22-8.百鬼乱立


 天布、蜀と名乗りを上げれば(蜀はそれほど積極的ではないが)、狄もまた黙っている訳にはいかない。これ

以上沈黙を保っていれば楓に対する不敬罪とまではいかぬでも、確実に心証が悪くなるであろう。

 秦が滅べば中諸国に温情を見せる必要性は無くなる。今の内に点数を稼いでおかなければならない事は民も高

官も理解していた。

 となれば注目されるのは蕃伉(ハンコウ)将軍の動きだ。彼は将軍府を開く事を許され、小王に等しい権限を

持っている。一時その権威は失墜したが、完全に力を失った訳ではない。

 結局は楓の意向一つなのだ。楓の後ろ盾があると思われている限り、相応の権力を持ち続ける。軍指揮権は依

然として蕃伉にあった。

 彼自身もこれが最後の機会だと考えている。明開の態度を考えても、自分の評価はこれ以上なく下がっている。

彼に助け船を出してもらうまでに一体何度頭を下げた事か。ここで功を挙げられないようなら、もう後はあるまい。

 いや蕃伉一個の進退で済まない可能性もある。楓流は狄の独立を認める考えを持っているが、それに同意する

のは数える程の人間しかいない。ここで役立って見せなければ、独立どころか国自体の存亡も危うい。このまま

では天布と同じ道を歩む事になろう。

「立たねばならぬ」

 幸い、明開の出動令は狄にも出ている。軍部の忠誠心が期待できなくなっているとはいえ、その命の威を借り

れば動かす事くらいはできるだろう。

「逆に、好機と考えるべきか」

 将兵は皆、常に楓を立てねばならぬという閉塞感に日々悶々(もんもん)としている。そこにようやく手柄を

立てる機会を与えられたのだ。奮い立つに違いない。それを上手く扇動(せんどう)し、動かす事ができれば、

蕃伉自身の権威を回復するように持って行く事も、或いはできる。

 ぼやぼやしていると不安に感じた明開自らが狄軍を率いて梁討伐に向かうとも言い出しかねない。その場合も

蕃伉将軍の名で兵を率いる事にはなるだろうが、実権を奪われてしまえばそんなものに意味は無い。下手すれば

そのままずるずると全ての権限を奪われてしまう事になる。

 明開は信用できない男だ。急がねばならない。

「主だった者をすぐに集め、出陣の用意をさせい!」

 蕃伉は秘書官に命じ、すぐさま軍を出す準備に取りかかった。

「議会など事後承諾で構わん! すぐに動け!」

 蕃伉の心はすでに梁に向かっていた。



 天布軍が敗れたという報が明開に届けられたのは、梁討伐令を発してから一週間程度経った後の事であった。勇

戦したが、迅雷の如く襲ったが、などと飾られてはいたが。要するに急ぐ事に熱中する余り、まともに戦える状

態にないまま戦い、敗北するべくして敗北したという事らしい。

 天布の動きは猪突猛進という外なく。戦に勝つというより、誰が一番先に梁に踏み入れるかを競争するかのよ

うで、戦略、戦術共に未熟極まりなく、明開などから見れば子供の遊戯にも劣るものであった。

 これで天布の権威は名実共に失墜し、二度と大きな口を叩けなくなった。変わらず同情は寄せられるかもしれ

ないが、それも今までのものとは違うものになろう。

 愚かな真似をしたものだ。急ぐのは良いとして、攻めずに国境付近で同盟軍の到着を待てば良かったのだ。初

めから大功など必要なかった。楓流も天布に同情的であったのだから、国を許し、領土を与える理由さえ示せば

良かったのだ。それにはどの国よりも早く命に従い、軍を出した、程度の功績でも充分であったはずだ(勿論、

与えられる領土は微々たるものになるだろうが)。

 彼らの望みは夢と消えた。天布は終わったのである。

 それに引き換え、梁軍の動きは敵ながら見事であった。天布軍の状況をよく理解し、事前に国境付近にまで

兵を出しておき、天布軍が到着するやすぐに戦を挑み、逸る天布兵の心を利用して領土内へ誘い込み、伏兵にて

叩く。

 今秦がやろうとしている事を単純化したような策だが、それを見事にやってのけた所に梁軍の士気と統率力の

高さを感じる。

 梁兵も楓を恐れる事大であるはずなのに、一体どのようにしてまとめあげたのだろう。

 この勝利で梁は勢い付き、味方する者も増えるであろう。早々に手を打たなければ面倒な事になる。下手すれ

ば明開の責任問題ともなりかねない。

 いや、自分の事などはいい。不味い事に天布の直接の上官は明開の娘、桐洵である。例え天布将軍、布崔が彼

女の意向を無視して独断専行したとはいえ、責任が軽くなる訳ではない。監督不行き届きと言われれば、それを

否定する材料は無く。桐洵の性格からしても、自分から率先して責任を取ろうとするだろう。

 これでは娘の力になるどころか、窮地(きゅうち)に落としたようなものではないか。

「布崔を見誤っておったぜ」

 腹立たしいが起こってしまった事はしかたない。気を落ち着けて善後策を練るとしよう。

