20-6.竜虎の間


 目を移すべき国、それは斉である。

 斉は楚の属国同然の国になっていたが、次第に立場が逆転するに従って関係も悪化していき、天軍の乱後、

楚が楓に助けを乞うた事で完全に別れる事になった。

 しかしその斉も大勢に影響を与える力はなく、北方の一小国に過ぎなくなっている。他の地にいればまだ違

ったかも知れないが、東に趙深が統治する衛が在り、西には双という絶対的な楓の同盟国が控えている。進む

べき道を失い、中諸国の子遂(シスイ)同様封じられている。

 兵を挙げても討たれるだけだろう。秦と密約を結んだとしても、楓秦の戦は一月や二月で終わるものではな

い。その間に斉は攻略され、併呑されてしまう。その後で秦が勝ったとして、滅びた国との約定を誰が守るだ

ろう。

 王室を形ばかり復興させ、傀儡とするのがせいぜいか。状況は今より悪化する。

 打つ手は無い。中諸国、南方共に落ち着きを見せた今、力無き斉にできる事は無くなった。

 盛んに秦より使者(正使、密使関わらず)が送られてくる事も、それを証明している。これは斉に戦略的価

値があるから送ってきているのではない。秦に頼るしか無い事を知っているから、送ってきているのだ。弱み

を見せれば直ちに付け入られる。

 今の斉にはその程度の価値しかない。

 だが最後に残った(一応の)中立勢力として、望まない存在感を増している事もまた確か。何かするとすれ

ば今かもしれない。

 斉に選択肢は三つある。

 戦って滅ぶ、秦に利用される、楓に従い延命を図る。このいずれかだ。

 現実的に考えれば三つ目だろう。このまま楓に属し、国名と王の血統を存続させれば、いつかまた日の目を

見る時がくるかもしれない。生きてさえいれば、可能性はいつもある。

 絶対的優位者、一時は覇者と呼ぶに相応しい存在であった孫文(ソンブン)ですら滅んだのだ。楓の運命も

どう転ぶか解らない。

 斉の真の支配者ともいうべき田亮(デンリョウ)も決して諦めない。権力が欠片でも残っている限り、彼は

何を犠牲にしても野望を遂げようとするだろう。

 盟友、姜白(キョウハク)にも彼を止める力は無い。

 斉はおそらく楚を狙っている(封じられた状況を何とかするには衛、双、楚のいずれかを押さえる必要があ

るが、この三国から選ぶとすれば楚が最も御しやすい)。だが楚には項関(コウセキ)と李晃(リコウ)が居る。

特に項関は田亮の実父。さすがに手を出せない。

 田亮が斉を、項関が楚を動かしているのは周知の事実。今のまま斉と楚が争えば、子と父が争うという事に

なる。少なくとも人はそう見るだろう。これは田亮にとって甚だ都合が悪い。

 逆に言えば、だからこそ田亮は失脚させられないでいられる。放り出して第二の朱榛(シュシン)になられ

るより、立場を守ってやる事で恩を着せ、項関によって行動を封じる方がいい。

 おそらく北方の情勢を熟知する趙深の策だろう。

 身近に居るからこそ、田亮には趙深という人間の怖さがよく解る。そして何故彼が一番上に立たず、常に二

番でいるのかも。

 秦などは、いや彼を知らない国の者達なら、一度や二度は趙深を味方にできないかと考えるはずだが、それ

は不可能だ。

 楓流に趙深を疑わさせて殺させる、という方法も同じくらい不可能である。楓という国を背負う二本の大き

な柱を仲違いさせる事は誰にもできない。大きく成長するはずだ。大陸で一、二を争う人物が、絶対的な味方

として繋がっているのだから、天下を取れない理由は無い。

 それに比べて自分はどうか。

 確かに盟友である姜白は有能である。その父、姜尚(キョウショウ)には及ばないまでも、良くやっている。

姜家にさえ生まれなければ、父に匹敵する人物にもなれたかもしれない。

 斉の実権もよく掌握している。斉王は飾りに過ぎない。

 しかし楓流と比べれば全て見劣りする。田亮の唯一の財産といえる民の支持さえ、楓はより深く、広く得て

いる。敵国からすら信用されるような国家なのだ。民に気に入られない方がおかしい。

 まさに堅牢。圧倒的な勢力。

 斉一国ではどうにもできない。

 もしかしたらそれこそが罰なのかもしれない。お前には何もできない、この地で飼い殺しにさせられるしか

ない。そう惨めに教える事が、楓流の真意であると。

「おのれ、たかが成り上がりの、運に恵まれただけの小人が。この田亮をこうも辱(はずかし)めるか。項家

