22-9.天意無法


 狄軍が梁との国境付近にまで到着した。蕃伉は天布軍の二の舞とならぬよう、斥候(せっこう)を送りなが

ら梁の動静を注意深く見ている。

 対する梁も兵を集めながら同じように狄軍の動静を見る構えであるようだ。たまに挑発するように少数の部

隊を出してくるが、それ以上の動きは見せていない。

 勢いに乗る梁は時間が経てば経つだけ兵が増える状況にある。その利点を自ら捨てて、打って出てくるよう

な真似はすまい。

 本来なら天布軍と挟撃させる手はずであったのだが、その天布軍はもう居ない。と言って狄軍が単騎攻めた

として勝つ見込みは無い。

 待っても敵を利するばかり。といって勝つ目算も立たない。こんな状況にしたのはほかならぬ自分である。

明開は自身の中諸国戦略が間違っていた事をある程度認めるしかなかった。

 このままもし梁軍とそれに呼応する国家が繋がり、中諸国に第三勢力として起つような事になれば、そして

秦と共闘するような事にでもなれば、決戦の勝敗を左右しかねない重大な事態へと発展してしまうかもしれない。

 いや、落ち着け。冷静になるのだ。所詮こいつらは烏合(うごう)の衆。もし第三勢力に発展したとしても

繋がりは脆弱(ぜいじゃく)で、策を弄(ろう)する隙はいくらでもある。かえって共倒れにさせる好機とな

ろう。

 だが、例えそう考えられたとしても、楓不利と見るや早々に秦に近付く者達も居るだろうこの状況において

は、あまりにも危険な賭けである。それに中諸国が乱れればその抑えとして天水を預かる娘、桐洵もまた責任

を問われる事になろう。それは明開の望む所ではない。

 何とか兵を揃(そろ)え、早々に平定する必要がある。

「蜀は、蜀はまだか!」

 蜀円と趙緋が工作しているはずだが、一向に準備が整う様子はない。待っていれば手遅れになる。

「では天水を動かすべきか。しかしそれでは子遂への備えが・・・・」

 天水軍を動かすには衛軍の到着を待たなければならない。今子遂を自由にしてはそれこそ取り返しのつかな

い事になる。

「八方塞がりか! 何という事だ!」

 こうなったのも全て天布軍の暴走のせいである。そのくせ布崔は自らの責任も取らず身勝手に死んだ。許す

べからざる事だ。

「この怒り、決して忘れはせんぜ」

 怒りは焦りの心に火を点す。逸る心は思考を乱し、心身を蝕(むしば)む。解っていて尚抑えられない。

 首の後ろと背中が熱を帯び、暑くもないのに汗が止まらず不快極まりない。風呂にでも入りたい所だが、こ

の状況でそのような贅沢は許されまい。

 あれほど待ち望んでいたはずの中諸国の乱がかように自分を追い詰める結果になろうとは。これを皮肉と呼

ばずして何と呼ぼう。

「まさか、子遂の狙いはこれか!?」

 そこでふと思い至る。

 蜀が動かぬとなれば残るは天水のみ。梁の膨張を考えれば早晩天水軍を動かさざるを得なくなる。軍を出す

となれば伊推(イスイ)が率いるしかないが、彼こそが子遂を抑える最も強き力。不在となれば子遂の脱獄も

夢物語ではなくなる。

 それこそが子遂の狙いではなかったか。

「決して動かさん! お前の読み通りにはさせんぜ!」

 明開は蜀に向けて今用意できるだけの兵をすぐさま動かすよう伝令を発した。それは命に逆らえば厳罰を持

って処すという厳しいものであった。



 さすがに厳命を重く見たか、蜀軍は兵を出した。しかしそれは千にも満たない数で士気も低く。役立たずと

はっきり言えるものであった。

