20-11.匹夫の雄


 法瑞が堅呟を離さないのは参謀として使えるからだ。その知識は多岐に及び、公私共に過不足なく助けてきた。そ

の全てが大きな利益をもたらした訳ではないが、概ね法瑞を満足させ、今では無くてはならない存在となっている。

 少々疑心を与えた所で、その関係は崩れない。

 しかし明開も初めから楽に終わる仕事だとは考えていない。自分に趙深ほどの才が無い事は承知している。足らな

い才を時間と労力で埋める必要があった。

 もっと手駒が要る。

 となれば浮かぶのは例の美妓だ。

 名は西姫(セイキ)。勿論、源氏名である。妓の素性は妓楼の主しか知らず、全てを徹底的に教え込まれる為に郷

土色も薄れる。特に最高位の美妓となるような者は妓楼に来る前の面影がほとんど残っていない。別人に生まれ変わ

らなければ、一流の妓にはなれないという事だ。

 顔立ちはどこか大陸人離れしていて、賦族か部族の血が入っている事を感じさせる。その事がまた彼女を際立たせ

る要因になっているのだろう。

 異民族を蔑視しつつ、憧れに近い気持ちを持っているのかもしれない。それは部族にしろ賦族にしろ強靭な肉体を

持っている事と無縁ではないと思える。強者に憧れるのはどの時代のどの人間も同じである。力で敵わないから、別

の面から貶めようとする、という考え方もできる。

 或いは蔑視している相手を抱く事で、支配欲に似たものを満足させているのかもしれない。

 心を現す方法は一つではない。

 明開が西姫の馴染みになっている事はすでに記した。法瑞からすれば恋敵であり、その点も利用できる。だが法瑞

の方が古馴染みで、梁においての権威も大きい。天秤にかけられれば法瑞に傾いて然りである。

 味方に付かせるには、相応の理由が必要だ。

 愛といったあやふやなものではない。もっと現実的な理由が。

 妓の思考はほとんどが打算でできている。明開に近付いたのも男性として魅力を感じたからではなく、彼の持つ権

威に惹かれたからだ。

 それは仕方のない事なのだ。彼女らは自らの魅力だけが全てで、客を取れなくなれば見向きもされない。そしてそ

の時は必ず訪れる。どんなに美しい女も、老いればそれまでだからだ。

 それまでに身請けしてくれる相手を探しておかなければ、彼女らは居場所を失ってしまう。客の愛も情も美貌あっ

てのものだと理解している。

 かつての美妓が没落していく姿を横で見ていれば、理解せざるを得ない。思考が打算的になるのも当然である。

 西姫も愛や情だけで法瑞に忠を尽くすのではない、打算的な中で行われている。

 しかしだからこそ打つ手がある。

 明開の梁における権威もなかなかのものだ。法瑞には負けると言っても、天秤にかけられるくらいの重みはあるし。

参謀、楓流の信認厚い直臣という響きにも格調高いものがある。それを考えれば法瑞など属国の臣に過ぎず、楓流に

直々に会う機会など数える程も無いだろう。

 その上、法瑞には本命がいる。その程度は当然西姫も知っている。冷静になって考えればどちらに尽くすのが得か、

言うまでも無い。もし明開の妻にでもなれようものなら、一生金にも羨望にも困らないだろう。

 勿論、そんな単純な事ではないのだが、一介の民の思いなどその程度のものである。そして明開も知っていながら

その誤解を利用した。

 常に最高のもてなしをさせ、最高の金額を支払い、何一つ遠慮しない。一度の支払い額は法瑞など問題にならなか

った。

 その上、明開はこの手の女の扱いに慣れている。話題、贈り物、心遣い。全ての面において法瑞など相手にもなら

ない。最高の美妓とはいえ、所詮は一地方の一妓楼の女に過ぎないのだ。楓という国家を背負って臨めば、天秤の重

みを逆転させる事も難しくなかった。

 彼が法瑞に敬意を払っていた事も西姫を安心させた。

 思えば二人は同じ勢力に属する。妻や妾というならともかく、法瑞とも仕事上の付き合いでしかない。妓として明

開に尽くす事が、法瑞へ忠義を尽くす事にもなるのではないか。そう言い訳する余地もあった。

 この点恵まれていた。もし法瑞が西姫を身請けしていたら、やりようはあってもはるかに面倒になっていたはずだ。

 おかげで次の段階へも無理なくいける。

 明開は妓楼の主に西姫を身請けする事を申し出た。

 楼主は始め法瑞の事もあるからと頑(かたく)なに断ったが、形だけの拒否である事は解りきっていた。法瑞の恨

みを買うと困るから、明開が無理矢理持って行ったという形にしたいのである。

