2-10.窮転


 奉采は疲れた表情をしている。

 今まで楓流と奉采とで支え、凱聯が幾許(いくばく)かを分担していた重みを、その両肩へと独り受け

持つ事になったのだから、それは堪るまい。明らかに過ぎた重みであった。

 しかし彼らしく、一言とて何も発する事はなかった。細かい所がある男だが、その忍耐強さには頭が下

がる。辛抱して続ける事だけなら、或いは楓流も凌ぐかもしれない。誠実であり、着実に事を成し続ける。

 だが耐えられる事と、疲労しない事とは、同義ではない。

 凱聯の離反にも似た行動、これは今の集袁にとって死活問題である。軍の中には凱聯に懐いている者も

多く。逆に生来の生真面目さから小うるさく思われがちな奉采は、その手腕を評されてはいても、どこか

厄介者扱いされている部分があった。

 例え住民が味方してくれたとしても、軍事力が無ければ、豪、袁同盟軍にどう対処すれば良いのか。

 苦渋こそあれ、怒りも憎しみも、悲しみも恨みも、余計なものを抱く余力がなかった。憎しみも恨みも、

抱く為には途方も無い力が必要なのだ。だからこそ怒りも何もかも、心に起こる熱情は、いずれは力尽き

果て、薄れてしまう。

 余力が無ければ、熱情は湧かない。腹が減れば怒る気力も湧かないように。

 奉采は疲れ果てていた。

 その疲れ果てていた顔が、楓流の姿を見た途端(とたん)、ぽっと光灯ったのだ。

 よほど嬉しかったのだろう。平素あまり表情を変えず、まるでその表情のまま固まってしまったかのよ

うな目、眉、口、頬が一斉に花開く。今の集袁にとって、今の奉采にとって、確かに楓流だけがただ一つ

の希望であったのだろう。

 これで全て解決する。凱聯を責めないでくれ、自分の力が足りなかった、豪、袁を甘く見ていたのだと、

一目見るなり走りより、何よりも先に、必死に彼は楓流へと嘆願(たんがん)した。

 楓流はゆっくりと彼に頷く。良く見れば、その瞳が微かにだが涙でぼやけているのが見えただろう。

 楓流には奉采の気持ちが良く解っていた。凱聯を許さなければならない事も。

 彼も恨みがないではない。凱聯に言いたい事は百や二百では済むまい。何故今の状況を理解出来ないの

か、今は私欲になど囚われている場合ではない。今そこにある危機を打破せねば、迫り来る軍勢を何とか

せねば、欲以前に命そのものが失われてしまう。

 それも一人二人ではない。何百という数が、そして更にその数倍の人間が、不幸の極みへと叩き落され

るのである。

 凱聯も敗北した者達が、そこに住まう敗者の民が、一体どう云う事になるのか知らぬ訳ではあるまいに。

一体何故ああも自侭に振舞えるのだろうか。そんなものが人の情というのならば、そんなものに一体どん

な価値があるのだと、凱聯へ幾度も幾度も糾弾(きゅうだん)したかったろう。

 だが楓流も奉采も解っていた。凱聯とは違い、現況を良く良く理解していたのである。不幸な事に。

 楓流は同じ思いを常に抱いていただけに、奉采の気持ちが良く解り。だからこそ皮肉にも、凱聯への怒

りを燃やしながら、それで尚、凱聯を常に手元へ置かねばならない、という決断をしなければならなかっ

た。兵の意気を考えれば、凱聯を放り出す訳にはいかないのだ。

 痛いどころではない。命が削り取られるようだった。意志が、平穏が、夢が、希望が、全ての一切のそ

ういうものが、か細く、ねじ切られるようにも思えたのである。

 しかし耐えなければならない。それが人の上に立つと云う事なれば。



 楓流は単身兵舎へ赴(おもむ)き、即座に軍を解かせ、凱聯を連れ戻した。

 許しはしたが、それでも大いに叱り付け。流石に放っておくには罪が重すぎる故に、暫し謹慎を命じて

おいた。正当な措置ではあったが、これにより、集袁の軍事力に影響が出るだろう。軍を率いるべき将に

罰が与えられる。これはなかなかに深刻な影響を及ぼすものだ。

 危機迫る今、これもまた痛い事であったが。さりとて凱聯を無罪としてしまうと、他への示しが付かな

くなる。その影響を推しても、罰を与える必要があった。

 しかし罪としては軽すぎるのではないかと、思われる方も居られるだろう。

 確かに、本来ならば斬首されてもおかしくない罪である。しかしこの時代、支配者とはいえ、そこまで

の権威は無く。法令が定められている訳ではなく。むしろ凱聯としては、謹慎を命じられた事さえ、不満

であったかもしれない。

 まだまだ後のようにはいかず。集袁のような小さな町では、尚更法の権威が薄かったようだ。

 楓流の権威は、住民の信頼の上に初めて成り立っている。民は許しを欲す。凱聯を斬首しようとしても、

