22-2.知中の不知


 西要の護りが目に見えて厳重になっていく。防壁上の守備兵の数は増し、昼夜怠(おこた)り無く監視を

続け、緊張感が高まっている。とはいえ、兵達の中に焦りがあるようではない。間者からの知らせでは程良

く気が張った状態であるという。甘繁への信頼が成せる業であろう。

 手練(てだれ)の間者でも忍び込む事は難しく。近付いて物音や兵の声を聞くのがせいぜいだ。

 前哨戦での敗北による影響も少ない。全ては甘繁の予定の内という事か。

「さすがにこの程度では揺るがぬか」

 魏繞(ギジョウ)は歯噛みする思いだったが、さりとて誰を責める理由もない。それに勝利を得た事で士

気は揚がっており、兵が紫雲世に懐(なつ)いている。楓にとっても悪くない状況だ。

「甘繁殿相手に五分五分と考えれば、悪くはないか」

 所詮は前哨戦。敵軍の被害も将一名でしかないし、過度の期待を求める方が間違っている。

「気が焦っていたのはわしの方だったのかもしれん」

 長年中央を順当に治めてきたのだ。実績と経験はあると自負している。だがそれも楓中央軍の指揮官とい

う重圧には何の役にも立ちはしない。楓中央軍の敗北は本拠地である集縁の陥落を意味する。本来ならば楓

流自身が担(にな)うべき仕事なのだ。気負いも焦りもするなという方が無理である。

 胡虎の死に様に感銘を受け、彼足らんと生きてきたつもりだが、とても及ばない。歳を経て、どれだけ力

を付けたとしても、感じるのは胡虎との差のみ。

 今にも楓流から、胡虎さえ生きていれば、の声が聞こえてきそうだ。

「また難しい顔をしてなさる。少しは酒でもいかがかな。大将は豪気でなければいかん」

 兵営からいつの間に戻ってきたのか、紫雲世の姿がそこにあった。間者の元締めをやっているだけあって、

この男も巨体に似ずすばしこく、なかなかの隠密術を使う。その技術を用いて人をおどかすのは悪ふざけが

過ぎると思うのだが、彼の混じり気の無い笑顔を見ていると腹も立たないから不思議だ。

 正直な所、自分などより人の上に立つに相応しい器だと思う。

 魏繞には彼の言う豪気(ごうき)さが無い。それどころか、年々臆病になっていく自分を感じてさえいる。

長く防衛に専念してきた弊害(へいがい)だろうか。覇気というのか、心の勢いを失っている。

 攻め手の大将など自分に最も相応しくない地位なのではないか。

「いや、止しておこう。余分に酒があるなら、兵に振舞われるといい」

「ハッハッハ、さすがは魏繞将軍。楓流様の信任厚きお方。いつも下の者の事を考えておられる」

 他の者が言えば皮肉にしか聞こえないだろうその言葉も、紫雲世が傷の目立つ顔をつるりと撫でて笑いな

がら言えば、何ともいえず滑稽(こっけい)な面持ちになる。その顔を見て吹き出さないのは魏繞くらいの

ものだ。

「貴方への褒美にしてもいい」

「それはありがたい事ですな」

 紫雲世は笑顔を浮かべたままだが、彼も見た目通りの心情でない事は魏繞が一番良く解っている。彼の中

にある焦りは魏繞の中にある焦りとおそらく同種のものであるからだ。

 笑えないのも半分はそれが理由である。

 楓流も魏繞の心情を読み、紫雲世、そして玄信という男まで付けてくれたのだろうが。それを差し引いて

もやはり足りないと感じる。不安は消せない。

 その気持ちは当然のように兵にも伝播(でんぱ)しており、言い知れぬ不安が今も軍全体を包んでいる。

 紫雲世の派手もそれを払拭(ふっしょく)するには足らず。確かに兵達は活気付いたが、それも空元気と

いえた。

「さて、西要をどう攻めよう」

「ふうむ・・・・なかなかの難題ですな」

