2-3.前虎後竜


 楓流の意志を知り、袁夏は当然のように激怒した。

 今まで散々目をかけてやり、好きにやらせていたものを、飼い犬に噛まれるとはこの事であると、彼か

らすれば当然の怒りであったろう。

 楓流からすればお互い様なのだが、常に強者の方が自分に都合の悪い事を忘れるものである。押し付け

がましいとでも言うのか、傲慢と言うべきか、ようするに弱者の都合など、考える必要も無いのだろう。

 集袁の軍勢を好きに利用し、それどころか丸々乗っ取ろうと都合の良い事を考えていた事も省みず、袁

夏は激怒していた。

 乗っ取りも彼からすると、自分が支配者となり庇護してやろうという、好意的な申し出でしかなく。相

手が迷惑に思うなどとは、微塵(みじん)も考え付かない事であるらしかった。

 残っている記録には、こういう場合の大多数の権力者と同じく、真に都合が良く、自侭を善意に擦り替

えてしまっている言動が目立つ。

 人間は何故力を持つと盲目になってしまうのだろう。袁夏も王となり専制権が強まって以来、目に見え

て自侭な言動が増えている。同等の力を持つ勢力相手には、逆により配慮するようになっていたが。弱い

勢力相手には、もはや一切の遠慮が見られない。まるで所有物扱いである。

 袁夏の側には、常に魯允(ロイン)が居る。彼もまた、身を飾り立て、その勢威も姿も隠者然としてい

た時の比ではない。政治、軍事顧問ともいうべき相談役に就き。ともすれば袁夏からすら魯先生、魯子と

呼ばれる程である。

 ただそんな魯允も楓流を買っているようで、武力行使に到ろうとする袁夏を、常に止めていた。

 確かに集袁などは取るに足らない勢力、しかし悪戯に攻めるのは得策と言えず。袁家の名を落さぬよう、

まずは大義名分を掲げる必要があった。背後に豪炎が付いたとなれば、尚更である。

 ここで慌てて攻めれば、楓流の思う壺。他の誰が引っかかっても、この魯允はかからぬと、そういう風

である。

 どの勢力も領土拡大の為の大義名分が欲しく、何かほんの少しでも種があれば、餓鬼のように群がり、

版図を広げようと狙っている。

 確かに今回は楓流が裏切ったともいえるが、その裏には袁夏の強引な接触がある。その点を非道である

と突かれれば、逆に豪炎に大義を与えてしまいかねない。

 大義名分は人の中にだけあるモノ。であるからには変化しやすく、取り扱いの難しいものであった。

 云ってしまえば、ある程度どうにでも出来るものなのだ。

 魯允は派手好きであるが、無分別ではない。むしろ名声にこそ彼の興味があり、気質として権謀は得意

とする所であった。

 常に自分を立てる方策を練っていた為に、大義や名分を利用する術も心得ている。彼は徳の人ではなか

ったが、謀略の人ではあった。聖人智者からすれば忌むべき存在だが、今の世の中にとって、その才こそ

が有用、袁夏や王、豪族の欲す力だったのである。

 楓流はそういった謀略や野望のみを追う姿勢を、恥ずべきものとして一蹴したが、袁夏達は貪欲(どん

よく)だった。

 その証拠に、魯允が代案として立てた策を聞くと、袁夏は見る間に機嫌を直し。むしろこの状況をこそ

望んでいたかのような態度へと一変させた。

 何とも変化の激しい男だが、こういう所があったから、欲に任せて王位まで手に入れる事が出来たのだ

ろう。つまりは誰よりも欲が深く、王座を望む力が強かった。だからこそ今袁夏はその地位に居る。

 人間の力の中でも、欲望は一、二に値する程大きな力ではないか。しかも欲望は伝染し、互いに合わさ

って際限なく肥大する。その力が時に全てを動かし、全てを狂わせる事すらある。時に時流をも生み出す、

人の手に余る力。

 例え唾棄すべきモノでも、力は力。それを受けるも退けるも力でしか適わない事。楓流の運命は相変わ

らず良くはならないようである。しかし楓流もまた、理想だけの漢ではない。



