23-1.不信の勇


 秦王が動いた。

 ようやく、というべきか。何故今、というべきか。咸陽(カンヨウ)一帯に集めていた兵を率い、秦南方軍を吸

収して、総勢二万の大軍勢での堂々たる進軍ぶりである。彼らはゆっくりと陣形を整えながら、楓流(フウリュウ)

率いる一万の軍勢に向かっている。

 楓流は単独で戦う事を避け、まずは魏繞(ギジョウ)率いる総勢一万五千となった中央軍と合流する構えである。

 兵数にして二万五千対二万、これがおそらく楓、秦が現在この地に動員できる最大兵力であろう。

 ただし秦王率いるこの秦本軍の中には王旋(オウセン)将軍の姿が見えないようだ。遊撃隊でも率いて楓南方軍

の横背を狙っているのだろうか。秦随一の将軍である彼が陣頭に立たず身を隠したのであれば、当然相応の理由が

あるはず。秦本軍背後の動きにも注意しておかなければならない。

 楓流は背後を警戒しながら粛々と東へ向かう。今の所伏兵が居るというような報告は入っていない。千単位の人

間をそう隠しきれるものではない。距離が近ければ看破(かんぱ)できる。それなのに彼らの動きが見えないとい

う事は、まだ伏兵をしていないか、していたとしても楓流達が考えているより遠くに配置されている事になる。

 王旋率いるだろう別働隊は遠く迂回しながら楓南方軍の背後を狙っているのかもしれない。それなら彼らの動き

を把握する事は困難になるが、危険な距離に達するまでに発見して対処する時間を稼ぎやすい。そう考えれば、そ

れほどの脅威ではない。

「秦王が二万を率いるとすれば、王旋将軍が動かせる兵は多くても二千といくまい。確かに少なくない兵数だが、

居ると解っていればいかようにも対処できる。それでも動いたのなら、他に必勝の策を立てていると考えるが道理。

秦王の方により注意しておかなければなるまい」

 王旋将軍の動向は不気味だが、それよりもまず秦王の意図を探る所から始めるべきだ。

「少し見てみるか」

 楓流は東への途上にある大きめの街に一時留まり、秦本軍の動きを見る事にした。ここの住民は戦火に巻き込ま

れるのをおそれ、すでに避難している。家具や物資もほとんどが運び出されているが、家屋はある。兵の疲れを癒

(いや)すには充分だろう。

 多数の敵が向かっている状況で立ち止まるのは危険であるが、楓中央軍もこちらへ向かって動いている。別働隊

発見の報はまだ無いし、秦本軍との距離もまだ充分に開いている、短い期間であれば問題ない。楓流はそう判断した。

 念の為一度に放つ間者の数を増やし、探索距離を広げさせた。間者一人一人の負担は大きくなるが、こちらも短

い間であれば何とか頑張ってくれるはずだ。

「終わった後はようく労ってやらなければ」

 間者団の仕事はその一つ一つがはっきりと目に映るようなものではないが、楓に最も貢献してくれたのは間違い

なく彼らだ。そして彼らの得た情報を大陸中に伝える近衛、特にその筆頭たる胡曰(ウエツ)の功は大きい。その

労には誰よりも報いてやらなければならない。

「思えばお前達姉弟は出会って以来、ずうっと私を支えてくれていたのだな」

 今は亡き胡虎(ウコ)を想い、胡曰の姿を思い出せば、何とも言えない感情が胸に浮かんでくる。余人が居なけ

ればむせび泣いてさえいたかもしれない。

 自分は弱くなったのか。それともこれが年を経るという事なのか。解らないが、長く待ち望んできた時はもうす

ぐそこにある。

 ここまで来るのには時間がかかったが、ようやく二人の苦労にも応えてやれる。

 そんな事が楓流には何よりも嬉しく思えた。



 楓南方軍が止まっても秦軍の動きには変わりがなく、ゆっくりとだが着実に迫って来る。その迷いの無い動きに