 明開もその意に沿って強引に話を付けた。楼主は法瑞などよりよほど話が解ると喜んだに違いない。

 彼女としても同じ妓がいつまでも上に居座られては困るのだ。西姫ももう若くはない。客足も減ってきている。法

瑞に遠慮して取る客が減ったという事もあるだろう。

 本音を言えば持て余すようになっていた。法瑞の手前粗略に扱う訳にはいかないが、収益は明らかに減っている。

こういう場合はさっさと身請けしてもらうもので、楼主も暗に何度もそう言っているのだが、いつまで待ってもそう

いう気配は無い。

 困っていた所に颯爽と現れたのが明開という訳だ。

 これで新しい看板美妓を作る事ができ、妓楼も若返る。他の妓達もやる気を出すだろう。

 妓主は老いた胸を撫で下ろした。

 明開は大きな屋敷を買い、西姫を住まわせた。名も改め、西糸(セイシ)とさせている。

 この話はすぐに街中へ広まった。当然法瑞の耳にも入ったはずだ。その心は穏やかではなかったと思うが、話が着

いている以上、どうにもできない。

 何せ相手はあの明開である。背後には楓流が居るし、むしろここは進んで差し出すのが上策というもの。

 そう思っても納得できないのが人間だが、法瑞もすでに若くなく、似たような経験は何度もしている。祝賀を述べ、

祝い金まで持たせたようだ。最後の最後に男を見せてやったつもりなのだろう。

 だが勿論、明開は法瑞から西糸を奪い取る為にこんな事をやったのではない。真意は別にある。

 彼は身請けしてから後、しばらくは頻繁に通っていたが、次第に顔を出さなくなった。それは丁度その頃仕事が忙

しくなった(勿論、彼の仕組んだ事だが)事もあるが、どうやら自分のものにした事で満足してしまったらしい。

 そしてそれはよくある事だ。

 明開の意は新しく最高位の美妓となった女に向けられているという噂もあり、中にはその女を最上位に就かせる為

に西糸を身請けしたのだ、という話まである。

 これでは西糸も立つ瀬ないが、妾とはいえ明開の女になったのだ、従わなければならない。

 しばらくは悶々と過ごしていたが、彼女も一人の人間、寂しくもなれば以前を思い出す事もある。そして思い出す

となると当然法瑞の名が出てくる。

 彼がさっさと妾にしてくれていたら、こんな事にはならなかっただろうに。

 恨み言と後悔が順に押し寄せてきては胸を熱くさせる。

 不思議と明開に対する恨みは無かった。こうなるだろう事は大体解っていたからだ。運良く身請けされても、そこ

に幸せが待っている訳ではない。そんな話もよく聞いたものだ。

 でも解っているからこそ余計に悔しく、手に入れられなかった未来を思うものなのかもしれない。

 何故妾にせず中途半端な事をさせていたのか。この街で法瑞に逆らえる者などいない。他の誰もそうできないとい

うのに。

 今も惨めなものだが、あのまま妓楼に居るよりよっぽどましだ。すでに名ばかりの美妓であった事は自分が一番解

っている。明開の話に乗ったのもそちらの理由が大きい。

 妓には己の身一つしか売れるものがない。美貌を失えばそれまでだ。それなのに欲望をぶつけるだけで責任を取ら

ない法瑞のやり方は腹立たしく、憎らしい。

 でもいとおしくもあった。

 法瑞自身がではない。その時の記憶がだ。法瑞と明開が争っていた時、その時が一番良かったような気がする。今

明開が離れていったのも競争相手が居なくなったからではないのか。なら、状況があの時に戻りさえすれば、もしかしたら・

・・・。

 駄目だとは思いつつ、一つの考えがどうしても消えない。そしてそれを止める者も居なかった。

 法瑞の心境も似たようなものだった。男を見せる為に色々やっていた内はまだ良かったし、多少は誇らしくもあっ

たが。酔いから醒め、いざ冷静になってみると悔しさがこみ上げてくる。

 こんな事ならさっさと妾にしておけば良かった。梁の人間で自分の女を奪おうとする者など居ない、などと油断し

ていたらこの様だ。

 それほど執着がなかったものでも他人のものになると違って見えてくる。それが男として負けたように思える対象

であれば尚更だ。明開への敗北感は生涯消えまい。

 考えてみれば同じ楓属の臣とはいえ、明開は楓流の腹心だが、法瑞は所詮梁という属国の臣、つまり陪臣に過ぎな

い。梁の中ではえらそうにふるまっていられても、一歩外に出れば何の力も無い。それを思い知らされた。

 最近は全く良い事がない。使用人の中にも不信なものが目立つようになってきた。全ての事が上手くいかなくなっ

ている気がする。