 天布軍は半壊して退却したが、報を聞く限りではすぐさま態勢を立て直し、再度梁へ侵攻するそうだ。

 おそらく布崔は今、死ぬ事だけを考えているだろう。醜態(しゅうたい)を晒(さら)し、その上夢まで費え

たのだ。これ以上生きてはおれまい。明開が止めた所で聞く訳もない。白夫妻と桐洵、伊推(イスイ)が揃って

説得すれば或いは止められるかもしれないが、彼らの到着を待つ暇は無い。

 それならばいっそ天布軍の犠牲を有効利用する事を考える方が合理的だ。

 非情だが、これも彼ら自身が蒔いた種、同情の余地はあるまい。

 少なくとも明開はそんなものを持たなかった。

「すぐさま軍を送る必要がある」

 どう足掻いても天布軍は負ける。故に彼らに時間稼ぎをさせている間に梁軍を一掃できる戦力を集めなければ

ならないが、明開には手勢が無い。

 蜀が素直に軍を出してくれれば良いが、状況を見るにもうしばらく時間がかかるだろう。天水も子遂に備え、

軍を温存しておかなければならない。衛軍が最も頼りになるが、すでに出発していたとしても梁に到着するまで

には時間がかかる。

 梁の法瑞も何をしているのか連絡さえ届かず、当てにならない。もしかすれば殺されている可能性もある。。

 となれば残るのは狄軍である。

 幸い、狄への発言力は上昇している。明開が強く命じれば抗う事はできないはずだ。恨みは買うが、それだけ

の事。どの道廃されるべき国。好かれようと嫌われようとどうという事もない。

「すぐさま狄へ使者を出せ! 急ぐのだ!」

 明開は珍しく声を荒げて命じ、自らも馬を用意させてその後を追う事にした。



 明開の使者が蕃伉と出合ったのは、狄軍が梁へ到る途上にてであった。

 軍内には丁俊も新檜(シンカイ)も荘沢の姿もない。

 復帰したとはいえ丁俊は大隊長に過ぎず、荘沢はその副官でしかない。新檜も軍師という名は与えられたもの

の、その地位は軍において下位に属す。軍事に限って言えば将軍の権限は重く、また今回は明開の命という建前

がある。軍の編成を好きにする事くらいは今の蕃伉にもできたようだ。

 その為に蕃伉はまたしても独立という言葉を利用した。楓が勝てば秦領が丸まる楓の物になるのだから、今武

功を立てれば領土を広げる事すら叶うだろう。という憶測だけの言葉で彼は再び求心力を得たのである。

 その言葉がでまかせであれなんであれ、今功を立てなければ未来が無い事はこの大陸に居る誰もが理解してい

る。子遂の戯言(たわごと)が中諸国全体を動かしたのも、根底にその想いがあったからだ。今しかないという

焦りが彼らに非常なる選択をさせた。好きこのんでそうしたのではない。

「まったく恐ろしい方法だ」

 こうなったのは明開の仕業なのだが、その明開に頼らなければ、楓の意を得なければ、この中諸国で生きる事

はできない。彼らに自分の生き方を選ぶ権利など無いのだ。言われるがまま従うしかない。

 憎しみが湧く。しかし湧いた所でどうにもならない。諦めるしかない。

 兵一卒に到るまでそんな諦めに支配されている。楓という国は、楓流という男はなんと恐ろしい存在だろうか。

そしてその威を平気で借りる明開という男は、なんと非情な存在なのだろう。

 人とは思えない。鬼、いや荒ぶる神である。

 そんな神にも等しい楓に対し、よく梁は反乱を起こせたものだ。追い詰められ、そうせざるを得なかったとは

いえ、よくも実行できたものだと思う。

 それともこれも楓の策なのだろうか。子遂の甘言に乗って反旗をひるがえす者を、したり顔でずっと待ってい

たのか。

 そうであるような気がする。

 そうでないような気もする。

 蕃伉でさえ、いつの間にか当たり前のように楓流の慈悲、公正さにすがるようになっている。今の自分にはお

似合いだが。彼がまだ孫兵であった時、果たしてこんな惨めな気分になった事があっただろうか、という想いは

浮かぶ。

 確かに孫文もまた雷神のように恐ろしい男ではあったが、今のような惨めな追い詰められ方をされる事は無か

った。少なくとも彼の下には公平さがあった。誰にも上に昇れる機会が与えられていたのだ。

 それが今はどうだ。

 誰がこのような世を望んだというのだ。

「そう思えば、狄が今の梁であったとしてもおかしくはない」

 狄が反旗を翻さなかったのは、狄に軍を楓の威を借りずにまとめられる者が居なかったからという、ただそれ

だけの事であるのかもしれない。孫の再興に同調しない気持ちが無かったのではなく、単純にそれを実行する

術が無かっただけではないのか。

 だとすれば情けない話だ。今の狄には、自分を含め、追い詰められても無用に命を失うよりはまし、というよ

うな下卑(げび)た性根を持つ者しかいないという事になる。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 蕃伉は先程明開の使者に一顧(いっこ)もなく同意したばかりだ。

