2-11.答えは何処に


 袁軍が敵兵を追い、勇んで駆けて行くと、集袁の上に豪氏の旗がはためいているのが見えた。

 そんなはずが無いと思いながらも、その心から、そうであるはずだという確信に似た感情を捨てきれな

かったはずである。そして好機であるという想いが、稲妻のように彼らの心を浸透していったと思われる。

 楓流は防壁の向こうに眺め見える兵達を観察しながら、彼らの変化を細かく調べていた。

 彼は視力も良い。流石に一人一人の表情までを読み取る事は出来ないが、大雑把になら彼らの行動で察

せられる。慌てているのか勇んでいるのか、怯えているのか慎重なのか。見極めるのは難しいが、この場

合は大雑把でも充分だった。

 ただどちらが優勢か、勝敗が決するのは何時か、それだけが解ればいい。

 楓流が掲げている旗は、豪領から逃げ出す際、役に立つだろうと掠め取っておいた物である。偽物では

ない。

 無事集袁に辿り着いて後、迫り来る大軍をどうするか。答えは両勢力の猜疑心を利用し、豪と袁を同士

討ちさせるしかなかった。元々犬猿の仲であるから、これは難しくはない。

 そしてその為にどうすれば良いのかを、考えられる限り検討した。しかし使えるのは、二揃いの鎧にこ

の旗一本。逃亡時とはいえ、もっと用意すべきだったと悔いが残る。まあ、例えもっと持ち帰ろうと思っ

ても、嵩張りしかも目立つ鎧や旗を持って移動するなどと、考えられない事ではあったが。

 それに無い物ねだりしても仕方が無い。やるべき事をやれるだけ、結局はそれしかないのだろう。

 この品を使って考えられた事は、すでに実行した欺報と扇動の計。後はこうして楓流が旗を掲げる事で

ある。

 確かに子供騙しだ。平時ならば決してこんな策にひっかかりはしまい。子供すら呆れるのではないか。

 しかし今は平時ではなく人心が乱れる戦時であり、この旗という物は、世の中でなかなかに重要な役目

を果たしている。

 自らの領土である事を世に知らしめる為、古今支配者達は様々な事を行なってきた。その中で最も効果

的かつ、誰にでも容易く出来るだろう方法は、この旗を掲げるという手段であったろう。

 本は祭礼に使われた印、神を崇める為の印であったと思える。大陸では古来より、東西南北を天帝に代

わり司る、四海竜王という神を祭っている。

 即ち、東海青竜王、南海赤竜王、西海白竜王、北海黒竜王、の四神である。そしてこの竜王はその名を

見ても解るとおり、それぞれ、青、赤、白、黒、を司り、この四色はそれぞれの竜王を現す。

 この大陸での旗の起源は、この四竜王を祭る為、祭礼の衣装や全ての物をその色に染めた事に由来して

いると考えられている。

 その染めた布が大きければ大きいほど、掲げる位置が高ければ高い程、竜王に届くとされた。

 旗という姿になったのは、それが本来天海に住まう竜王に示す為であった事を思えば、当然であるとい

えるだろう。大空に翻る旗は、それはそれは絵になった事だろう。

 目立ち、しかも運びやすく軽い。そこに支配者達が目をつけたのも、これもまた自然であると思える。

 彼らは自らを表す旗をそれぞれに作り(竜王を恐れてかあまり大きくは作らなかったが)、都市や砦に

掲げる事で、その地が誰に支配されているかを天下へ知らしめた。それは竜王の名の下に、竜王の権威を

借りて、という意味合いもあったようだ。

 元々祭器であった旗を使う事で自らの権威を主張し、旗を頭上に掲げる。それだけで良いのだから簡単

なものである。

 思いの他これが効果的で、他の支配者も次々に自らの旗を作り、あっと言う間に旗で自らを示す事が、

大陸中に広まってしまった。

 次第に旗自体も凝った物となり、軍隊もこれを掲げて進軍するようになっていったが、旗という形式(棒

の先に布を張る)に変化はなかった。それだけ便利で解りやすかったのだと考えられる。

 その事を示すように旗に関する言葉も多く生れた。この旗の下に、この旗が翻る限り、この旗が立ち続

ける限り、そのような言葉は誰でも一度は見聞きした事があると思う。錦の御旗など、我が国でもその旗

自体に権威がある物も多い。

 降伏の白旗、危険を示す赤旗、今でも旗と言う物は良く使われている。東西問わずそうなのだから、誰

がどう考えても便利な代物だったのに違いない。

 非常に簡単であるが、旗を揚げるという事は、視覚ではっきりと解る効果的な手段であったのだ。

 偽旗の計は、楓流が使ったのが最初ではないかと云われている。

 旗は勢力そのものを表す神聖かつ不可侵な物である。それを欺報として使うという罰当たりな考えは、

確かに権力にしがみ付いている者には、決して生み出せないのかもしれない。

 それに例え嘘とはいえ、敵側の旗を自分の土地に掲げるなど、言語道断な事だ。