 紫雲世にもこの状況を打破できる策は無い。

 あれだけ見事に返り討ちにあったのだから、最早西要から打って出てくる事は無いと考えていい。となれ

ば正面から攻め落とすしかないのだが、西要は堅い。大陸広しと言えど、ここまで本格的な城塞都市を造れ

るのは玄一族とも近しい甘繁か楓流くらいのものであろう。

 後の時代から比べれば玩具のような簡単な作りでしかないが、この時代に街をすっぽり囲む防壁があると

いうだけでも脅威(きょうい)に値する。基本は木製であるが、表面を泥土で固めている為に火にも強い。

 試しに何度か火矢を射掛けてみたが、ほとんどは燻(くすぶ)るだけで燃えるに到らず。運良く付いた火

もすぐさま消されてしまった。

 防壁にはゆるい傾斜が付けられているようで、上から水を流せば簡単に消火できるし、簡単な作りなので

泥土や岩石を積むよりも早く完成させる事ができる。

 傾斜を付ければ登りやすくもなるのだが。熱湯なり煮えた油なりを流せば一網打尽。隙は無いという訳だ。

 包囲して兵糧攻めにすればいつかは落ちるとしても、それには時間がかかり過ぎる。楓にそれを待つ余裕

は無い。

 犠牲を覚悟で兵を何十、何百、何千と送り込んで強引に門を開かせる事も不可能ではないが。それでは後

に控える秦本軍に勝つ見込みが薄くなる。

 八方塞(はっぽうふさがり)というやつだ。

 しかしいつまでもこうして睨んでいる訳にもいかない。早く中央と南方を結ぶ補給路を作らなければ。

「どの道犠牲を免れないのなら、少しでも早く動く事が良策と言えまいか。それに賢人には愚考を当てよ、

という諺もある。甘繁殿もまさか我々が馬鹿正直に正面突破を仕掛けてくるとは思わんだろう」

「ふうむ、確かに虚を突く事はできるかもしれませんな。隙さえできれば、間者達が忍び入る余地も生まれ

ましょう」

 と、結論がまとまりかけていた所へ。

「いえ、彼にそのような手は通じませんよ」

 これまたいつの間に来ていたのか、玄信の姿があった。

 彼とは集縁から一緒なのだが、魏繞と顔を合わせたのはこれで二度目である。玄信は想像と違い落ち着き

のない人物で、いつもどこかで何かをいじっているか狭い所や物置でごそごそやっている印象しかない。居

場所は誰も知らないし、いつ見ても埃と汗で薄汚れた姿をしている。

 そんな姿と行動から誰ともなくちょろ鼠(ねずみ)と呼ぶようになり、今ではその名が兵士の間に定着し

ている。その能力は認められているようだが、いまいち尊敬を得ておらず。いい笑いものにされている。

 本人はそれを知ってか知らずかまるで気にしていないようだが。魏繞などからすれば何を考えているのか

解らない所があり、どうも今一つ疑問が残る。

 それでもその助言は賢人と言うに相応しく、道具の使い勝手の向上、命令系統の単純化など恩恵を挙げれ

ばきりがない。

 見た目と知性がこうもそぐわない人物も珍しいのではないか。

 そんなちょろ鼠がふらふらとやってきて文句を付けるのだ。王の友人とはいえ、さすがに腹が立つ。

 少々むっとした顔を見せると。

「まあまあ、ちょっと聞いて下さい」

 玄信はその気持ちをなだめるように笑い。ある考えを解り易く説明した。

 それを聞くや魏繞の顔はころりと喜びの色に染まり、紫雲世もまたつるりと顔を撫でて笑った。

 最早魏繞に玄信の才を疑う気持ちは微塵も無く。それを見て取ったのか、玄信は更に詳細に意見を述べ始

めた。その意見は的確で参考になるものだったが余りにも数が多く。彼が口を閉じるまでにはとっぷりと時

間が必要だった。

 魏繞はさすがに聞き疲れ、紫雲世は舌を巻いた。