必ずや反対行動が起こるだろう。そしてそれを楓流は止められない。

 形だけは主従に見えても、支配と忠誠という所までは行っておらず。法治と地位が重んじられ、魔物の

ような力を発揮するようになるまでには、まだ暫くの時間が必要なのである。

 楓流は次いで軍勢の編成に取り組み、胡虎に命じて集めさせていた兵力を合わせると、そのまま胡虎へ

軍の指揮権を委ねた。

 胡虎は驚いたようだが、異論など発せず、素直に従い。すぐに兵達を持ち場に付かせると、自分は準備

を整える為に、兵舎へと急いだ。

 胡虎は凱聯などよりも遥かに冷静かつ迅速である。先頭に立って軍を率いる事は、凱聯には及ばぬかも

しれないが。こうして拠点に篭り、防衛を任せれば、必ずや期待に応えてくれるだろう。

 それに彼は、楓流に全幅の信頼を置いている。決して楓流を困らせるような事はしない。今はそれが何

よりもありがたかった。

 楓流自身は家に戻り、胡曰へと女達の指揮を命じた。女達は主に物資の輸送や配給、怪我の手当て、そ

ういった細々した事をやってもらっている。死と隣り合わせではないが、これもまた死に触れる、ともす

れば戦地に立つよりも過酷な仕事である。

 それでも音をあげず、集袁の女達は良くやってくれていた。女など厄介者か奉仕者としか扱われないこ

の時代に、楓流のように蔑視せず見てくれる存在が、彼女達にとってもありがたかったのだろう。

 ともすれば、彼女達は男よりも気勢があった。

 楓流は育ちのせいか、驚くほど世の中に蔓延している差別に感染していなかった。もしかすれば、そこ

が彼の一番の魅力であり力であり、逆に一番敵に憎まれた部分だったのかもしれない。

 楓流は歩を止めず、働き続ける。

 やる事は無数にあった。そしてまだ一番肝心な事が残っている。

 即ち、どうやってこの窮地を凌ぐかと云う事だ。

 はっきり言って、現状の戦力では豪、袁両軍相手に数日も持つまい。兵力差は数十倍にも及ぶ、まとも

にやっては刃が立たない。

 だが今の楓流は豪氏の内情を知り、袁家の内情も多少なりと察している。戦えば勝てぬまでも、一つだ

け、何とかなりそうな方法に彼は思い至っていた。

 無論、それで状況を打破出来るかどうかは、やってみるまで解らなかったが。とにかくその準備をせね

ばならない、早急に。



 楓流は豪氏の関所から奪った鎧を、選りすぐった警備兵に身に付けさせ、豪、袁、両軍にそれぞれ単身

向わせた。

 出来れば大人数送りたいのだが、楓流と胡虎が持ち帰った二着しか鎧が無かった為、そこは渋々目を瞑

るしかなかった。

 それでも楓流は必ず成功すると信じている。

 豪氏の内情を知った今なら、断固として宣言できる。必ずや成功するのだと。

 勿論、彼がそう思っているだけで、失敗する可能性はある。だが初めから失敗すると思っているようで

は、成功するものも成功しない。任せた兵に不安を与えない為にも、彼は自分に暗示をかけるようにして、

勝利を信じ続けた。

 本来なら自分と胡虎が行きたかったのだが。彼らは顔を覚えられている可能性が高く、ひょっとした事

でしくじってしまう可能性があった。必ず成功させる為には、どうしても他の者に行かせる必要があった

のである。

 心配は残るが、さりとて今は信じるしかない。自分が信じなければ、危険を承知で単身向ってくれた二

人に対し、申し訳が立つまい。

 楓流は出来る事を全て終えた後、集袁の中心部へとどっかと座り込んだ。

 私はここに居る、ここに居るぞと、住民全てに知らせるかのように、雄々しく。私は常に君らと共に居

るのだと、兵達を鼓舞するかのように、不安を微塵も見せずに。

 彼はどっしりと座り込んで吉報を待っていた。

 本当はどんな小さな仕事でも良いから見つけて、始終身体を動かしていたかった。不安を忘れる為には、

身体を動かしている方が楽である。だが彼は動ぜず座する事を決めた。一つには皆を落ち着かせる為に必

要な事であったし、一つには自分を成長させる為でもあった。

 焦燥などに負けてはならぬと、自分を敢えて困難に向けたのである。心から逃げず、立ち向かう事が必

要であると判断したのだ。

 ゆったりと座しながら、何度も何度も掘り込むように、心に言い聞かせ続ける。不安を振り払い、自信

を呼び起こす。それは決して終わらぬ戦い、終わらぬ苦痛であったが。今この時、そしてこれから先にも、

必ずや必要になる事だった。

 集袁という組織を成長させる為には、まず彼自身が成長しなければならない。



