22-4.闘鬼


 楓の部族隊は前にも述べたように一種独立している。一応壬牙の指揮下に入っているが、基本的に彼らは

自らの思考でこの戦に挑む。

 だが部族隊も基本的には楓式の軍制を採用している。それぞれの族長がその氏族を率いてはいるのだが。

それぞれを氏族の規模によって小隊、中隊と見なし、それらを合わせて大隊を形成、相応しい長(序列の高

い氏族の長)を大隊長にして指揮権を委(ゆだ)ねている。

 大隊の数は四つである。

 筆頭にくるのは実質序列首位(首位は醒{セイ}族だが、それは紫雲竜ただ一人を現す氏族名である為、

実質には首位)となる辰(シン)族の長、辰朧(シンロウ、本来は朧一字なのだが、楓流が公的な場合は

氏族名を姓として用いるよう命じたのでこうなる)が率いる第一大隊。彼は序列決定戦の決勝で紫雲竜と

死闘を繰り広げた雲(ウン、ウーン、ウォンなど)の長兄である。

 第二大隊を率いるのは烏(ウ)族の長、烏雛(ウスウ)。その名に反して巨大な体躯をしており、大陸人

で言えば初老近い年齢であるらしいのだが白髪はなく、皮膚も艶々としている。虎も殴り殺せそうな膂力(り

ょりょく)があり、老いとは無縁の男だ。

 第三大隊を率いるのは膚(フ)族の長、膚爪(フソウ)。さほど大きな氏族ではなかったらしく、詳しい

事は解らないが。戦での働きを見るに冷静沈着な男であった事が察せられる。常に乱れなく指揮通りに動き、

相応の戦果を挙げ、他と比べれば被害も少ない。

 最後の第四大隊を率いるのは蚤(ソウ)族の長、蚤紋(ソウモン)。こちらも詳しい事は解らないが。戦

働きから豪胆な男であった事が見て取れる。或いは四大隊の最下位という不名誉を払拭すべく、常に最前線

に立とうとした結果であるのかもしれない。

 この四大隊を第一大隊長である辰朧が率い、独自に動く事になる。

 そしてその背後、中衛には壬牙率いる賦族隊が続き、後衛に楓流と紫雲竜率いる騎馬隊が控えている。い

つでも動かせる態勢を整えてはいるが、基本的にこの戦いに参加するのは賦族隊までだろう。

 対する秦氏族軍は陣形も隊列もなく、一応氏族ごとに固まってはいるが、戦が始まった後は各々勝手に動

く構えである。指揮というものを無視した布陣であり、大将であるはずの王旋の旗も見えない。一応秦国の

旗を先頭の氏族が掲げているが、そこにも大陸人らしき姿は見えなかった。

 秦兵は後方にて補給などの役割を受け持っているのだろうか。それとも本当に氏族軍など楓南方軍を疲弊

(ひへい)させる為の道具としか考えておらず、漁夫の利を得るべく氏族軍の背後にて待ち構えているのか。

 どちらにせよ、氏族軍の背後にも注意を払っておくべきだろう。氏族軍を初めから戦力として考えて居な

いという事は、楓南方軍に単独で対抗できるだけの兵力を集めているという事になるからであり、南方には

軍を隠す事のできる森林が数多く存在するからだ。

 決戦の舞台は開けた場所を選んでいるが、木々や草木は茂っているし、少し離れれば手付かずの自然が広

がっている。南方全体で見ても地図が埋まっていない箇所の方が多く、そのほとんどは未踏である。全体を

大まかにでも調査し終えるまでには、おそらく数十年という時間を要する。

 楓とても南方のごく一部を押さえていたに過ぎない。

 警戒を怠(おこた)る訳にはいかなかった。



  緊迫した状態は三日間続いた。

 いつでも踏み出せる一歩を誰一人踏み出さず、きりきりと引き絞るようにして空気が冬の夜空のように張

り詰めていき、そこに居る人々の心まで天高くどこまでも吸い上げて行くかのように思えた。

 始まりは誰から、何からだったのかは解らない。もしかしたら全員が同時に一歩を踏み出したのかもしれ