多少不気味さを感じるが、楓流はもうしばらくの間留まってみる事にした。

「何か見落としている所があるのかもしれぬ」

 考えてみれば秦の動きは以前からよく解らない所があった。

 秦があくまでも部族蔑視の姿勢を貫いている事を思えば、南方を早々に見放した事もそれほど不自然ではないし

(どの道決戦に勝利すれば手に入るのだから)、連携しなかった事もまた頷けるのだが。秦南方軍が何もせず退い

たというのは腑に落ちない。

 例え楓南方軍が部族兵以外には大した損害を負っていなかったとしても、南方が森林に覆われている事を思えば

伏兵などの策も練り易かったはずであるし、何をするにしても充分な時間はあったはずだ。

 それを何もせず退くというのはおかしい。まるで秦が楓南方軍が西方までの道を拓く事を望んでいたかのようで

はないか。

 その上秦領に深く侵攻されても黙ったまま動きを見せなかったというのに、今になって思い出したかのように動

き出している。中諸国の乱に足並みを合わせたと考えても、何故今なのか。それならそれでもっと良い機会はあっ

たはずだし、もっと効果的な利用方法はあったはずだ。

 一体全体秦王は何を考えているのだろう。彼が無能であれば話は簡単なのだが、楓にとって悪い事に英明である。

少なくとも愚鈍(ぐどん)ではない。不可解な事ばかりだ。

「確かに勝ってはいるのだが・・・」

 秦にどんな意図があろうと現状は楓優位であり、秦軍が何をしたとしても負けないだけの自信はあるのだが、ど

うにも気持ちが悪い。何か大事な事を忘れているような気にさせられる。

「しかし事ここに到ってはやるしかあるまい。悩んだとて悩まぬとて同じ事。何が狙いかは知らぬが、我らは今で

きる事をやるだけよ」

 楓流は間者を通常配備に戻した後、陣形を組み直して移動を再開させた。

 余裕を見せてこのような場所に留まっている場合ではない。一刻も早く楓中央軍と合流する事だ。そうすれば何

があっても五分以上に戦える。誰が考えてもそれが最善の策なのだ。

 そう、誰が考えても。



 秦王が動きを見せてから丁度五日くらい経った頃だろうか。楓中央軍との合流を急ぐ楓流に予測外の報が入って

きた。

 南方での反乱である。

 以前から少なからず楓流の賦族贔屓(びいき)のやり方などに不満を持っていた者達が起ち、彼らが手引きをし

て外から強盗や夜盗の類などを侵入させて町や村を支配下に置き、今も暴れている最中だという。

 それら一つ一つの兵数は少ないのだが、到る所で反旗を翻す者が出ており、一度に平定するのは困難な状況であ

るらしい。

 とはいえ、さすがに楓の軍事拠点となる大きな街には手が出せず、どの乱も小規模なもので、このまま行っても

中諸国のような状況になるとは考えられない。物資輸送が滞るような深刻な状況になる可能性も無く、南方に残し

てきた兵だけで充分対処できるそうだ。

 楓流は安堵の息をもらしたが、念の為に千の兵を付けて壬牙を一度南方に戻す事にした。

 報告を見れば、確かに楓流を驚かす以上の効果は見込めないように思えるが、不満を持っていた者達が実際に蜂

起(ほうき)したという事実が人に与える影響は少なくない。重要な拠点に配したり、ここまで率いてきた兵の中

にも不満を持つ者は少なからず居る。南方の乱を長引かせれば、その者達に悪しき影響を与えないとも言えない。

 壬牙は長く楓流の代わりに不満を持つ者達をなだめ、時に叱責して抑えてきた。南方人(兵だけではなく、民、

部族らを含む南方全体の人間)からの信頼は時に楓流以上に篤いものがある。この状況を上手く治められる者が居

るとすれば彼だろう。