 ある意味、人は誇りのみで生きている。しかし楓流はそれが薄かった。彼は誇りを大事にしていたが、

それは威張り散らす事とはまた違う。彼にあったのは生きるという誇りだけであり、だからこそ何でも出

来たのだろう。

 ただ、流石に豪軍は偽の旗である事に気付いたはず。何しろまだ自分の軍勢が到着していないのだから、

どうやって集袁を占拠したというのか。確かに抜け駆けした者がいないとは言えないが、疑いはしても騙

されまではしまい。

 だがそれは良く考えれば、である。袁軍が攻めかかって来るのだから、疑問など抱く暇はない。

 よくよく考えれば解る嘘に、あっけない程戦場ではひっかかる。豪兵の状態を知った今ならば、確信し

ていいはずだ。必ず彼らはひっかかると。

 例え疑心はあっても、戦わざるをえないのだと。

 大丈夫だ、大丈夫だ。楓流は何度も何度も自分に言い聞かせた。

 後は頃合を見、集袁軍を率いて打って出れば良い。それで決着は付く。

「だが油断は出来ぬ。所詮はその場凌ぎか・・・」

 今回は上手くいく。自信がある。不安だが、確かに自信はあった。しかし同じ手は二度と通用しまい。

例え今回無事に耐え切れたとして、次はどうなるだろう。

 豪、袁ともに消耗し、暫くは動けないだろうが、それで集袁を諦めるとは思えない。ならばその場凌ぎ

などに、何か意味があるのだろうか。滅びを遅らせるだけでは、何の役にも立たない。

 ぬるい、やはり自分は手緩(てぬる)い。

 上手くいったとしても、これは僥倖(ぎょうこう)である。ただ状況が味方しただけの、拾い勝ちの戦

である。勝利は僥倖、敗北は必然、そう理解せねば、いつか必ず大きな失態を犯す事になる。

 彼の心が不安で溢れていたせいだろうか、戦を目の前にしても、決して彼の心は躍る事が無かった。い

や、ひょっとしたら生涯一度も、彼は戦で心が躍った事がなかったのかもしれない。

 彼には統治者として考えるべき事が常に多かった。戦後の事を思えば、死せる兵を思えば、心など躍ら

せている暇はなかったに違いない。

 楓流の心が様々な色に変化し続けるように、戦況も刻一刻と変化していく。

 いつの間にか袁軍が集袁攻めと、豪兵(楓流の放った囮)追いの二手に分かれていた。豪軍もすでに視

認出来る位置にまで近付いているようだ。

 両軍がぶつかれば、後戻りは出来ない。楓流の策は成る。

 上手く行け、上手く行け、楓流と集袁の民は心からそれを願っていた。



 千を越える大軍が、目前にてせめぎ合う。

 幸か不幸か、どちらの軍勢も、上手く誘われた事には気付いていないようだ。

 やはり彼らにとっては軍勢の戦も喧嘩の延長でしかないのだろう。名乗りを挙げる者もいれば、それに

応える者も居。逆に戦などには目もくれず、死人から衣服や装備を剥ぎ取る者もいた。

 豪氏も古い家柄であるはずなのに、統制も何もあったものではない。やはり豪族、それなりに軍営を整

えてはいても、こういう所で違いが出るのだろう。

 形ばかりは受け継いでいても、先祖の心はすでに風化している。

 或いは書物に出てくるような戦も、実際はこの程度だったのだろうか。これが戦なのだろうか。

 かもしれない。大体書物に書かれた戦は、数からして多過ぎる。今でさえ数百で一端(いっぱし)の軍

隊、千を超えれば堂々たる大軍であるのに、数万、数十万などという人が、一体何処から現れるのか。

 それとも昔の方が農作物や資源が豊富に取れ、人口も多かったのだろうか。

 確かにこの時代程飢えた時は、そうそうなかった。だからこそ旧政権の権威も薄れたのであり、人口が

今極端に減っていたとしても、それはおかしくなかった。

 しかし、しかしと楓流は思う。人が十人も居れば様々な事をするのに、数万などという人間が、どうし

てたった一人の人間と国家の為に、そこまで一つにまとまれたのか。

 何故たった一人の人間に、大多数の人間が従ったのか。忠誠か、権威か、それとも人徳なのか。楓流は

その点を特に知りたかったようだ。

 目の前にする、たった千の軍勢でさえ、こうであるのに、どうして万という人間を従えられたのか。一

体何が違うのだろう。まさか人間自体が違うのか、古の人間は、根本的に何かが違っていたのだろうか。

 疑問が募る。特に戦場での楓流の記述には、疑問が多い。

 ともあれ、彼の策は成功したようだ。集袁に取り付いていた袁兵達も、豪軍が自分達と同程度の人数だ

と見て、慌てて豪軍の方へ向って行く。集袁が高みの見物をする中で、豪と袁の決戦が始っていた。

 正に対岸の火事である。まあ、そこまで安全ではなかろうが。

 これも元々この二つの軍勢が、ここで戦う為にきていたせいだろう。誰もがそれを知り、集袁など出稼

ぎの土産程度にすぎなかった。だからこそ集袁に執着せず、楓流の策にも容易くかかった。何日も餌を与