ない。とにかく誰かが動き、それに応じて全体が動き始めた。

 それは二つの雪崩がぶつかり合うかのようだった。

 後の事など誰も考えていない。頭にあるのはこの闘いで部族らしい最後を遂げる事だけであり、おそらく

自分が生き残るという事すら考えていなかったのではないか。

 休もうともしない。引く事など思いもしない。止まる時が死ぬ時。ひたすら前に進み、敵を打ち殺す。人

間に備わっていたはずの感情は喪失し、獣を超えた無数の野生の姿がそこにあった。

 人外の叫び、甲高い金属音、肉と骨がきしむにぶい音、そこへ時折ぱっと広がる鮮明な紅と肉の間から見

える武骨な白。

 言語などない。理性などない。人が人となるべくして得たものを捨て、人が人になるべくして捨てたもの

を得、本来のあるべき姿を取り戻す。

 敵味方合わせて万に届こうという人間の集団が自身と敵の見事な死に様だけを望み、それだけの為に激し

くぶつかり。互いの最後の血一滴枯れ果てるまで刃を揮い、拳を揮い、殺し合う。

 鬼がいた。

 人は古来から人でなき人を鬼と呼んだ。そうだとすれば、彼らこそがその発祥(はっしょう)であるに違

いない。

 全身が泥と血に汚れていく中、目だけは殺意という色でぎらぎらと輝いている。 

 次第に戦場は一つの色に支配されていく。紅、鮮やかな赤、血の色だ。それが黒く朽ちながらそこに在る

全てを覆っていく。鉄、青銅、銅、石、そして肉。それらは程無く黒ずんだ吐き気のする色と臭いを発し、

全てを腐った濁りへと変えた。

 その中で目と同じように、いやそれ以上に刃が光を放っている。鈍く、息が凍えるような光だ。

 鈍い光は紅を照らし、より際立たせる。気持ち悪いくらい鮮やかで、遠くから嫌でも目に付いた。そして

その紅はまたすぐに腐り、固まり、何重にも肉体と武具を黒鈍く染めていく。

 最早彼らは人の姿を成してはいなかった。人という名前だけの黒ずんだ紅肉とやたら光る鈍刃が、互いに

喰らい合っているかのようにも見える。

 隣り合わせの生と死が同じ色を成して存在していた。

 人がいつまでも死んでいく。

 手が弾け飛び、足を刈り取られ、胴は裂き、首に刃が飛ぶ。どの攻撃も一撃必殺。誰かが揮(ふる)えば

その度に命が奪われ、肉から血が弾けた。

 二つの鬼は命の根絶を望んでいるかのようだった。

 しかし同じ鬼でも闘い方は同一ではない。楓側の部族隊は戦術的であり、組織的。個人ではなく兵として

動き、常に敵一人に対して複数で当たる。鬼であれども軍の姿を保ち、機能的に動いている。部隊同士は当

然の事、少人数においての連携もみっちりと訓練を積んできているようだ。

 誰かが動けば、誰かが従う。手、足、胴、首と攻撃順は決まっているようだが、誰がどれを受け持つかは

臨機応変、その場その場で自然に決まる。呼吸を同じくし、誰もが一つの同じ殺戮(さつりく)の為に動い

ていた。

 正に戦闘機械。

 対する秦側の氏族軍は氏族としてまとまってはいるものの組織的ではない。一応部隊単位で狙う相手を決

めているようだが、基本的には個々で動き、命令も何も無い。個人が本能のままに目の前の敵を襲っている。

 それでも最低限の連携が取れているのは、これが部族として自然な闘い方であるからだろう。彼らが狩猟

する時、部族同士で争う時、この形を持って獲物を仕留めてきた。その動きは非常に洗練されている。厳し

い自然と部族の長い歴史で練磨してきた成果なのだろう。

 飛び交う矢も全てに必殺の力が込められている。楓のように牽制(けんせい)には用いない。刃と矢、互

いが互いを利用し合い、目的を遂げる。それは対象を確実に追い詰め、命を奪うやり方だった。