 それに今回は不満者達の筆頭といえる邑炬に手柄を立てさせてやりたいという心があった。壬牙が将軍として率

いている限り、例え邑炬らの率いる部隊が戦果を挙げたとしても、結局は壬牙の功になってしまう。

 壬牙自身もその事をようく解っていたからこそ素直に楓流の命を容れたのであろう。最後の決戦に武を持って挑

(いど)めぬのは心残りであろうが、壬牙には昔から物分りの良い所がある。良く言えば欲が無いのであろうし、

悪く言えば執着が無いのであろう。そこもまた楓流が高く買っている点という訳だ。

 壬牙は邑炬と表道に自身が直接指揮している兵五千から千の手勢を引いた残り四千を、半分の二千ずつ与える事

にし、急ぎ南方へ向かった。

 残された四千の兵の多くは南方派といえる壬牙、表道、邑炬の子飼いであり。彼らが楓に登用された当初から苦

楽を共にしてきた者達ばかり。彼らは騎馬狂い(彼らから見て)の楓流より上記三将の方に心を許し、気持ちを(楓

流への不満も含め)一つにしている。壬牙が不在でも、邑炬、表道が居れば充分な働きを示してくれるだろう。

 邑炬も表道も壬牙があっさり身を引いて南方へ戻った真意は理解していただろうし、大いに奮い立ったと思われ

る。この時ばかりは仲違いするようになっていた二人も手に手を取り合って前途を祝したはずだ。

 楓流もまた壬牙の処置に満足し、更に行軍速度を速めた。万に比べれば千は少ないと思える数だが、現実には結

構な数である。兵数を九千にまで減らした事は憂うべき事態で、合流を少しでも急ぎたかった。

 南方の乱を見て中諸国、いや大陸全体の情勢がどう変わるかという不安もある。中央軍と合流すれば、中央以東

の情報を逸早く知れるだろう。

 全ての事象が合流を早めるべきだと言っていた。



 楓軍の慌しい動きを見たからか、南方からの報が入ったか、秦本軍もまた動きを速めた。しかし楓南方軍に追い

つこうという気持ちは見えず、あくまでも距離を一定に保つ為に速度を並ばせたという風にも受け取れる。

 あるいは壬牙隊が充分に離れるのを待っているのか。

 そう考えた時、もしかすれば少数に分かれた壬牙隊に王旋率いる別働隊をぶつけるつもりなのではないか、とい

う不安が一瞬頭を過ぎったが。壬牙隊を追う訳にもいかない。ここはぐっと堪える事にした。壬牙ならば例えそう

なっても何とか切り抜けるであろうと。

 ただし意識か無意識か、楓南方軍の進行方向がやや南を向いた事もまた確かだ。

 秦本軍の動きは変わらない。ずっと一定に同程度の速度で同じ方向に移動しているだけだ。

 楓流は不安を掻き立てられたが、それを外に見せるような事はなく、堂々たる行軍姿勢を崩さない。兵達もそれ

を見て安心したのか、少なくとも楓流と同じ不安を口にするような者は出なかった。楓中央軍がすぐそこに居ると

いう事実も彼らの心を助けたのだろう。

 その中で多少邑炬に落ち着きのない様子が見えていたようだが、おそらくは兵を任された事による期待と不安か

らだろう。彼はそういう面において弱い所がある。臆病というのではなく目の前にある不安を抱える事が苦手なのだ。

 そういう型の人間はいつの時代にも多く居る。目に映る不安や疑念を一つ一つ解決していかなければ気が済まな

い、落ち着かないという人達の事だ。そういう人達は混乱に陥(おちい)りやすいが、何かを信じたいという気持

ちも強い。上に居る者さえしっかりしていれば押さえていられるだろう。

 それにもし邑炬らが崩れたとしても、楓流には虎の子の騎馬隊がある。

 そわそわして浮き足立っているように見える兵も所々で見かけたのだが、今はそれも不問に伏しておく事にした。

後退とはいえ退いているのには変わりない。ある程度心が揺れるのは仕方がない事であろうと。

