22-5.有漏をなす


 後退を続ける氏族軍を追う部族第一、第二大隊は後を振り返りもせず前進を続けた。

 それは何が待ち構えていようと物ともしないという鉄の意志と、背後を護る二大隊への信頼がなせる業

であったが、単純に頭に血が上っていたという理由もある。飢えた獣が手負いの獲物を追うように追って

いた。そう例えるのも間違いではない。

 大陸人の兵法を大陸人以上に巧みに使えるとしても、彼らの精神はあくまでも部族。その部族が策の為

に、つまりは秦の勝利の為に見せかけの敗走を続けている。その事に対して彼らは裏切られた気がしたの

だ。部族最後の決戦に対する裏切り、部族に対する侮辱(ぶじょく)であると。

 芸隊が伏兵を用いた事と無様に敗走を続ける氏族軍の姿、それらを照らし合わせればこの先に何が待っ

ているのか気付きそうなものなのだが。第一大隊長、辰朧(シンロウ)も第二大隊長、烏雛(ウスウ)も

部族らしい部族であり、すっかり逆上してしまっていた。

 楓流は、いや大陸人は勇猛な武将を前に出し、冷静な武将を背後に置く傾向がある。それを読んでこの

策を用いたとすれば、正にその読み通りの結果となった。

 それは彼らの後ろを追う二大隊から聞こえてくる声が薄く離れ、その影すらほとんど感じられなくなっ

た時に起こった。

 矢である。

 凄まじい数の矢が前を行く二大隊に襲いかかり、文字通り彼らは真一文字に射抜かれてしまった。

 何より驚くべきはその矢の質。楓軍ほど良質ではないとしても鉄製の矢が多く、今まで氏族軍が使って

いた矢とは明らかに違う。余り物の不良品のような物は一本たりとも無く。秦でも最新鋭の装備である事

が一目で解った。

 その矢を射る弓兵の装備も軽装だがしっかりとした大陸人風の装備であり、今まで眼にしてきた部族ら

しい装備とは全く違う。

 よく見るとその中には背格好、体格が明らかに部族ではない者が多く居た。弓自体も小さく、使い易い

が弓勢の弱い物が目立つ。

 最早疑う余地は無い。

 秦軍である。

 背後に居るはずの秦軍がここまで出てきている。もしくは彼らの許まで誘い出されたのか。どちらにせ

よ効果は絶大だった。部族隊は一挙(いっきょ)に浮き足立つ。

 秦軍と氏族軍は協力しない。氏族軍は部族としての闘いのみを望んでいる。そういう認識そのものが間

違っていたのだ。

「部族の誇りを汚しおって!!」

 烏雛は怒り心頭、血管を凝固しそうな程顔を歪めたが、こうなっては引くしかない。辰朧に伝令を送り

つつ、退き鐘を鳴らし、すぐさま後退の準備に入る。

 辰朧も同様の処置を取っているはずだ。

 しかしそれを敵が黙って見ている訳が無い。敗走していたはずの氏族軍が反転し、間髪入れず部族隊へ

襲い掛かる。絵に描いたような伏兵策であり、その呼吸も堂に入ったもの。その動きは昨日今日考えたよ

うなものではなく、相当に訓練を積んできた事を物語っている。

 ただし上手くできている兵とそうでない兵が混ざっているように見えた。中にはまるでこうなる事を今

初めて知ったかのように、むしろ部族隊より浮き足立っているように見える兵がいたように思えたのは、

烏雛の目を怒りが曇らせたせいか。

 ともあれ、今はそんな事を考えている暇は無い。敵がどうあれ、味方の方がそれ以上に混乱している事