 彼らに戦闘訓練など初めから不要であるのかもしれない。部族は存在自体が武であった。

 楓流が理想とした部族の姿がそこに在る。

 この両軍の闘いを遠目から見ていると砂糖の塊に蟻(あり)が群がっているようにも思えてくる。砂糖の

塊が楓部族、蟻が秦部族。食い尽くせれば蟻の勝ち、できなければ砂糖の勝ちという訳だ。一方は力を集中

させ、一方は分散させている。

 だがその間に明確な差など無かった。殺し方の違いがあるに過ぎない。

 部族はどこまでも部族なのだろう。

 血の噴出す音、部位欠損した肉体から流れる何かの音、それら一つ一つが目を通して聴こえてくるかのよ

うな錯覚も受ける。

 この世の光景とは思えない。ここは人の居場所ではないという居心地の悪さを感じた。楓の大陸人はあく

までも人であった。つまりはよそ者。ここに居るべき存在ではなかった。

 ただし彼らもぼうっとそんな事を考えている訳にはいかなかった。かなりの距離をとっているにも関わら

ず、中衛まで遠慮なく流れ矢が届き。地面、或いは兵に突き刺さる。秦部族の放つ弓矢は楓部族以上に驚異

的な殺傷距離を誇り、(例え人でしかなくとも、いやだからこそ)これ以上の後退は誇りにかけてできない

楓軍を苦しめた。

 時には壬牙の許まで一直線にそれが届いたというのだから、異常である。

 ただしそれは彼をはっきりと狙ったものだろう。流れ矢で済む距離ではないし、すでに何人か部隊長とな

っている者が射抜かれている。おそらくは部族としての闘いを主としながらも秦軍としての役割を(部族と

しての誇りに賭けて)ある程度は果たそうとしていたのだと考えられる。

 或いは芸(ゲイ)、鵬盲(ホウモウ)のどちらか、もしくは両方は部族としての意識だけで戦っているの

ではなかったのか。

 相手の真意が解らぬ以上、下手に動く訳にはいかない。敵にどういう意図があるにせよ、余計な真似をす

れば部族達の反発を買う。弓避け(木製の板の上に鉄板を張った大きな盾のような物)を並べ、部隊長以上

の者を護らせる命を下す以上の事はできなかった。

 しかしその効果はあり、部隊長負傷の報はそれきり入らなくなった。同時に弓矢が飛んでくる事はなくな

ったようだから、やはり何者かが冷静に狙ってやっていたのだと思える。

「奇妙な事よ」

 大陸人全員が同じ考え方、行動をする訳ではないように。部族らしくない考え方をする部族が居たとして

もおかしくはないが。この戦いを受けた時点で死以外の選択肢は選べない。秦の勝利に貢献した所で氏族軍

が恩恵が得られるはずもなし、ここまでする意味が解らない。

 そこに異質なものを感じる。死ではなく、戦後の生を見越した行動であるかのような。

 とすれば居るのか、あの扶夏王のような野心を持つ部族が、まだここ南方に存在しているというのか。

「ありえないとは言えん。ならばそこに付け入る隙があるかもしれぬ」

 もし部族としての最後の闘いを望まぬ者が、別の意志を持ってこの地獄に居るとすれば、それは部族に対

する究極的な裏切り行為。暴く事ができれば氏族軍中に離間を誘い、自滅させる事すらできる可能性が生ま

れる。

「だが、無用に手は出せぬ」

 少なくとも部族達の決着が付くまで楓流は動けない。それ以前に手を出せば部族のほとんどは楓から去る

だろう。彼らが服しているのは楓流が彼らの流儀を理解、尊重しているからであって、必ずしも楓に、楓流

自身に心服している訳ではないからだ。

 秦側に居る黒い何者かもその事を解ってやっている。

 ただしそれはお互い様だ。流れ矢に見せかけて射るなどという姑息な手を使ったように、その何者かも自

分が部族に足しうる裏切り行為を働いている事を自覚している。それを暴かれれば破滅するしかない事もよ