 こうして緊張は張り詰めていきながらも、不自然にゆっくりとした時間が流れた。



 秦本軍の動きが本格的に変化したのは壬牙が離れてから数日が経った頃であった。今までのような距離を保つ為

の行軍でなく、明らかに仕掛けてこようとしてる。

 楓中央軍と合流するまでにはもう数日とかからないだろうが、秦本軍との兵数差は一万千もある。兵質も秦兵相

手ではそれほどの開きはないし、まともに戦えば勝つ見込みは無い。

 と言って、楓中央軍との合流を急いでも隙が生まれる。兵数が少ない分、楓の方に機動力においては利があるが。

敵に背を向けて逃げる事はできないし。対面しながら移動すれば進行方向と逆を向いている楓軍が不利になる事は

言うまでもない。

 森に潜めれば良いのだが、西方は草原が多く、隠れられるような地形が付近には見当たらない。

「しかたあるまい。ぎりぎりまで東に移動し、その後は護りに専念して援軍が来るのを待とう」

 楓流は決断し、全兵士に戦闘準備をするよう伝達した。同時に楓中央軍に向けて早馬を発てる事も忘れない。今

までも定期的に伝令を出し合い、互いの位置を伝え合ってきた。急がせれば二日もあれば合流できるはずだ。

「何とか二日稼がねばならぬ」

 不利な状況だが、楓流は恐れていなかった。こういう状況も予測の範囲内だったからだ。この決戦の為に様々な

状況を考え、いつどのような状況になっても良いように準備を整えてきた。南方の乱まではさすがに予測できなか

ったが、秦王が楓流本隊を各個撃破にくる状況なら想定済みである。

 今まで無策に思える程のんびりと野外を移動してきたのも、こういった状況になった際、楓流自身を囮として楓

領土に近い位置まで誘い込み、野戦にて決着をつける、という作戦があったからである。

 勿論倍の兵数差で行う事を想定はしていなかったとしても、ある程度の不利は予想していた。予めそれに対する

気構えができている事は少なくない影響を人に与える。

 それに楓流は紫雲竜率いる騎馬隊ならば多少の不利を覆せるだけの力があるのだと信じていた。

 そう、心から信じていたのだ。

 楓南方軍はその後半日程進んでから静かに歩みを止めた。このままぎりぎりまで遅延後退し続ける事も考えたの

だが。敵前での消極的な行動は士気に響く。それなら一度真っ向から迎え撃ち、損害を与えた上で行った方が良い。

引く時は撤退ではなく、常に名誉ある後退であるべきだからだ。

 ここに居る楓兵が粒揃いだが彼らも人間、内から浮かび上がる不安を消す事はできない。長く逃げるように移動

していた事と(事実逃げていたのだが)、倍以上の兵力差という事実はそれだけで精神を相当削っている。無理を

しても一度勝利という活力を入れる必要があった。

 まず楓流は紫雲竜を呼び、騎馬部隊三千騎を別働隊として準備させ、最後方に配置した。

 次に邑炬隊、表道隊を前面に出し、千ずつの縦隊を四列にして秦本軍を迎え撃たせる。一隊千の縦隊を一中隊と

し、その中隊は百ずつの小隊十部隊で構成されている。その後ろには楓流自らが率いる二千の部隊が居り、予備兵

としての役割を果たす。

 その縦長の陣形はあまり見ないものであったが、秦本軍は更に速度を上げ、迫り来る。

 しかし全軍を向かわせるような事はせず。軍を二つに分け、一万を前進させ続け、一万を後方において様子を見

る構えだ。その運動も鮮やかなもので、秦兵の練度の高さを物語る。

 軍を二分するとはいささか弱腰の処置とも思えたが。これまでにも篭(こも)ろうと思えば篭れる拠点はいくら

でもあった。それでも尚、こうして野外を進む楓軍を警戒するのは当然であり、わざわざ野戦を挑んでくるとなれ