 堅呟を買い被り過ぎていたのかもしれない。以前は何をやらせても上手くいったが、もうしかしたらそう思わさ

れていただけで、騙されていたのかも。

 もっと有能な部下が必要だ。明開と張り合える手練手管を有する者が。でなければ全てを奪われてしまう。

 女を奪われた事で、法瑞は今まで忘れていた失うという恐怖心を思い出した。

 それは現実味のある事実として法瑞を悩ませる。

 何とかしなければ、何かをしなければ手遅れになると。

 そんな時に現れたのが西糸からの使者。渡された手紙には昔を懐かしみ、今を嘆く言葉が連ねられている。そして

言う、貴方の事をその度に思い出すのだと。

 法瑞は思った。彼女を取り込めば明開の内部情報を知る事ができる。それに何より痛快ではないか。奪われたもの

を取り戻す、どころか、彼の知らぬ所で通じているのだ。これを愉快と呼ばずして何と言おう。

 始めは猜疑(さいぎ)に満ちた、取るに足らない考えでしかなかったが。何度も何度も思う度、次第に利になる事

と思えてきた。

 堅呟に相談もしない。誰も知らない、二人だけの秘密。今まで全てを打ち明け、相談してきた反動か、その事も非

常に快かった。

 法瑞の心が決まるまでに、長い時は必要でなかった。



 西糸と法瑞が再び結び付くのは自然の成り行きというものであった。その為にわざわざ近くに屋敷を借りたのだ。

 法瑞が堅呟に相談する心配も無い。情をかけている給仕女に対する罪悪感のようなものがあるし。何より誰にも秘

密の関係を結んでいるという事が大きな喜び。

 彼は楽しんでいたのだ。利害損得ではなく、この行為そのものを。秘密を。

 それが恋敵と思っている当の明開に仕組まれた事なのだから、これ以上の皮肉はない。二人の関係が暴かれるのも

時間の問題だった。

 秘密というものは基本的に保持しておけるものではない。特にこの二人は立場上全ての事を人の手を介して行わな

ければならない。自然、秘密に触れる人間が増える。人は他人の秘密というものを胸にしまっておけない性分である。

 しかしあまり早くにばれても困る。堅呟に対し、法瑞が必死に隠す努力をしているように見せかけなければならな

いからだ。

 そこで明開も隠蔽(いんぺい)工作に手を貸す事にした。

  これには内部に居る狼、震、翔の潜入組が役に立った。西糸側の使用人の方は全て明開の手のかかった者達であ

るから問題ない。

 西糸への態度も変えなかった。あくまでも知らぬ存ぜぬ。時には理由なく優しくもしてやった。そうなると罪悪感

が湧くのか、彼女は笑顔の中に強張った表情を見せたが、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。

 二人の関係は一月、二月と経つと次第に人の噂に上るようになった。

 これは自然の流れでそうなったものだ。

 謀略は無理なく自然に行われなければならない。

 この頃には二人の仲も切り離せないものになっていた。秘密という甘美な響き、そして明開に対する一方の勝利感

ともう一方の罪悪感がその仲を取り持ったのだ。

 給仕女との関係も続いているようだが、少しだけ距離を置いた感がある。罪悪感を主とする様々な感情によってそ

うなったのだろう。これもまた計算通り。法瑞、西糸という人間は実に解りやすく筋書き通りに動いてくれた。

 しかし安心するのはまだ早い。望んだ結果が出るかどうかはこれからである。対象となる人間が複数居る以上、そ

の全てを予測する事などは不可能。必ず綻(ほころ)びが出る。それを忘れてはならない。

 明開はここで始めて西糸を詰問(きつもん)した。自ら動く方がそこから生じる結果を操作しやすいからだが、そ

れは男としてとるべき行動でもあった(倫理からではなく、人の男が採る当然の行動として)。

 その前段階として、彼女の傍に仕える者達を厳しく取り調べる事も忘れない。それは拷問に近いもので、一切の手

心を加えなかった。人をいたぶって楽しむ趣味はないが、仕方ない。これが作り事である訳がないと思わせる為には

真に迫ったものでなければならない。

 故に明開に呼ばれた時、西糸は初めから恐怖に支配されていた。簡単に自白したのはそのせいだろう。それから全

ての自由を奪い、奥へ軟禁、いや監禁した。もう誰も明開の許し無しに彼女に近付く事はできない。彼女の為に便宜

を図ろうとする者にも厳罰を課したのだから徹底している(これも筋書きである)。

 こうして身辺を整理した後、内々にだが正式に(おかしな表現だが現実にそうである)法瑞に向けて非難状を送り