の嫡男であり、貴に連なるこの俺を、野犬のように素性も解らぬ男が侮辱するというのか。許せぬ、この屈辱、

必ず思い知らせてやる。本来なら覇王となるべきはこの田亮。趙深も俺にこそ従うべきなのだ」

 野望の上に個人的な恨みが加わった今、大人しくしていろという方が無理であろう。

 田亮は執念深い性格であり、我慢というものが欠けている。もしかしたら生まれつきできないのかもしれな

い。だから常に捌(は)け口を必要とし、身勝手な未来を持っていなければ生きていられない。心を落ち着か

せられない。

 彼は今、それらを奪われ、閉塞した空気に押し潰されようとしている。このままでは沸騰し、爆発する。そ

してその時、自分に関わる多くの人間を巻き込み、不幸にするだろう。彼の立場を思えば、その被害は甚大だ。

見過ごす訳にはいかない。

 つまり田亮という男は、凱聯と同じ人種なのである。



 項関が急死したという報が楓流に入ったのは、それが起こった一週間後の事であった。

 次いで趙深から送られてきた報告書には、誰かと争った痕跡は無く、身体に傷も見受けられなかったそうで、

医師の見立てでは自然死であると記されていた。項関も相応に老い、ここの所心労を重ねていたから、大陸に

落ち着きがでてきた今、安堵するように息を引き取ったのだろう、という見解だ。

 その見立てに趙深は懐疑的で、楓流も同じ気持ちだが、犯罪を示す証拠はどこにもない。病でないとすれば、

自殺でもしなければこうも静かには逝けないだろう。

 当日前日に出入りした者の中にも変わった者はおらず、何もかもがいつも通り平常に営まれていた。項関に

も変わった様子はなかった。帰りが多少遅いように思えるが、再び宮仕えするようになってからはいつもその

くらいの時間だったらしい。

 もう少し身体を大事にするようにと何人もの人が言い聞かせていたが、まったく聞き入れなかったらしい。

 それでも項関は誇りをもって生き、隠居していた時よりも生き生きしていたとか。

 どれだけ疎んでいても、人はあるべき所にこそ居るべきなのかもしれない。それが幸か不幸かは別として。

 そんな具合だから、楓としても盛大に葬儀を挙げるより外にできる事は無かった。

 名目は楚の国葬だが、実質は楓の国葬であり、参列する者は楚に準ずるとしても、その規模は正しく楓のも

の。これは楚政府への示威であり、楚の民への慰撫でもある。

 項関が楓に付いていた事は周知の事実、異を感じる者は少なかったようだ。これは楚全体が楓に属する事を

受け入れていた証だろう。

 楓流は遠方に居て参列する事は不可能で、名代に趙深が選ばれた。これには参列者一同驚きつつも感嘆した

という。この事から、この頃には誰もが趙深は楓流と同等である事を知っていた事が解る。遺族は誇らしかっ

たはずだ。項関はそれだけの人物なのだと。

 楓は項関の死因や死亡前後の事をもっと詳しく調べたかったのだが。これ以上強い理由もなくその身辺を探

り、楚内を騒がせるのは死者に対する不敬となる。断念するしかなかった。

 それに項関が死んで得する人間が居ると思えない。

 楚は様々な問題を抱えているし、それを解決するには長い時間が必要だ。そしてそれらの処理をほとんど項

関が行っていた。彼が死ねば、全ての事に深刻な支障をきたす。

 後釜に座れば大きな権限を得られるとしても、時期が悪い。それに李晃という実力者も居る。

 何より項関とその関係者に恨みを持つ者の仕業なら、何らかの証拠が残るはず。何も無いという事は自然死

か、項関自身がそれを望んだか、どちらかしかない。とすればやはり自然死か。彼は無責任な男ではない。

 しかしどうしても自然死とは思えない。

 真相は解らないままだ。



 早急に項関の代わりを見付けなければならない。順当に行けば李晃だろうが、彼にこの仕事は向いていない。

だからこそ実務は項関がほとんど一手に引き受けていたのだ。

 次に名が挙がるのは項家を継いだ項成(コウジョウ)だろう。しかし彼だけでは力不足である。項関存命時

から協力していただろうし、ある程度はそのまま受け継げるとしても、残念ながら彼に父親と同等の能力は無

い。いずれはそうなれるかもしれないが、今は違う。

 兄、田亮と比べてもはっきりと劣る。彼一人に任せてはおけない。