ば尚更である。それに秦王もこのような大軍同士の戦は始めてのはず。慎重になって当然だ。

 秦前軍は楓南方軍に近付くにつれて少しずつ速度をゆるめながら正面より向かってくる。この地形では伏兵を心

配する必要はないが、落とし穴のようなものを警戒しているのだろう。いつでも立ち止まれる速度に変わっている。

 楓流はそんな警戒は無用とでも言うように、邑炬隊、表道隊に前進命令を出させた。同時に紫雲竜にも伝令を発

する。

 程無くして秦前軍と邑炬、表道隊が雄たけびをあげながらぶつかり、特徴的なあの甲高い金属音が戦場に響いた。

秦も鉄製の武具を揃えてきたのだろう。彼らの装備が陽光を鈍く跳ね返しているのが見える。鉄色に火が灯ったよ

うなその姿は装備においての楓の優位性を霞ませるものであった。

 同じ素材でも楓の武具の方がまだ一歩も二歩も優れているだろうとはいえ、その楓も鉄を両断できるような武器

を完成させている訳ではない。長く戦えば少しずつ差が出てくるだろうが、短期での優勢が期待できる程の差は無

いと思える。

 これも予測していた事だが、悔しくはある。

 鉄器に限らず、今まで楓流が編み出した革新的なもののほとんどは大陸中の勢力に取り入れられ、最早楓だけの

ものではなくなっている。良道、輸送技術とその道具、矢の同時集中攻撃、鉄器、常備軍、防壁による城塞都市化、

等々その後数百年、いや千年にも及ぶ流れはすでに生まれ、楓もまたその一つでしかなくなっている。

 それは同時に楓流という男の偉大さを証明するものではあったが、自分のした事全てを真似されていくというの

は決して気持ちの良いものではなかっただろう。

 だが一つだけまだ真似されていないものがある。

 そう、騎馬部隊だ。こればかりは後の千年を数えても、楓流程効果的に運用できた者は稀(まれ)であった。例

え秦王がこの当時真似しようと考えていたとしても、不可能に終わったであろう。騎馬部隊は楓流という革新者に

紫雲竜(シウンリュウ)という片腕が居り、更に多数の馬を育てられる場所と金銭があって初めて可能な事なのだ。

 そしてその事は楓流自身もようく解っていた。だからこその自信であり、この戦略、戦術なのだ。

 邑炬隊、表道隊も上手く働いてくれた。百ずつの小隊を順々に入れ替える機を上手く捉え、またその運動も整然

としたもので、秦兵に付け入る隙を与えなかった。小部隊を車輪のように連続して敵に当てる。後世に車懸かりの

陣として伝わる戦法の前身とでも言うべきか。

 秦前軍は初めて見るこの戦法に面食らい、浮き足立った。元々何かある、何かあると思い込んでいた事も手伝い、

混乱したまま心身共に疲弊(ひへい)し続けた。

 それでも秦王の命か、後ろに居た部隊が前の部隊の左右に展開して横陣を組むと、横陣の両端が楓南方軍を両腕

で抱え込むように包囲へと滑らかに移行する。縦陣は細長いが為に包囲されやすく、そうなれば三方から攻撃を受

けて先端が壊滅させられてしまう。

 楓流はすぐさま後方に居る紫雲竜に指示を飛ばした。

 紫雲竜率いる三千の騎馬隊は前に居る味方部隊を左から迂回するようにして秦前軍の右腕へと真横から襲い掛か

り、馬の蹄(ひづめ)をもって秦兵らを文字通り蹂躙(じゅうりん)した。

 その圧倒的な速度、暴力的な突進力は秦兵の想像を遥かに超え。あっという間に彼らの右腕を真っ二つに引き千

切り、その傷跡を広げるように旋回しつつ打撃を加え、その勢いを持って瞬時に退いて行く。

 秦兵はそれを追う気力もなく、恐怖に怯え、たまらず退却を始めた。しかしその退却は敗戦とは思えぬ見事なも

ので。楓流は追撃を避け、残った右手部分となる秦兵を殲滅する事に集中し、投降するならば良し、しない者は容