付けた。

 明開に与えられた権限は重い。言葉一つで外交関係を大きく変化させられる。そんな男の妾を法瑞は寝取った。一

属国の一臣下に過ぎない彼がだ。

 これは楓に絶縁されても文句は言えない罪である。最早法瑞の権威など地に堕ちたも同然。反法瑞派とでも呼ぶべ

き勢力がここぞとばかりに動くだろうし、民も黙っていまい。

 梁は楓の保護無しには成り立たない。その楓との関係を悪化させた法瑞に対し、どういう反応をするかは言うまで

もない。

 法瑞は今更ながら事態の深刻さに気付き、顔面蒼白になった。

 明開が王を介さず直接告げてきた事も温情ではなく脅しである。法瑞の社会的生命は明開の手に握られた。

 どう足掻こうと法瑞が西糸と密通した事実は否定できない。弁解の余地など無い。

 堅呟は悔しがっている事だろう。結局彼は法瑞に寄生しなければ何もできない。宿主である法瑞が失脚すれば力を

失う。今その事を痛いくらいに思い知らされているはずだ。



 こうして明開は堅呟を法瑞ごと無力化する事に成功した。

 しかし終わった訳ではない。彼の役目は中諸国を安定させる事にある。具体的に言うなら子遂を無力化する事だ(と

彼自身考えている)。

 その道のりは遠い。未だ尻尾をつかめずにいる。

 だが無意味ではない。堅呟、法瑞の力を削げば、それは子遂の手足を一本もぎ取った事になる。ばら撒かれた種の

たった一粒でしかなくとも、それは小さくない成果だ。その種が全て芽吹き、実る訳ではないのだから。

 明開はしばらくは梁に専念する事にし、まず王を中心とする政府の発言力を強める事にした。

 今まで法瑞が牛耳っていたのを政府と半々にさせるのである。

 政府に全権を委ねなかったのは第二の法瑞、堅呟を生む危険性を減らす為だ。梁王とその側近も信用はできない。

 王達もそれで満足したようだ。本音は自分の影響力をもっと増したかったろうが、それが贅沢な望みである事は彼

らも解っている。それよりも明開が法瑞の後釜におさまらなかった事に対する驚きの気持ちの方が大きかっただろう。

 しかし彼らは程無く法瑞が明開の代弁者になっている事に気付かされた。

 これで明開は実質梁を支配し、都合が悪くなれば法瑞に押し付ける事ができるという訳だ。排除するよりも生かし

て利用する方が得策である。

 法瑞も明開に依存するしか生きる道はないのだから、本音はどうあれ忠誠を誓うしかない。何も善意や優しさで寛

大に処置したのではない。理由は全て計算の内にある。

 それに法瑞に寛大であれば、本当の功労者である法瑞、西糸両屋敷の使用人達を必要以上に罰せずに済む。対価と

して様々に世話した事も、世間は大して不思議には思わないだろう。

 世間とは本当はおかしな事であってもそれらしき理由があれば納得するものである。その理由が本当かどうかを一

々考える程、国民はその事に興味を持ってはいない。

 堅呟の処遇はさすがに悩んだが、大胆にも西糸の屋敷に置いてしまった。側には五人組の頭である雹を付けている。

彼にとっても良い経験になるだろう。

 明開は五人組を間者で終わらせたくないと考えている。できれば腹心の部下として様々な役割を任せられるように

したい。それは慢性的な人材不足を呈している楓を助ける事にもなるだろう。

 例の給仕女は暇をとってさっさと去ってしまった。報復を恐れたのかもしれない。

 彼女は確かに堅呟に命じられて法瑞と通じていたが、ただの手駒であり、それ以上の存在ではなかった事が解って

いる。それに今更探しようがない。彼女の行動は驚く程速かった。多少引っかかるものはあるのだが、仕方がない。

 すでに口封じされている可能性もある。



 楓流は明開の措置に満足し、褒美を与えた。五人組もその一つである。

 実績を作った事で明開自身も自信を持ち、様々な点で都合が良くなった。実績というものは発言に説得力を持たせ

てくれる。参謀としては新参である明開にとって何よりありがたいものだ。

 西糸はそのまま妾として囲う。

 彼女も明開に対して大きな負い目ができ、彼以外に頼れる者もいない。ちょっと仕込めば何でも言う事を聞くよう

になるだろう。法瑞同様、使えるものは最後まで使う。

 堅呟も大人しくしているようだ。彼もいずれ手駒として使えるかもしれない。

 こうして梁の脅威ははらわれた。




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