 元々こちらもそのつもりで出てきていたし、明開の意を改めて得られる事は士気高揚と統率力の上昇に繋がる。

悪い話ではない。むしろ将として望ましい姿勢ではあろう。

 しかし、しかしだ。改めて考えてみれば、これ程に情けない姿はない。蕃伉は一国の軍を預かる将軍なのだ。

それが楓流ならまだしも、権限でいえば本来は同等以下であるはずの明開の、それも彼から派遣された一軍使な

どに頭を下げねばならない。

 一体いつからこうなってしまったのか。猛る心、夢をどこに置き忘れてきたのか。情けなくて涙が出てくる。

 今更そんな事を思う自分に多少戸惑いながらも、一度芽生えた気持ちを止める手立ても意志も彼には無かった。

「だが、悔いるにせよ、受け容れるにせよ、今は進むしかない」

 眼前にある道は一つ。梁へと続いている。

 しかしそこにたどり着いた時、今までのようではいられない事を蕃伉は自覚していた。

 梁はもう一人の自分である。

 ならばこそ、やるべきではないか、と。そう、思ったのだ。



 布崔はもうここで命を終える事しか考えられなくなっていた。

 夢は完全に潰えた。言い訳をする余地など残されていない。天布は終わった。最早二度と布という国家が歴史

に現れる事はないだろう。

 愚かであった。梁は楓をおそれ国深く陣地を構築し、その一点に兵力を集め篭城(ろうじょう)するつもりで

あると、それしかないと思い込んでいたのだ。だから無理をしてでも梁土内に誰よりも早く踏み込み、一番槍の

名誉を挙げようとした。

 敵を見失っていた訳ではない。国境付近に梁兵が待ち構えているのは知っていた上で、それが少数の斥候部隊

であると思い込み、勢いに酔って準備も休みもせず突撃した。頭の中には夢見た未来だけがあった。これでよう

やく布国を復活できるのだと。夢だけが流れていた。今もそれを鮮やかに思い出せる。

 それがどうだ。後世まで笑い種となるだろう負け戦。惨めである。兵の気遣いも布崔を余計惨めにさせるだけ

だった。

 楓の為に働く事が布の生き残る道であると、民を長年ただ働きをさせてきた結果がこれか。楓は南方と西方で

勝利を重ねていると聞く。そこに水を差すこの大敗北、天布領すら没収されても文句は言えまい。

 布崔が信じた道は民から全てを奪った。そして今、最後にただ一つ残った命さえ奪おうとしている。でもそう

するしかない。残る兵力を持って特攻する。それだけが我らに唯一残された汚名を雪ぐ為の手段。人は布崔の愚

かさを笑っても、天布兵の勇猛(ゆうもう)さは忘れまい。

 我ら一丸となって命を捨てれば、例え勝利を得られずとも、相応の損害を与えられるはず。そうなれば楓流も

我らの想いをある程度くまざるを得ないだろうし、天水も同情して取り成してくれるかもしれない。

 上手くすれば天布領に残してきた家族は救われる。

 天布軍に残されているのはそのたった一つの意地、願いだけであった。

 なれば幸いである。たった一つでも何かが残されているのならば、やはりそれは幸いであろう。

「皆の者、長き、長き間、この愚かな王によう尽くしてくれた。お主達の志、決して忘れぬ。そしてその雄姿は

天が等しく見ておられよう。我々はここで死ぬ。が、我々の魂、誇りは生き続ける。我らの死が我らの名を快き

ものにしてくれるのだ。

 これより我らは鬼となる。反乱兵どもを一兵でも多く道連れとせよ! それが家族の為、子孫の為となる。我

らは生き恥を晒してしまった。なればこそそれ以上の恐怖を奴等に植え付けてやらねばならぬ! 我が汚名、恐