 明開には蜀王は高らかに笑う姿をありありと思い浮かべる事ができた。

 とはいえ彼も然る者、即座に蜀へ使者を発し、前言撤回して謝罪した上で軍を戻すよう丁重に頼んでいる。

非常なる屈辱ではあるが、だからこそ楓流は評価してくれるだろう。多少なりとも失点を回復できるかもしれ

ない。

 それにこの屈辱のおかげで頭が冷えた。まさに冷や水を浴びせられたという訳だ。

「よく考えろ。蜀は動かん。天水も動けん。衛は未だ到着せず。狄もまた頼りにならん。まさに八方手塞がり、

動かせる軍などどこにもおらんぜ。・・・・でも、初めからそうだったじゃないか。動かせる兵は一兵もおら

ん。それでも策を成してきた。俺の役目は軍を動かす事ではないぜ。今こそ本来の役割に戻る時。頭を使え、

明開。それだけがお前の取り得だろ」

 まずは情報だ。現状を冷静に理解する事が何よりも必要である。

 幸い梁の意識は目前の狄軍に向いている。今までより侵入工作は楽になる。明開には楓流から預かった手練

の間者が付いているのだ。彼らならどうにでもできるだろう。

 焦ってもどうにもならない。いついかなる場合も時間は必要なだけかかるものだ。回り道に思えたとしても、

それが一番の近道なのだ。

 明開はいつの間にかさっぱりした顔になっていた。

 楓流から託された間者、五人組と狄軍からもたらされる情報によって、少しずつ状況が把握できてきた。

 梁軍のほとんどは雑兵だが、手練の者が要所要所を固めるように配置され、兵の士気を高く保つよう上手く

まとめられている。大将は殷嵯だが、予想通り指示するのは専ら義弟の蕭冊であり、全ては彼の策であろうと

思える。

 或いは彼の背後にも何者かが居るのだろうか。

「子遂の息がかかっているのではないか」

 明開の頭には瞬時にそんな答えが浮かんだが、証拠となるものは何も無い。もしそうだとすれば全ての疑問

が解けるような気がするのだが、予断は禁物である。

 街は完全に彼らの支配下にあり、略奪の限りを尽くされている。明開の邸宅もすでに荒らされているが、邸

内に堅呟(ケンゲン)の見張りとして置いていた五人組の一人、雹(ヒョウ)は明開の妾である西糸(セイシ)

を連れ、無事脱出しているそうだ。

 西糸の安全を優先した為、堅呟の方は見失ってしまったそうだが、罰せずその判断を賞しておいた。今更堅

呟がどう動こうと無力であり、執着する理由は無い。むしろ良い厄介払いになったと考えればいい。

 執着が無いと言えば西糸の方もそうなのだが、美貌の女には使い道があるし、彼女の肢体を思い出すのも悪

くない。

 雹の方はそのまま潜伏を続けるが、西糸の方は直に明開の許へ届くらしい。気の利く男である。

「雹には改めて褒美を与えねばならんぜ。・・・・それにしても、西糸か・・・・」

 すっかり忘れていたが、その名を聞くと瑞々しい肉体の思い出と共にむっくりと頭をもたげてくるものがあ

る。この機会に再教育しておくのも良いだろう。

 それと気になっていた法瑞の事だが。彼も堅弦同様、乱と共に消えてしまったらしい。

 逃げたのか、雹のようにどこかに潜伏しているのか。梁軍の方にも彼に関する情報は無いようだから、寝返

った訳でもなさそうだ。一体何をしようとしているのだろう。

 まあ、捨て置いても問題あるまい。法瑞も用済みである。使えなくなった駒が自分から消えてくれたのだか

ら、喜ぶべき事ではないか。

「さて、これからどうすべきか」

 蜀を当てにできない以上、天水を動かすしかないが、それだけは避けたい。であればやはり策を弄(ろう)