 豪軍に向わせた兵には、すでに袁軍が集袁を包囲し、数日にて落せそうな気配ですが、その分兵の疲労

が増している様子。どうやら袁の将は焦っているようです、などと豪兵に伝えさせ。

 袁軍へ向わせた兵には、問答無用で袁兵と出会い頭に矢を放て。そして出来るなら射殺してしまえ、と

命じておいた。

 豪軍は得たりとばかりに攻め寄せるだろう。

 袁軍は怒り猛って豪偽兵を追うだろう。

 ようするに豪、袁を戦わせ、集袁の法が漁夫の利を得てしまおうという策だ。単純だが、単純なだけに

この手の離間策は成功率が高い。

 一兵ずつなのが不安だが、双方油断しているとすれば、存外簡単に引っかかってくれるかもしれない。

 状況を確認すると、集袁到着は袁軍の方が早いようだ。これは袁領の方が集袁に近いせいで、だからこ

そそれを見越した策を命じたのである。もし逆であれば、命令も変わっていた筈だ。

 上手く行けば、丁度袁軍が集袁包囲しながら豪軍へ報復へ向う頃に、得たりと勇んだ豪軍が突っ込んで

くる算段になる。

 確かにそう上手くはいかないだろう。しかし元々双方共に戦う事を望んでいたのだから、おそらくは同

盟軍の敵意を疑うまい。それに一度走り出せば軍は止まれないものだ。

 後の世ならまだしも、当時は兵に忠誠心が無かった。外交や国の情勢などは考えず、襲われたと思えば

反撃する。やられる前にやる、躊躇(ちゅうちょ)しないのが賊の常識である。呑気(に思える)な将の

静止の言葉など、聞きはしない。

 中にはおかしいと思う者も居るだろうが、そういう者も献言などせず、我が身可愛さにそっと軍を抜け

出す事が多かった。わざわざ人に告げるような者はいない。何故ならば、一介の兵の言葉など、将が聞く

はずが無く。また、同じ軍に所属するとはいえ、仲間ではなく、あくまでも競争相手だったからだ。

 わざわざ競争相手に忠告するような者はいない。負けるとなれば、仲間も誇りも捨て、相争って逃げ出

す。助け合う事は少ない。兵は将を侮蔑し、将も兵を侮蔑する。兵同士、将同士も罵り合う。そういう時

代であった。

 例え王や豪族の権威が増したとはいえ、少し前までは賊の親分に過ぎず。その部下達の間には将兵の区

別なく、ただの兄貴分や弟分でしかなかった。食う為に従っているとはいえ、確かに上に立つ者の権威に

恐怖を覚えているとはいえ。親や兄が、ただ親や兄であるだけで、まるで自分が特別な人間であるかのよ

うに威張り散らされたのでは、それは腹が立つだろう。

 今更王だの将だの言われても、はいそうですかとはいくまい。

 楓流は豪族王の時代が終わるのは、皆が想像する以上に早いのではないかと、そんな風に思っている。

 内部が上手くまとまっている勢力は乗り切るかもしれないが。大部分の新興勢力は内側から崩壊する、

或いは下克上となるのではないだろうか。

 元は同じ夜盗山賊が、王だの将だのを名乗れるのならば、自分もそうなって何が悪い事があろうかと、

そう思う者が少なからず居る筈だ。いやむしろそれが大多数ではないのか。力さえあれば上に立てるので

あれば、最早野望を止める力は無い。

 豪族達は旧政権という権威を打ち壊し、今度は自分達を新政権としてその場に押し上げた訳だが。それ

は同時に、自らの権威も貶(おとし)める事となる。

 下が上を討つ。それが許されるのだと、そうとは知らずに、天下へ示してしまったのだ。

 もしその事に豪族王達が気付いていなければ、必ずや彼らの政権は崩壊する。自分達がやったように、

下から来る者に滅ぼさたとして、何処に不思議があろうか。

 この集袁でさえ、楓流がほんの少し離れただけでああなのだ。まとまりに欠く豪族勢力など、一体どれ

だけ持つというのだろう。

 一時はこのまま豪族王の時代が蔓延(はびこ)るかと思ったが、それは間違いであるかもしれない。

 未来は未来にならなければ解らぬでも、楓流にはそういう確信にも似た気持ちが芽生えていた。だから

こそ自らを成長させねばならない。新しき法を築かねばならない。そして・・・・。

 いや、今はそのような事を考えている時ではない。それに焦らずとも、今回の策が何かを証明してくれ

るだろう。今は結果をどっしりと構えて待てば良いのだ。

 兵の掛け声が聴こえてきた。胡虎も良くやってくれている。

 楓流は自分が落ち着いたのが解ると、最後の仕事をすべく、決めていた場所へ向った。これを上手く

出来れば、決定力となってくれる筈だ。




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