 こちらの事情を知っているのだろう。田亮が都合よく協力を申し出てきたが、これを受ける訳にはいかない。

例え楚がそれを望んだとしてもだ。幸い彼は姓を変え、項家と縁を切る形になっている。断る理由には事欠か

ない。

 近衛か趙深の腹心を使えれば安心なのだが、それでは楚を乗っ取るかのように見えてしまう。

 項関の意を継ぐという形を大事にするなら、どうしても楚内から引っ張り出さなければならない。だが楚に

項関に代われる者が居ない。これは深刻な問題だった。

 趙深が滞在していられる間に、できる限りの事をしてもらうしかないだろう。

 項関が死しても、李晃が健在である限り、楓楚の仲は揺らがない。彼に頼めば、少しの時間は取れるはずだ。

今はそれで凌(しの)ぐしかない。



 趙深は半月の間楚に滞在し、形ばかりだが新体制を作り上げた。

 質の悪さは量で補うしかない。項関や李晃にも日頃から目をかけている者が居たし、二人を慕っている者な

ら国内にいくらでも居る。項関の死も彼らの心に火を点ける役割を果たしたのか、士気は高い。

 姜尚もそうであったが、名を残す人物というものは、死して後にこそ影響を強める傾向があるようだ。

 人海戦術で項関の死という大きな穴を埋め、楚という国を軌道に乗せるべく懸命に励ませた。

 半月では短過ぎるが、趙深には衛に大きな仕事があるし、他国の重臣がいつまでも居座るのは余計な軋轢(あ

つれき)を生む原因となりやすい。残念だが、これ以上延ばす事はできなかった。

 本来なら葬儀が終わった時点で楚に居る理由は失われていたのだから。

 後は李晃と項成に任せるしかない。気になる事は残っているが、二人の仲は悪くない。協力すれば何とかな

るだろう。

 そう信じ、外から援助し続けるしかない。



 項関の葬儀から二月が経ち、楚は平常に戻りつつある。未だ国全体が喪に服し、今年中はそれが続くだろう

が、気分としてはいつもと変わらなくなってきている。悲しみを忘れた訳ではない。生活はそれらとまた違う

所にあるという事だ。いつまでも浸っていられない。項関もそれを望まないだろう。

 そしてこの頃から不穏な噂を聞くようになった。

 項家縁故の者が田亮を頼り、斉へ移住するようになったというのだ。それも一人や二人ではなく、何十とい

う数で。

 項家は楚の名門、項関の娘が王家に嫁ぐ程であるが、皆が皆重い地位に就いている訳でも、金や土地を持っ

ている訳でもない。

 項関は頑固でかんしゃく持ちではあったが、面倒見は良く、一族内で困っている者が居れば援助してやって

いた。感謝している者は多く、それもまた一族内での項関の地位を支えていたのだ。

 しかし彼の死後、援助の多くは打ち切られたらしい。

 項成も父に倣(なら)おうと努力はしたが、彼は要領の悪い所があるし、父の全て知っている訳では無い。

何の通達も無く突然打ち切られた形になった者も多かった。

 そうなると打ち切られた者は恨みを抱き、路頭に迷う。そこに田亮が手を差し伸べれば、渡りに船と誘いに

乗るだろう。家を出たとはいえ、父が目をかけていた人達を無下にする訳にはいかない、とでも言えば理由も

立つ。

 項関の名を出されれば孝という事になるし、田亮は項城も知らない情報を詳しく知っていた。気付き、対処

しようとした頃にはもう遅かったようだ。

 やはり田亮の方が上手である。彼に引き抜かれた分だけ項成の権威は失墜し、一族内での権威も下がった。

 遺産の整理でも苦労し、父に比べると余りにも頼りないと思われていた矢先であったから、尚更だろう。

 これらも結局一族内の問題でしかなく。楚政府の重要な地位に居るのは項成で、正式に項家を継いだのも彼

だ。立場は依然重い、と言えば確かにそうである。

 しかしだからこそ余計に兄との差(例えそれが印象だけだとしても)が大きく見え、項城にとって悪い方に

働く。今はまだ大丈夫なようだが、その内項家は田亮、項成に二分されてしまうかもしれない。

 そうなれば必ず田亮派を使って内側から圧力を加えてくるようになる。そうなった時、項城だけでは押さえ

る事ができないだろう。

 項関の死。それは考えていたよりも大きく、深い問題であるようだ。

 急ぎ手を打っておかなければ。

 田亮派が力を得るにはまだ時間が必要だ。田亮がいかに人の心を盗る事に長けていたとしても、項関がしっ