して梁の内部分裂を狙うしかないだろう。

 要所要所に手練の者を配置したとして、全てが丸く治まるとは思えない。今までは勝つのに必死で抑えてき

た欲望が、勝利の驕(おご)りによって表面に出てくる。そろそろ緩みが生じる頃合いだ。結局やつらは賊、

忠誠も大義も無い。自由という名の暴徒である。歪み、堕落させるのは容易であろう。

「狄にも役立ってもらわねばならんぜ」

 軍事力としては役立たずだが、何をさせるにも近いというのは便利である。それに梁軍の一派を懐柔して引

き抜くにしても、今の梁兵のほとんどはあぶれ者上がり、内に入れれば腐敗を招く。狄に引き取らせれば一石

二鳥という訳だ。

「どんな奴らにも使い道はあるという事よ」

 明開は完全に冷静さを取り戻したように見えた。

 少なくとも、彼自身はそう思っていただろう。これで全てが上手く運ぶようになるだろうと。



 戦略はある程度定まったが、明開は何も全てを一息に覆そうとした訳でも、その一手で終わらせようと考え

た訳でもなかった。彼が目的としたのは単純な時間稼ぎである。

 梁軍は膨張を続けている。数だけでいえば周辺国のどれよりも多く、またおそらくは強い。例え天水軍を用

いたとしても、勝てないとまでは言わないが、多数の犠牲を覚悟しなければならない規模になっている。もし

梁軍が天布軍との戦いの時のように機能的に動けば、おそらく苦戦を強いられる事になる。

 ただしそれは天水軍だけで戦った場合の話だ。狄軍との連携、梁軍に対する離反計、そういったものを考慮

(こうりょ)すれば状況は変わる。勝利するのも難しくはなくなる。

 つまり天水軍さえ動かせれば勝利でき、その為には衛軍が到着するまでの時間稼ぎが必要となる、という訳だ。

今までは梁の勢力増大に焦り、時間を与える事が楓の不利益にしかならないと思い込んでいたが。実際には時間

を稼いで衛軍の到着を待つ事が勝利へ最も近しい道だったのである。

 明開は梁に集まる兵に紛れて間者を送り込み、少しずつ部隊間、将同士の対立を深めていかせた。

 結果、派閥や新旧の兵の対立が目立つようになってきている。これらは決定的な亀裂を生むまでには到らない

ものの、あらゆるものを鈍らせ、非効率的にさせる効果がある。

 部隊間の連絡に不都合をもたらしたり、無用な諍(いさか)いを起こしたり、小さな歪でも重なれば大きな遅

延、問題になってくる。時間稼ぎという目的に限って言えば、十二分な効果をもたらしてくれた。

 この手の妨害工作は明開のお家芸と言える。



 十日が経ち、衛軍がようやく中諸国へ踏み入ったという報が入ってきた。数は一万だが、兵の質を考えれば

充分な戦力である。思っていたよりも早く到着したのは、事前に趙深が周到に準備していたおかげだろう。

 天水や天風までまだ距離はあるが、抑止力とするには事足りる。

 少し早いかとは思ったが、明開は天水軍を動かす事にした。桐洵らもそれに同意した事を思えば、まず無難

な判断であったのだろう。

 梁軍は依然(いぜん)兵力を増し続けているが、工作も上手くいっているし、以前程の脅威ではなくなって

いる。被害は覚悟しなければならないが、死者の出ない戦争などありえない。兵達もそれは理解してくれるだ

ろう。

 梁の反乱を抑えられず、いくつか間違った判断を下してきた明開の非は認めざるを得ないし。桐洵もまた無

傷とはいかないだろうが。梁を沈静化する事ができればその失態を補って余りある。

 これで面目は立つ。功績も稼げる。胸を張って娘に会えるはずだ。少々、いや大いにわびなくてはならない

が。楓流の認めた功績は彼女も認めざるを得ない。いくらかその態度を軟化させてくれるだろう。

「俺はそれだけの為にこれだけの事をやってのけたのだ」

 いつから思い始めた事なのかは解らない。もしかしたら近衛に娘を取られた時、子供じみた対抗心が燃え上

がったというだけの事なのかもしれない。

 愚かだと笑えば笑え、人の親とはそんなものだ。子供より子供なのだ。

「だが、これで終わるぜ。この乱が片付けば、あいつも子遂なんぞに構っておらんですむようになる。少しだ

け好きなように生きられるようになるだろう。楓流様にも誉めてもらえる。あいつもまたその程度の事の為に

生きている。まったく、おかしな所ばかりよく似るものだぜ」

 明開の顔に苦笑に近い笑みが浮かんだ。

 かみ殺そうかとも考えたが、捨て置いた。不思議と悪くない気分に思えたからだ。

 苦みもまた悪くない。年を経た今、そんな風に思える。



 数日後、天水軍三千が梁領土内へと踏み入った。

 しかしそこに待っていたのは驚くべき事実。

 なんと狄軍が裏切り、梁に加担したというのだ。

 現在、蕃伉は殷嵯と歩を共にし、天水軍を迎え撃つべく軍を進ませている。そして行く先々で略奪を繰り返