うく解っていよう。

 それさえ解っていれば、相手の動きを封じるのは難しくない。部族全体とは別の意志を持つ者が氏族軍中

に居ると理解できた事は大きな利点である。

 ここに来て判明した部族らしくない部族の存在。

 楓流は今しばらく戦況を見守り続けると共に、部族に対する計画に修正を加える必要性を感じていた。部

族を愛するが余り、見えていなかった部分があるのかもしれないと。



 数時間もすると氏族軍が四方八方に退き、楓部族隊もそれを追わず静かに引いた。密集陣を崩さず素早く

動けるのは厳しい訓練の賜物(たまもの)だろう。

 一時退いたが、まだ太陽が昇りきっていないような時間帯である。すぐにもう一度攻めて来るであろう。

ならばそれをわざわざ待ってやる理由は無い。

 部族隊は氏族軍のお株を奪うように一斉に矢を放ち始めた。同時に、そして集中させる楓のやり方でだ。

 彼らの放つ矢の殺傷距離も氏族兵に遅れは取らない。無数の矢が兵に降り注ぎ、容易く貫く。

 するとお返しとばかりに氏族軍からも矢が放たれ、一転して激しい弓矢戦となった。

 彼らの用いる弓は大陸人の物に比べてはるかに堅く、そして強く、相当の膂力(りょりょく)がなければ

矢を引く事さえできない。飛距離も規格外だが、その威力もそうで、同じ鉄製の矢じりを用いれば鉄鎧も容

易く貫通する。

 そんな物を雨あられと浴びせているのだから両軍共に被害が大きく、一時間と経過しない間に何百という

死傷者を出した。

 ただし装備の差か、部族隊の死者は氏族軍の半数にも満たないようだ。

 防具もそうだが、楓軍は鉄製の矢じりが主流になっているのに比べ、秦軍は未だ銅や青銅製の物が少なく

ない。それ故、蔑視されている氏族部隊にまで良い装備が回ってくるはずもなく。彼らに支給された装備は

粗末なもので、不良品とは言わないが余り物か状態の良くない物ばかりである。

 そんな物では話にならないので氏族兵は装備品を自前で揃えなければならないのだが、材料も人手も限ら

れている。数も質も明らかに劣っていた。

 が、それだけの事だ。部族はそんなものを何の理由にもしない。

 矢の応酬(おうしゅう)が治まるや再び氏族軍が突撃を開始した。前と同様に散り散りに四方八方から襲

いかかる。

 部族隊はそれを見、今度は積極的に前へ出る事はせず、密集陣のまま矢を射掛け続けた。

 矢の嵐を前にしても氏族軍の足が止まらなかったのはさすがだが、鈍る事までは避けられない。

 そこを大隊毎に四つに分かれた部族隊が力圧しに押し返す。密集陣から生まれる圧力は鈍った足で耐えき

れるようなものではない。氏族軍は一挙に崩れ、蹴散らされた。

 最初は互角に見えた戦いも、徐々に大陸人の兵法を用いる部族隊の方が優位となり、戦況を支配していく。

個々の能力はほぼ互角であるが故に、装備、戦術の差がもろに出てしまうのであろう。

 どちらも常に全力で行動していても、組織的に美しくさえ見える部族隊に対し、氏族軍は明らかに無駄な

動きが多い。同程度の体力であれば、その小さな無駄の積み重ねが大きな差となる道理。むしろよくもった

と言うべきだろう。

 氏族軍の勢いが失われた訳ではないが、時間を追う毎に部族隊の死者は減少していき、氏族軍の死者は増

加していく。外から遠く見ていても勝敗は明らかであるように思えた。

 確かにこの闘いは勝敗など二の次で、闘う事に意味があるものだ。しかし部族達が思い描いていた闘いは

両軍共死に絶えるようなもので、こんな一方的なものではなかった。

 部族隊としても部族最後の闘いがこのような姿で終わるのは忍びないのだが、手を抜く訳にもいかない。