 彼も長く衛に居て数多くの人間を見てきたが、これほど頭の回る人間を見たのは趙深以来である。

 さすがは楓流が一目置くお方だと全ての事に納得できた。

 魏繞もまた同じ気持ちであっただろう。



 意義ある敗北より三日、楓中央軍に目立った動きは無かったが、今日に到って飯炊きの煙の数が増えている。

 これは彼らが甘繁の読み通りの思い切りが良くはあるが自殺的な方法に走る前兆とも見えるが、おそらく

罠であろう。

 甘繁は玄信の力を誰よりも知り、恐れている。楓に彼が居る限り、馬鹿正直に正面突破に出てくる可能性

は無い。これは予測でもなんでもなく純然たる事実である。それが解るだけでも友として過ごしてきた意味

があったと思える。

 楓に付いた彼を恨む気は無い。楓流は彼にとって妹婿(いもうとむこ)も同然であり、玄一族全体と楓と

の交流も深い。同じ西方に居るにも関わらず西方の国家は彼らの理念を理解せず、手を結ぶ事ができなかっ

た。支配ではなくあくまでも協力し合うという関係を構築できるのは、大陸広しといえども楓だけだろう。

まったくもって不思議な国家だ。

 玄一族は楓に、いや楓流という男に恩義すら感じている。戦に協力するという特例を設けたのも、彼に対

する恩義と敬意があればこそ。

 彼らが秦に対してそんな気持ちを抱く事はあるまい。その点に関してだけは秦を、いや秦王を恨みたくも

なる。玄信は鉄のような男だ。硬いが熱すればどこまでも姿を変える。おそらく生涯でたった一度だろうこ

の戦に、その天賦の才の全てを注ぎ込む。甘繁など想像もできなかった事を容易くやってくるだろう。

「全てに備えておかなければならない。そう全てだ。予想だけではない、予想以上の、予想外の事にも備え

なければならない」

 幸いにも一度のどうでもいい敗北のおかげで統率はとれている。完全に掌握しているとは言い難いが、甘繁

も長い年月を遊んできた訳ではない。何をするにも滞りなく遂行できるよう取り計らってきた。

 これは大言壮語ではない。ただの事実である。

「楓中央軍が全力で攻めてくれば西要もいずれ落ちるだろう。私も己惚れている訳ではない。秦本国から援

軍が期待できない以上、敗北しかないのは解っている。だがそれでいい。我らは秦の最終的勝利の為の礎と

なるのだ」

 援軍無しで防衛側が勝てる篭城戦など無きに等しい。我らは死ぬ。だがその死によって稼がれた時間が楓

を滅ぼす。

 最後まで友で居る事は叶わなかったが、どうやら死を共にする事はできそうだ。

 最初から犠牲となる事を強いられていた将兵達には冥府で詫(わ)びるしかない。

「天命とはかくも・・・・であるものか」

 百史に通ずる甘繁でも、その心を表す言葉を見付ける事はできなかった。



 予測していた通り、楓の本格的な攻勢が始まったのはその当日、午後過ぎてからの事であった。早朝に始

まり夜に退くのが一般的な戦の姿であり、わざわざこの時刻に始めたのには理由があるのだろうが。今更敵

軍が何を考えていようと関係ない。専守防衛あるのみ。

 迫り来る楓軍は奇妙な物を持っていた。防壁上まで届く長い梯子(はしご)で、綺麗に真っ直ぐ伸び、た

ゆみもしない。その分重量もあるようだが、下部には車輪が付いていて運びやすいようになっている。

 その上、百足(むかで)を思わせる足まで付いている。梯子から直角に突き出た足はある程度上下に動く

ようになっており、ゆるい斜面を付けられた防壁にもぴたりと張り付き、上から流される熱湯や煮え油も梯

子を進む兵の下を流れていくようになっている。

 それならばと梯子に直に熱湯や煮え脂を流そうとしたが、梯子の縦棒には外に流れるように何条も溝が掘

