21-1.足音


 明開(ミョウカイ)の尽力により、梁は一応の落ち着きを見た。梁王の権威が増し、重臣達が力を得た事で法瑞の

力は削がれ、絶対的なものではなくなった。

 しかし全てが無かった事になる訳ではない。法瑞を処分したとしても、彼に向けられている恨みや怒りは消えない。

 それに国家への憎しみはただ一人に集約されるものではない。その組織に所属している人間も少なからず恨みを買

う。個々人の事情などは関係ない。それに加担し、反しなかったというだけで憎しみを持つには充分だからだ。

 布という国が消えても、そういう意識までは消えない。

 むしろ国が消えたからこそ、余計に布人であった自分を思い返し、意識するようになる。当たり前であった事が無

くなるからこそ、人は飢餓感を覚えるのだ。

 天水に組み入れられた元布(以下天布と呼称する)人の不満は天水が責任を持って慰撫し、できる限り尊重するよ

うにした事で一時は治まっていたようなのだが。今回の処分はとても許容できるものではなかったらしい。

 天布人は法瑞の処分が軽過ぎる事に憤慨し、天布将軍となった元布王、布崔(フサイ)を中心にして、最低でも政

治の世界から完全に身を引くよう、天水を治める桐洵(ドウジュン)へ激しく抗議した。

 桐洵はその片腕と言える伊推(イスイ)と共に懸命に説得したのだが、全く耳を貸さない。

 彼らは落ち着いたのではなく、この機会を待っていたのだろう。短絡的で暴力的な法瑞が近い将来にしくじるだろ

うこの時を。

 行動の速さも前々から準備をしていたと考えれば納得できる。

 わざわざ抗議という形をとったのも周到な考えからだ。世間も彼らを同情的に見るに違いない。

 桐洵らもそう思うからこそ、おそらく不可能と知りながら、説得という手段を選んだのだろう。

 楓流もそれを職務怠慢であるとは責めなかった。彼自身もまた天布人に対して同情的であったからだ。布崔達の抗

議も当然のものとして受け止めていた節がある。

 天布、いやここは敢えて布と言おう。布国は楓に対し、それだけの貢献をしてきたのである。これは当然の主張であり、わがままでも強

欲でも何でもない。今までの働きに対してもう少し報いてくれと言っているだけであって、それが高々法瑞一人の失

脚で済むのなら、むしろかわいい望みと言うべきである。

 忠臣である布崔をこういう行動に出させてしまった事自体が楓流の不徳。

 布崔は他の天布人達のように感情だけで動いたのではない。彼は今までどんな仕打ちを受けても、いずれ褒美が与

えられる、報いがくると民と兵を説得し、何とか動かしてきた。それなのにいつまで待ってもこれはという報いはな

く、楓の領土が増えるに従ってむしろ忘れ去られていくようであった。

 一時は孫文残党と激しく睨み合い、最前線にて戦ってもいたというのに、今となっては脇役どころか名前すら出て

こない。それでも雑事をこつこつと文句も言わずこなしてきたというのに、今度は国すら失った。これが献身的に働

いてきた報いだと言われれば、それは腹を立てて然りである。

 話に聞けば紀国の王、紀陸(キロク)などは今や双を任せられる存在となっているそうではないか。

 確かに紀は大きな代償を支払っているが、布も負けているとは思わない。

 どれだけ権威を与えられようと将軍は将軍、楓という国の一軍人でしかない。その点、緑という小国にすら劣る。

 大功を立てれば国を復興できる望みはあるとはいえ、天水の一軍でしかない天布軍がどうすればそのような功を立

てられると言うのか。

 本当に楓流は温情を示してくれたのだろうか。そうではなく、法瑞の裏に楓流の意があるという噂の方が真相で、

我々は体よくだまされているのではなかろうか。

 一体、天布将軍とは何なのだ。桐洵と同等の権威があると言うが、結局天水の言いなりではないか。

 属国であった時はこうではなかった。発言力が弱いのは変わらないが、曲がりなりにも一国の王として楓流と対等

に接する事ができていた。形の上では対等な同盟勢力であり、堂々と発言する権利はあったのだ。同じ名ばかりの地

位だとしても、王と将軍とでは天と地ほども差がある。