は間違いない。このままでは部隊が壊滅してしまう。

「ぬおおおおおおおおおおッ!!」

 烏雛は意を決し、単騎歩を踏み出した。

 隊長である自分の死を省みぬ覚悟だけがこの状況を覆せると信じたのだ。実に部族らしい態度であった

と言えよう。

「ぐっ・・・・」

 だが無情にもその首を一本の矢が貫く。彼の心理を読み、ただ烏雛一人だけをじっと狙っていた者が居た。

 鵬盲である。彼程の弓の巧者がただ一心にそれだけを狙えば、討ち取れぬ者などいない。獲物の方から

こちらに向かってきてくれるなら尚更である。

 矢は烏雛の喉を深く貫いており、溢れ出す血と奇妙な音を立てて流れ出す空気音が深刻さを表す。先程

から必死に口を曲げたり伸ばしたりしているが、その口からは一音も言葉がもれていない。つまり指揮官

としての能力をも奪われた事になる。

「!!!!!!!!!!」

 だが烏雛もさすがの兵(つわもの)。穴が空いたままの喉で声ならぬ声を発し。その気迫を持って再び

歩を踏み、刃を揮(ふる)った。血を吹きながら荒れ狂うその様はまさに鬼、闘鬼そのもの。氏族兵はた

じろぎ、部族兵はもう一度熱を得た。

 その甲斐あって部族隊は何とか態勢を立て直し、退く事ができた。ただし被害は大きく。第二大隊は半

壊し、第一大隊も多くの死傷者を出している。

 辰朧は隊長を失った第二大隊を上手く旗下の第一大隊に編入し、指揮したが、最早反撃できるような力

は残されていなかった。

 氏族軍にしてみれば部族隊を壊滅させる好機であったが、追撃は無かった。理由は解らない。

 不可解だがそれを考えている暇は無かった。この分では追って来る第三、第四大隊も似たような目に遭

っているかもしれない。

 辰朧は救援に向かうべく(敗走と変わらない姿ではあったが)、部隊を急がせた。



 辰朧の不安をよそに離れていた部隊とは簡単に合流できた。氏族軍も皆引いたのか、ここからでは影も

見えない。まるで彼らだけが戦場に取り残されてしまったかのようだ。

 このままではどうしようもないので、一度楓流の側まで戻る事に決め、その旨伝令を送ったのだが。そ

の伝令も道中に敵兵の気配を感じなかった。

 報告を聞いた楓流の反応は氏族隊が見せたものとほぼ同じであった。彼は部族の武こそ至上とし、理想

としている。その部族が、しかも最後となる部族が、事もあろうに何らかの利益の為に自らの誇りを捨て

た。それは楓流にとっても信じ難い裏切り行為と映った。

 部族決戦という戦そのものが初めから敵側の誰かに仕組まれ、利用される為に作られ。その上敵だけで

はなく味方まで騙し、利用した。これ以上部族の誇りを汚す行為があるとは思えない。

 これは冒涜(ぼうとく)である。

 己の美意識すら馬鹿にされたように思え。楓流は珍しく感情的になり、身に宿る苛立ちを隠そうともし

なくなった。

 その感情は兵達の間に伝播(でんぱ)し、えも言われぬ不安となって彼らの心を縛ったが。それを解っ

ていて尚、楓流は怒りを抑える事ができない。彼はもしかしたら部族以上に腹を立てていたのかもしれない。

 敵にしてみれば好機であるが。さすがにここまでは芸も読めなかったのか、元々そういう意思がなかっ

たのか、氏族軍は動かなかった。部族隊といい、楓南方軍は置き捨てられた格好である。

 しかし楓流も怒りに任せて振舞う程愚かではない。すぐに気を入れ直すと軍のゆるみを正し、部族隊の