かり握っていたものを一朝一夕に奪えるものではない。項関という存在は死して尚影響を与え続けている。そ

れは田亮の行動を縛る事になるだろう。

 それに趙深を通して楓との繋がりは益々深まった。趙深が居る間、自然と彼に決定権が行く事になっていた

が。それを誰もが黙認していたという事実は大きい。

 そういう意味では楓もまた項関の死を利用した事になる。楚と斉の仲にひびが入ると考えれば、項家の内部

争いも望む所であったのかもしれない。

 田亮が楚へ繋がる道を得た事は注意しておくべきだが、それはまだそれだけのもの。田亮派という名前も、

今はまだ存在さえしていないかもしれない。不穏の種ではあるが、それ以上のものではない。

 所詮、楚も斉も終わった国という事か。滅びるにしろ、存続するにしろ、結局楓か秦のどちらかに付かなけ

ればならないのであれば、先は見えている。

 とはいえ、大きな事も小さな事から生まれる。田亮にはっきりと芽生えた楓流への恨み。そして少しずつだ

が確実にその威を伸ばしている事は忘れない方がいいだろう。



 大陸に現存する主要な、と思える、国家の動きはそれぞれ一応の決着を見た。

 楓の優勢変わらず、むしろ強化されたというべきか。どうひいき目に見ても秦の不利は否めない。

 しかし長い目で見ればどうなるか解らない部分は少なくない。他国を頼るのも危険であるし、そろそろ決戦

準備をもう一歩進める頃合かもしれない。

 秦もこのままでは終わるまい。今までの事も布石である可能性の方が高い。

 過程の段階でその結果に満足しているようでは、足元をすくわれる。

 秦に勝利する為には、もっと緊密な繋がりが必要だ。各地に打ち込んだ支柱をより堅固にすると共に、新た

な支柱を打ち込んでいかなければならない。

 そうして戦略を形にしていけば、問題点も浮かび上がってくる。問題点が解れば、具体的に対処できる。今

までのように漠然とした準備ではなく、楓として秦とどう戦うのか明確にする事は、大体において良い結果を

もたらすと思える。

 楓流、趙深が考える対秦戦の大まかな戦略は、北方、中央、南方から同時に攻めかかる総力戦である。

 北方の双が北から威圧し、中央の集縁から本軍が西進し、南方から南楓軍が攻め上がる。

 それに対し、秦は本国の兵を二分して双と中央に当てるだろう。南方は部族を中心とした軍団同士の一騎打

ちの様相を呈す事になるはずだ。

 鍵となるのは楓流が直接指揮を執る南方戦。秦側もここに最も優秀な将兵を送るはず。秦王自身は秦本軍を

率いて中央へ押し出すだろう。部族を率いる事に抵抗があるだろうし、無理をしてまで楓流と大将同士の戦を

行う意味も無い。

 楓も中央の兵力を厚くする必要がある。勝てないまでも、五分五分に鬩(せめ)ぎ合い、その間に楓流が南

方で勝利を収め、その勢いを持って秦本国を攻め落とす。これが理想である。無論、中央でも圧し勝てるなら、

それに越した事はない。

 しかし残念ながら、衛軍を楚斉や中諸国への備えとする事を考えれば、中央はいささか手薄である。窪丸の

兵を用いても足りない。甘繁(カンハン)が協力してくれればいいが、こちらは望み薄だ。もっと確実な戦力

が欲しい。

 中央軍を誰に指揮させるかも難問である。

 中央には凱聯(ガイレン)が居るが、できればこの男はあまり重要な位置に置きたくない。彼の手勢を増や

すつもりもないし、常に二軍でいてもらう。

 おそらく中央軍は魏繞(ギジョウ)に任せる事になるだろう。補佐には胡曰(ウエツ)、奉采(ホウサイ)、

明慎(ミョウシン)といった人物が順当か。この四人を軸に回していくしかないと思える。

 趙深に任せられれば一番良いのだが、彼が背後をきっちり押さえてくれていると思えばこそ、楓流は雲に乗

る竜のように自在に動く事ができる。趙深はできる限り衛に居て補給と後方の抑えに専念してもらいたい。

 しかしもう少し中央に厚みが欲しい。南方で勝てても、本国となる集縁一帯を奪われるような事になれば、

楓の権威は地に落ちる。

 集縁が瓦解すれば楚斉と中諸国がそれに引きずられる可能性もあるし。不安要素の多い中央に危険を招くよ

うな行為は避けるべきであろう。

 やはりまだ足りない。このまま決戦を挑んでも、勝利は五分五分と言った所か。

 楓流の苦悩は続く。




BACKEXITNEXT