怖によって雪ぐほか無し! 者共、我に続けいッ!!」

 策や戦術などどこにも無い。布崔を先頭にして真一文字に突き進んだ。

 その顔は憤怒に溢れ、鬼神も退かんとする所はかの部族にも似ていた。

 しかし最早天布軍に力など残されてはおらず。梁軍に少なくない損害を与えたものの、結局は勝敗を変える程

の戦果は上げられなかった。

 梁軍は天布の最後の一撃にも冷静に対処し、大過なく打ち破った。どういうからくりか士気、練度共に以前の

梁兵ではなくなっている。

 一体彼らに何が起こっているのだろう。



 天布軍壊滅の報は即座に大陸全土へと広められた。

 殷嵯の名の下に続々と傭兵やそれに類する者が集まってきている。

 彼らの多くは楓にも秦にも雇われなかった半端者だが。中にはこの乱世が終わる事を良しとせず、独自に動い

ていた者達や大国嫌いの者達など、戦闘員として優秀な者達も居た。

 梁兵の質が向上した理由は彼らにあると思える。

 ずっと以前から少しずつ軍内へ入り、密かに軍を強化していたのだろう。

 彼らはそれを自分の意志だけでやっていると考えているだろうし、彼らの間に同じ勢力に属した傭兵という以

上の繋がりがあるとは思えないが。おそらく自然とそういう方向に持って行くように入れ知恵した者達がいる。

 その入れ知恵をした者達も同じように自分の意志でそれをやっていると考えているのだろうが、彼らもまた傭

兵達と同じく知らず知らず何者かに動かされている。でなければこうも都合良く効果的な形となっては現れまい。

 誰もが自覚せず自然とそうされる。本当に恐ろしい事だ。しかしもっと恐ろしいのは、これが全て偶然の産物

という点である。

 梁が反乱の一大拠点のようになったのも、綿密な計画の結果という訳ではない。全ては偶然。無数に蒔かれた

種の中でたまたま大きく成長したのが梁だったというだけの話。だからこそ、それ自体は偶然であるからこそ、

誰もそれを見抜けなかった。

 その上、彼らは同士、仲間ですらない。反乱兵がそれぞれ別個に行動を起こし、連携をしようという素振りを

見せないのもそれが理由だ。彼らは利用されているが、その自覚は無いし、また同じ目的の為に立ち上がった訳

でもない。一つ一つの乱はそれだけのもので、子遂が与えた大義名分にそれぞれの理由で飛び付いただけなので

ある。

 彼らには何者かの策という鎖に繋がれてはいても、それぞれには何の繋がりも無い。根底に共有する心の無い

繋がりはもろく、弱いものだが。この状況を作り上げた者にとってはそれで充分だった。

 初めから乱の成否などどうでも良かったのである。ただ乱が起これば良く、同時期に多く起これば尚良かった。

 後は孫の名の下に力を結集させる事だ。彼らは上手く孫の復興を大義名分に利用できると考えているのかもし

れないが、それこそが罠である。彼らは知らず知らずの内に孫の名に縛られ、いずれ一つの大きな勢力と見なさ

れるようになるだろう。

 成功すれば孫革命、しくじれば孫の乱。彼らは後世そう呼ばれる勢力になるのだ。

 その中心に居たければ、まず子遂を旗頭として担がなければならない。彼の呼びかけに応じて立ったという形

なのだから、好む好まざるとに関わらずそうなる。つまり子遂は彼らが自分を救出に来るのを待っていればいい

という事になる。

 自由を手に入れる事さえできれば、彼らがどうなろうと知った事ではない。使えればそのまま使い、用済みに