帰りを待った。

 壬牙も紫雲竜も黙然としてそれに従う。彼らも部族の誇りを捨てる部族がいるなどとは考えもしておら

ず、内心は動揺していたと思えるが、それを外へ見せる事はなかった。風流の怒る様を見て、かえって冷

静になれたのかもしれない。

 兵をその姿を見て、二将への信頼を深めたという。



 部族隊と合流した楓流は斥候を発し、氏族軍の動向を調べながら軍の再編(主として部族軍のだが)を

した後、ゆっくりと全軍を前進させた。

 部族隊を先頭に立たせる事は同じだが、今後は楓軍も後を追う形で前進させる。氏族軍が暗黙の了解を

破った以上、こちらとしてもそれを守る義理は無い。それでもどこかにまだ部族決戦を行いたい、行わせ

てやりたいと考えていた所に彼の甘さがあるのかもしれない。

 部族隊は第一大隊(第二大隊を合わせて正式に第一大隊とした)、第三大隊、第四大隊に再編されてい

る。あえて第二を空けたのは、今更三と四をそれぞれ繰り上げさせても兵に混乱をきたすだけと判断した

からだ。

 部族兵の思いは複雑であった。確かに氏族軍の行為は裏切りに等しく、それを見た時は激しく怒り狂っ

たが。少し冷静になって考えてみれば、自分達もまた大陸人の兵法を用いているし、氏族軍が策を用いる

事を本当に裏切りと呼べるのか。

 もし秦軍と共謀したのであれば、それは部族らしくないやり方といえるが。自分達もまた楓国から全面

的に支援されている。条件は同じではないのか。

 それに彼らが望んでこのような真似をしたとは思えない。あの絶対的優位な状況にあって尚混乱してい

るように見えた氏族兵の顔。あれは勝利への喜びではなく、この状況への不理解、困惑ではなかったか。

彼らの方が裏切られたような顔を浮かべてなかったか。

 部族兵の多くは氏族兵もまた何者かに欺(あざむ)かれたのではないか、と考えている。

 その一つの証明となるのが、精兵を温存していた事だ。何故あの時なのか。あの戦い方を見れば用意周

到(よういしゅうとう)に準備されていた事ははっきりしている。間に合わなかった訳ではあるまい。そ

れなのに何故温存していたのか。もっと効果的に使える機会はそれまでにいくらだってあったはずだ。

 質の高い弓矢を使えるのであれば、部隊長の暗殺ももっと効果的に行えていただろう。

 その全てを楓軍を油断させる為の罠だと考えるには、余りにも氏族軍の損害が大き過ぎる。これではま

るでどちらの兵も殺したかったかのようではないか。

 追撃をしなかった事も不可解だ。部族が部族に同情するような馬鹿をするはずもなし。わざわざ秦兵を

使ってまでした事がこれではとても割に合わない。部族の誇りの対価としては、見合わない戦果である。

 その狙いはどこにあったのか。

 疑問は堂々巡り、答えを見出す事などできそうにもなかった。

 そもそもあれは本当に秦兵だったのか。夢ではないのか。現実だとしても正気とは思えない。一体何が

起こっているのだろう。

 皆、困惑していた。

 楓南方軍全体に不可解な空気が漂(ただよ)う。

 解らないものは解らない。

 楓流ですらその疑問の前に怒りを忘れてしまいそうになる。不可解であった。

 結果、彼は深く考えない事にした。目的は解からないが、氏族軍の一部が秦軍と共に何かを謀(はか)