られていて、思ったような効果は与えられない。

 西要の攻撃手段の一つが封じられてしまったと言っても過言ではないだろう。

「さすがは玄信、見事な作りよ。だが、所詮は梯子。押しのければそれまでだ」

 何しろ長い梯子である。上手く作ったようでも安定させるのは難しい。立てかけるのにも一苦労する上、

外されれば兵もろとも真っ逆さま。楓兵も使い方に慣れてないのか、持て余している観がある。

 やはり付け焼刃では知れているという事だ。

「天賦の才を持ってしても人には限界がある。彼も神仏ではない」

 楓流は西要軍を甘く見過ぎている。甘繁が長い時間をかけて兵を鍛え、要塞化を進めてきた。防衛に関し

てだけ言うなら楓の南方軍にも勝ると自負している。いかに精強な兵を率いようと玄信が付いていようと魏

繞では荷が重い。

 西要もいずれは落ちるが、それによって楓中央軍は疲弊し、秦本軍に食われるだろう。その後は集縁を奪

われ、北方と中央との繋がりを失う。そうなれば中諸国は騒ぎ、北方の楚と斉も動く。東方と南方との繋が

りも失われ、楓南方軍は自滅するしかなくなる。

 南方は軍事に特化し過ぎている。南方だけでは軍を維持するだけの物資、食料を生産できない。輸送路を

断たれれば終わりなのだ。

 南方軍にこだわり、大局を見誤った結果がこれだ。最も重要である楓中央軍は楓流自身が率いるべきだっ

たのだ。

 魏繞、紫雲世、玄信の三者は確かに有能であるが、西要を短期にしかも犠牲を少なくして落とすなどとい

う難題を任せるにはいささか物足りない。

「一時の勝利は君達に与えよう。だが最終的な勝利は秦のものだ。それを取り返したければ私を追って冥府

まで来ればいい。君達にそんな時間と余力が残されていれば、の話だがな」

 甘繁は自身の敗北と、それによる秦の勝利を確信していた。



 楓の梯子攻めは西要兵を驚かせ、しばらくは優位に働いたのだが、そこまでだった。

 甘繁の言う通り、こけおどし以上の効果は無かったのだ。

 だがそれこそが玄信の狙いであった。

 西要兵は突如防壁内に現れた楓兵に再び度肝を抜かれる事になる。

 驚くべき事に、楓兵は上からではなく、下から現れた。防壁の下に穴を掘り、そこから侵入してきたので

ある。

 防壁という概念自体がまだ目新しかった当時の事、穴を掘って壁下を抜けるという戦法など当然誰も知ら

ない。西要の兵がいくら訓練を積んでいるといっても、発想もできない事に備えておける訳もない

 通常ならば防壁のすぐ下で穴掘りなどしていれば、どれだけ注意していたとしても壁上に居る西要兵に発

見されていただろうが。すでに日が落ちる時刻であり、耳目も長梯子の方に引き付けられていた。

 もしかすれば何かしらを感じ取った者も居たかもしれないが、それもやはり穴掘りという発想にたどり付

けなければ悟る事はできない。

 楓軍は盛り返し、今度こそ勝敗も決まったかと思われたのだが。これもまた一時の事だった。

 穴掘りを覚られぬよう行う為にはどうしても小規模にする必要があり、数多く一度に掘る事はできない。

それに当時の技術では穴自体もそれほど大きくは掘れない。穴を通って防壁内へ一度に侵入できる兵の数は

知れているし、発見すれば対処し穴を塞ぐ事も難しくなかった。

 秦兵の混乱に乗じて何度か優勢に持っていく事はできたのだが。どうしても門を開く事ができない。内部

に侵入した兵が門を開き、そこへ紫雲世率いる部隊が突撃して一挙に勝利を得る。という策なのだが、完遂

できずにいる。

 どれほど素晴らしい発想であれ、新しいものを現実に有用なものへと昇華させるには多くの時間と労力を