 それが周知の事実であるからこそ、皆同情的なのだ。楓の属国達にしてみれば対岸の火事ではなく、明日は我が身

である。天布の処遇如何(いかん)で楓に対する印象は大きく変わるだろう。

 これは天水の処理能力を超えている。桐洵が早々に諦め、楓流に丸投げした事も(おそらく伊推辺りが彼女に助言

したのだろうが)当然と言うべきだった。

 こうして楓流が直々にこの問題にあたる事になったのだが、彼にも良案がある訳ではない。

 法瑞を放逐(ほうちく)するのは簡単だが、それでは梁への抑えがなくなる。梁王達に大した力は無いとはいえ、

法瑞に好きにさせていた事を恨んでいるだろうし、いずれ蜀のような事を起こすかもしれない。

 明開を法瑞のような立場に就かせるという手もあるが、それでは楓支配の印象が強くなってしまい、彼を派遣した

意味を失う。

 抗議文を一蹴するという案も使えない。他国の反応も怖いが、何より楓流にある天布への罪悪感が邪魔をする。

 趙深に相談できればいいのだが、衛まで伝令を送る時間はあるまい。天布は早急な答えを望んでいる。返答が遅れ

れば遅れるだけ楓の信頼は失われる事になる。したたかなやり方だ。

「法瑞には何らかの処分を下さねばならないが、それは今すぐどうこうできる問題ではない。となれば時間を稼ぐし

かあるまい」

 楓流はすぐさま使者を発した。



 楓流より、今回の騒動における法瑞の罪は重く、降格処分程度では生ぬるい、蟄居謹慎(ちっきょきんしん)を命

ずる、という言葉が明開へ届いたのは、その後しばらくしての事であった。当然天水にも同様の知らせは届いている

だろう。

 要するに明開案は退けられたという事だが、明開は楓流の真意がどこにあるのかを知っている。

 本音は同意したいのだが、もし天布が蜂起すれば本格的な内乱にまで発展してしまう。

 明開も楓流の決断に文句は無かった。

 ここからが彼の腕の見せ所だと考えている。一つの目的をただ一つの方法でしか達成できない者に、参謀の名は相

応しくないだろうと。

 全てはこれからだ。これからが力の見せ所である。

「しかし全てを変える訳にはいかんぜ。俺にも予定というものがある。いや、そう思い込む事こそが愚かなのか。考

えろ、考えろ。趙深なら、楓流なら、胡虎ならどうしただろう。独創は無理でも、すでにある知恵を借りる事はでき

る。それくらいなら俺にもできるはずだぜ」

 明開は必死に頭を働かせ、ある一つの策を思うに至った。

 危険性が高く、参考にした相手を思うと癪(しゃく)だったが。そいつのやり方を楓に役立てると考えれば痛快で

あるかもしれない。

「そうだ。子遂もまた一度や二度しくじったくらいでは終わらなかった。それどころかそれを糧にし、今も生きてい

る。腹は立つが、見習うべき点はいくつもあるだろうぜ。あれだけ研究したのだ。使わないのは損ってもんよ」

 あまり認めたくないが、丁度孫文時代の子遂と今の自分は立ち位置が似ている。参考にするには最も相応しい相

手かもしれない。

「お前のやったような事が、お前だけにできる事だとは思うなよ」

 明開は覚悟を決めた。

 子遂を真似、子遂となる事で子遂に勝つ。もしできるならば、これは痛快極まりない事であったろう。

 しかしそうする事は必要以上に子遂を意識する事になる。それは彼に行動を読まれやすくなるという事でもあり、

もしその事に明開自身が気付いていなかったのだとすれば、何よりも危険な兆候であった。

 やはり明開は長年楓を苦しめてきた子遂という男を甘く見ていたのかもしれない。

 確かに子遂にできる事は明開にもできる。だがそれを逆に言えば、明開にできる事は子遂にもできるという事にな

るのだ。



 法瑞の処分は決まった。もしこれを撤回するような真似をすれば、天布の怒りは最高に達し、他国からの楓への信

頼も地に堕ちてしまう。しかし法瑞に実権が無くなれば、楓にとって甚だ困った事になるのは確かだ。

 ここは発想を変えるしかない。要は法瑞に梁政府に匹敵する力があればいいのだ。彼を政治の中枢に居させる事は

無理だが、力とは政治だけに在るのではない。それが最も大きく現れるのは軍事力である。

 古今どの国家の支配者も多かれ少なかれ軍の力で地歩を固めてきた。逆らえばどうなるか解らないという恐怖。諸