っている事は事実なのだ。そしてそれはおそらく互いの不信感と侮蔑心を忘れさせる程に意味のある事な

のだろう。

 ならばそれはそれでいい。理由など知る必要は無い。目の前の敵に対処するだけだ。

 氏族軍内に複数の意志があるというのなら、今後はそれを利用すればいい。上手くすればその何者かの

裏をかく事だってできる。

 敵軍に動きが無いのも、こちらに攻めてこないのではなく、攻められない事情があるのかもしれない。

 答えの出ない問いに時間を奪われている場合ではない。今こそ好機ではないか。

 今こそ動くべきだ。

 まずは情報を得る。敵軍がどこに居て、何をしているのか、それを正確に掴むのだ。伏兵にしても、

氏族軍がそのような手を使わないと考えていたから大打撃を受けたのであって、備えていればその効果は

半減する。恐れる事は無い。

 部族隊の被害は大きかったが、敵にも相応の損害を与えている。圧倒的不利な状況になった訳でもなけ

れば、敗北が見えている訳でもない。全てはこれからだ。

 楓流は目の前の事に集中する事にした。

 これ以後は部族の決戦ではなく、楓南方軍対秦南方軍との決戦になる。それだけの事だ。

 ならば予定通り見事勝利を収め、秦本国に刃を突き立ててみせよう。

 彼の目は鮮やかな炎を取り戻した。



 間者からの報告に寄れば、氏族軍は楓南方軍から数キロ先の地点に布陣している。

 しかしその様子が今までとは違うらしい。どうも内紛を起こしているようなのだ。

 部族らしくない先の行動、そして秦兵の姿。もし全部族を納得させた上で行った策でないとすれば、この

二つは彼らを分裂させるに充分な理由となる。何をどうしようと、同族に裏切られた、という強い想いが表

面化する事は避けられまい。

「意図せぬ状況だが、好機ではあるか」

 楓流は不思議と初めから怒りなど感じていなかったかのような落ち着きを見せている。他者が混乱してい

る様子を見て落ち着いたのか。或いはあの怒りも半分は演技であったのか。解らないが、その態度は堂に入

ったものだ。

 解らない事はまだ多いが、続々と入ってくる報告から得た情報を並べると次第に全体像がはっきりしてきた。

 まず注目すべきは氏族軍に協力した秦軍の少なさ。その数は多くても五百には満たず、援軍と考えるには

余りにも少ない。これは攻撃部隊ではなく、輸送隊のようなものと考えるべきだろう。

 たまたま付近にいたこの部隊を急場凌ぎに使ったとすれば、すぐに彼らが引いた事も、それ以上の攻撃を

行う準備ができていなかったからと察せられるし。秦と共謀している事が露見する危険を冒してまで行った

事も、発作的に救援を求めた結果と考えれば説明が付く。

 その後の追撃が無かった事も、全氏族兵の同意を得ておらず、彼らの多くは混乱の中にあり、とても追撃

できる状況ではなかったからだろう。

 更に秦兵の攻撃で生まれた混乱を突く氏族兵の中にすら戸惑っていた者がいた事、芸に秦の最新装備が支

給されていなかった事を合わせれば、秦と組んだのが氏族軍の総大将といえる芸ではなかった事が解る。

 もし芸自身が秦と共謀して今回の策を練ったとすれば、これ程の被害は出ていなかったろうし、楓の部族

隊ももっと壊滅的な損害を受けていただろうからだ。

 では裏切り者は誰なのか。

 秦兵が生み出した混乱を突いて攻撃を仕掛ける事ができたのだから、ある程度まとまった兵を動かせる者

である事は間違いないが。氏族軍は氏族ごとに独立した部隊として行動している。それだけでは絞れない。

 答えを見出すには過去の事だけでは足りない。未来、つまりその裏切り者がこれから何をするのか、どう

いう行動に出るのか、を考える必要がある。

「あるとすれば一つか」

 楓流は氏族軍の背後を至急調べるよう間者に命じた。背後関係ではなく、文字通りの背後である。

 裏切り者が何を考えていたにせよ、裏切り行為は露見した。最早今までのように自由な行動は取れないだ

ろう。氏族軍内は互いに互いを疑い合い、監視し合っている。ここで下手な行動を起こせば裏切り者だと悟

られかねない。

 そうなれば後は二つに一つ。隠し通すか、もしくは脱出するか。脱出するとすれば秦軍に匿(かくま)っ

てもらうしかない。もしそうならば秦軍がすぐ近くにまできているはずだと考えたのである。

  付近に秦軍の姿は無かった。裏切り者を見捨てたのか、初めからそういう約定を結んでいなかったのか。

解らないが一つの予測は外れた。 

 そこで楓流は周辺の調査よりも氏族軍内の調査を進める事にした。

 彼らを攻撃するつもりは無い。敵の混乱を突くのが兵法の常道だが、そうするのは忍びなかった。部族同

士の最終決戦は夢と消えてしまったが。部族の最後の闘いになる事は変わらない。楓流一個の想いとして、

なるべく礼を尽くしたものにしておきたかった。

 それに今後の部族との付き合いを考えても慎重を期しておく必要はあった。

 氏族軍の内情は程なく把握できた。