 楓流はこの難しい局面を、問題なく乗り切っているように見えた。

 時に袁に近付き、豪と離れ。時に豪に近付き、袁と離れ。時に宥(なだ)め、時に謙(へりくだ)り、

頭を下げる事を避ける事は出来なかったが、それでも偏らず、崩さず、見事に釣り合いを保っている。

 少なくとも集袁に住む者達はそう思っていた。楓流は問題なくやっている、流石は我らが主人だと。

 この事を楓流は好まなかったが、明らかに彼は主となっていた。袁夏から離れた以上、そうならざるを

えない。自分が矢面に立つしかなかった。

 それを悔いてはいない、すでに覚悟した事だ。しかし負い目がまったくない訳ではないのだ。

 実質はどうあれ、名義の上では集袁の主人は袁夏である。その袁夏に対し、謀反を起こした、奪ってし

まった、という負い目だけは拭い去れない。いくら住民も望んでいたとはいえ、これしか手段を思いつか

なかったとはいえ、気持ちの中ですっきりしない部分が多い。

 理由の半分は身勝手な動機であったし、どうしても負い目が消える事は無かったようである。

 袁夏の反応が、妙に好意的であった事も、それを助長する。

 使いの報告に寄れば、初めは確かに憤怒の化身であったが、それも暫くすれば収まり。楓流の言い分も

また最もな事、集袁を今更譲渡(じょうと)せよとは、いかにも虫のいい話であったと、謝罪すらしたら

しい。

 普段であればこれはおかしいとすぐに感じた筈だが、この時の楓流の精神状態は平静ではなかった。

 袁夏の言葉を疑う事すらせず。もしかすれば自分は、袁夏の意図を思い誤っていたのではないか、楓流

が思っていたよりも、袁夏は数段上の人物だったのではないかと、そんな風に悩んでしまうのである。

 魯允も上手く取り成してくれる風であったらしく、益々自身の人物眼を疑ってしまう。

 神経過敏となり、鬱屈していた状態でもあったから、楓流は疑心暗鬼に陥ってしまったようだ。

 何を信じるべきか。自分と言うモノが果たして信頼出来るのか。今までの判断が間違っていないと、一

体誰に言えよう。いや、いや、だがしかし、袁夏も魯允も本当に好意的なのか。例えお互いに誤解があっ

たとしても、こうも態度が変わるのはおかしいではないか。

 ああ、おかしいといえば豪炎もそうだ。何故ああも易々と協力してくれたのか。彼にも何か意図する所

があるからではないのか。本当に自分のやっている事は、集袁の為になるのだろうか。

 後のように頼れる者がおらず、後のように豊富な経験を積んでいる訳でもない。一つの勢力として独立

すると云う事は、楓流が考えていたよりも、遥かに負担のかかる事であった。

 辛うじて、昔読んだ書物の記憶だけが頼りになるか。だが経験の無い知識など、一体どれだけ役立つのだろう。

 成功であるのか失敗であるのかも解らないまま、楓流は一人で自問自答し続ける。

 しかしその想いを踏み躙(にじ)るかのように、歴史は常に彼へと試練を与え続けた。全ての不安はい

つも彼の前に具現化し、全ての災厄はいつも彼の前に現れる。

 逃げる事も許されない。



 現在、楓流は豪炎の許に滞在している。

 袁夏の方を凱聯に任せ、彼自身は豪炎を担当していた。流石に袁夏の前に姿を出す事は憚られる。

 こうして自ら出向いたとしても、取り立ててやる事がある訳ではないが。こうしていなければ豪炎に誠

意を疑われよう。それに豪氏の方にだけ自身が出向くと云う事は、あくまでも豪氏を立てるという意志表

明であり、それだけが今彼に出来る政治的手段だったのである。

 虚しい事だが、他に出来る術は無い。

 弱逆弱従とでも言い表せばいいのか。形式的にはあくまでも袁とは敵対し、豪に従属している。しかし

それは絶対ではなく、いくらでも変化する相対的で過敏な関係である。

 言葉で表すよりも、むしろ図形で表す方が解りやすいかもしれない。