外国に対抗するには彼の力を借りるしかないという期待と依存。それが何よりの発言力となって、その言葉に重みを

与える。

 法瑞もまた軍隊を掌握していた。だからこそ独断で軍を動かせたのだ。

 軍が彼に従う理由は、勿論その背後に楓が居るからである。法瑞の地位は楓流によって任命、保障されたもので、

例え梁王でも無断で退ける事はできない。属国である限り、盟主国の意向が最優先される。

 つまり楓がそれを望む限り法瑞の手には軍隊が在り続け、政治の舞台から降りても発言力は失われない。

 政治を全て梁政府に任せたとしても、法瑞に軍が在る限りその役割を果たせる。

 とはいえそれは天布も解っている事だ。法瑞を将軍格のまま居させては納得すまい。

 法瑞を一度解任し、梁臣より将軍位に就く者を選出してその後見とするのが良いだろう。実権さえ握っているのな

ら、立場などどうでもいい。使えれば良いのだ。

 無論、この事は知られないようにしなければならない。法瑞は終わった人間だと思われておく必要がある。

 あまり法瑞に固執する必要は無いのかもしれないが、やはり彼の持つ人脈は惜しい。それに見捨てれば楓を恨んで

何をしてくるか解らない。消してしまえれば良いのだが、それは楓らしくないやり方だ。楓流は許さないだろう。

 明開は早速この案を法瑞に伝え、相応しい人物を選ぶよう命じた。一日の猶予を与えたらしいが、返答はその日の

内にあったようだ。法瑞も一通りの備えはしているという事か。

 挙げられたのは殷嵯(インサ)という名の男。古き血筋に連なる家系の出で、遡れば始祖八家の時代にまで到るそ

うだが、確証となる物は残されていない。

 法瑞は忠実で実直な男と言っていたが。調べてみると確かに当人は愚鈍なまでに素直で気性の優しい人物なのだが、

その側には常に妹婿の蕭冊(ショウサツ)が居て、あれこれと指示を出しているようだ。殷嵯はそういう人物である

から、義弟の言いなりであるらしい。

 まさか殷嵯が蕭冊の傀儡(かいらい)に過ぎない事を見抜けない訳ではないだろうから、この程度で明開を上手く

騙(だま)せたとでも思っているのか。

 だとすれば呆れて物も言えないが、今しばらくは泳がせておいてやろう。蕭冊が使えるようならこちらに乗り換え

てもいいし。策士型の男なら法瑞を陥れる役目を任せられる。かえって都合が良いのかもしれない。

「法瑞の意がどこにあるのかは解らんが、どうなるとしても楓にとっては悪くない話だ」

 不安要素はあるが、過度に心配しても仕方がない。

 問題は起きてから対処すれば良いのだ。冷静に。

 どの道、全てを予測するのは不可能なのだから。



 楓流の承認を得て法瑞は隠居処分とされ、殷嵯が将軍に就任した。

 梁政府は自分達を無視して進められていく事に不満を持っていただろうが、結局は何も言わず受け入れるしかなか

った。政府と軍は完全に引き離されており、殷嵯の代わりを立てようにもできなかったのだ。

 法瑞はその点、しっかりと自分の役割を果たしていたと言える。

 肝心の天布の反応の方は、決して良くはなかったが思っていたよりは悪くなかった。抗議は法瑞一個の処遇を巡っ

ての事であったので、彼が隠居させられれば、それ以上強くは言えなくなってしまったのだろう。

 もしまだ何か言ってくるようであれば、もう一つ思い切った手を打つ覚悟をしていたのだが。どうやら使わずに済

みそうだ。

  梁国内も受け止め方は様々なようだが、大きな不満はないようだ。民には、誰が上に立とうと楓の意向に沿って

治められるのだから大差無い、という考えがあるのだろう。そして楓が民を重んじる事は周知の事実。諦めではなく、

安心故の無関心というべきか。

 そんな事よりも彼らの関心を引いたのは、明開が法瑞を通さず、直接殷嵯将軍に対して私的に祝辞と相応の品を送

った方にあるだろう。これはつまり楓と殷嵯将軍が直接繋がれた事を意味する。

 法瑞の件で楓も懲りた。梁王、法瑞、殷嵯、蕭冊、その誰にも大きな権限を持たせたくはない。楓の梁政策は権威

の分散へと移行している。明開の態度はそれをはっきりと示す行為でもあった。