 まず裏切り者とは鵬盲の事であるようだ。彼は芸の弟子であり、師以外に弓の腕前で並ぶ者はいないと評

されている。しかし彼自身は師以上の腕前だと信じており、その評価を受け容れがたく、懸命に弓の修練に

励(はげ)んだという。

 けれどもいくら努力しても認められず、誰もが師を上に立て鵬盲を第二とする。

 彼は絶望した。師がこの世に存在する限り自分は一番にはなれない。その次位に甘んじているしかない。

 確かに芸はいずれ死ぬ。鵬盲の方が年下なのだから、芸の方が先に死ぬ確率は高い。だがそれはいつなの

だ。その頃には弓の腕も衰え、後進に抜かれているかもしれない。そうなれば永遠に彼は一番にはなれない。

結局優れた弟子のままだ。二番なのだ。

 この状況を打破するには弓の腕が衰える前に芸を死なせるしかない。

 だがそれは難しい。部族は楓、秦、双(玄張{ゲンチョウ})の管理下にあり、私的な争いも、氏族間の

争いも禁じられている。適当な死に場所を与える事はできそうにない。

 となれば残された手段は自然死か暗殺しかないが。芸は健康そのものでいつ死ぬか見当も付かないし。暗

殺という手段はさすがの鵬盲も二の足を踏む。それに最後が暗殺などという不名誉なものでは、弟子である

鵬盲の名にも傷が付いてしまうかもしれない。

 そう思い、鬱屈していた所に現れたのが部族同士の決戦である。

 この舞台なら死に場所として申し分無く。どさくさに紛れて暗殺という手段を用いたとしても、名誉の戦

死にすり替える事は容易だ。

 そこで鵬盲は一計を案じた。

 芸が伏兵を用いる事、楓南方軍に暗殺を仕掛ける事は鵬盲も聞き知っていた。芸は我が子のように鵬盲を

信頼し、全てを明かしていたからだ。

 伏兵は効果的な策だが、どうしても兵数を少なくしなければならない。その上部族の指揮官は誰よりも前

に立ち、誰よりも激しく闘う事を求められる。戦死するにせよ、暗殺するにせよ、これ以上都合の良い状況

があるだろうか。

 しかし誤算が生じた。敵味方共にほとんどが生き延びてしまったのだ。

 そう、あれは急場凌ぎでも何でもなく、予定された行動だった。姿を堂々と晒したのも死人に口無しと思

えばこそ。本来は両軍共に混乱したまま闘い、死に絶えるはずであったのだ。

 だから隠し通す術や脱出策など考えてもいない。答えは楓流が考えていたどの答えよりも単純で愚かなも

のだった。

 鵬盲は窮地(きゅうち)に立たされた。

「好機かもしれぬ」

 秦が関係している以上、これは鵬盲だけのものではない。秦の裏切り行為にもなり得る。その点を突けば

芸派の氏族兵を懐柔できるかもしれない。可能性は低くとも、試してみる価値はあるだろう。

 楓流はすぐさま辰朧(シンロウ)、膚爪(フソウ)、蚤紋(ソウモン)の三名の大隊長を呼び、意見を聞

いた。

 しかし彼らは楓流の考えに否定的であった。今更芸が楓に降る事は考えられない。秦が裏切ったとしても、

だからこそ芸は盟約を守って死ぬであろう。それが部族であり、芸なのであると。

 頷ける答えだ。

 それが部族である。これ以上に説得力のある言葉は存在しまい。

 裏切られればこちらも裏切る、という発想を持ち出す事がそもそも間違っているのだ。彼らに敵も味方

も無い。部族として最後まで闘い、死ぬ事を目的にここにきている。例え部族決戦という美しい舞台を失

ったとしてもその意志は変わらない。生ある限り闘うのみ。

 楓に降伏すると考える事こそ、彼らに対する最大の侮辱である。

 敬意を払うというのであれば、氏族軍内のごたごたが治まるまで停戦するのが良いだろう、と大隊長達

は述べた。

「よかろう」

 楓流は己を恥じ、その言葉を受け容れた。

「至急、敵軍へ使者を発せ」

「ならば、私が」

 その使者に辰朧が名乗りを挙げる。

「よかろう」

 楓流は二度頷き、正式に停戦を求める書状をしたため、辰朧へと託(たく)すのであった。



 停戦の申し出も芸への侮辱と取られかねない。無用な刺激を与える事を避ける為にも、部族らしく一人

で向かうのが得策である。

「もし私が途上で殺されるような事があれば、我が骸を勝利への礎としていただきたい」

 そう言って辰朧は単騎出発した。

 氏族軍は内部分裂状態にある。意思が統一されていない集団に一人で向かわせるのは危険極まりない行

為だが、楓流にもそれを止める術はなかった。

 辰朧には烏雛の遺骸をそのままにし、結果として敵前逃亡してしまった事への深い負い目がある。はっ

きり言えば、彼は死にに行ったのだ。そうする事で彼の言葉通り勝利への礎(いしずえ)となろうとした。

それ以外に自らの名誉を挽回(ばんかい)する手段は無いと考えていた。

 誰も彼を非難せずとも、彼自身は一生自分を許さない。辰朧とはそういう漢であった。

 それを解って見送るしかない楓流の心境は、果たしてどのようなものであったか。

 そればかりはどの文献にも残されていない。




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