 袁と豪とを結ぶ一本の線の上、その上を行ったり来たりと、しかし常にどちらからも離れ、あくまでも

集袁は集袁という一つの勢力とする。例え力関係でいえば、まったく問題にならない程の差があれども、

楓流はこの一点だけは守り抜く覚悟だった。

 いつまでこの状態を保てるのかは解らないが。集袁の民、集袁国の民、そういう気分だけは守りたい。

それが無ければ、集袁などという括りは一瞬にして消えてしまうだろう。

 それを防ぐべく、楓流は民達へ、同じ場所に住み、同じ場所で生まれ、生活してきた同志である、とい

う気持を持たせたかったようだ。そしてそれだけが、今集袁が持てる唯一の武器であったのだ。

 ただでさえ小さな力、束ねなければどうにもならない。迷いを与え、分散させてはならない。民達にだ

けは疑心を与えてはならなかった。

 幸いにも楓流には民達からの信頼がある。そういう心を植え付ける事に、さほど労は要らなかったよう

である。

 名前や気持ちだけで何になるのか、どの道袁か豪に併呑されてしまうだけではないか。そう言われれば、

確かにその通りだろう。しかし人はある意味名前だけで生きている。そういう取り決めがあるからこそ国

家があり、国民が生れる。

 そしてその結びつきがあるからこそ、人は団結する事が出来る。同国、同志、何でも良い。共に分かち

合える感情があるからこそ、初めて人は結び付く事が出来るのである。その感情が強ければ、例え国や都

市が滅んでしまったとしても、人の心の中に結び付きは残るのだ、永遠に。

 楓流はその強い結び付きを望んだ。

 それは彼が運び屋としての自分を奪われてしまったあの時、痛切に感じ、心に刻みつけた事だったのか

もしれない。

 平素あれだけ仲良く、上手く生活していたのに、いざ危機が訪れた時、仲間達は一体何をしたか。あれ

はまったくもって無意味な結び付きだった。全ては楓流の錯覚だったのだ。誰もが仲間を捨てて逃げ、裏

切ってかつての仲間へと躊躇(ちゅうちょ)無く襲いかかる者までいた。

 楓流自身も全てを見捨てて逃げた。

 今よりも尚、当時は貧しかったとはいえ、許される事ではない。そしてあの人心の変化は恐怖以外の何

物でもなく、生涯を通して、楓流の心へ色濃い影響を残していく。

 年月が経ち、薄れもしたが、決して消える事はなかった。彼は事ある毎にこの事を思い出す。

 それが反面教師として役に立てば良いのだが。単に心を鬱屈(うっくつ)させるだけの枷(かせ)とな

る事も多かった。

 今の楓流は紛れもなく後者だろう。あの時は仲間から逃げ、今は袁夏を裏切り、豪炎をも騙(だま)そ

う、利用しようとしている。

 確かに袁夏も豪炎も同じようなものだ。良心の呵責を覚えるだけ、楓流の方が人間らしいとも思える。

 しかし相手が悪いからといって、こちらの悪業が消える訳ではない。悪業は何かによって償われる事は

あっても、その悪業自体が浄化される事は、決して無いのだから。

 罪は罪、決して消える事は無い。罰は必ず訪れる。だからこそ救いようのない忌むべきものであり、先

にあるのは絶望だけである。

 政略、生き残る為の知恵、言い変えればいくらでも聴こえは良くなる。だがそれがいかに虚しい事であ

るかは、本人が一番良く解っているはずだ。決してそれは消えないのだと。

 楓流の心は不安定だった。父に助けを乞うが、しかし死者は眠るのみ。

 奉采も良く楓流を補佐していたが、残念ながら指導者としての責任を分担する事までは出来なかったよ

うである。楓流の陣営には政治力のある者が居なかった。後に卓越した政治力を示す楓流自身ですら、こ

の時は中の下といったところだったろう。

 凱聯などは話にもならない。

 辛うじて胡姉弟が心を安定させる役に立ったが、問題がいつまでも解決しない以上、どれだけ癒せた所

で同じ事だった。すぐに楓流の心は鬱屈する。