楓流に教わった戦法を大陸人達よりも効果的に用い、最後の部族達を効率的に殺し続けた。こうなった以上

はそうするしかない。

 氏族軍は後退を余儀(よぎ)なくされ、それに引きずられるようにして部族隊が前進する。このままでは

楓軍中衛以下と距離が開き過ぎてしまうが、敵が隙を見せた以上突き進むしかない。それが部族であり、彼

らの好む闘い方だからだ。

 これで勝敗は決まった、そう思われた矢先、突如部族隊の横背に恐ろしい数の矢が射掛けられ、その矢一

つ一つが正確に一人一人の命を奪い、一瞬で数百という死をもたらした。

 芸である。いつの間にか横から背後に回っていた(いや、氏族軍に彼らが伏兵していた場所まで誘い込ま

れた、というべきか)彼の部隊が、今までに見たことも無いような弓勢と正確さを持って、文字通り部族隊

を撃ち抜いたのである。

 これにはさすがの部族兵も色を失った。芸の勇名は聞いているし、同じ部族として尊敬もしている。彼と

戦えるのは光栄だが、このように一方的に射掛けられるとなれば話は別。部族も人間、恐怖心は存在する。

 しかしさすがは部族。しばらく迷いはしたもののすぐに自分を取り戻し、両端の大隊が左右に陣取る芸隊

に向けて冷静に進路を変え、襲い来る矢をものともせず突撃をかけた。中央の二大隊はそのまま前進を続ける。

 密集陣は矢に当たりやすい欠点があるが、それを逆に言えば味方の盾になれるという事である。矢避けな

どの弓矢対策も立てられていたし、虚を突けなければ弓の名手といえど打ち破るのは難しい。

 芸の矢は正確に矢避けの間をかいくぐり、その上で鎧の隙間から人を確実に射抜いたが。そんな真似が出

来るのは部族でも彼か鵬盲くらいのものである。

 目に見えて部族隊の死傷者は減り、完全に落ち着きを取り戻した。こうなれば芸の機略も意味を失う。

 そして軽装の芸隊は接近戦に不利である。

 芸隊は突撃してくる部族隊を見、勝機が去ったと悟ったのだろう。すぐに散り、付近の茂みへと姿を消した。

 うかつに追えば先程のように奇襲を受ける可能性がある。二大隊は歩を止め、陣形を全方位に対応できる

円陣へと変えた。これで芸隊も簡単に手を出せないはずだが、このままでは今も前進を続ける二大隊と離れ

過ぎてしまう。

 そこで、今ここに居るのは第三と第四大隊なのだが、第四大隊を前進させて前の二大隊との距離の空白を

埋めてしまう事にした。

 この辺の情報伝達と判断の早さは楓流譲りというべきか。

 第四大隊は単純な密集陣に戻り、前進を再開。第三大隊は円陣を二つに分け、半円陣二隊に分かれて第四

大隊の盾となり、慎重にその後を追う。同時に楓流に芸隊の存在を知らせる為の使者が発せられた。

 報はすぐに楓流へ伝わり、彼から部隊長以上の者に注意を払うよう改めて命令が出された。

 部族決戦という暗黙の了解そのものが楓流暗殺の罠だとは部族の性格上考えられない話だが。芸という一

大英雄に限って言えば、その身一つで楓流を討ちたいと考えるのはむしろ当然であるようにも思えてくるし。

そう考えれば氏族軍にある違和感にも説明が付く。

 無用の警戒かもしれないが、元より部族同士の闘いに手を出すつもりのない楓流以下大陸人隊にとってみ

れば、それによる動きの鈍化と精神的疲労は問題にならない。遠慮なく注意させる事にした。

 その効果があったか。芸隊が彼らの前に矢を見せる事はなかった。

 前線が前進した事で、むしろ静か過ぎる程に静かである。

 だが丁度その頃、前方に突出した部族隊の二大隊は、確かな窮地に追いやられていたのであった。




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