し、国を食い潰しながら更に肥大化し。最早梁も狄もない一個の暴徒と化して、天水軍に迫りつつあるという。

 兵数は万を超えようという勢いであり、天水軍だけでは勝ち目が無い。衛軍到着まで退いて守りを固めるし

かないのだが。略奪を受けるのが解っている状況で、彼らは民を見捨てて兵を退けられるだろうか。

 桐洵の副官といえる立場にある伊推(イスイ)も元は一介の農夫であり、自らの土地と家族、生命を護る為

に立ち上がった男だ。退けと命じても頑として聞かないのではないだろうか。

 と言って、野戦において三倍もの敵を相手に勝てる道理は無い。

「梁の将が統率を欠く状況になっていれば、あるいは・・・・」

 彼らがもし完全な暴徒となっているなら、烏合の衆と変わらない。狙いも望みも単純で、動きを読むも計略

にはめるも容易となる。上手くすれば何とかできる可能性は生まれる。

「伊推ならば、できるかもしれんぜ」

 彼は戦巧者で名高い。経験も豊富だ。不安は残るが、今はそれに賭けるしかなさそうだ。

「蕃伉め・・・・、この恨み、決して忘れはせんぜ!」

 明開は怒りと憎しみにもだえながら、無駄と知りつつ蜀へ援軍を乞う使者を送るより外なかった。

 ああ、なんと無力なのだ。軍事力を持たない、戦う力が無いとはなんと無力なのだろうか。生涯で今ほど己

が無力を痛感した事はなかった。

 力が、手勢が欲しいと。



 結果から述べれば、天水軍は敗れた。

 いや、敗れたという言い方はおかしいのかもしれない。彼らは初めから勝敗を決めるような戦はせず、敵軍

を足止めして民が避難するまでの時間を稼ぐ戦い方をしたのである。

 伊推は国境付近にあった町をいくつか急ぎ空にして防衛陣を築き、戦っては引き、戦っては引きを繰り返し、

民の避難が完了した後は天水さえ捨てて退いてしまった。

 残された町村には食料や物資などがわざと残されており、反乱軍は町村に着く度に略奪に精を出し、まんま

と民にも天水軍にも逃げられる破目になってしまったという訳だ。

 とはいえ、彼らからすれば伊推が尻尾を巻いて逃げたと映るであろうし、略奪さえできれば天水軍などに興

味は無い。女を得られないのだけが不満と言えばそうであったが、そんな物は後でいくらでも買える。それだ

けの富を奪えたのだ。

 そして何よりも幸いであったのは、子遂が残されたままになっていた事だ。

 驚く事に天水軍は子遂を殺す事も移動させる事もしなかった。彼を監禁していた邸宅にそのまま残しておい

たのである。

 これはおそらく子遂を連れて行軍する事の危険を憂慮した結果だろう。逃げられるならまだしも、もし死ぬ

ような事にでもなれば、その裏に楓の意があった事を否定し難い。いくら否定しても、疑問は澱(おり)のよ

うに残り続けるはずだ。

 子遂は楓に暗殺されたのだと。

 それを防ぐ為の処置と考えれば、頷ける。

 文献(ぶんけん)に寄れば、子遂が無事反乱軍の手に落ちたかどうかを確認し、その時まで密かに護衛する

者まで残されていたそうだ。伊推らしく手が行き届いている。彼も子遂には並々ならぬ想いがあったろうに、

それをおくびにも出さない。苦労人らしい忍耐力と自制心である。

 子遂を反乱軍の手に渡す事は楓にとってそう悪い手ではない。

 彼の掲げる孫復興という大義には中諸国人の血を沸き立たせるものがあるが。殷嵯、蕭冊、そして蕃伉にも

独自の考え、想いというものがある。彼らは子遂を得て一応の大義を得る訳ではあるが、その下に立つ事をよ

しとせず。子遂に主導権を握られる事を警戒するようになるはずだ。

 敵にしても味方にしても持て余す。それが子遂という厄介者である。

 それに子遂が反乱軍に身を投じたのであれば、反逆者としてそれを討つは道理。彼を生きながらえさせる理

由もまた無くなるのだから、正に一石二鳥である。

 ただしそのような意図がある事は子遂も当然読んでいよう。それなのに彼は何もしなかった。衛軍がきてい

る以上、反乱軍の壊滅は遅いか早いかだけの違いであるはずなのに、反乱軍に乗った。その点に伊推は不気味

さを覚えている。

「明開殿は失態を免れず、我ら天水もまた失態を免れ得ない。だが楓にとってはそれだけの事。決戦の勝敗に

響くような事柄ではない。それなのに座して動かずとは、一体奴は何を企んでおるのか。まったく得体が知れ

ぬ男よ」

 ともあれ、民を無事逃がす事は叶った。今はそれを幸いと思っておくべきなのであろう。



 衛軍を率いるのは紅瀬百(コウライビャク)、白晴斯(ハクセイシ)。その位階に上下なく、同格としてそ

れぞれ五千ずつ率いている事がこの二人の関係が基本的に変わっていない事を表している。