 豪氏領に居る今は、最悪の精神状態であった。

 誰も彼も敵ばかり、豪氏の陣営にも好意的な者や、珍しく潔癖な人物も居たが。疑心を持つ楓流の目を

通せば、誰も彼も同じに思え、彼の心はともすれば閉ざされがちになり、みかけだけは堂々としていたが、

その顔には色彩といった光がなく、力が感じられなかったようだ。

 他者はそれを豪炎に会う緊張と理解してくれたようだが、おそらく良い気分ではなかったろう。

 豪炎は心配してくれる風だったが、さりとて心中はどう思っていたのか。彼にとって楓流などは、袁家

侵略の為の道具でしかない。言葉通りにとっていては、いずれ足下をすくわれる。いや、頭から粉砕され

てしまう。

 今は与えられた一室にて、近くには信頼できる胡虎しか居なかったから、楓流も少し楽な気分になって

いたが。外には衛兵が居り、気楽に話す事も出来ない。

 自然黙りがちになり、思考を始める。思考を始めれば、思考に沈み、益々元気が失せていく。

 果たして集袁に救いはあるのか、集袁を生かせる道は在るのか。

 楓流がどっちつかずを選んだように、袁も豪もいつ心を変えないとは限らない。誰がどうするか、それ

がどれだけの時間続くのか、誰にも予測は出来ない。当時の情勢では、敵味方という区分くらい、無意味

なモノはなかった。

 今日の敵が明日の味方、今日の味方が明日の敵、それならばまだ良い方で、一刻で敵味方が何度も変わ

ったと云う事も、少なくはない。

 それに現状、集袁と豪氏との繋がりは、双方協力的という程度しかない。楓流の手落ちというべきか、

豪炎が上手だったというべきか、両者の間に正式な約定が結ばれていないのである。

 楓流は今回豪炎とせめて正式な不可侵条約と、軍事同盟を結ぶべく来ていたが、今までと同様、その成

果は捗々(はかばか)しくなかった。

 確かに協力する事は認められ、その点は豪炎も了承しているのだが。では実際にどうなのかという、肝

心の点となると、いつも上手くはぐらかされている。それはおそらく、いつでもすぐに関係を断てるよう

にしていたいからだろう。

 このままでは豪氏の力を袁家への牽制としか期待できず、いずれ袁家もそれに気付き、何かしらの手を

打ってくると思われる。いや、すでに打っている可能性も高い。

 とにかく早急に約定を得たい。豪炎も名声を無視する事は出来まい。だからこそ百万の言葉よりも、暦

とした約定が欲しかった。約定さえあれば、渋々でも集袁を助けなければならなくなるからだ。

 しかし成果は出ない。こういった交渉では、楓流は豪炎の足下にも及ばなかった。一度などは魯允を袁

夏へ渡したのは失敗であったかもしれない、などとまで思った程に、まったく歯が立たなかった。

 ここに魯允の弁舌があれば、まだ対抗出来たかもしれない。やはり自分は間違っていたのだろうか。

 すでに豪炎の屋敷へ来て数日、一向に進展が無いまま、それでも豪炎に引き止められ、悪戯に日数を浪

費させられている。

 おかしな話だ。一体豪炎は何をしたいのか。楓流を居させるのもただではあるまいに・・・。

「む、日数・・・、日数か・・・」

 楓流はようやくある事に気が付いた。

 自分は一体今まで何をしていたのか。豪炎が意味も無く長逗留させるはずがないではないか。こんな事

に、何故今まで気付けなかったのだろう。自分はそこまで愚かになっていたのか・・・。

「虎、相談がある」

 最早悩んでいる暇は無い。自分が豪族か王であれば、この状況でしている事は一つ。

 ここにきて、楓流にいつもの思考力が戻ってきた。皮肉な事に、悩みの元凶である危機感、その危機が

目前に形をなした今、ようやく彼は開き直れ、平静を取り戻せたのである。

 ただし失った時間は戻らない。今更が何をするというのだろう。




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