 ただしそれは前述した有力者で権力を等分させるという意味ではない。役割分担をさせたと考える方が合っている。

政府が政治、法瑞が軍、そしてその軍を実際に動かすのが殷嵯。三者で区分させる事で、より解りやすく、操りやす

くしようという訳だ。

 無論、それは秦にとっても付け込み易くなるという事だが、これは必ずしも不利益となる訳ではない。

 秦も楓同様、中諸国の情報収集に重点を置いている。楓の諜報組織がいくら大陸一であっても、他国の間者を一掃

する事は不可能だ。秦から発せられる間者の数は増える一方で、秦に味方する者も増えている。国土が広がった分、

侵入者を見付け難くなっている。

 間者を増やそうにも、楓には質を重んじる余り数を増やし難いという弱点がある。最早以前のようにはいかない。

 しかし全土を防ぐ事はできずとも、侵入先、接触先を限定する事ができれば、それを守り易く、管理しやすくなる。

 この場合は、言わば蕭冊という餌を置く事で、秦の目をそちらに引き付けようという訳だ。

 殷嵯と蕭冊の関係は当然、秦もすでに調べている。楓と長く密着しておらず、法瑞という競争相手の居る蕭冊とい

う存在は、秦から見れば格好の取引相手であろう。

 目立った権勢欲の無い殷嵯と違い、蕭冊は野望をその行動から隠そうともしていない。結婚も、陰がなく大らかで、

上に立たせるにも都合よく扱うにも丁度良い殷嵯という男に近付く為の手段に過ぎない。現に結婚してからは妻とは

儀礼的に会うのみで、帰宅する事もほとんど無いのだとか。

 蕭冊という男はとにかく露骨に過ぎる。だがそれも殷嵯の引き立て役になっていると考えれば、徹底しているとも

言える。目的を遂げる為ならば、自分すら犠牲にできるとすれば、それはそれで覚悟あるやり方だ。

 或いは子遂以上の危険人物であるのかもしれない。

 秦からすれば中諸国を荒らす一因となるなら何でも良いのだから。蕭冊という男はまさに打ってつけだろう。

 そういう意味で秦の狙いを限定させる事ができる。

 怖いのはどこに手を出してくるか解らない場合であって、それを限定できるのなら、労力、対策共に無理なく使える。

 確かに隙を見せる危険も大きいが、中諸国全体に闇雲に網を張っているよりはいい。

 それに明開には確固たる勝利への自信があった。

 楓という組織への信頼もある。

 それを過信と呼ぶのは、少々気の毒であるかもしれない。

 実際、彼は相応の役割は果たしたのだ。



 殷嵯就任後からの秦の動きは速かった。

 蕭冊、殷嵯へ接触し、その手は法瑞まで及んだという。

 確かに法瑞も不満を抱いているだろう。殷嵯へは自分を通して繋がると考えていただろうに、それを無視された格

好だ。彼が無謀な事をしたのも、自分の力を認めさせ、己が地位を安堵したかったからである。楓を裏切らせる事は

無理でも、明開への対抗意識を利用すればできる事は少なくない。

 明開と上下関係ができた事も不満の種とするには充分な理由だ。

 法瑞が本気で秦に肩入れすれば、明開も安穏(あんのん)としていられない。そこに蕭冊がしゃしゃり出てくれば

更に事態は悪化する。それがどういう結果に終わったとしても、秦にとっては大きな利益となるはずだ。

 例え失敗したとしても、中諸国を混乱させるには充分である。

 だが、それこそが明開の望み。

「さあ、膿み出しだ。大いにやろうぜ」

 すでに知るべき者には知るべき事を伝えてある。どんな動きにも対処できるはずだ。

 そこに誰が介入してこようと、遅れを取らない自信がある。

「来るか。来るよな。お前なら、必ず動く」

 明開の視線の先には変わらず子遂が居る。中諸国の問題は決して一国では終わらない。そして全てが動くのだとす

れば、必ずその中心に子遂が居る。ならばこちらからそれを起こすのだ。待っているのではなく、迎え撃つ。

 子遂の動きを馬鹿正直に待っているからいつまで経っても彼を潰せない。受身では子遂に勝てない。それは明開の

信念にも似た想いであった。

 確かに焦っていたのかもしれない。だが慎重なだけでは何も進まない。明開の意はやはり変わらなかった。




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