必要とする。長梯子であれ、穴掘りであれ、現状では人を驚かせる程度の役にしか立たない。

 甘繁は玄信という天才を気の毒に思った。彼の発想が正当な評価と効果を生むのは、おそらく長い時間が

流れた後であろう。それまでは奇をてらっただけの胡散臭(うさんくさ)い男と笑われ続けるのかもしれない。

 そしてそれはもう一人の天才である楓流も同じ。彼が楓という国家を天下に覇を成す勢力にまで育て上げた

事は大きく評価されるだろうが。彼が本当にしたかった事、彼が本当に望んでいた事は一つとして叶うまい。

 秦が勝ち、楓は滅ぶ。楓流の夢と理想と共に。

 気の毒な事だ。本当に気の毒な事だ。二人の天才を友と呼ぶ幸運を受けた身として、心から残念に思う。

 皮肉を言っているのではない。本当に、心からそう思う。彼らと歩を共にできなかった運命を哀しく思う。

  だが二人の天才に終止符を打つのが友である自分の役目と天が命じるのでれば、甘んじてそれを受けよう。

運命とは人が決めるものではなく、人の想いなど届かぬ場所にあるものだからだ。

「彼らは生まれてくるのが早過ぎた」

 楓と玄の理念は崇高だが、それ故に大多数の凡人が理解できるものではない。もし楓が大陸統一を成し遂

げたとしても、その理念故に自壊する事になるだろう。

 甘繁は凡人であるが故に、その事がようく解る。楓流、玄信もまた天才であるが故の限界からは逃れられ

ない。彼らは凡人の心が解らない。過ぎたるは及ばざるが如しである。

「故に秦が勝つ事が、彼らの理念を救う事にもなろう」

 彼らがそれを成せず滅びる事で、その人生と共に二人の理念は永遠となる。その理念が人を支配する事は

ないとしても、常に尊いものとして崇められはするだろう。

 それでいいのだ。永遠に残したいのなら、現実にしてはならない。夢に終わり、夢であり続けるからこそ、

その思想は永遠となる。

 天才の思想は天才だけのもの。凡人の及ぶ所ではない。最も善いものが現実に受け容れられないのはその

為だ。大多数の人間はそれが善いと解っていても、付いていけないのである。

 国も同じ。楓流という天才によって生まれ、運営された楓という国を継げる者はいない。彼と同等以上の

王器を持つ者がこの大陸には存在しないからだ。どちらにせよ、楓は楓流の死と共に終わるだろう。

 その点、秦王は天才ではないが英明である。長くこの大陸を治めてくれるだろう。

「秦こそが世を太平に導く」

 それが真理というものであった。



 異変が起こったのは、日が完全に落ちてしばらく経った頃だった。

 戦は日の出と共に始まり、日の入りと共に終わるが常識。どうしても気の緩む時間帯である。

 楓軍はこれまで何度失敗しても長梯子攻めと穴掘りを繰り返し、その度にその規模も大きくしていった。

特に穴掘りの方は開き直ったのか、姿を隠そうともせず数多くの穴を同時に掘り始め。やけになったか、西

要兵に対する心理的打撃を期待する方針に変えたかのようにも見えた。

 しかし所詮は種のばれた手品のようなもの。最早驚くには値しない。対処にも慣れ、西要兵の気分としては

むしろ楽になっていた。思想は固定化され、機械的に決まりきった仕事をこなし続けるようになっていたのだ。

 そこへ突如(とつじょ)、防壁に対して無数の鉤(かぎ)付き縄が放たれた。梯子の途上に居た兵達が投げ

付けたのか、その縄は梯子から放射状に広がっている。そしてその縄を一斉に楓兵が登り始めたのである。よ

く見ると縄ではなく、縄梯子であった。長梯子に比べれば細く弱いが、人が登るには充分である。