なれば捨てる。後は秦に亡命するも良し。北方に逃げるも良し。どこぞの誰かと同じように名と顔を変えて生き

るのも良いだろう。

「天よご照覧あれ。ようやくこの時が参りました。この子遂、決してもう機を失う事は致しませぬ。例えこの

命奪われようとも必ずや成し遂げましょうぞ。嗚呼、嗚呼・・・・・」

 珍しく感傷的な自分に驚きながらも、悪い気はしなかった。

 今までの人生が正にぴったりと今日この時の為にあったと思えたからだ。

 自分の全ては天意の下にある。子遂はいつの間にかそんな事を考えるようになっていた。



 梁の兵の数が見過ごせないまでに増大している。

 勝利を得た事も大きいが、あぶれた傭兵から強盗、夜盗の類までが遠慮なく集まってきているからだ。梁内は

まるで負夏王との戦い時のように兵らで賑わい、活気付いている。

 民衆の不安もまた頂点に達しようとしているが、それを省みようとする者は居なかった。

 考慮する理由が無いからだ。楓に遠慮する必要がなくなれば、民など気にかける存在ではなくなる。文官もま

た同じ、あやつらも邪魔にならぬよう隅で震えていれば良いのだ。楓本隊は遠く西方にある。泣いても喚いても

届きはしない。

 おそれるべきは衛軍だが、かの軍がどれだけ早く動いたとしても到着するまでにはかなりの日数を要する。そ

れまでに戦力を整えておけば良い。

 それでも敵わなければ逃げれば良いのだ。国に縛られる事はない。我らは元々傭兵、根無し草。守るべき家族

も土地も無い。略奪しながら移動を続け、兵を増やして行けばいい。幸い決戦に備えて中諸国中にたくさんの物

資が蓄えられている。奪える物に不自由はしない。

 急ぐべき事があるとすれば、天水に兵を進め、子遂を得る事か。現状では孫の復興という流れに乗るのが最も

動きやすい。その為には子遂を旗頭にするのが一番解りやすく、また反乱軍内での地位も保証される。最終的に

どうなるにせよ、優位に立てるだろう。

 子遂を得るのも難しい話ではない。楓流がどうあれ、天水の者達はできれば子遂をこの機会に討ってしまいた

いと考えているはず。それにはまず子遂を反乱軍に奪わせ、その上で反乱軍もろとも討つのが最良の手である。

その心理を逆手にとれば上手くやれるだろう。馬鹿正直に天水軍とやり合う必要は無い。

 不安があるとすれば蜀と狄の方か。特に狄にはすでに動きがあると報告が入っている。早急に手を打っておか

なければならない。

「あの男から連絡はあったか」

「いいや、何もねえよ」

「ちッ、まあいい。これくらいは己でやらなければな」

 殷嵯は相変わらず愚鈍で役に立たないし、あの男も気に食わない。だが今しばらくの間はこいつらに頼る必要

がある。

「そう、今だけだ。せいぜい利用してやるさ。最後に笑うのはこの蕭冊だ。その事を思い知らせてやる!」

 独り猛る蕭冊の顔を、殷嵯は横から気味悪げに眺めていた。

 彼には義弟の顔が、昔絵巻物で見た亡者、餓鬼の顔にしか見えなくなっていたのだ。

 それでも弟は弟。見捨てる訳にはいかない。生きるも死ぬも同じ場所と誓い合った仲であるし。何よりこの蕭

冊の事が昔からどうしても嫌いになれなかった。

 殷差も義弟の事を何も知らない訳ではない。彼が自分の事をどう思っているかも知っている。知っていて尚、

嫌う事ができない。好きではないが、嫌う事もできない。

 これは定めである。殷嵯はそう諦めていた。

 もうずっと以前から。




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