赦(ようしゃ)なく斬り捨てた。

 秦前軍はそのまま引いて後軍と合流したが、陣形を立て直す事で精一杯なのか、遠目から見ても動きに乱れが生

じている。

 楓流は少し迷ったが、当初の予定通り必要なだけの時間と勝利を得たと考え、そのまま楓中央軍との合流地点へ

と軍を急がせる事にした。

 この間、戦闘開始から一刻と経っていない。正に完全な勝利といえた。



 一度勝利を得た事で楓南方軍の士気は高まり、行軍にも勢いが生まれた。実際には秦本軍から逃げているのだが、

まるで凱旋軍のように意気揚々としており、兵の中にあった不満もいくらか和らいだかのように見える。

 ただ中には、確かに自分達は勝利したが、よく考えてみれば騎馬隊を活かす捨石にされただけではないか、結局

手柄を立てたのは騎馬隊だけ、自分達はどこまで行っても引き立て役でしかないのではないか、という声もあった。

 特に邑炬隊の中にこの声が多く、楓流が急遽(きゅうきょ)金銭による褒美を与え、その声を抑えなければなら

なかった程だ。

 どうも彼らの中にある不満は不信感を通り越して騎馬隊に対する敵視にまで至っているようで、今後も先の戦と

同じような戦法を採ろうものなら、そこで反乱しかねないような勢いであった。

 楓流はその事に対し歯痒(はがゆ)さを覚えたが、元々彼らを連れてきたのは彼らの持つ不満を少しでも解消す

るという政治的理由からであり、その事を彼らも承知であるのだから、思ったような戦果を挙げられなかった今、

こうなる事は自然の流れであると言えた。

 とはいえ、このような様では兵を増長させ、楓流自身の権威を落とす事にもなりかねない。なるべく早く勝敗を

決定付け、全てを磐石にしておく必要がある。大陸の覇権さえ握られれば、多少の不満を無視する事もできるはず

だ。それまでの我慢と割り切るしかない。

 このように楓流の心の中にも少なくない焦りが芽生えていた。彼も人の子だという事だ。

 しかし状況としてはそう悪いものではない。

 合流地点はもうすぐそこであるし、先の一戦で秦兵に騎馬隊に対する恐怖心を植え付ける事にも成功した。楓が

また一つ優位になった事は事実である。

 楓流はそう信じ、堂々と凱旋将軍を気取る事にした。急ぐ必要は無いのだ。時間と勝利を得た今、ゆったりと合

流し、敵を迎え撃てば良い。そして今度こそ決定的な勝利を得る。それで全てが終わる。楽になれる。

 その時はすぐそこにきている。

 それもまた疑うべくもない事実だと考えていた。



 楓南方軍は程無くして楓中央軍と合流した。中央軍が楓流の指揮下に入った事で以後この軍を楓本軍と呼称する。

兵数はざっと二万四千。対する秦本軍は一万九千にまで兵数を減らしている。

 五分の状況で戦えれば、まず負ける事は無いだろう。

 だが不安も残っている。

 依然として王旋隊の動きがつかめない。探そうにも秦本軍が眼前に居る以上、間者を他へ回す余裕は無く、索敵

(さくてき)範囲は縮小する一方だ。いっそ来れば来た時と開き直る方が良いのかもしれない。

「さすがに一筋縄ではいかぬな。楓も秦も大きくなったものだ」

 楓も秦も個人で運営できる規模を超えている。この決戦もそうだ。しかし誰がこの二勢力が大陸の覇権を争う事

になると予想できただろうか。

 どちらも元々は一小国に過ぎなかった。それがここ数十年の長き戦乱の中で大陸の覇権を競うまでに成長した。

総合力は楓に大きく分があるが、秦に目が無い訳ではない。

 果たしてこの決戦の勝者は誰か。未だ誰もそれを知る事ができずに居る。




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