 中にはしくじって落ちた兵も居たようだが、その大部分は登りきった。当然、訓練も積んでいたのだろう。

 そうして兵の意識が壁上に飛ぶや穴掘りの方も一層激しくなった。西要兵の心は上下に散乱し、そこへ楓兵

が侵入する。その数も今までの比ではない。侵入路が加速度的に増えていく事で、西要兵はまるで今までの数

倍の兵力と戦っているかのような錯覚に陥(おちい)った。

 そこへ紫雲世に率いられた部隊が一斉に攻撃を開始する。背後に隠していたのだろう、大きな杭状に削られ

た丸太を持ち、それごと体当たりするかのように勢いよく門へ叩き付ける。同時に防壁内へ雨の如く火矢が

放たれ、西要内の混乱は取り返しの付かない所まで深まっていった。

 甘繁はすぐに対処を命じたが、彼の思想もいつの間にか固定化されてしまっていた。突然増えた情報に対応

しきれず、その命にもいつものような冴(さ)えがなかった。

 それでもしばらくすると自分を取り戻したが、その頃にはもう兵の方に命令を聞くだけの理性が残っていな

かった。

「初めから、これを狙っていたのか・・・」

 甘繁が楓の攻めを読みきり、玄信、楓流に同情を寄せて油断するこの時を、彼らはずっと待っていたのか。

 長梯子、穴掘り、これらは玄信ならばあっと驚く手を使ってくるはずと考えている甘繁を納得させるには充

分だった。そしてその限界を目にさせる事で、甘繁が自分の判断の正しさに満足する事もまた想定の内であっ

たのだろう。

 長梯子や穴掘りという発想に現時点では技術が伴わない事など玄信にも解っていたのだ。当然だ。甘繁に解

る事なら玄信にも解る。それを知っていてそう判断しなかったのは、甘繁の心に玄信に勝ちたい、二人の天才

に最後くらい勝ってみたい、という欲求があったからだろう。

 知らず知らず、三人の内でただ一人の凡才である己に対する劣等感が芽生えていたのかもしれない。

 玄信はその全てを知っていたのだ。

「自惚れていたのは、私の方だったか」

 何が天才は凡人の事が解らないだ。何も解っていなかったのは自分の方だった。逆なのだ。真の天才は凡人

を知るが、凡人は決して天才を知る事は無い。だからこそあの二人はいつもどこか悲しそうな顔をしている。

大多数の人間には決して理解されない事を理解しているが故の、諦めの表情なのかもしれない。

 それでも二人は最も善き道を進もうとしている。

「楓流、玄信、私は君達を誇りに思う」

 不可能な事を不可能と知りながら努力し続ける事は、どれだけ悲しい事だろう。

 そしてどれだけ偉大な事か。

「しかし例え楓が勝利したとしても・・・・」

 西要は間もなく落ちる。秦にも次の手が無い訳ではないが、現時点での楓の優位は明らかだ。この決戦にも

勝利するかもしれない。

 だがどんなに考えても、楓という国家が長く続くとは思えないのだ。

 楓流が大多数の人間の気持ちを理解できたとしても、彼の跡を継ぐに足る人物が居ない事には変りない。あ

の趙深でも不可能だろう。彼もまた自分と同じく凡人でしかない。それを解っているからこそ、自らは立たな

かったのだ。

 その点、甘繁と似ている。

 ならば楓という国家に対する見解もまた似ているはず。それでも彼は楓国という夢に賭けようというのか。

 知っていて尚、それを望むというのか。

「であれば、彼もまた天才ではあるのかもしれない」

 けれどもそれは彼自身が求めている才ではない。

 甘繁はその事か何故かとても悲しく感じられた。これから来る西要の将兵達の運命よりも、ずっと悲しく。




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