えられなかった魚のように、あちらの方から望んで食いついてくる。

 心配があるとすれば、囮となった兵二人であるが、こうなっては二人を判別する方法すらない。後はこ

の戦が終わるまで、或いは集袁軍が漁夫の利を得られるまで、何とか生きてくれるのを祈るのみだ。

 そしてそれは思ったよりも早く訪れるかもしれない。

 両軍ともに、作戦も軍略もあって無いようなものだったからだ。ただ走り、敵を目にすれば襲い掛かる。

一応将も居たが、何かをしているようではない。豪族も賊でしかなく、上下関係、縦社会も建前だけとい

う事だろう。

 いや、采配とか指揮といった言葉自体が、もう寂れた言葉であったのかもしれない。

 やはり本に書かれた歴史など、その程度のものなのだろうか。将の命によって兵が動く、そのような事

は夢幻なのだろうか。

 平素どんな訓練を積んできたのだろう。両兵とも、組織立った事や、誰かに命じられる事に、慣れてい

ないように見えた。

 特に勃興して日が浅い袁軍の方へ、それが顕著(けんちょ)に出ている。彼らは仲間ではあっても、主

従ではないのだろう。

 元々食わしてくれるから集まり、食わしてもらう為に従う格好をしていたに過ぎない。

 命懸けで戦おうとする者は少なく。いつもは景気の良い事を言っていても、いざ実際にそう出来る人間

もいない。

 出来る人間は大言壮語など吐かず、態度で示すものだからだ。例えば今日は歯を磨きますなどと、当た

り前にやる事を、わざわざ宣言するような馬鹿はいまい。

 今はまだ互角に戦っている(ように見える)から良いが、どちらかに大勢が傾けば、一時に壊乱し、大

火事を見でもしたが如く、一目散に逃げ出すだろう。

 機会はその時、一方が勝ちに溺れるその時しかない。

 問題はその時までにどれだけ両軍が疲弊するのか。楓流の手勢は百にも満たない。その程度では相手を

驚かすのが精々、正面切っては戦えない。

 いくら訓練を積ませようと、この数の違いだけはどうしようもなかった。

 威勢だけが良い軍隊など、高が知れているとはいえ。十倍もの兵数差を、一体どうしろと言うのか。

 気合と意地だけで何とかなるのならば、誰も労せず大陸に覇を称える事が出来ている。

 両軍は勇む。手柄の立てどころ、上手くすれば次は自分が将になって大威張り出来る、贅沢もし放題。

それは勇む。今はまだ両軍に勢いがあるからだ。

 しかし楓流だけは、それが如何にか細いものかを見て取る事が出来ていた。いつ消えてもおかしくない、

それは脆く弱弱しい威勢、虚勢なのだと彼には見えたのである。

 思えば豪炎、袁夏という存在からして、虚勢であったのかもしれない。威勢の良い事を言わねば誰も付

いて来ない。それが高じて豪族王が氾濫する時代にまで、忙しなく駆け上がった。しかしそれは全て何者

かに押されただけ、それが正直な所かもしれない。

 崩れるのが怖くて、虚勢がばれるのが怖くて、急いで制度化し、一応は国家としての体裁を繕ったが、

果たしてそれがどれほどの役に立ったというのか。

 屍だけが増えていく。人は狂気し、最早目前の敵にしか興味を示さなくなっているようだ。

 だからこそ戦える。人に刃を突き付けて、無用の命を奪える。そういう正常でない状態を生み出す事が、

まず軍を作る第一の方法であると言えまいか。

 しかしそれも将が立っていてこそ、兵が望んでいてこそ。豪族の軍勢などに、そのようなものはない。

 その証拠に見るがいい。前線は必死に刃をぶつけ合うが、少し離れている兵などは、すでに及び腰。後

ろや側面など逃げる方ばかりを気にしている。

 前に目を向けている者は、いつ自分の番が回ってくるかと、そればかり恐怖している者に違いない。

 上手く狂気に乗れれば良いが、誰でも狂える才能があるわけではない。

 戦場で将が素面でいるのは望ましいが、兵が醒めてしまえばどうなるか。

 袁軍から突然集袁の攻撃に向う者が増えた。しかも豪軍が届かない位置である。集袁からも弓など攻撃

をしかけているが、軍と正面から戦い合うよりはましだと考えたに違いない。勝てるなら良いが、生き延

びれるかどうかが解らないのでは、手柄も糞もない。命こそ大事である。

 しかしそうなれば自然、前面に供給される兵の数が減る。豪軍がそれを崩すのは簡単だった。元々軍事

力に差は無い。先に戦意の折れた方が負ける。

 そしてこの場合のそれは、袁軍の方であった。

 見る間に袁軍は壊乱し、武具をほうり捨てて逃げ始める。豪軍がすかさずそれを追う。

「弓隊、一斉照射!! 門を開け! 打って出るぞッ!!」

 楓流は豪氏の旗を投げ捨てると、すぐさま下に編成しておいた軍勢へと向った。

 他人を観察している暇はもう無い。生きるか死ぬか、全てはこの時にかかっている。

 私は、やるのだ。




BACKEXITNEXT