この言に同意し、同時に安心する。朱榛が堂々とそう述べるという事は、即ちその後ろにいる

だろう秦もまた同様の考えであるはず。楓を敵にするのは恐ろしいが、秦が居れば別だ。ついに我々は独立

独歩の道を歩む。その時が来た。

 しかし王だけは懐疑的だった。今まで朱榛を厚く遇してきたのが嘘のように首を縦に振らない。

 確かに彼は人に動かされる。自発的に何かをしようとする所が少ない。だがそうであるが故に、冷静に見

ていられる。

 王は無能ではない。

 蜀礼が望んだように、確かに資質があった。それが王に向くかどうかは別として、能力はあるのである。

王という重みも理解しているし、国を動かすという責務も理解している。人任せにしてはいるが、何も考え

ていない訳ではない。

 真剣に考え、重みを感じるが故に動けなくなるのだろう。何も考えていなければ、慎重である訳がない。

 王は今の状況で秦を後ろ盾にする事の愚かさを知っている。

 まだ中諸国全体の動向が定まっていないのなら、つまり法瑞が動く前ならば良かった。誰がどう動くか解

らず、容易に手が出せない。あの頃ならば秦を後ろ盾にするという政策は悪くなかった。上手くいっていれ

ば、蜀を中心に反楓同盟のようなものすら築けたかもしれない。

 そうなれば秦も楓も蜀を無視できなくなり、行動の幅は(それまでと比べれば)無制限に広がる。そう思

えばこそ、朱榛の言にも頷いてきた。

 しかし状況は変わった。今更独り立つ事に何の意味があるだろう。孤立し、滅ぶだけではないか。

 確かに布も天風も名ばかりの従属であるかもしれない。裏で憎み、恨んですらいるかもしれない。

 でもだからどうだというのだ。楓の手は以前より奥深くまで入り、白夫妻によって外交面からも動きを封

じられている。楓の絶対敵である子遂も力を失い、狄もどうしようもない権力争いに終始している。

 最早楓は中諸国の乱を恐れていない。むしろ望んでさえいる。

 このままでは蜀に未来は無い。挑発に乗れば滅ぼされるだけ。膝を屈し、地を舐めてでも耐えなければな

らない。事を起こすのは今ではないのである。

 しかしそれを理解できる者が王の外(ほか)に誰もいなかった。今は抑えているものの、朱榛に与えた権

力、そして育っている権威を鑑(かんが)みるに、いつまで耐えられるか解らない。

 軍部を取り込んでいる可能性もあるし、王が飾り物になっているのは否定できない事実。朱榛に任せ過ぎ

た。危険と知りつつ、ついつい楽な方へ逃げてしまっていた。

 いっそ楓に亡命してしまおうかとも考えたが、そんな事をすれば朱榛に完全に国を乗っ取られてしまう。

王が国を捨てる訳にはいかない。

 様々な想い、考えが頭の中を過ぎっては消えていく。最後に思い浮かぶのはいつも同じ顔。蜀礼さえ生き

ていれば、こんな事にはならなかっただろうに。

 いや、それも言い訳か。

 全ては人任せにしていた自分が悪いのだ。王である自分さえしっかりしていれば、蜀礼が望んだ王となり

率先して政治を執ってさえいれば、こんな事にはならなかったろうに。結局楓か秦に対抗する事は不可能で

も、もう少し別の、そしてましな道を進めていただろうに。

 王は心から悔いた。そして誓う。

 座すべき時はすでに過ぎた。

 責任を果たさなければならない。



 朱榛が内通の過度で捕らえられ、審議もそこそこに処刑が決まったが、あわやという所で逃亡した、とい

う報が楓流の耳に入ったのはそれから間も無くの事であった。

 どこまでが真実かは解らないが、とにかく蜀から朱榛の姿が消えたのだ。今更幽閉する意味は無い。逃げ

たか殺されたかのどちらかだろう。

 蜀内は混乱の極みにあり、様々な噂、憶測で溢れかえっているという。

 この挙に対して否定的な臣も多く。中には身を弁(わきま)えず王に詰め寄った者までいるとか。朱榛の

次は混乱を虎の衣としたと見える。

 これに対し王は毅然とした態度で挑んでいる。今までが嘘のように堂々たる姿勢らしい。王をなめていた

者は厳罰に処され、風紀が一新した。

 果たしてその真意はどこにあるのか。王に一体何が起こったのか。

 楓流は白夫妻に早急に調べるよう命じると共に、あるだけの間者を蜀へ投入した。

 近頃は意外な事ばかり起こるものだ。法瑞もそうだが、蜀王の心を量り損ねていたのかもしれない。

 修正の必要がある。




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