 これだけ共にしてその仲が改善しないのは不思議だが、悪化しない事もまた不思議である。ある意味、この

二人の関係は完成していると言えるのかもしれない。

 趙深も何も嫌がらせでこの二人を一緒にさせている訳ではない。そうするのが良いと判断し、また二人を信

頼しているからこそ重要な任務を与えている。

 二人は伊推や桐洵と面識は無かったが、その名は聞き及んでいたようで、特に伊推に対しては父や師にする

ような接し方をした。伊推の方は多少面食らったようであるが、この手の扱いには慣れているのか早くもその

心を掴(つか)んでいる。

 桐洵の方はそれを見て全て伊推に任せると言い残し、早々に退出した。元々彼女は軍事面にはあまり口出さ

ないし、伊推を父のように慕い、その能力を敬う事は賦族の二人以上である。それに彼女には他にやらなけれ

ばならない事があった。

 まずは情報収集をしなければならない。反乱軍がどこにどの程度の規模で居るか、その目的は何か、今後ど

うするのか、を詳細に調べる必要があった。

 狄軍、いや蕃伉軍と言った方が正しいか、が加わった事により、全体的な統率や目的に乱れが生じ、一致し

なくなる事も多くなるはず。今後は今まで以上に反乱軍の動きに注意を払い、機を逃さぬようにしなければな

らない。

 反乱軍に隙が生じるとすれば今だろうからだ。

 謀略に長ける明開とも早々に連絡を取り、助力してもらわなければならない。桐洵と伊推はどちらかといえ

ばそういう方面は不得手としている。

 しかし現実に明開に対して頭を下げると考えると苦々しく、一度は伊推に代筆を頼もうかとも考えた。勿論

そんな事はできないが、自分が明開という男をどう想い、どう考えているのかを自覚するには充分な出来事で

あった。これは一つの不幸な出来事である。

 それでも桐洵は心を殺して明開への書状を書き終え、使者へと託(たく)し。狄へも詰問状を持たせた使者

を送ったのであった。



 この状況に最も驚き、かつ不利な立場に落とされたのは狄である。

 蕃伉は軍と共に裏切ったが、それは狄一国の意志ではない。そもそも梁軍を討伐する為に送り出したのだか

ら、その軍勢が倒すべき相手と共に味方すべき天水軍を追い返したとなれば肝を冷やすのが当然だ。

 まだ勝ち目のある状況なら良いが、衛軍が側に控えているし、楓は全体として秦より優勢な立場にある。こ

の状態で裏切っても先は見えている。何と愚かな真似をしてくれたのか。

 救いがあるとすれば蕃伉一人の決断で寝返ったという点だろうか。誰も事前にそんな話を聞いておらず、同

意もしていない。その気分は楓側にもよく伝わっている。詰問状がきたとはいえ、そこには狄に裏切りの意志

があるなどとは書かれておらず。あくまでも蕃伉の責任、そして彼に軍を任せた首脳部への責任を問う内容で

ある。

 狄は早速蕃伉を解任し、それに従う者は罪人と見なす、兵はすぐさま帰還するか、天水軍に合流するように、

という命を発した。この報は程無く反乱軍にも伝わり、それをきっかけに脱走する者が出てくるはずだ。それ

で何とか面目は保てる。

 残った問題は蕃伉が動かせる兵をほぼ全て持っていったせいで、防衛力が皆無となっているという事か。

 天水軍を退いたとあれば反乱軍が次に狙うは蜀か狄。となれば手薄の狄を狙うが当然というもの。蕃伉も解

任され、それに従う者は罪人になるのだから開き直って攻めて来てもおかしくない。

 孫復興を目指すのであれば、狄の開放という大義名分を掲げる事もできるだろう。

 楓に援軍を乞いたい所だが、兵は遠く天水の向こう側に居る。間に合うまい。

 蜀を頼った所でこれまでの経緯を考えれば援軍など望めないし、軍を出さずとも蜀が責められる道理も無く

なった。それもこれも明開の馬鹿が蜀に出兵を急がせたせいである。彼への恨みは骨髄に徹する。

 そんな中、立ち上がったのが丁俊だ。

 権威は失墜していたがいささか回復のきざしはあり、何より彼は大隊長の座にある。蕃伉が去った今、知名

度、役職を考えれば軍を統べるのは彼を置いて外に居ない。丁俊一人では不安だが、副官に荘沢が居る。彼が

上手く操縦してくれれば何とかなるかもしれない。

 不安が消えた訳ではないが、背に腹はかえられない。

 丁俊は議会の承認を受け、臨時の処置として将軍に就く事になった。楓の認可も受けておらず、あくまでも

臨時という建前だが、丁俊が事実上の狄の支配者となったのである。

 ただし狄内に残された兵はどうかき集めても千はいかない。事態は何も改善してはいなかった。

 早急に手を打たなければならない。

 そうなれば次に名が上がるのは新檜(シンカイ)である。




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